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参考人(大浦猛君) 私は、もともと
東京教育大学が自主的な態度で、また学内においては民主的な手続で事を進められた上で現在の本学の
制度のままで
筑波に行くことになりました場合には、それに参加する気持ちでおりましたわけであります。ところが、あまりに事の進め方が非民主的、独善的な
やり方で進められてまいりましたものですから、批判的な気持ちが次第に強くなりまして今日に至っている
状況であります。
そこで、本学のこの問題の進め方についての問題点を幾つか具体的に申し上げますと、まず一つは、評議会と
教授会との
関係であります。先ほど小牧
教授が言われたこととつながるわけですが、もう少し具体的に申しますと、本学では、
教育大学として発足以来
教授会の意思を基礎にして評議会を
運営している。もし、各部局の
意見が一致しない場合には、
教授会と評議会との間を往復するようにして事をきめていく。急ぐときには、臨時の会議を何度も開いて事を処理していくという方針で
運営してまいりました。私が見ますところ、
東京教育大学の
運営は、かつては発足以来なめらかに事柄の判断を誤まらないような決定をしながら
運営してきたように思います。いまのような
やり方は結局決定の内容がゆがんだものにならないという、そういうことを保証する方法でもあったわけであります。その理由でこの慣行が学内で広く支持されてまいりまして、ときおり確認されてまいりました。顕著な確認の時期が、先ほど小牧
教授が言われました朝永
学長時代の各
教授会での
大学の問題についての
研究委員会の論議、それから評議会での確認であったわけであります。この
精神が実は
筑波問題との
関係でゆがんできたわけであります。顕著なゆがみは、多少先立つ事柄幾つかありましたけれども、学内全体の聡明な協力によって処理してきたわけでありますけれども、そのことが破綻を来たしましたのが、一九六七年、
昭和四十二年の五月の下旬から六月に至る経過であります。従来ですと、評議会が
教授会で審議してもらう原案をつくりまして、その原案を各
教授会が審議しましてその結果を評議会に持ち寄りまして、そこで評議会がある種の調整案をつくりましてまた
教授会に戻すと、そのようにして決定するのが当然の本学の慣行でありました。それが破られたわけであります。
その次に、その原案の内容でありますけれども、本学では、
筑波問題につきましていろいろな
議論をしました結果、つまり物的な設備を大きくしていくということを強調する
意見、そのことも重要ではあるけれども、もっと大事なことは
大学においては人が大事である、すぐれた人材を
人事をゆがめないようにして集めることによって、
規模は小さくても——もともと大塚の学園はそう大きな
学校ではありませんでしたけれども、
規模は小さくてもりっぱな
大学をつくっていくことができるという
考え方との対立でありました。その対立をしかし何とかしなければいけないということで、大塚に残ろうとする部局の意向を尊重する、全学をあげて尊重する。また、
筑波に行こうとする部局の意向を尊重するという、いわゆる二つのキャンパスの論ということで学内がほぼ一致点にたどりつつあったわけであります。その全学の
状況が
教授会に報告されました。
教育学部教授会もそれでいこうということで事を進めていたわけでありますが、
教育学部教授会が
学部長の意思表明の当分の間というふうな、当分の間大塚に残ると、「当分の間」という文字が入りましたことと、それから、当時の三輪
学長が事を急がれたということもありまして、実は、その二つのキャンパス案については
政府のほうがそれを支持してくれるかどうかという疑問点がありましたので、それを文部省に打診しようというふうになってきたわけであります。そこで、その二つのキャンパスのことについて
政府に打診しよう、そこでオーケーであるならば、事柄を前進することができるというふうに考えまして、その線で
教育学部の
教授会は臨んでいたわけでありますけれども、実は、この
昭和四十二年の五月の下旬の評議会原案は、文部省に打診をするという原案ではなくて、意向表明という原案、意向表明を強くした原案に変わったわけであります。そこが内容的には重要な問題でありました。まず打診をしよう、打診をして、
政府のほうの意向によって、それで土地を希望するというこのことの決定を審議しようという手順がかなり一部で主張されたわけでありますけれども。
まあ、そのようなことがありまして、結局多数決で土地を希望するという意向表明が行なわれました。しかし学内におきましては、これは土地を希望すると、俗に申しますと、まあそういう、
筑波に移ることの
可能性を全くなくするということがないようにしておこうという第一歩の措置でありまして、これは移転がきまったわけではないというふうな了解が学内的に確立していたわけであります。そしてそのときに、
昭和四十二年の七月十三日に先ほどの経過を経まして
学長から文部大臣あてに公文書を出しましたけれども、その公文書には、移転の最終決定は、諸般の条件が満たされたことを確かめた後に、本学の
自主性において決定するという結びになっておりました。
〔理事楠正俊君退席、
委員長着席〕
で、
教育学部はその点を重視しておりまして、当然、公文書の文字ですから学内的にも当然それは確認されているべきものと考えておったわけであります。そのことをめぐりまして、その翌年、一九六八年、
昭和四十三年の十月から十一月の初めまでにかけまして
教育学部では、
教授会
メンバー全員と
学生全体との集会をひんぱんに開きました。で、その席上で、たまたまそのころ
教育学部の
メンバーが各
学部の
人たちとの間の調整をはかりたい、文
学部とほかの部局との間の
意見調整をしたいという気持ちを持ちまして、まあ私どもその努力を多少してみたわけでありますが、そのことも関連しまして
教育学部の
学生との集会において、本学の調整試案を
教育学部は
学生の前に発表いたしました。それは、
昭和四十二年の六月十日の土地の希望の意向表明の決定は尊重すると、またその
学部集会の時点で調査費の請求をしておりましたけれども、それも取り消すことはしない、しかし、調査費が来ました場合にそれはお返しをして、そして、全学をあげて移転のための条件の作成をしよう、その結果、その条件が満たされるかどうかを確かめることをして、それから移転の最終決定をしよう。その条件作成の場合に、
学生の
意見なども組み入れることをしようという態度を表明してまいりました。
その後、
昭和四十四年——一九六八年でありますけれども、七月九日に
筑波のビジョンの評議会原案が協議会におりてきました場合に、一体これは
昭和四十二年の七月の
大学の公文書の中にあります、満たされるべき条件の作成であるのか、このビジョンは。あるいはその条件が満たされることを確かめた後に最終決定をするという最終決定の原案であるのか、これがはっきりしないという疑問が
教育学部では出まして、これを
学部長を通して
学長に問い合わせたのでありますけれども、
学長は答えませんでした。そして慎重審議をしたわけでありますが、七月二十四日の評議会に対して、
教育学部教授会からは、これは移転の最終決定であるとは考えられない、諸般の条件が満たされることを確かめた後にという部分がありますけれども、その条件がはっきりしない、満たされることを確かめるべき条件がはっきりしない。したがって、また満たされることを確かめるということもしていない。したがって、これは移転の最終決定ではないと考えるという意向を
学部長は表明いたしました。強い要望といたしまして、これは移転の最終決定ではないということを確認してもらいたいということを申しました。評議会では、これはその確認はいたしませんでしたけれども、評議会の
議論の中で——
学部長からの報告によれば、これは後にやがて最終決定をすることになるんだという
意見がありましたから、実質的に
教育学部の意向はいれられたものと考えて、
学部長はそれで、つまり移転の最終決定でないということを評議会として公的に確認することを迫ることはやめまして——他部局との調整上、実質的に満たされたと考えて、この評議会の議を終わったわけであります。したがって、
教育学部では最後までこのことが問題になっておりまして、
教育大学としましては、つまり
昭和四十二年の七月十三日の公文書にあります最後の文書の手続を十分に確認していないと私どもは思っております。で、これが
教授会と評議会とにおける民主的でないことの内容であります。
で、その次に教官
人事のゆがみがあります。文
学部教授会の
人事の問題が出ておるわけでありますけれども、これは文
学部のことは私もわかりませんけれども、もっとも文
学部から申請している者を
学長のところでストップしているということはけしからぬと、私は思うのでありますけれども、いろいろと学内の
状況から教官の
人事選考基準という問題と関連しまして暗い雰囲気が漂ってきております。すぐれた
研究業績がありましても、
研究業績以外の問題がいろいろありまして、
教授会での発言をくふうしなさいということを言う人がありましたり、あるいは寄付を出したかどうかということを言われる向きもあったりいたします。こういう、教官
人事がゆがみますと
大学は悪くなっていくと思います。この例、すべての例がそうではないわけですけれども、十に一つでも、二十に一つでも、こういう例のあるということは、これは
大学として許せないことだと思います。
その次に、
教授会
メンバー以外の構成員があるわけですけれども、助手という身分の職の文部教官がおります。付属の教官もおります。さらには組合というものもあります。組合には事務
職員もおります。組合を離れた事務
職員からのさまざまな疑問もあります。さらには
大学院
学生、
学部学生という
学生たちもあります。少なくとも、
大学の
職員全体に対して十分な疑問に答え、十分な説明会を開くということをせずに、それぞれの
職員の生活に影響のある問題を決定すべきではないと私は考えます。以上が民主的でないということの内容であります。
このような
状況と関連いたしまして、こういう
状況の中から、実は
筑波プランは生まれてまいりました。こういうプランの中から
学長専決の
体制を
制度化するような
学長専決のプランが出てきたわけであります。そしてまた、すべて
制度というものは人の
運営によってきまりますけれども、現にそういうゆがみをしている
人々の手によって新しい
制度がになわれていく
可能性が大きいわけであります。このことのゆえに、私は、この
筑波プランに非常な問題があると感じます。どういう人が動かしているのか、どういう運用の中からこのプランが生まれているのか、このプランをつくった人というのはどういう
運営をしているかという観点から、私は、この
筑波の問題についての将来推移していく具体的な姿について心配をいたすわけであります。人が全く別人ならば話は別ですけれども、また、人が生まれ変わるならばまた別ですけれども、生まれ変わるならばいまからその
運営をただすべきであります。教官
人事のゆがみもそうであります。
そこで、その次に、多少
筑波プランの問題に少し関連して考えてみますと、私の考えでは、一つの特色は、このプランは
研究の
組織と
教育組織との分離にあります。
研究と
教育の分離の中には
大学院の博士課程と修士課程との分離、修士課程とカレッジレベルの
学生の
組織との分離があります。つまりこの問題は、
学生同士が博士課程と修士課程、修士課程とつまり
大学院の
学生とカレッジレベルの
学生との間のコミュニケーションが現在の
東京教育大学の中では可能であります。かなり行なわれております。
大学院へ進学する場合にもさまざまな指導をしている
大学院
学生がおります。このことはカレッジレベルの
学生の水準を上げるために相当の
意味を持っているわけでありますが、この
組織が、カレッジレベルと修士課程と博士課程の
組織が分断されておりますために、そのことがむずかしくなります。それからさらに、教官の
組織区分とカレッジレベルの
学生組織との区分が違いますから——修士課程もそうですけれども、したがって、教官全体の
組織区分と修士課程——このカレッジレベルの
学生の
組織区分との全体との対応
関係が十分にできておりませんので、教官との間の、
研究組織に属しております教官で
教育組織の専任にならない教官との間のコミュニケーションはいまよりも悪くなるのではないかというふうに私は思います。また、
教育組織に専属の教官が多いとしますと、その人と
研究組織のほうに主として属していてカレッジレベルの
教育組織の専任にならない
教育との間にローテンションなどの非常なむずかしい問題ができるおそれがあるかとも思います。それよりも私が問題にしますのは、
研究組織と
教育組織が分離されるということは、
学校教育法の
教授会に関する規定にもとると私は考えます。なぜならば、
学校教育法の
教授会といいますのは、
研究、
教育一体という原則の上に立つ
組織の意思決定機関を
意味いたします。
研究、
教育が一体という
組織の上に立って初めて
教授会は
研究と
教育の全体にわたって、
研究と
教育の全体にわたるからこそ
大学運営につきましても強い発言権を持ち得るわけであります。その
教授会というものができなくなるわけです。
教育組織と
研究組織が分断されますから、
教育組織も分かれますから、
教育組織も博士課程と修士課程とカレッジレベルに分かれますから、これが分断されます。分断された個々の意思決定機関というものは、これは
教授会とは言えません。で、そのことは、当然その分断した
組織の学内における発言権は、
研究教育の問題についての発言権は弱くなります。そのようなおそれを抱かせるプランになっております。
さらに申しますと、
研究組織、
教育組織が分断されますと、全学の意思統一をするためには、あまりも基本
組織が分断されておりますために、
学長専決
体制になるわけであります。つまり
研究組織、
教育組織の分断ということは、しかも
教育組織の各レベルの分断ということは、実は
学長専決
体制としなくちゃいけないような
組織になっているわけです。つまり
学長専決
体制にするための
研究、
教育組織の分断ということになっているわけです。つまり、
管理と
教育、
研究との間にみぞを入れるということになっているわけであります。つまり分断支配と申しますか、いわばそういう
組織になっているわけであります。もちろん先ほど申しましたように、りっぱな人がおやりになるならば心配はないわけでありますが、先ほど申しましたような理由で私は現実に非常な心配を抱いているわけであります。
それから、なお今度のプランの経過、この国会に出されます経過を考えますと、私は非常に閉じられている経過だと思います。閉じられている理由は、先ほど申しましたように、学内においては閉じられております。
教授会
メンバー以外の人に対しては閉じられております。さらには
大学の世界、
学問の世界、学界に対して閉じられております。従来は
大学問題につきましては、大体重要な問題につきましては、
法律改正の問題になりますと、これは学術会議、国大協の
意見を求めておりました。また、国大協は各
大学の
意見を求めておりました。各
大学の
意見を基礎にして国大協は意思表示をしていたわけであります。その経過が全くないのであります。これは
大学の世界、学界に対して閉じられているということであります。で、そのような閉じられたしかたでよろしいのか、事は重大でありますので、単に
東京教育大学がそのまま移転するというのなら別ですけれども、いま各
大学、各学会から私どもいろいろな東京
教育大におりますものは批判を受けておりまして、たいへん恥ずかしい思いをいたしておるわけでありますけれども、これを開いた経過を取り直すことによって審議経過を充実させて、慎重審議を十分にしていただきたいというふうに私は思うわけであります。各学会、各
大学の相当程度の納得が得られるようなプランにして事柄をきめていただきたいというふうに、私は思うわけであります。