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小林武君 そんなことわからぬでどうするんです。だれかわかっているでしょう。これはそう遠くない話だ。そんなにこれは古くない。
昭和四十六年が任期切れぐらいかね。だからこれは知らないなんというのはおかしいですよ。この本は文部省にもだから持っていってあなた見たんでしょう。私はあなたのほうで中教審のあれだし、全国の
校長会の会長もやっている。そういうことでこれは信頼されたかもしらぬ。私はあなたにきょうで終わらないから、いずれまたやるけれ
ども、しかし言っておくわね。うそっぱち、全部ぼくは読まないです。ぼくのところへも送ってきたんです。だれが送ったかも知らないけれ
ども。ぼくは読まなかったけれ
ども、あんたが「斬る」なんというあれを言ったものだから「斬る」といえばあったなと思って見た。しかしこれは全部読むにたえないから自分のことを書いたところを読んだ、しかし私のことを書いているといってもこの場合は日教組
委員長としての私なんだ。しかも、日教組
委員長の勤評
闘争のときの問題を書いてある。これがまるきりうそなんだ。あなた読んだでしょう、
小林委員長のところ読んだでしょう、どうですか。宿屋へ入って、そしてボディガードをつとめてくれた
組合員たちのあれを逃げて、ちょっとした傷を負ったぐらいだ——。書いてある。その傷を負ったとか負わぬとかいうことはともかくだけれ
ども、その中身に至ってはこれは人をばかにしているようなことを書いている。これを一々読むつもりはないけれ
ども、まるっきりのうそだ。どこの一体宿屋へ泊まった、宿屋へ泊まらない。いきなり
学校だ。そしてちょっとのけがなんというものじゃない。私はそういうことを言うばかなやつがいるかと思うと、きょうわが家に置いてある当時のアルバムを持ってきた。私はそのときから総入れ歯になった。もともとはあまり歯のじょうぶなほうじゃなかったから、全部やられたなんというようなことは、大げさなことを言わない。このことは三楽病院と、それからぼくのかかりつけの専修
大学の前にある塚本という歯医者に行けばそれから
あとずっとどういうあれだかわかるから見てもらえばいい。
地元の病院、それから三楽病院に入院してようやく助けてもらった。それに対して教唆扇動してうまく
ていさいをつくろって逃げたというようなことを書いてある。これが
中学校長会の会長で、中教審の委員なんです。人格高潔なると称する人間の書いたもの、それでぼくはこの男に電話をかけた。それでもあまりそのときはおこる気にもならぬでね。言ってみればおまえさんとぼくとは
考え方が違うけれ
どもへまあ仲間意識はぼくも持っているから、どうしてそんなばかなことを書いたのだ、こういった。君、どんな資料を見て書いたのだ。そうしたら、いや実は書けといったから書きました。書けといったから書きましたということになると、君、頼まれたことにならんかといったら、頼まれたのです。だれに頼まれたといったら、真剣な声を出して、それだけは言えませんと、こういった。それだけは言えません。そんなこと言わぬで言いなさい。あなた自身だって重要なことになるのだよ、重大なことになるのだ。そういったら、いや言えません、言えませんと、こういう。私は中教審の委員をやり、
中学校長会の会長をやり、大きな顔をしていてうそを書いて人を誹謗して、日教組を
文部大臣に
暴力団扱いにまでされるような、そういうことをやる人間、こんな人間が一体あたかも日本の
教育を守るような、日教組を斬ってしまえというようなことをいえる一体あれかどうかということです。私はそのためにきょうここでやったのだよ。何もぼくは自分のことをここへ引っぱり出してきてたんかを切ろうなんという気持ちはない。あなたは高知県にいたから、高知県の
警察部長をやったというから高知県の仁淀村を知っているでしょう。あなたのおいでになったのはいつごろか知らぬけれ
ども、なかなか勇ましいところだ。農地改革の何か
委員長を、とにかくこれを撃って頭をぶっ飛ばしたのだな。そこへ行ってぼくは頭がついて帰ったんだからまあまあめっけものだという話だ。そういうところなんです。しかしまあこの問題は現在和解して、和解したというのは
地元の
教員組合と和解が成立したから、ぼくはいい、いいと、結果がそうなったのならなってもよろしいといって、村長も来た。私はそのときお茶をもらった。これはまあ収賄にはならぬだろうと思うが、仁淀村のお茶など飲みたくないだろうなんていったけど、いやそんなことはない。おまえさんのお茶でもけっこう喜んで飲むわといってもらっておいた。それが去年だ。去年ようやく
組合との間に和解ができた。このときに負傷したのはこれはぼくばかりじゃないのだよ。これは高知新聞だけだ。ほかの新聞まではやることはめんどうくさいからやらない。九人負傷しているのです。その中には一人発狂した女性の教師がいる。この人は相当年配であったためにあまり凄惨な
状況の中で発狂した。ついになおることができなかった。二十一歳か二歳の未婚の先生のほっぺたが切られて、私はその子の顔に傷が残るかと思って、それはあれだったけれ
ども、幸いに傷もだんだんよくなって結婚されて、しあわせに暮らしているという話だ。それだけの負傷者出した問題なんです。高知新聞の社説はそのときに何と書いたか。全部は読まぬからまあ安心しなさい。「醜をさらした集団
暴力」これが高知新聞の見出しなんです。そういう
暴力に対して何とここで書いているか。教唆扇動のために行ってちょっとかっこうをつけて、ボディガードに守られてちょっとけがして逃げ帰ったようなことを書いている。こんなインチキな本を書いてね、最後泣きごと言って頼まれましたと、その人の名は言われませんというような、そういうあなた著書をもって、あなたは日教組を一体
暴力団並みに扱うということはどういうことだ一体、これ。それについてはあなたの一体
責任ひとつ聞きたいわ。