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保岡分科員 奄美群島も本年で復帰して以来満二十年になりまして、復帰した翌年奄美群島復興特別
措置法が制定されまして十カ年、引き続いて
昭和三十九年から奄美群島振興特別
措置法が制定されまして、それに基づく振興
計画を樹立してその
実施を行なって十カ年、
政府の手厚い保護によって産業経済の振興をはかってまいったわけでありますけれ
ども、その間の国や県、地元
市町村あるいは
住民の不断の
努力によってそれなりの成果をあげてきたと見ることができるわけでありますが、この間
関係当局の寄せられた
熱意と御
努力に対して心から郡民を代表して感謝を申し上げるものであります。
しかしながら、現在の奄美大島の置かれている
状況というものを見ますときに、奄美大島が二十年前に
日本に復帰しました当時からの歩みを
考えてみますと、米軍が奄美に軍事的機能の役割りを認めなかったせいか、基地を置かなかったというようなこともありまして、
社会資本の投資を何ら行なっていない上に、民生安定の
努力も全くなされず、また一方では、当時の
日本の
財政能力もあったことと思いますけれ
ども、復帰前に
日本の
政府が何らかの援助を行なったということもなくて、全く八年間の
行政空白に置かれた、荒廃した状態で復帰したわけであります。その点が今度復帰しました沖繩と違う点でありまして、沖繩の場合は、米軍が沖繩に基地を置いておりまして、好ましくないという点はあるわけでありますが、曲がりなりにも基地経済による潤いもあって、また米軍のほうも民生安定の
努力やそれなりの
社会資本の投資も行なっているのであります。また、復帰前から
日本政府がかなり多大な援助金を送っておって、そういった
意味から、復帰時において沖繩の
状況を見ますと、現在の奄美大島に決してまさるとも劣らないという水準をある程度確保しているという点があるわけであります。
このように荒廃した状態で奄美大島が復帰したわけでありますけれ
ども、その後復興
計画に基づいて強力に推進したわけであります。ところが、当時は
日本の
財政能力も非常に微々たるものでありまして、また経済力もはなはだ低かったという事情もありまして、わずかな額の
予算がなお地元の
負担能力その他からいってなかなか満足に消化できないというようなこともありまして、この復興
計画の目標としたところは、戦前の
昭和九年から十年の本土並みという水準に達するようにという目標を掲げたのでありますが、その目標を達するのに十カ年間を要して、
昭和三十八年ごろになって、
計画が終わる段階でやっとその目的を達しているわけであります。
引き続いて
昭和三十九年から振興事業
計画が行なわれたわけでありますが、この振興事業
計画の推進によって——そのころになりますと、わが国の経済も高度経済成長が軌道に乗りましてかなり活発になり、また、国の
財政能力もかなり強化されてまいりまして、それに伴って奄美群島の振興開発もかなり実績をあげたわけであります。しかしながら、隔絶した外海離島、あるいは台風常襲地帯という他の離島にないきびしい条件からくる後進性を克服することが容易でないために、なかなかその
計画の成果を得ることができないで、むしろ国の本土における高度経済成長に追いつけないで格差が広がる傾向にあるわけであります。
そういう点から、現在の奄美大島の群島民の平均所得は国民平均の四六%と半分以下の水準であります。また
日本で一番貧乏県の鹿児島県の八十数%という低所得を余儀なくされているわけであります。ちなみにお隣の沖繩を見ますと、鹿児島県よりか水準が高いわけでありまして、大体国の平均の六十数%だというふうに聞いております。また、二年前の県道以上の
道路の舗装率
一つをとってみても国が五三・二%で県が四〇%であるのに、奄美大島の場合一八・九%という低い水準であります。これもお隣の沖繩と比較すると、沖繩が四一・二%とかなり高い水準を示しているわけであります。本土からあまりにも離れているため、さらには輸送コストが高くつくといったようなことで、物価高というようなことが非常に問題になっておりまして、物価指数も、
東京が
日本でも物価の高いところといわれておりますが、
東京よりさらに三%も高い、
日本一物価が高いというような
状況にすら追い込まれておって、群島の実質的な平均所得というものはかなり低いものがあるわけであります。
このような状態で今日になっておるわけでありますけれ
ども、最近われわれ全国民の
要望が実りまして、沖繩がめでたく
日本に復帰いたしまして、奄美大島としてはすぐ隣にある沖繩だけにその喜びもひとしおなわけでありますが、この沖繩に対して、長い間異民族による支配があって非常に気の毒であったという点を、贖罪的な
意味から国のほうで多大な援助をしておるというような
状況にあるわけであります。
そこで、先ほど来
お話ししましたとおり、奄美大島の現在の
状況というのは、沖繩の現在の水準に決してまさっておると言えない
状況にある点を
考えると、このようなお隣の沖繩の今後の国の国策に乗っかった多大な援助によるりっぱな開発発展というものから取り残されて、むしろ沖繩との格差が生じ、本土との格差も生じて、その間にあって陥没するおそれということが十分に心配されるわけであります。
そういった観点から、現在、振興事業
計画が来
年度をもって終了して、
昭和四十九
年度から新しい奄美の振興開発というものをあらためて
考える時期に到達しているわけでありますが、その点にかんがみ、沖繩県、そして
日本本土と調和のある発展を確保するために、四十九
年度以降の奄美の開発に何らかの強力な特別な
措置を講ずる必要があるというふうに
考えられるわけでありますが、地元においてもその
要望がきわめて強い
状況にあります。このような観点から、いろいろと
関係当局に御
努力、御
協力をいただかなければならないわけでありますが、質問を若干いたしたいと思うわけであります。
その点に関しまして、
昭和四十七年の一月三十一日に衆議院の本会議におきまして、中曽根康弘自由民主党総務会長の質問に答えて、佐藤総理
大臣が
答弁をしております。ここで中曽根氏の質問のその該当部分を読みますと、「なお、沖繩復帰に関連して、十九年前に本土に帰った奄美群島の開発振興、島民諸君の民生向上等についても、この際もう一度思いをいたし、欠くるところなきや
検討すべきであると思いますが、御所信を承りたいと思います。」このような質問に対し、佐藤総理
大臣は、「中曽根君から、この際奄美群島の振興開発や島民の民生向上について再
検討すべきではないかとの御
指摘がありました。まことに時宜を得たものと思います。奄美の振興については、
政府としてこれまでかなり力を入れてきたのでありますが、それでも現在、群島民一人
当たりの所得は、鹿児島県本土の一人
当たり所得の約八割強というのが
実情であります。今後、港湾、空港、
道路等の基幹施設や、地域産業の基盤施設の拡充
整備をさらに推進して、奄美群島経済の自立的発展をはからなければならないと思います。これを機会に、現行の振興
計画の再
検討を行ないたいと思います。」このように発言をしているわけであります。
私たちは、この発言を聞いて、当時、先ほど来述べてまいりました思いとあわせまして、これは
政府が
昭和四十九
年度以降の奄美の開発について、現在行なわれている振興
計画以上の特別
措置を前向きに
検討するんだという態度を表明したものというふうに理解したわけでありますが、まずその点について
自治大臣の所信を承りたいのであります。