○小林(進)
委員 法務大臣からは、私の
質問の要点をよくとらえていただきました。しかも、問題解決のためにひとつ前向きにやりたいという御答弁をいただいて、私もやや明るい感じを受けたんでありまするけれ
ども、しかしその答弁は、やはり昨年の三月二十五日の前の前尾法務大臣の御答弁も、いまのあなたのお答えほど明確じゃないけれ
ども、そういう
方向でひとつ各省話し合って何とか解決をしたい、こういうことを言われているのであります。だから私から見ると、前尾法務大臣より少しあなたのほうが前向きのような感じを受けますけれ
ども、何か堂々めぐりをしているじゃないかという感じも強いわけであります。
しかし、問題はおっしゃるとおりなのです。遺族扶助料も確かにもらった、あるいは弔慰金ももらった。問題はそれじゃない。軍刑法で、軍法
会議でやられて汚名を着せられた、そしてそれは子々孫々にまで残っていく、その痕跡をなくしてもらいたいというのが遺族の切実な要望であるわけであります。これに対しまして、法務大臣は法律上その形がないとおっしゃった。確かに私も調べましたが、ないです。ないが、それにやや近い例はあるんです。
これは何かといえば、わが
日本の明治初年に、反逆児として賊名を負うたのが西郷隆盛先生であり、江藤新平先生であった。しかし明治のブルジョア民主主義、やはり議会政治というものがあったが、その政治の中で、後日どういう法律手続か知らないけれ
ども、その汚名は抹消されて、そして後年侯爵にもなり、伯爵にもなり、国の元勲として祭られるような、ちゃんとりっぱな地位を獲得せられている。そういう先例があるんですから、何も昔は明治の西郷さんだ、こっちは下士官、兵だ、下士官、兵だけは二十年たっても、三十年たってもそれはどうでもいいという
考えがいささかでも法務大臣や
政府為政者の中にあるとしたならば、私は了承できないと思う。いいですか、今度の戦いの中で一体軍法
会議にかけられた者がどれだけあるか、私はあなたにお伺いしたいのですけれ
ども、時間がないから私が申し上げますけれ
ども、いま調査した数字だけでも、
昭和十六年から二十年まで陸軍だけで二万と八百七十七人、海軍だけで一万四千百六十四人。けれ
どもこれは全部じゃない。推定して大体軍法
会議で処罰された者が五万人前後だろうといわれている。この人たちが全部こういう汚名を着て泣きぬれているんだが、その内容を見ますると、五万人の数字の中を見まするというと、ほとんど処罰されている者は下士官、兵、軍属、一般人ですよ。常人です。軍法
会議は、御承知のとおり軍司令官の一存で、これを起訴せい、これを不起訴にせい、これによって起訴か不起訴かが始まるのであります。それから軍法
会議が開かれる。そして軍隊には例として、何をやろうとも将官の罪は不問にせい、佐官の罪はこれを回避せい、尉官の罪は自決だ、みずから腹を切らせて、軍法
会議にかけないうちに腹を切らせる。処罰は下士官、兵、軍属、一般の者に限るという不文律の規定がある。特に幼年学校出の者に対しては先輩がこれをかばって、一人も軍法
会議や罪におとしいれるようなことはならぬという長い不文律の規定があって、そして全部下士官、兵が、いわゆる戦場という閉鎖社会の軍隊という中で、血も涙もない処罰を受けて死刑になったりしている。しかも軍法
会議、いわゆる戦場における臨時軍法
会議、その臨時軍法
会議の中には、いわゆる軍法
会議法に規定をせられているが、法務官は高文をとった専門家ですが、必ず法務官をつけなくてはならぬということだけれ
ども、法務官をつけた軍事裁判はほとんどありません。一定の法廷の中で軍事裁判を開けという軍法
会議の規定、私は軍法
会議の規定をここに持っています。
一つも実際に適用されておりません。大体憲兵隊長の部屋かあるいは憲兵の部屋で、いわゆる軍法
会議と称するものが開かれている。いいですか、しかも軍法
会議の時間は大体一時間、長くて二時間、三時間です。それで銃殺、死刑、ばんばんとやられている、これが実情です。しかも、その軍法
会議には控訴の制度があるにもかかわらず、戦地における軍法
会議には、その控訴審というものは絶対に認めない。すべて一審で終わりです。弁護士も一切配置されておりません。こういう中で五万人の人たちが処刑をされていっているのです。これをあなたは黙って見ているわけにいきますか。こういう実態です。
いまもう戦争が済んで二十七年、一体この戦争をやったのはだれですか。この戦争を発動し、
計画をし、しかも重要なる
計画の参謀の中に入った者はだれですか。そういう高級な人や政治の
責任者は全部罪になっていないじゃありませんか。だれが一人でも罪になりましたか。東条はなったとおっしゃるかもしれませんが、東条さんはあれは
外国の軍法
会議、いわゆる勝者が敗者を処罰するという
外国の軍事裁判にかけられただけの話でありまして、われわれに言わせれば茶番劇、と言っては悪いかもしれませんが、茶番劇のようなものだ。そこで刑を受けたと言うけれ
ども、
日本国内の裁判で、戦争を発動し、戦争を
計画し、戦争の主要な
役割りを演じた者が、一人でも処分を受けた者がいますか。罪になった者がいますか。そうしてぬくぬくとして、東条さんの奥さんにたとえれば、いま厚生省にもいるだろうけれ
ども、遺族年金はいま幾らだ。百万円近くの遺族年金をもらって、わが世の春を謳歌しているとは言わぬけれ
ども、ぬくぬくと生活している。東条はひきょう者だ。ピストル自殺で死んだまねをしたけれ
ども、逃げて生きていたら、いま二百万円近い年金をもらっている勘定になるだろう。そういう状態の中で、戦争に参画もしなければ
計画もしない、妻子眷族の中にいて、いやだいやだと言いながら持っていかれて、食うものも食えない孤島の中で苦労した諸君が、こういう閉鎖社会の中の司令官の一方的な
判断でみんな銃殺になったり、陸軍刑法にやられたと言っているものを、このまま放置しておいて、
国民感情が許しますか。
私は率直に言います。天皇陛下は戦争がお済みになったときにマッカーサーのところに行って、私が
責任をとるから、朕の股肱の臣はひとつ死刑にしないでくれ、私の命にかえても。しかし庶民は言っていますよ。こうして天皇さまは、いわゆる自分の周囲に高級軍人や参謀長や高級の政治家をマッカーサーにお頼みになったかもしれないけれ
ども、われわれ草の根に死んでいる下士官や兵や一般庶民のこのわれわれに対して、天皇陛下は何もやさしいことばをかけてくれないのか。われわれは二十年たっても三十年たっても、まだこういう銃殺だの軍刑法で死刑になったという汚名を着ながら世間をはばかって生きていかなければならぬのか。こんなことが許されていいのか。天皇さまにも恨みも言いたくなりますよ。これが庶民感情であり大衆の気持です。それは決して天皇さまが悪いのじゃない。周辺にいる者が悪いのです。皆さん方が悪いのです。それを、法律でそういうことが助けられないとか救えないとかいうことでこれを放置しておいて、戦争は済んだなどということでほおかぶりをされていて許される問題ではないと私は思うのであります。法律の
段階ではない。
政府全般、いわゆる
国民代表の政党全般として、いま少し真剣にこの問題を
考えるべきじゃないか。
時間がありませんから簡単に終わりますけれ
ども、同じ資本主義の
アメリカは、それでもいいですよ。軍法
会議を開くときには、そんな下士官、兵ばかりじゃない。真珠湾攻撃をやったときのキンメルなどという者はちゃんと軍法
会議に呼ばれている、おまえなぜぼやぼやしていたと。ちゃんと将軍も軍法
会議にかけています。それくらいでなければいかぬのです。
日本人ではどうです、将官で軍法
会議にかかった者がいますか。そういう閉鎖社会の中でやっているこの問題を真剣にひとつ
考えてくださいよ。いいですか。
もっと言っていいのなら、時間があまりありませんが言いますけれ
ども、私は、横井庄一さん、よく助かって帰ってくださってああよかったなと思います。今度は奥さんと一緒に新婚旅行はグアム島へおいでになるそうです。実に明るい感じがいたします。しかし、軍法
会議のたてまえから見れば、これは逃亡兵じゃないのですか。辻政信さん、みずからおれは逃亡したんだという「潜行三千里」の本を出した。あれは逃亡兵じゃないのですか。罪に問われることなく参議院議員になった。また逃亡したくて行っちゃって、今度は行くえ不明になっちゃったのでありますけれ
ども。小野田寛郎さん、いま、これから厚生省が先頭に立ってフィリピンへ飛んで行かれる。あれは何ですが、あれは逃亡兵です。しかもあの逃亡兵に対して、おい戦争に負けた、小野田逃げろ逃げろ、逃亡せいと言って指揮した人は、これは逃亡の共犯だ。いま内地に帰ってきて、名前は言いません、ぬくぬくとして生活している。恩給生活をやっています。しかもその小野田少尉だって、これは大きな声で言えませんが、やはり逃亡の最中にフィリピンの農民の人を殺している。一体これは出てきたときに、もしかりにつかまったときに、フィリピンの法律に該当するのかしないのか。一体どう処断される
考えだったのか。いま大騒ぎされていられるが、そういうさなかに、横井庄一さんと同じ
状況でいる人たちが、みんな逃亡兵や軍刑法で処罰を受けて、いまでも泣きぬれている人が山ほどいるのですよ。
ここで言えば、山下馬吉一等兵などという事件がある。もう時間がありませんからちょっとだけ申し上げますけれ
ども、横井さんと同じです。この山下さんの場合、ちょっと読み上げましょうか。「「私は横井さんと同じように逃亡した。私は罪に問われ、今もその枷を背負っている」という人がいる。長崎県福江市の山下馬吉軍曹である。
昭和十三年久留米軸重隊に入隊以来、支那事変から大東亜戦争にと、七年間余の従軍の後終戦をタイでむかえた。
日本軍は投降して、武装の解除が行なわれることになった。
昭和二十年九月二十六日である。山下軍曹は納得できなかった。部下三名とともに投降部隊を脱したのである。山下さんたちの頭は次の言葉でいっぱいだった。「生きて虜囚の辱めをうけず、死して罪禍の汚名を残す勿れ」戦陣訓のおしえであった。また、
日本軍が捕虜に加えた残忍な仕打ちを、こんどは
日本兵がうけることになるのではないか。なんとかして生き伸びようと、秘かに相談して逃亡を決意したのである。万一の場合を
考えて、武器をもったまま部隊を離れたのである。タイ国チェンマイから流浪がはじまり、いつの間にか仲間が別れ別れになり、山下さん一人、
昭和二十一年二月」戦争が済んだ次の年の「二月六日バンコックにあらわれて自首した。旧第十八方面軍臨時軍法
会議」は
昭和二十一年の二月に開かれて、戦争が済んだ一年あとに開かれて、「同月二十三日逃亡「横領の罪で」手榴弾を持っていったので、武装していったから軍隊の武器を盗んだということで、「懲役一年の判決をうけ、バンコックで一カ月、
日本に送還されて横浜刑務所で三か月刑に服したのである。大赦令によって逃亡罪は赦免されたが、」いわゆる手榴弾を盗んだという「横領の前科は消えないのである。」そしていまなおつらい生活を送っております。横井さんはこれは手榴弾ではない、鉄砲を持って逃げちゃったのです。横井さんはりこうだったから、鉄砲を持って宮城へ行って、天皇さま、お預かりいたしましたこれをお返しいたします、こう言ったので逃亡罪を免れたのでございましょうが、一体そんな不公平がこのままに放置されていいのでありまするか。私はこんな例を、もう時間がありませんから簡単にしますけれ
ども、拾い上げたら幾つでも例がある。
これは新潟県小出町羽根川、佐藤竹松さんという人です。この人は曹長なんです。これがやはり、これだけ申し上げてひとつ結論を急ぎますが、この曹長さんが、いいですか、これはビルマの、いわゆる二十七年前の暗く悲しい思い出にいまも悩んでいる、終戦直後、ビルマの収容所で起きた集団暴行事件で、佐藤さんら県内出身の当時下士官七人は部下の罪をかぶって、旧軍刑法で無実の有罪判決を受けた。これは戦友たちが年に一回ずつ長岡市に集まり、上官暴行の汚名だけはそそぎたいと、無実を晴らす対策を話合うというのです。「佐藤さんら下士官七人は旧陸軍第五八連隊第一中隊に属し、終戦をビルマで迎えた。英国軍に武装解除されて、ビルマ・サガエンの捕虜収容所にはいり、連日強制労働に狩出されていた。帰国の望みも断たれたまま、収容所生活はすさむ。二十年の暮れ、」戦争に負けた年です。「事件が起った。佐藤さんの話によると、同中隊のA准佐を」准佐というのはこれは一番悪いのです。ちょうど齋藤君みたいなものなんです。このA准佐——准佐ではありません、准尉ですが、「同中隊のA准尉を兵隊四十数人が集団でなぐり、軽傷を負わせたのだ。収容所の生活は苦しい。食糧が乏しかった。その食糧をなぐられた准尉がピンはねした。」兵隊の分をピンはねしていた。「この准尉、戦争中は弾のこない後方に逃げ隠れ、戦いが終ると部下に当りちらしていた。兵隊たちの積る」恨みを買っていたのだ。それが爆発したのだ。ところが、同情した下士官が兵隊の罪を買った。これは兵隊が四十人でなぐった。そうしたら中隊長以下来て、おまえの監督が悪いから、兵の暴行は上官たる下士官おまえの
責任だから、おまえが罪をとれと言われて、どこで曹長、いわゆる佐藤竹松曹長以下七名が罪をとらされた。佐藤さんは当時曹長でありまするから下士官として罪をとらされた。これはいまはわかりませんが、これは旧軍隊のしきたりなんです。兵の悪いのはみなこれ上官の罪にされるのでありますから、下士官が罪をとらされた。「他の下士官と一緒に党与上官暴行と暴行静止不服従罪で禁固二年の刑」に処せられて一等兵に降格させられた。どうですか。七人は二十一年七月に仮出獄という名目で帰国したが、「青春の貴重な時代を戦いに明け暮れたうえ、終戦後に受けた無実の暴行罪の判決は大きな痛手だった。」
昭和四十年十月の大赦令で恩給だけは復活したが、それまでの二十年間は恩給が停止されたし、そしてその後恩給は復活したが、一等兵の恩給をもらっていて、曹長の恩給から見れば三分の一にも満たないような、そういう形に放置されて、いまなおうつうつとして楽しまざる生活を繰り返している。
それで結論を出しますが、実際数えあげていけばまことに切りがない。四分の一世紀を過ぎた今日、このような暴力的ないわゆる軍法
会議というのは、全くぼくは赤軍のあのリンチよりもひどいと思う。内容を全部言えといえば私は何でも言いますよ。赤軍のリンチよりも悪いのですよ。閉鎖したあの戦地の中にあって、みんな殺している形は。それをいまでもなお正当であるとして護持をして、守っていかなければならぬ理屈がどこにあるのか、私はそれを法務大臣にお聞きしたい。一体なぜこれを守っていかなくちゃならぬ
理由がどこにあるのか、私はそれをお尋ねいたしたい。西郷さんや江藤新平さんを無実にして、昔の元勲にした。私は元勲にしろと言っているのじゃないのです。あのときの戦争を
計画した重大なる仲間の一人であったといったらお気に召さぬかもしれませんけれ
ども、岸さんも、顧みて総理大臣にもなられた。賀屋さんも、戦争内閣の重大な
責任者も、この中で国
会議員として栄誉の限りを尽くしてはるばると引退をされた。そのさなかに、下士官、兵、一般の人だけは、何でいまなお子々孫々に至るまで泣いていかなければならぬのか、その
理由をひとつ聞かしていただきたい。どうしてもこの軍法
会議自体を、特に戦時中における軍法
会議自体をひとつないものにしていただけないか、これが私のお願いの筋です。私
どもはここにその法律案の改正案も準備しております。
政府がおやりになってくださるというなら、私はこの改正案をここへ提出するのをやめます。