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田上参考人 本日は、
刑事補償法の
改正につきまして、
政府案とそして
社会党の方が出されました
議員提出の
法案につきまして、簡単に、
考えておりますことを申し上げたいと存じます。
初めに、
憲法十七条と四十条の事柄でございますが、十七条は
国家賠償に関する
規定でありまして、四十条が本日の
刑事補償に関する
規定でございます。この二カ条は、ともに
法律の定めるところによって
刑事補償あるいは
国家賠償の
請求権を認めるという
規定でございまして、
法律によってどのような
内容、
権利になるかということがきまり、
憲法は直接には国会の
立法権にゆだねているのでございます。そういう
意味において、これは
立法政策によって決定されることであり、国会が
法律でおきめになれば、それに対しては
原則として
裁判所が
憲法違反とすることができない。私
ども法律学者としまして、この御
提出になっております
法律案につきまして、
憲法違反という答えはほとんど出す
余地がないのでございます。要するに
法案につきましては、適当かどうか、
立法政策的に見てその
程度の違いを論ずることができるのにすぎないのでございまして、こういう点は
治安立法であるとかその他の各種の多くの
法律案に見られるような、
人権侵害というふうな問題の
余地がほとんどないのでございます。
特にこの四十条の
刑事補償の
請求権は、
憲法学の通説によりましても、いわゆる
人権の保障の
規定ではない。これはそういう
人類普遍の原理というふうな明確な、超実証的な
性格を持つ
規定ではなくて、むしろそのときどき、国々の
憲法の
規定によって
国民に与えられた
権利である。こういうことでございまして、
基本権、
国民の
憲法上の
権利ではありますけれ
ども、その
内容について実定法を超越する普遍的な原理がないのでございます。
さらに、この点でやや比較して異なるのは、
憲法二十九条第三項の
補償でございます。
土地収用のような
私有財産を公共のために用いる場合には正当な
補償を要する。この場合は
法律にゆだねていないのでございますから、学界では異論がございますけれ
ども、
憲法上直接に
補償請求権が約束されている。ところがこの
刑事補償につきましてはそのような明確な結論が出せないのでございまして、大体は
法律によって決定されるというふうに
考えております。ただ、それならば
法律で
補償額を非常に少なくしてよろしいかあるいは極端にふやしてよろしいか、全く適当不適当という政策の問題であるかと申しますと、必ずしもそうはいえないのでございます。むろんこの
補償額を著しく減らすことは、
無罪の
判決を
言い渡しを受けた者にとって
かなり精神的あるいは財産的に
苦痛、
損失が残るわけでございますから、そういう
意味において
人権を
最大限度に尊重する今日の
憲法の精神に適しない。だが反対に、今度は
補償額を幾らでもふやしてよろしいかと申しますと、
過大補償、多過ぎる
補償という問題がございます。これはしばしば見落とされることでございますが、私
どもは
一般の
損失補償につきまして、たとえば用地の買収のような場合に早く金を出して、たくさん出して話をつけて工事を進めよう、こういうことが案外
関係当局のほうの気持ちの中に見受けられるのでございます。そういう
意味で、
補償額が極端につり上げられる危険がございます。そういう場合に私
どもがよく持ち出しますことは、
補償金というのは国の資産、財産であるけれ
ども、もとをただせば
国民の
税金に依存しておるものである。したがって、
国民の
税金を使う場合には有意義な効率的な使い方があるわけであって、必要以上に
税金を使うということは財政政策的ということになりますか、われわれで申しますと
民主主義の立場からいって好ましくない、こういうことから、この三十六、七年ころに
公共事業の
補償につきまして
補償の
一般的な基準をきめまして、これは閣議の決定になって実施されております。最近これをさらに検討する段階になっておりまして、建設省においてこの新しい
考えを入れて
補償額を手直しを
考えているのでございますが、そういうことを
考えますと、
刑事補償についても無論お
考えになっているように
物価指数、
生計費の指数とかそういうふうなものとスライドして数年前に改定されました
補償金額上限あるいは下限、こういうものにつきまして、さらに本年度、最近のそういう
経済情勢に応じて
相当程度に増額するということは当然でございます。私は本日、特に
法務省のほうから
政府案として出ておりますたとえば
上限を
拘束日数に応じまして一日千三百円を二千二百円に改めるとかあるいは
社会党の方の出されております
議員提出の案におきましても、これを
上限を三千円に、下限を一千円というふうに
改正する御案がありますが、こういう問題につきましては以上の
程度におきまして一応妥当であり、またいずれが特にまさっておるかということも必ずしも
法律学者として申し上げる特別な
意見はございません。いずれにしましても、極端に
補償額をふやすということも
考えられますが、それはやはり
限度がある、
立法政策と申しましても
限度があるということを申し上げたいのでございます。
そこで、もう少し立ち入りまして、特に
社会党の案のほうには、そのほかに非
拘束の
日数についても
補償すべきであるとかあるいは
刑事訴訟法の
改正によりまして
訴訟費用につきまして
かなり根本的な
考え方を出されておりますので、その点で
刑事補償の
性格につきまして二、三、時間の許す
範囲で申し上げまして、なお足りないところは御質問を受けましてお答え申し上げたいと思うのでございます。
まず第一に、根本の
考え方としまして、
補償と
賠償との比較でございます。先ほど申し上げました
憲法十七条は
公務員の
不法行為によって
損害を受けた者が国または
公共団体に対して
賠償の
請求をする
権利があるという
規定でございます。十七条のほうでは
不法行為による
損害賠償の
請求権、四十条はこれに反しまして
不法行為という
ことばを使っておりませんし、結局そうなりますと、
適法な
行為によって
損害を受けた者に対して
補償する。
補償という文字が出ております。そこにこの
性格、性質の違いがあるのではないか。これも
法律学ではほとんど
議論の
余地のない常識的な問題で恐縮でございますが、
賠償は
憲法の
規定によりましても
不法行為を
原因とする
損害に対するものでございまして、
不法行為が
民法と同じかどうかは、
憲法の解釈としては
議論の
余地はございます。必ずしも
民法の
不法行為の概念にとらわれないという見方もございますが、一応われわれが
不法行為と
考えますと、それは
原因となる
行為が違法なものである。そしてもう
一つが
故意、
過失という、つまり
加害者の側に
責任が問われるという、そういう
意味において反
社会性を持った
行為による
損害ということになるのでございます。そしてこの
不法行為の特色としては、
民法の
不法行為の通則的な
規定がございまして、これが
民法は私法でございますから、
公法関係の
不法行為に当然適用されるかどうかということは、これもまた
議論の
余地がございますが、一応
民法を
一般法として
考えますと、そういう普遍的な
原則がすでに
法律によって、
憲法ではございませんけれ
ども、明らかにされております。そこで
憲法十七条に基づいて
損害賠償の
規定を設けるといたしますと、どうしても
民法の適用を計算に入れなければならない。これが今日の
国家賠償法の第一条その他の
規定でございます。
かなり損害賠償の
内容は明確にされると思うのでございます。ところが四十条のほうは、
憲法は
補償というふうになっておりまして、これは私
ども必ずしも違法ではない、
適法行為による
損害だというふうには断定いたしませんけれ
ども、しかし少なくとも
請求をする側から申しますと、
訴訟におきましても
加害行為が違法であるということを主張し、立証する
責任はない。また
加害者の側に
故意または
過失があるということを主張し、立証する
責任もないということは明白でございます。客観的に違法である、あるいは
故意、
過失があるとしても、それは
訴訟の手続上これを主張し、立証する必要がないということにおいて、
損害賠償と著しく異なるのでございます。実際にもしばしばいわれますように、
国家賠償法の
規定によって
無罪の
判決を受けた者が国を相手に
被告として
故意、
過失あるいは
違法性を立証するということはきわめて困難であり、そういう
意味において、しかし
刑事補償の
請求ならば容易である、そのような
立証責任もございませんから、容易に
請求することができる。しかし言うまでもなく
刑事補償のほうでありますと、
法律によって
金額、特に
最高限、
上限がきまっておりますから、それ以上の
損害について
補償を
請求することはできない。
損害賠償であると、その点は実際の
被害に応じて
請求することができるのでありまして、その点もまた違っております。
さてかように見てまいりますと、もう
一つ申し上げたいのは、
刑事補償の場合には、
刑罰権の発動、しかもその発動は一応
訴訟法にのっとって
適法に行なわれる、
検察官が起訴する、あるいは捜査の段階におきましても、警察あるいは
検察当局において
訴訟法の
規定に従って
適法に捜査が行なわれる、その結果としてあるいは拘引なり勾留されることもある、しかし、拘引、勾留につきましては、御
承知のように、
裁判官が令状を発付するのでございます。そういう
意味において
裁判官の一応
責任範囲にも属するわけでございますが、少なくとも警察あるいは
検察当局の
行為については、客観的に違法であるという
責任を問うことのできるような
行為ではないのでありまして、その
意味で私は
損害賠償とは
かなり質の違ったものであると思うのでございます。もちろん、起訴されて
無罪の
判決があった者を
考えますと、まことにお気の毒であり、
無罪の
理由にもよりますが、ほんとうに犯罪が成立しない場合もございましょうし、その場合が特に問題でございますが、そのほか証拠不十分であって
無罪の
判決を言い渡される、この場合はやや事情が違ってまいります。が、いずれにいたしましても、そういう
損害をこうむった
原因としての
行為はまことに
適法なものでありまして、その
適法な
行為について、それを
損害賠償のような
考えで国に対して
損失の
補てんを
請求できるかというと、これは
かなり疑問があると思うのでございます。もちろん、
公務の
執行、
適法な職権を行なうことによって生じた
損害は、すべて
適法であるから
補償の必要なしというふうなことを申し上げるわけではございません。
一般に
公法学のほうの通説的なものによりますと、
公務の
執行、
検察官でありますと、公訴を提起するということから必然的に、特別な
注意を払ってもなお防ぐことの——当然生ずる
損失というものにつきましは、職務を
規定した根拠となる
法律の中に、すでに
関係者の
損害をこうむることが予想されている、つまり
損害をこうむる
被害の事実についても
法律がこれを容認しているということになりますから、この場合は私は
補償の必要がないと思うのでございます。しかし、
公務を
執行することにおきましても、ある
程度注意をすれば
損害の発生を
公務員の側で防ぐことができると思われるような場合、必ずその
公務の
執行から何らかの
損害が生ずるとは限らない、そういう場合におきましては、これは主観的に当局の
不法行為としての
責任を問うことではありませんけれ
ども、客観的に
被害者を救済する、救済という
ことばはちょっと悪うございますが、むろん
被害者の
権利として
損失の
補てんを
請求することを
法律で認める必要があろうかと思うのでございます。
問題は、起訴ということによって当然
有罪の
判決が期待できるのか、あるいは
無罪の
裁判に至るような場合には、あらかじめ
注意を払って起訴しないようにするということが可能であるかどうか、こういう点で
刑事補償を認めるかどうかという
範囲がきまってくると思うのでございます。
同じことは、
検祭官が一方的に上訴する場合の結果
無罪になったという場合について、あるいは上訴が棄却される、あるいは上訴の取り下げのような、
刑事訴訟法に
規定がございますが、こういう場合の
補償についても同じような判断を加えることができると思うのでございます。その場合に、むろん起訴された者は
無罪の
推定を受けるということが
一般にいわれております。特に旧
憲法時代の
訴訟法と違いまして、今日の
刑事訴訟におきましては、
被告人について
無罪の
推定ということは
かなり強く打ち出されているのでございますが、この点私は、だからといって
補償が必要ないとは思わないのでございまして、それは法的には一応
無罪として扱われるとしましても、少なくとも心理的に見ると起訴された者は非常に痛手でございまして、非常な
苦痛を味わう、あるいは不名誉という点もございましょうし、家族にとりましてもそういう精神的な
損害は無視することができない、つまり
法律的には
無罪の
推定があっても、事実上は起訴されると、犯人ではないか、逆に
有罪であるかのように
社会の人あるいは本人が受け取る
可能性がございます。そういう
意味で、
適法な
行為であるけれ
ども、結果として
無罪であったという場合には、その
損失を公平の
原則によって
補償する必要があると思うのでございます。
ただ、その場合に、もう少し公法的に申しますと、もう一度申し上げますが、
法律的に
通常公務の
執行に伴う予想される
損害、
無罪ということ、これはそういう
可能性も十分にあるのであって、起訴されましても
有罪か
無罪かということは最終的には
裁判官の判断によるのでございますから、あるいは客観的に見て
有罪であるとしても、それを
裁判官が
無罪にすることもあり得るし、逆に客観的に、これは問題でしょうけれ
ども、
無罪の場合を誤って
有罪と判断することもあり得るわけでございまして、
検察官がどのように
注意を払いましても、なお
判決の結果は簡単に予測できない。そういう
意味で、
有罪、
無罪両方の
可能性があるということを
考えますと、当然
無罪の
判決を受けた者に対して
補償をしなければならないという結論にはならないのでございます。
しかし、それは
一つの理屈でございまして、
憲法四十条では、一応明文の
規定で
抑留または
拘禁された後、
無罪の
裁判を受けたときには国の
補償しなければならないとございますから、
無罪の
判決に対しては一応
法律におきましても
補償の
請求権を与えるべきである。むろんこれも先ほど
立法政策ということを申し上げたので、必ず
法律でそのようにきめなければならないとは思いませんけれ
ども、
現行法のように、
無罪の
判決、
無罪の
理由が、あるいは
刑事の
責任能力がないという場合に、そういう
理由で
無罪の
裁判があった場合でありましても、一応
無罪となればそこで
補償の
請求権を認める、これが
憲法の精神でないかと思うのでございます。犯罪の証明が十分でない場合の
理由で
無罪となった場合でありましても
補償を認めるべきである。しかし、ややこまかいことになりますが、
刑事補償法などで、免訴の
言い渡しを受けた、
公訴棄却の
裁判があった場合に、さらに
法律では、
無罪の
裁判を本来は受けるべき十分な事由がある、かように認められる場合には、免訴だけでは
無罪かどうかわかりませんけれ
ども、その場合は
補償をする。しかし、もう
一つの、これまで御
議論になっているところでは、
付審判の
請求が却下される、不
起訴処分になるというふうな場合に、直ちに
無罪と同じように
考えて、
拘束期間、
日数に対して
補償をすべきかどうか、こういう点は若干疑問の
余地があると思いますが、現行は御
承知のように
法務省の訓令によってまかなっておりまして、これは今日の
法案でも特別に問題になってはいないようでございます。
しかし、もう
一つ申し上げますと、
抑留、
拘禁に対しまして、
法案によりますと、非
拘束の
日数についても
補償すべきであるということになっておりますが、
抑留、
拘禁ということは、いわゆる有形的な
損害であって、近ごろの公害などでよく
議論になりますニューサンスであるとかイミシオンというような無形の
損害とは
かなり違ったものである。ところで、非
拘束の
日数における
補償ということになりますと、これは有形の
損害とばかりはいえない。特に慰謝料的な、精神的な
苦痛に対する
補償になりますと、
かなり明確を欠くのでございまして、そういう
意味において
補償すべきかどうかについては、私は若干の疑問を持っております。
だいぶ言い落としましたが、時間が参りましたようですから、あとで御質問を受けましてお答え申し上げたいと思います。
以上でございます。