○小林武君 私はそのワクの中でということでは、全く
意見が違うわけです。国家はそういうことをやるものではない。それは非常に大きなワクで選択ができるようなものならば、それは国が全然やるなとは言わない。しかしながら、
教師の選択というものが、その中で専門家として非常に窮屈だというような感じの与えないような
やり方でやるべきで、
日本の場合は学習指導要領でも何でも、非常に微に入り細をうがっておってまるきりそこからはみ出せない。教科書についてもいろいろな検閲だか検定だかしらぬけれ
ども、そういう議論がいまでも行なわれておるわけですけれ
ども、それについても、やっぱり
日本の
教育というものを、ある
一つのものに固定化するような形にだんだんいっていることを私は心配する。
それはここでひとつ責任の問題はやめまして、私は文部
大臣に
お尋ねしたいんですが、そういうぼくは
考え方を持っておるんで、
教育を
考える場合、やっぱりいまの
教育をひとつ言えば、いわばいまの
教育は平和憲法の中で
教育をやっている。私は文部省の
考え方として一番いいのは、木田さんがこの間だれかと
質疑やっているときに話の出た新
教育指針というもの、あれは私のほうで参考に出したんで、文部省は責任ございませんというようなことをぼくも聞いた。しかし、あれがぼくは戦前の
教育と戦後の
教育の境目の中において、
日本の将来の
教育に対して、文部省が
ほんとうにやっぱり腹の底を割って
教育に責任を感じてわれわれ
教師に示したものだと思っています。もちろんあの中にやっぱりそれはまだまだいろんな問題点あるかと思いますけれ
ども、あるものは追放を受けた、ある者はいつでも
教育に対して負い目を感じながら生きていたとかいろいろなものがある。そういう
教師に対してあのものの
考え方というのは、しかし私は良心的だと思っているんです。ただ、しかし教員が悪かったというようなことを言われると、少し文部省あたりの責任はどうなるんだというようなことも言いたいし、そこでこの間岩間さんに
質問したんだけど、岩間さんあの資料あれしてくれたかどうかしらぬけれ
ども、私は文部省とか、それから地方の
教育関係のえらい人たちが、あの追放教員を出した
ところの特に
教育に関係したその行政官、そういう人たちは追放になっているのかどうか、そういうもののあれをひとつ調べてもらいたいと言ったけどまだ出てきませんがね、ひどいのになると教学官というの、教学官なんかについては、何か教員を助けるためにやって、反動的な
ところ一つもないなんというようなことを言ったけれ
ども、私はきょうここに二冊本を持ってきた。これはぼくが教員やっていたときにあやまちをおかしたときの本の
一つです。まだだいぶある。だいぶていさい悪くてなげたけれ
ども、それでもこれだけは
自分の罪のあれだと思って、こんなことを一生懸命読んでそうして
子供にやったわけです。これはどこから出したかといったら、文部省教学局編纂、これは紀平正美さんというのは「マサミ」と読むんだと思うが、この人はとにかく
日本のいわゆる何といったらいいか、国家のほうを代表する
一つの
教育倫理についての代表的な人だ、もう極端なというくらい。えらい人ですが、えらい人というのは、別にとってもらっては困るんだけれ
ども、この人のあれを見ても、もう最後のほうにいきますというと、とにかく「我が
日本も、一時は欧米の文明に眩惑せしめられ、其の理論の巧妙に、全く屈服せしめられ、其の理論に叶ふものは之を是とするも、叶はざるが如きものは、如何なる美風良俗なりとも、之を弊履の如く捨てんとしたのである。」
こういうようなものの見方をして、そうしてまあ極端なことをいっている。この本を見るというと、もう極端な国家主義、天皇制
教育というようなものを、非常に強烈にここに書いてある。一々読むことはやめますけれ
ども、「やまとごころ」というのを執筆した河野省三さんという文学博士も、この大國隆正の「やまとごころ」というものに対してほんとに強烈な、反動的な
考え方を持って、あのファシズムのあらしの中で、とにかく
日本の
教育を動かしたんです。これを、いまの、反対なんかしたらどういうことになる、一たまりもなくやられたでしょう。こういう誤りというようなものに率直にやっぱり自己批判したのは、これは、何といっても、あの新
教育指針だと思うんです。そこで初めて、
日本の
教師の中でも戦前派の中に、もう一ぺん教員をや
ろうかという勇気をふるい立たして、新しい
教育にひとつ飛び込もうかと、あるいは飛び込んでいる者も、これからひとつ一生懸命や
ろうかと思った者は、そこに勇気を求めた。これが私は、
日本国憲法と
教育基本法の
教育に
教師をかり立てたと思うんですよ。いろいろなことを言って
——きょうも、日教組の大会をやっていれば、何かものすごくあばれられているらしいがね。まるで命がけだ、とにかくあの大会に行くのが。この命がけの大会に行っているんだが。私はここで、これは四十七年の五月三日の社説なんだけれ
ども、これ、私は非常に好きなものだから、いつも持っているんですがね。この中で、こういうことを書いていますわ。「平和憲法を骨抜きにするな」と書いてある。「基本的人権、国民主権と並んで、もう
一つ現行憲法の基本的原理というべきものは、第九条の戦争放棄、つまり徹底した平和主義である。」こう言っている。これがどうかというと、だんだんだんだんおかしくなってきている。山中総務長官の
名前がここへ出て、「先般国会で「現行憲法は押し付け憲法だ」と発言し、」と、こういうこともあげてある。閣僚はじめ、そういうことになっている。そうして、平和憲法が骨抜きにな
ろうとしているということをこの新聞は書いてある。こういう新聞を商業紙、商業紙というて、あんまり信頼してないようなことを言うけれ
ども、その商業紙という新聞でさえもそういうことを書いているんです。現実は、骨抜きになった
日本国憲法なんです。そしてこの新聞は、「憲法学習運動を国民の中へ」入れなきゃならぬ。「平和憲法は、骨抜き同然にされ、司法権の独立に疑惑がもたれるような
状況をこのまま放任してよいものかどうか。議会制民主主義の根幹ともいうべき国民の知る権利が、一方的につくられる行政官庁の機密によって妨げられるのを見のがしてよいのであ
ろうか。」、「社会の底辺に押しやられた人々、下請け企業や小企業に働く多くの未組織労働者などの場合、果たして憲法が保障している基本的人権が守られているだ
ろうか。」という、こういう社説、このことを
考えますと、私は、いまの
教育は何かといったら、あなたたち口をそろえて言うわね、
日本国憲法と
教育基本法に基づいてやっていますと、こう言う。私は、そういういまの
教育の現状と、
日本の
教育が基づく、根拠になっている憲法、
教育基本法というようなものを見直すためにはどうしたらいいのかといったら、私は、それは、いまの時点だけ見たってだめだと思うんです。少なくとも、
日本の近代
教育というものを見直すのには、そうして現状を
ほんとうにはっきりさせるためには、
教育史の中にそれを位置づけて、そうして
検討させにゃいかぬと思うんです。そういう点では、この前、
大臣に対して私が
質問したことなんですけれ
ども、
大臣の所信表明は、私はあんまりいただけないと言ったのはそこなんです。あのとき、学制以来百年ということを言った。学制以来百年ということはいい。百年たったんだから百年でいいけれ
ども、その学制以来百年の中に、現今の
教育を語るのには
教育史的な見方に立って、現況はどうだという結論を出さにゃ私は納得しないということになるわけだ。あなたはそれをどう見ているのかということです。学制というものはどういうものだったのか、そもそも学制は。そらして、
教育勅語を出した天皇制
教育というものはどうであったのか。そのこともあなたは述べておらない。説明もしてくれない、所信表明の中で。私が
質問したらそういうことを言うかと思ったが、それは言わなかった。その
あとの
——一体どうなのか。大正デモクラシーということをわれわれが言えば、大正デモクラシーの中の
教育というものが結局
教育の
一つの大きな問題を出した。これは
教育の場面だけを言うんですけれ
どもね。大正デモクラシー、それからその
あとの、
昭和の初めからのファシズムのほうに進んでいくあれ、敗戦。それからいまの
教育、と。一体、この百年間の
日本の
教育の目標を
教育史的にも位置づけて
考えなければだめだというのは私の持論です。それがないというと、明治百年といって発展発展でたいへんおめでたいというようなことになるというと、私が
先ほど言ったように、
ほんとうに
日本の国の
教育というものが国際的水準にまで達した、めでたいめでたいというような
考え方では、将来の
日本の
教育の大発展というものはできないと、こう
考える。そのことは民族の不幸だと思っている。そう思っているんですが、
大臣はどうですか。
教育の、いまの私のような
考え方について、全然別な
意見をお持ちであったらひとつ述べてもらいたい。
なお、これは、もう
日本の
教育を語って、教員養成というものを
考えた場合に、教員養成の根幹にあるのはいまの
教育なんですから
教育の現状なんだ。その現状を踏まえて、
日本の
教育はどういう教員養成をやらなきやならぬかということが出てこなきゃならぬでしょう。どういう教員を要求しているのか。
教育の現状がこうだから教員の養成をしなきゃならぬ。それに、たとえばさっきから言っている検定なんというようなものが適当かどうかという議論も、その中から出てくるわけです。だから、それは、木田さんもそういう観点からひとつ言ってもらいたいし、それから初中局なんというのは、一番やっぱりこれは、私は、どの
局長もそうですけれ
ども、そんなに、現場の
教師じゃないから、現場のことを知らぬほうがいい。あんまり知ってよけいな干渉をするより、知らぬほうがいいんで、むしろ、もっと行政的見地から、
教師にあたたかい、
日本の
子供たちにあたたかい、青年にあたたかい目をもって
教育をよくしてや
ろうという
考え方に立てば、そのほうがけっこうだと思っていますから。ひとつそれぞれ、そういう観点から御
意見を承りたいと思う。