○
赤松委員 では、
外務大臣けっこうです。
それでは、
質問を続行します。
依然
大学には、あるいは高校の中には従来の慣習は残っています。もう大体
局長知っていると思うのですが、一年生で入っていくと一週間ぐらいはたいへん丁重に扱われる。ところが一週間ぐらいたてば、今度はたいへんなリンチが行なわれる。おまえたちはきょうからはお客さまではないのだ焼きを入れてやると言って、まず一年生は掃除、洗たく、これをさせられる。二年生はその仕事について因縁をつける。掃除が終わると、床を指でなでて、まだきたない、やり直しとどなって、そしてびんたが飛ぶ。そこでさらにぞうきんをかける。今度はペーパーを持ってきてつばをつけて、床をこすって、まだきたないぞ、こう言ってぶんなぐる。こういうことを繰り返しているわけです。それから
個人指導というものがある。
個人指導というのは、部屋の中をまっ暗にしておいて、そしてその一年生を呼んで、部屋に入ってくると、入りますと言って入ると、とたんみんなに袋だたきにさせられる。肋骨を折ったり、肩を脱臼したりする犠牲者が続出をしている。そしてこの一年間を耐えると、今度はなぐる側の二年生になる。二年生が一年生の鍛え方が甘いと、つまり焼きを入れる、びんたとかその他のリンチをやることについてやさしくやると、このやろう甘いぞと言って、さらに二年生が三年生から焼きを入れられる。さらにまたそれが、三年生に対して四年生が同じようなことをやるというように、あの
学校では一年はごみ、二年は奴隷、三年は人間、四年になって神さまだと、こういうように言われている。したがって、
朝鮮人高校生を襲うときも、主として二年生がその先頭に立たされる。そして四年生が総指揮官。暴力の使い方が足らない場合は直ちにリンチを受ける。こういうことになっていますから、どうしても敵前で奮闘せざるを得ない。こういう仕組みになっていますね。
こういうことをなくして、
学内の民主化をやろうという
運動が起きておるにもかかわらず、少数の
右翼学生はこれをはばもうとしておる。ことに許しがたいのは、チッソの総会で暴力団の一員として雇われて、そしてあのチッソの総会で公害病患者に対して暴力をふるう。これは
国士舘の
学生だと言われている。あるいはガードマンに雇われて、そのガードマンの先兵になっている。こういうように反動的な、
右翼的な、反民主的な行動をずっととってきているわけです。
講師には
賀屋興宣、
石原慎太郎、こういった
連中が講師に呼ばれている。これは勇ましい
右翼政治家ですからきっとすばらしい講演をやるでしょう。
体質的にこういうものがずっと反共を呼び、尊皇愛国の
精神を涵養している、こういうことになるわけです。
旧軍隊の憲兵がこの
学校には約五十人、高校に約十人おります。そして天長節には軍艦マーチが吹奏されて、赤いオープンカーに
舘長が乗って閲兵する。そうして、
学生が小銃がわりの一・五メートルの棒を肩にかついで分列行進をやる。ちょうど学徒の出陣と同じような情景が展開される。教授会は御前
会議と呼ばれる。この御前
会議というのは何ごとですか。そして、コの字型の机に教授がすわっていると、大元帥服にそっくりの服を着た
舘長がしずしずとあらわれる。こういう情景です。
この
学生はチッソだけでない、三里塚の応援にも行っている。それは農民の味方をするのではなしに、三里塚において公団側のガードマンとして暴力をふるっている。前の
舘長の柴田
舘長が死んだときには、
自民党の副総裁の椎名悦三郎氏が追悼文を読んでいる。その追悼文の一節は、柴田
精神で訓育されているような青年こそ最も
日本が望んでいる人材でなければならないと信じます、とある。驚くべきことです。葬儀
委員長は
石井光次郎さん。
昭和三十八年工学部の開校式には田中角榮氏その他の
諸君が参加をしております。
だから、
局長が
改善をしようとしても、こういう
うしろに大きな、目に見えないバックがあり、これが
大学の反動性をささえる大きな支柱になっているわけです。だから、君たちの
指導には限界があるということはわかる。それが実は
法律の限界でなく、
政治の限界なんですよ。こういうような反
憲法的な、反民主的な、反動的な、依然明治
憲法的なものが存在している、
憲法に反するような
教育をやっているのを、
文部省はどうにもなりません、それは
学校の自主性ですと言って、これからもほうっておくのですか。私はここで、もう
文部省は
調査をしてそのことはよく知っていると思うのですが、大体いつごろまでにはこういうふうにしますということを具体的に明らかにしてください。