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参考人(
淡路剛久君)
淡路でございます。
私のほうから問題を三点にしぼりまして、御
意見を申し上げたいと思います。その三点と申しますのは、第一に、この新しく考えられつつある
制度が、現在の
公害に関する
法体系、
法制度の中でどういう
意味を持つか、そういう
位置づけの問題が第一点であります。それから第二点は、本
制度のような
被害者救済といったようなものが必要であるとした場合に、その
理念はどこになければならないかという問題であります。この第一点、第二点というのは、かなり
理念的な問題になってくるわけであります。それから
最後に第三点目といたしたして、本
制度の持つ、この
法案の中の内在的な
問題点、この第三点については、ごく簡単に大きな
ポイントだけを申し上げたいと思います。
まず第一点目から御
意見を申し上げたいと思いますが、非常に言い古されてはいることですが、
公害に関する諸
制度あるいは諸
法規の目的、
理念というのは、常に
公害をなくす、
公害を防止するというところになければならないわけであります。これはもう、ことばとしては常にいわれていることですが、新しい
制度を考える場合にあたっても、常に原点に立ち返って、そこから吟味し直してみるということが私は必要ではないかというふうに思うわけであります。そういう
観点から、全体の
わが国の
公害法あるいは
公害に関する諸
制度、
公害対策の諸
制度を見ますと、遺憾なことながら、
公害を防止する、
公害を抑止する、そういうシステム、
メカニズムとしては非常に弱体である。一方では
公害の
発生を許している。一方では
公害の
発生を許しておりながら、他方で
被害救済といったようなことで
金銭補償を考えている。この点に第一に非常な
問題点があるわけであります。この新しい
制度、新しい
法案というものに対しましては、
被害者側からかなりの反発が出ているということも、
一つにはそういう点が
関係している。その中の理由の
一つでありますが。
現に、
わが国の
法制度というのは、
公害国会を経験した
あとも、相変わらず
公害を抑止する
メカニズムとして有効に機能し得ていない。相変わらず
濃度規制といったようなものが行なわれているわけであります。要するに、薄めれば足る、あるいは
一つ一つある
程度きれいになってきても、全体が集まれば相変わらずよごれてしまう、そういう
種類の
メカニズムというものが相変わらず通用しているわけであります。その中にあって、四大
公害訴訟というものが判決にまで至り、それが確定する、そして
個人の
権利というものが、少なくとも
損害賠償という側面では確立する、そういう状況があらわれてきたわけですが、そういうものとの
関連で本
制度を見ますと、逆に、そういった四大
公害訴訟で得られた
権利というものが著しく減殺されてきているということも言えるわけであります。これは第一点目の問題でありまして、かなり
理念的な問題になるわけです。
第二点目といたしまして、そうなりますと、一体、本
制度みたいなものを考える場合に、どういうところにその
理念を置くべきであるかということになるわけですが、これは
公害防止、
公害をなくするということは、ここにきてもなおかつ考えられなければならないわけであります。
そのことは、次のような二つの問題を要請するわけでありまして、
一つには、要するに
公害患者が多発するような
地域が出てきた、そういう状態があらわれてきたという場合には、新しい
患者をそれ以上出さないようにするような方策が講じられなければならないということであります。それから第二点目には、そう言っても、すでに
患者になってしまった、
被害が
発生してしまったということがあるわけで、そういう場合については、その
被害者の
完全救済、そして
完全救済の
理念としては、原理としては
原状回復であるということであります。
その前者の
観点からいたしますと、かなりこれは乱暴なことになりますが、たとえば新しい
患者を出さない、そのためにも
工場のストップをするだとか、あるいは操業をカットしていくだとか、そういう
種類の強力な
法律的な
制度、
規制というものが要求されるはずであります。そのためには、自治体の長に大幅な権限を与えるといったようなことも考えられなければならないと思われます。
こういうふうに申しますと、いやそれは
公害に関する諸
制度、諸
法規、
法律の体系の中でそれとしてちゃんとあるんだ、一方では
公害規制法があるではないか、あるいは
公害防止計画といったものがあるではないか、
公害防止事業があるではないかというふうにいわれるかもわかりません。しかし、そういう点について、その
制度の
実態、その機能というのを見ますと、はなはだそれは有効に機能し得ていないものであります。すでに
公害病患者が多発している、そういう
地域の中にあって、五年後十年後に
環境基準の達成、その五年後十年後にようやく
健康被害があらわれなくなるであろうと、そういったような、はなはだ
人間の、
個人の
権利を無視するようなそういう
制度というのが公認されていること
自体、きわめて奇妙であるということであります。しかし、それも実はそういいましても、実際に法技術的にむずかしい、
一つの
法律の
法体系の中では、やるということは非常にむずかしいということは私も承知しておりますが、少なくとも
理念的には、そういうことは考えられなければならない、その点から出発しなければならないということであります。
それでは次の段階にきて、すでに
発生してしまった
被害をどうするかという問題はあるわけでございます。その点につきましては、先ほど申し上げましたとおり、
原状回復ということがまず基本的なこととして考えられなければならないわけであります。もうそれ以上
公害病患者というものが
症状が悪化しないようにする。そして、さらにその
症状をなおしていくような
方法を考えるということであります。遺憾ながら、本
制度を見ますと、その点についての手当てというのが非常に、ほとんどといっていいくらいないわけでありまして、
金銭でもって処理してしまえば足るというような
思想が見られるわけであります。わずかに四十六条に
公害保健福祉事業というのがありまして、これが一種の
原状回復的な
思想の
萠芽をあらわしているようでありますが、しかし、内容的には必ずしもはっきりしないものでありまして、はなはだ
制度的に不備であるというふうに感じられるわけであります。
もちろん、一たんあらわれた
健康被害をどう回復させていくかということにつきましては、私しろうとでございまして、どういう
方法があるか、申し上げることができませんが、たとえば一斉
健康診断をやるだとか、あるいは
リハビリといったようなことでも、自宅での
リハビリ、あるいは
巡回医療といったようなことであるとか、さまざまな衆知を集めれば、この点に関する
原状回復的な
被害救済の
方法というのは、あり得るはずではないかというふうに考えられるわけであります。その点が私は本
制度の、実現可能でありながら、しかもなされていない非常に不備な点であろうというふうに思われるわけであります。
それから大きな三番目の問題といたしまして、本
制度の内在的な
問題点がどこにあるかということでございますが、この点は、こまかい技術的な
問題点を含めて考えますと非常にたくさんあるわけでありますが、大きな
ポイントだけ私の感想を申し上げておきたいと思います。
第一に、
認定のしかたの問題がございます。この
認定のしかたというものは、私はやはり
理念的には、できるだけ広く
患者を、
健康被害があらわれているあるいはあらわれそうであるという
患者さんを発掘していく、発見していくというところに
理念が置かれなければならないはずであります。
健康被害救済法というからには、そういうものでなければならないはずでございますが、それがそうではなくて、
患者の切り捨てという
要素が非常に強い。非常に
制度がきつくできているということが気になるわけであります。
その点は、たとえば
認定制度で
指定地域を設けるというようなことにあらわれているわけですが、
指定地域を設けること
自体、
気管支系統の
病気のような非特異的な
疾患の場合には、法技術的に——法技術的にといいますか、ある
程度しかたがない面があるかもわかりません。しかし、それは
一つのフィクションであるということが考えられなければならないわけでありまして、
指定地域外におきましても
患者さんはいるんだ、したがって、
個別認定の道をつけておくということが私は強く要請されてくるはずである。それはむずかしいということが言われるかもわかりません。しかし、ここで問題なのは、科学的な
因果関係が問題になっているのではなく、
法律的な
因果関係といいますか、それが
中心であるわけであります。そうであるとするならば、少なくとも
制度側としても、
制度の安全弁としても、その
正当性を主張するためには、切り捨てた部分については
個別救済の道というものが置かれておかなければならないであろうというふうに考えられるわけであります。
それから、この
指定地域がどういうところに指定されていくかということ、あるいは
線引きをどういう形でやるかということは、今後の
運用、
政令などにまかされるわけでございますが、その点に関しては、われわれも今後の
運用を見ていかなければならない。そして、ここにこそ、本
法案が非常に
政令委任事項が多いということとも
関係して、そこを押えておかない限り本
制度の持つ本質的な
意味というのはわからない。
運用まできっちり押えていかなければ、かなり骨抜きになる
可能性があるということも、この問題との
関連で申し上げておきたいと思います。
それから次に、
認定された場合の
補償給付の内容の問題でございますが、この点もいろいろ各界から批判があるところで、周知のことだと思いますが、
補償額が非常に低く切られる
可能性があるというわけであります。これは私は、あくまでもこの
制度は
民事責任を基礎に置いているということを考えなければならないわけでありまして、他の
社会保障制度と
関連させ、それとの
関連でこれはかなり高くなっているといったような見かたで見るべきではないのではなかろうかというふうに思うわけであります。
具体的には、
障害補償といったものがかなり削られているということが問題でありまして、削られているというか、削られそうであるということが問題でありまして、もう
一つは、
慰謝料が認められていないというわけであります。
慰謝料につきましては、これはなかなかはっきりしない定型化しにくいものというような
意見があるようでございますが、それはまるで逆でありまして、
慰謝料というのは本来そういうものなのであります。
慰謝料というのは本来つかみにくいものなのであります。ですから、逆に法技術的にこれをとらえようと思えば、非常に簡単なわけでありまして、これは要するに、入れていくか、入れていかないかのどちらか、そういう決断の問題でございます。法技術的な困難さは私はないと思います。ただ、
障害補償に比べて理屈づけが少しむずかしいということにすぎません。たとえば
平均賃金みたいなものはないということにすぎないわけであります。
それから第三点目に、この点も言い古されたことですが、
給付の対象が、たとえば騒音などが削られているだとか、あるいは
被害としても、
財産被害、特に
生業被害といったものが認められていないといったようなことが問題になりますが、この点は法技術的に、これをもし今後入れていくとすれば、かなりむずかしい問題が出てきて、今後検討を要しなければならない問題がかなりたくさんあると思いますが、しかし、私はこういったことについても、早急に
法制度的な
措置を講じなければならない問題であるということを
最後につけ加えて、私の
意見とさせていただきます。