○
青柳議員 御
質問の前提に、私
どもが親族というものの概念を
刑法の中に入れてくること自体に問題があるんだというようなことのようにとれたわけでありますが、私
どもは、親族というものがどういう社会の中で人間
関係を形成しているか、その実態を法がどうとらえるかというようなことについて、親族なんというものはもう無視してよろしいんだ、そういう道徳なんということはもう無視してよろしいんだなどという単純なものの
考え方をしておるわけではありません。たまたま大竹
委員の御
指摘になりました
刑法の二百四十四条親族相盗の
規定を見ますと、これは直系血族という
ことばが使ってありまして、卑属とか尊属とかいうような
ことばはこの中には見られません。全く平等、対等の
関係でこういう親族
関係を律しているわけであります。親族の間でお互いに盗んだとか盗まないとかいうようなことを、公権力が積極的に乗り出して混乱を巻き起こす、家庭のプライバシーの侵害ということになってはいけないというところからこういう
規定があるわけでありまして、この
改正刑法草案の中にもやはり同趣旨の
規定が三百三十八条という形で親告罪になってあります。これはいま私
どもが二百条その他いわゆる尊属に対する犯罪を
違憲であり、不合理であるという主張と何ら矛盾しないと私
どもは
考えております。尊属とか卑属とかいう概念自体が、いまの新しい時代に生きてきた
人たちから見ると、幾ら
法律語だといいながらおかしな
ことばであるというふうに思うと思うのです。確かに私は卑属とかいう
ことばなどには抵抗を
感じます。また尊属というのは、確かに卑属に対応する
ことばとして存在しているわけでありますが、これは上下の段階を前提にしているわけです。尊属というのは一体何かというと、血縁
関係を基礎に置いて、そして親、要するに簡単に親子という
関係にしますけれ
ども、親を上に置き子を下に置く、それで親は尊属であり子は卑属である。上下
関係を厳然と認めているわけです。確かに親は年上であるということでは上下があります。しかし養子なんかの場合は、年上の者は養子にできないということがありますから、これは年齢の
関係で上下の区別はありますが、配偶者の尊属が必ずしも配偶者よりも年上であるとは限らない、私はあり得ると思うのです。ブランデージさんのような、ああいう年齢で結婚した人のおとうさんがずっと自分よりも下である、そういうような場合もこれは尊属ということにならざるを得ない。年は下でも尊属である、こういうような上下の
関係を前提にする概念というものは、明らかに封建的な時代に主従の
関係が社会秩序を守る非常に重要な道徳であり、また
法律であったと思います。その最も典型的なのが天皇は国民の最高の父であるから、国民は君には忠でなければならないということになってきておりますし、また親には孝を尽くさなければならぬ、こういうことになってくるわけでございます。したがってこういう上下
関係を社会生活の秩序を守る一つの重要な要素とする道徳、したがってそれをまた
法律化する、これが民主主義に反すると私
どもは
考えております。趣旨説明の中でも家父長制という
ことばを使いましたけれ
ども、家父長制の最大のものは私は旧
憲法下の天皇制であったと思うのです。またそれをささえるものが民法の家族制度であり、結局は上下の差別というものを前提にしている。だから新
憲法ではこういう人間
関係はあってはならない。たとえば主殺しというようなことがもし
刑法で定められるとしたら非常に時代錯誤的なものになると思うのです。労働者が雇い主を殺した場合には、これは尊属殺人と同じように重く罰していいのだなどと言ったら、ほんとうに労働者が笑い出してしまうくらいこっけいなことだと思うのです。しかし、封建時代にはこれはきわめて当然のことでありました。主人にさからう者は切り捨てられてもしかたがないというようなことで、やはりその典型的なものは大逆罪というようなものであったと思うのです。結局この親孝行というのが非常に美徳であるということがあって、それはだれも異説がない。そこで、美徳である以上は、それを尊重し、法制化するということは美徳を強制するということにはならないのだ。それはただ人間感情からいって、美徳をおかすようなものの背徳性に対して重い制裁を加えるということが当然のことであり、その反映として道徳が守られるということになるにすぎないのだという反論も出ておりますけれ
ども、私はこれは親孝行というものを裏から尊属に関する罪に欺瞞的に導入さしてきたものであって、尊属とか卑属とかいうのは単純に、先ほど申しましたように血のつながりだけできまるそういう
法律概念、ですから、産みっぱなしにして捨て子にして、そして他人がこれを育てた。その子供に対して血のつながりから言えば、産みっぱなしにして全く親としての道義に反するような態度をとった者であっても、なおかつ血のつながりから言えば上にある。したがって、二十年もたって親としてあらわれてきて、そして暴虐なことをやる。それに対して反抗して、捨てられた子が何か危害を加えた。これは親孝行の道義に反するというようなことを言ったら、非常にこっけいなことになると思うのです。大体親孝行というのは、産んでくれて育ててくれたというところに合理的な根拠があるのです。育てもしない、ただ産みっぱなしにしたことに対して報恩の気持ちが出るかということになりますと、それはおそらく出ないのが常識じゃないか。もっとも、ものは
考えようでありますから、自分がこの世に生きているのは親が産んでくれたせいだ、産んでくれなかったらこの世の中に出ることはできなかったから親にも感謝しなければならないという、そういう哲学をもってするならば、産んでくれただけで感謝して、そしてこれに対しては尊重しなければならない。そこまでいくのはちょっと、幾ら親孝行の道義を強制される方でもそこまではいくまいと思います。そうだとすると、どうもこの親孝行が尊属、卑属の
関係で律しているのじゃなくして、まさに尊属、卑属の
関係というのは血の上で上にあるのか下にあるかという、そういうことだけで、愛情の問題でもないですね。愛情の問題ならば親を虐待する場合、今度は子供を虐待する場合、これはいずれも愛情に反するわけでありますから、平等に扱われていいわけであって、もし尊属に対する何かの特別な
規定があって、それに合理性があるというならば、愛情を前提にする限りにおいては卑属に対する犯罪というのも同じに置いてもおかしくない、しかしそういうものはないわけであります。だからどこまでいっても、この制度は家父長制というものを前提にして初めて合理的根拠がある、しかしそれはもう新
憲法のもとでは成立しない制度でありますから、これが私
どもの廃止を求める基本になっているということを申し上げておきます。