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1973-04-13 第71回国会 衆議院 法務委員会 第18号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十八年四月十三日(金曜日)     午前十時六分開議  出席委員    委員長 中垣 國男君    理事 大竹 太郎君 理事 小島 徹三君    理事 谷川 和穗君 理事 福永 健司君    理事 稲葉 誠一君 理事 横山 利秋君    理事 青柳 盛雄君       井出一太郎君    植木庚子郎君       住  栄作君    千葉 三郎君       早川  崇君    三池  信君       日野 吉夫君    正森 成二君       沖本 泰幸君    山田 太郎君  出席政府委員         法務大臣官房長 香川 保一君         法務省刑事局長 安原 美穂君  委員外出席者         参  考  人         (一橋大学名誉         教授)     田上 穰治君         参  考  人         (弁 護 士) 田邨 正義君         参  考  人         (作   家) 佐野  洋君         法務委員会調査         室長      松本 卓矣君     ————————————— 本日の会議に付した案件  刑事補償法の一部を改正する法律案内閣提出  第八二号)  刑事補償法及び刑事訴訟法の一部を改正する法  律案横山利秋君外六名提出衆法第二号)      ————◇—————
  2. 中垣國男

    中垣委員長 これより会議を開きます。  内閣提出刑事補償法の一部を改正する法律案及び横山利秋君外六名提出刑事補償法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律案の両案を議題といたします。  本日は、参考人として一橋大学名誉教授田上穰治君、弁護士田邨正義君、作家佐野洋君に御出席を願っております。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人各位には、御多用中のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。  当委員会におきましては、両案につき慎重な審議を行なっているのでありますが、参考人各位の御意見を承れますことは、当委員会の審査に多大の参考になることと思っております。何とぞ参考人各位には忌憚のない御意見をお述べいただくようお願いいたします。  それでは、まず参考人各位に十五分間程度意見をお述べいただき、その後委員の質疑にお答えいただくことをお願いいたします。  それでは、田上参考人にお願いいたします。
  3. 田上穰治

    田上参考人 本日は、刑事補償法改正につきまして、政府案とそして社会党の方が出されました議員提出法案につきまして、簡単に、考えておりますことを申し上げたいと存じます。  初めに、憲法十七条と四十条の事柄でございますが、十七条は国家賠償に関する規定でありまして、四十条が本日の刑事補償に関する規定でございます。この二カ条は、ともに法律の定めるところによって刑事補償あるいは国家賠償請求権を認めるという規定でございまして、法律によってどのような内容権利になるかということがきまり、憲法は直接には国会立法権にゆだねているのでございます。そういう意味において、これは立法政策によって決定されることであり、国会法律でおきめになれば、それに対しては原則として裁判所が憲法違反とすることができない。私ども法律学者としまして、この御提出になっております法律案につきまして、憲法違反という答えはほとんど出す余地がないのでございます。要するに法案につきましては、適当かどうか、立法政策的に見てその程度の違いを論ずることができるのにすぎないのでございまして、こういう点は治安立法であるとかその他の各種の多くの法律案に見られるような、人権侵害というふうな問題の余地がほとんどないのでございます。  特にこの四十条の刑事補償請求権は、憲法学の通説によりましても、いわゆる人権の保障の規定ではない。これはそういう人類普遍原理というふうな明確な、超実証的な性格を持つ規定ではなくて、むしろそのときどき、国々の憲法規定によって国民に与えられた権利である。こういうことでございまして、基本権国民憲法上の権利ではありますけれども、その内容について実定法を超越する普遍的な原理がないのでございます。  さらに、この点でやや比較して異なるのは、憲法二十九条第三項の補償でございます。土地収用のような私有財産公共のために用いる場合には正当な補償を要する。この場合は法律にゆだねていないのでございますから、学界では異論がございますけれども憲法上直接に補償請求権が約束されている。ところがこの刑事補償につきましてはそのような明確な結論が出せないのでございまして、大体は法律によって決定されるというふうに考えております。ただ、それならば法律補償額を非常に少なくしてよろしいかあるいは極端にふやしてよろしいか、全く適当不適当という政策の問題であるかと申しますと、必ずしもそうはいえないのでございます。むろんこの補償額を著しく減らすことは、無罪判決言い渡しを受けた者にとってかなり精神的あるいは財産的に苦痛損失が残るわけでございますから、そういう意味において人権最大限度に尊重する今日の憲法精神に適しない。だが反対に、今度は補償額を幾らでもふやしてよろしいかと申しますと、過大補償、多過ぎる補償という問題がございます。これはしばしば見落とされることでございますが、私ども一般損失補償につきまして、たとえば用地の買収のような場合に早く金を出して、たくさん出して話をつけて工事を進めよう、こういうことが案外関係当局のほうの気持ちの中に見受けられるのでございます。そういう意味で、補償額が極端につり上げられる危険がございます。そういう場合に私どもがよく持ち出しますことは、補償金というのは国の資産、財産であるけれども、もとをただせば国民税金に依存しておるものである。したがって、国民税金を使う場合には有意義な効率的な使い方があるわけであって、必要以上に税金を使うということは財政政策的ということになりますか、われわれで申しますと民主主義立場からいって好ましくない、こういうことから、この三十六、七年ころに公共事業補償につきまして補償一般的な基準をきめまして、これは閣議の決定になって実施されております。最近これをさらに検討する段階になっておりまして、建設省においてこの新しい考えを入れて補償額を手直しを考えているのでございますが、そういうことを考えますと、刑事補償についても無論お考えになっているように物価指数生計費指数とかそういうふうなものとスライドして数年前に改定されました補償金額上限あるいは下限、こういうものにつきまして、さらに本年度、最近のそういう経済情勢に応じて相当程度増額するということは当然でございます。私は本日、特に法務省のほうから政府案として出ておりますたとえば上限拘束日数に応じまして一日千三百円を二千二百円に改めるとかあるいは社会党の方の出されております議員提出の案におきましても、これを上限を三千円に、下限を一千円というふうに改正する御案がありますが、こういう問題につきましては以上の程度におきまして一応妥当であり、またいずれが特にまさっておるかということも必ずしも法律学者として申し上げる特別な意見はございません。いずれにしましても、極端に補償額をふやすということも考えられますが、それはやはり限度がある、立法政策と申しましても限度があるということを申し上げたいのでございます。  そこで、もう少し立ち入りまして、特に社会党の案のほうには、そのほかに非拘束日数についても補償すべきであるとかあるいは刑事訴訟法改正によりまして訴訟費用につきましてかなり根本的な考え方を出されておりますので、その点で刑事補償性格につきまして二、三、時間の許す範囲で申し上げまして、なお足りないところは御質問を受けましてお答え申し上げたいと思うのでございます。  まず第一に、根本の考え方としまして、補償賠償との比較でございます。先ほど申し上げました憲法十七条は公務員不法行為によって損害を受けた者が国または公共団体に対して賠償請求をする権利があるという規定でございます。十七条のほうでは不法行為による損害賠償請求権、四十条はこれに反しまして不法行為ということばを使っておりませんし、結局そうなりますと、適法行為によって損害を受けた者に対して補償する。補償という文字が出ております。そこにこの性格、性質の違いがあるのではないか。これも法律学ではほとんど議論余地のない常識的な問題で恐縮でございますが、賠償憲法規定によりましても不法行為原因とする損害に対するものでございまして、不法行為民法と同じかどうかは、憲法の解釈としては議論余地はございます。必ずしも民法不法行為の概念にとらわれないという見方もございますが、一応われわれが不法行為考えますと、それは原因となる行為が違法なものである。そしてもう一つ故意過失という、つまり加害者の側に責任が問われるという、そういう意味において反社会性を持った行為による損害ということになるのでございます。そしてこの不法行為の特色としては、民法不法行為の通則的な規定がございまして、これが民法は私法でございますから、公法関係不法行為に当然適用されるかどうかということは、これもまた議論余地がございますが、一応民法一般法として考えますと、そういう普遍的な原則がすでに法律によって、憲法ではございませんけれども、明らかにされております。そこで憲法十七条に基づいて損害賠償規定を設けるといたしますと、どうしても民法の適用を計算に入れなければならない。これが今日の国家賠償法の第一条その他の規定でございます。かなり損害賠償内容は明確にされると思うのでございます。ところが四十条のほうは、憲法補償というふうになっておりまして、これは私ども必ずしも違法ではない、適法行為による損害だというふうには断定いたしませんけれども、しかし少なくとも請求をする側から申しますと、訴訟におきましても加害行為が違法であるということを主張し、立証する責任はない。また加害者の側に故意または過失があるということを主張し、立証する責任もないということは明白でございます。客観的に違法である、あるいは故意過失があるとしても、それは訴訟の手続上これを主張し、立証する必要がないということにおいて、損害賠償と著しく異なるのでございます。実際にもしばしばいわれますように、国家賠償法規定によって無罪判決を受けた者が国を相手に被告として故意過失あるいは違法性を立証するということはきわめて困難であり、そういう意味において、しかし刑事補償請求ならば容易である、そのような立証責任もございませんから、容易に請求することができる。しかし言うまでもなく刑事補償のほうでありますと、法律によって金額、特に最高限上限がきまっておりますから、それ以上の損害について補償請求することはできない。損害賠償であると、その点は実際の被害に応じて請求することができるのでありまして、その点もまた違っております。  さてかように見てまいりますと、もう一つ申し上げたいのは、刑事補償の場合には、刑罰権発動、しかもその発動は一応訴訟法にのっとって適法に行なわれる、検察官起訴する、あるいは捜査段階におきましても、警察あるいは検察当局において訴訟法規定に従って適法捜査が行なわれる、その結果としてあるいは拘引なり勾留されることもある、しかし、拘引、勾留につきましては、御承知のように、裁判官が令状を発付するのでございます。そういう意味において裁判官の一応責任範囲にも属するわけでございますが、少なくとも警察あるいは検察当局行為については、客観的に違法であるという責任を問うことのできるような行為ではないのでありまして、その意味で私は損害賠償とはかなり質の違ったものであると思うのでございます。もちろん、起訴されて無罪判決があった者を考えますと、まことにお気の毒であり、無罪理由にもよりますが、ほんとうに犯罪が成立しない場合もございましょうし、その場合が特に問題でございますが、そのほか証拠不十分であって無罪判決を言い渡される、この場合はやや事情が違ってまいります。が、いずれにいたしましても、そういう損害をこうむった原因としての行為はまことに適法なものでありまして、その適法行為について、それを損害賠償のような考えで国に対して損失補てん請求できるかというと、これはかなり疑問があると思うのでございます。もちろん、公務執行適法な職権を行なうことによって生じた損害は、すべて適法であるから補償の必要なしというふうなことを申し上げるわけではございません。一般公法学のほうの通説的なものによりますと、公務執行検察官でありますと、公訴を提起するということから必然的に、特別な注意を払ってもなお防ぐことの——当然生ずる損失というものにつきましは、職務規定した根拠となる法律の中に、すでに関係者損害をこうむることが予想されている、つまり損害をこうむる被害の事実についても法律がこれを容認しているということになりますから、この場合は私は補償の必要がないと思うのでございます。しかし、公務執行することにおきましても、ある程度注意をすれば損害の発生を公務員の側で防ぐことができると思われるような場合、必ずその公務執行から何らかの損害が生ずるとは限らない、そういう場合におきましては、これは主観的に当局不法行為としての責任を問うことではありませんけれども、客観的に被害者を救済する、救済ということばはちょっと悪うございますが、むろん被害者権利として損失補てん請求することを法律で認める必要があろうかと思うのでございます。  問題は、起訴ということによって当然有罪判決が期待できるのか、あるいは無罪裁判に至るような場合には、あらかじめ注意を払って起訴しないようにするということが可能であるかどうか、こういう点で刑事補償を認めるかどうかという範囲がきまってくると思うのでございます。  同じことは、検祭官が一方的に上訴する場合の結果無罪になったという場合について、あるいは上訴が棄却される、あるいは上訴の取り下げのような、刑事訴訟法規定がございますが、こういう場合の補償についても同じような判断を加えることができると思うのでございます。その場合に、むろん起訴された者は無罪推定を受けるということが一般にいわれております。特に旧憲法時代訴訟法と違いまして、今日の刑事訴訟におきましては、被告人について無罪推定ということはかなり強く打ち出されているのでございますが、この点私は、だからといって補償が必要ないとは思わないのでございまして、それは法的には一応無罪として扱われるとしましても、少なくとも心理的に見ると起訴された者は非常に痛手でございまして、非常な苦痛を味わう、あるいは不名誉という点もございましょうし、家族にとりましてもそういう精神的な損害は無視することができない、つまり法律的には無罪推定があっても、事実上は起訴されると、犯人ではないか、逆に有罪であるかのように社会の人あるいは本人が受け取る可能性がございます。そういう意味で、適法行為であるけれども、結果として無罪であったという場合には、その損失を公平の原則によって補償する必要があると思うのでございます。  ただ、その場合に、もう少し公法的に申しますと、もう一度申し上げますが、法律的に通常公務執行に伴う予想される損害無罪ということ、これはそういう可能性も十分にあるのであって、起訴されましても有罪無罪かということは最終的には裁判官判断によるのでございますから、あるいは客観的に見て有罪であるとしても、それを裁判官無罪にすることもあり得るし、逆に客観的に、これは問題でしょうけれども無罪の場合を誤って有罪判断することもあり得るわけでございまして、検察官がどのように注意を払いましても、なお判決の結果は簡単に予測できない。そういう意味で、有罪無罪両方可能性があるということを考えますと、当然無罪判決を受けた者に対して補償をしなければならないという結論にはならないのでございます。  しかし、それは一つの理屈でございまして、憲法四十条では、一応明文の規定抑留または拘禁された後、無罪裁判を受けたときには国の補償しなければならないとございますから、無罪判決に対しては一応法律におきましても補償請求権を与えるべきである。むろんこれも先ほど立法政策ということを申し上げたので、必ず法律でそのようにきめなければならないとは思いませんけれども現行法のように、無罪判決無罪理由が、あるいは刑事責任能力がないという場合に、そういう理由無罪裁判があった場合でありましても、一応無罪となればそこで補償請求権を認める、これが憲法精神でないかと思うのでございます。犯罪の証明が十分でない場合の理由無罪となった場合でありましても補償を認めるべきである。しかし、ややこまかいことになりますが、刑事補償法などで、免訴言い渡しを受けた、公訴棄却裁判があった場合に、さらに法律では、無罪裁判を本来は受けるべき十分な事由がある、かように認められる場合には、免訴だけでは無罪かどうかわかりませんけれども、その場合は補償をする。しかし、もう一つの、これまで御議論になっているところでは、付審判請求が却下される、不起訴処分になるというふうな場合に、直ちに無罪と同じように考えて、拘束期間日数に対して補償をすべきかどうか、こういう点は若干疑問の余地があると思いますが、現行は御承知のように法務省の訓令によってまかなっておりまして、これは今日の法案でも特別に問題になってはいないようでございます。  しかし、もう一つ申し上げますと、抑留拘禁に対しまして、法案によりますと、非拘束日数についても補償すべきであるということになっておりますが、抑留拘禁ということは、いわゆる有形的な損害であって、近ごろの公害などでよく議論になりますニューサンスであるとかイミシオンというような無形の損害とはかなり違ったものである。ところで、非拘束日数における補償ということになりますと、これは有形の損害とばかりはいえない。特に慰謝料的な、精神的な苦痛に対する補償になりますと、かなり明確を欠くのでございまして、そういう意味において補償すべきかどうかについては、私は若干の疑問を持っております。  だいぶ言い落としましたが、時間が参りましたようですから、あとで御質問を受けましてお答え申し上げたいと思います。  以上でございます。
  4. 中垣國男

    中垣委員長 ありがとうございました。  次に、田邨参考人にお願いいたします。
  5. 田邨正義

    田邨参考人 私は、つい最近まで日本弁護士連合会調査室におりまして、同連合会意思決定に若干なりとも関与してまいりましたので、その立場から意見を述べさせていただきたいと思います。  まず、政府提案補償金額増額の点でございますが、もとより補償金額基準増額することには、基本的に異論はございません。ただし、具体的金額の点では、若干まだ不十分ではなかろうかと考えます。  御参考までに申し添えますと、自賠責保険では、すでに事故による休業補償最高限を一日当たり三千円という扱いにいたしております。さらに、死者の場合の保険金額を、現在五百万円でございますが、これを間もなく一千万円に引き上げるという案が関係方面目下検討中でございます。また、日本弁護士連合会といたしましても、近々一千万に増額の要望を出すという準備中でございます。  従来刑事補償金額の引き上げの経過を拝見いたしますと、あるいは偶然かもしれませんが、自賠責保険金額の増加と符節を合わせておられる傾向も見受けられるやに思われます。したがいまして、いま申し上げましたような点は十分御考慮あってしかるべきかと思います。  なお、日本弁護士連合会では、すでに昭和四十三年の改定の機会に、刑事補償金額を一日二千円以上、三千円以下とすることを要望していることを申し添えます。  次に、議員提出刑事補償法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律案についてでございますが、この法律案は、日本弁護士連合会昭和四十年十一月十三日の理事会におきまして決議をいたしまして、関係方面提出をいたしました改正案と趣旨において同一でございます。そこで、日本弁護士連合会において決議に至りました経過を簡単に申し述べておきたいと思います。  第一に、抑留または拘禁を受けなかった期間補償必要性の問題であります。  まず、刑事訴追を受けたことによります名誉、信用の失墜は、これは拘束、不拘束の別を問わず、全く同じでございます。法律上は、無罪推定があるとされておりますが、わが国の社会実情においては、決してそうではございません。地方の小都市あるいは農村部などでは、刑事訴追を受けたいというだけで、その郷里にいたたまれない、そして上京してくるというようなケースも往々にしてございます。また、御承知のように、新聞などでは、被疑者という扱いをされたとたんに一切報道において敬称をつけない取り扱いをしておるわけでございます。被告の座に置かれた者は、少なくともその間は社会的に葬り去られるというのが実情だと言って過言でないと存じます。  次に、経済的な損失という点でございますが、これも不拘束の場合でありましても、刑事訴追を受けることによる経済的打撃はきわめて大きいと申さなければなりません。少なくとも、公訴提起前、生業といいますか、まともな職業についていた者については、おそらく刑事訴追を受けることによりまして、その大半は職を追われているのではないかというふうに推則をされます。  また、職場そのものを失わないまでも、公務員あるいは公共企業体、主要な民間企業などでは、就業規則などに刑事休職規定を置いておりまして、刑事訴追を受ければ、自動的に休職扱いになる。日本弁護士連合会がこの改正案提出当時調査しました結果では、この休職の場合に全く無給扱いをするところもございます。大多数は給与を四割とか五割大幅に減額をする取り扱い一般でございます。つまり、拘束されていなければその間働いて収入を得られたはずであると言われるかもしれませんが、実情は決してそうではないのでございまして、多大の収入面の減少を味わっている被告が大多数であるということを申し上げておきたいと思います。  次に、収入が得られなくなるというだけではなくて、現実の裁判のための支出もかなりの額に達するのが通常でございます。刑事訴訟法で申します訴訟費用に含まれません各種の出費があるわけでございます。ことに無罪を主張して被告人の嫌疑を晴らすというためには、公判活動やその準備のためにたいへんな努力が要ることは、弁護士であればだれしもひとしく経験をいたしているところでございます。少なくとも証拠書類とか公判の記録を謄写をいたしまして、それを事前に詳細に検討を加えた上で公判に臨むというような作業が必ずついて回ります。こうした謄写とか調査費だけでも、実費だけで一つの事件が終わるまでに百万円近く要するケースというのも、今日では決してまれではないのでございます。  以上、申し述べましたように、拘束、不拘束の別なく、刑事訴追を受けたことによる被告人損害というものははかり知れないという事実につきましては、日本弁護士連合会に所属します弁護士が日常その職務を通じて痛切に感じているところでございます。したがいまして、不拘束期間に対しても補償すべき高度の必要性があるという点につきましては、連合会におきましてこの問題に関与いたしました理事者全員のひとしく一致した意見でございます。  補償必要性があるといたしまして、具体的に補償金額についてどういう決定方法をとるかということについては、連合会においても若干の議論がございました。しかしながら、やはり補償ということでありまして、必ずしも公務員の側の過失を前提としないという点を考慮いたしまして、並びに拘禁中の被告人に対する補償金額とのバランスなどを考慮いたしまして、おおむね拘禁中の被告人に対する補償の半額の範囲内で裁判所の裁量によって金額を定めるべきであろうという意見に落ちついたわけでございます。  無罪につきましても確かにいろいろなニュアンスの違いがあることは事実でございますが、これは裁判所が一切の事情を考慮して具体的な補償金額をきめるということによりまして、事案に即した妥当な解決がはかられる、過剰な補償を与えるというような懸念はないと考えております。  次に、刑事訴訟法の費用補償規定改正の点についてでございますが、民事訴訟におきましても訴訟費用は敗訴者負担が原則になっておりますのは御承知のとおりでございます。刑事訴訟におきましても、刑の言い渡しを受ける、つまり被告人側が敗訴をしたときは、当該事件の審理に要しました証人の旅費、日当、国選弁護人の報酬などは、国が立てかえました費用については被告人負担という判決裁判がなされるわけでございます。  逆に無罪になった場合、つまり国側が敗訴した場合には、そうだとすれば、本人が立てかえました費用、たとえば本人自身の旅費、日当、あるいは本人が依頼した場合の私選弁護人の費用などについて国側が負担するのが公平の原則上当然ではないかと考えられるわけでございます。刑訴三百六十八条以下が検察官上訴が、結果的に誤りであった場合において、上訴審に要した費用について補償規定を置いているわけでございますが、この考え方をもとにいたしますが、検察官公訴提起自体が誤りであったという場合には、公訴によって生じた全審級を通じての費用を国に負担せしめてしかるべきではないか、少なくとも公平上かかる措置をとるのが当然であろうというのが、日本弁護士連合会意見でございます。  なお、刑事補償請求の実際の運営なり実情を見てみますと、どうも年々出ます無罪人員に比較いたしまして、刑事補償請求をする件数が最近では四分の一、五分の一に近いように思われます。これもやはり非拘禁中の期間に対する補償がないために、補償金額が一件当たりきわめて微々たるものである。このために、手数倒れに終わることをおそれて刑事補償請求が少なくなっているのではないかというような懸念もございます。この刑事補償制度自体を実効あらしめるためにも、拘禁されていない期間に対する補償を考慮する必要がぜひあるというふうに考える次第でございます。
  6. 中垣國男

    中垣委員長 次に、佐野参考人にお願いいたします。
  7. 佐野洋

    佐野参考人 佐野でございます。  私は、御存じの方もあるかと思いますが、推理小説を書いておりますもので、法律の専門家でも、また法律を学んだものでもございません。たまたま私がある月刊雑誌に発表しましたものがどなたかのお目にとまりまして、意見を聞きたいということになったのだろうと思います。非常にしろうとの立場から、つまり一般国民立場から、この刑事補償の問題を、ちょっと考えているところをお話ししたいと思います。  推理小説におきまして、かなり昔の推理小説といいますのは、本職の探偵あるいは刑事、そういうものが出てくる形が多かった。それが最近では、やはり読者に喜ばれるのは、巻き込まれ型と申しまして、一般の人があるちょっとしたことから犯人に間違えられる、あるいはその家族、自分の肉親が犯人とされ、それの無罪を明らかにするために動くというような形のものが読者には喜ばれる、そういう傾向がございます。  これはどういうことかと申しますと、一般国民の中に、いつ自分が刑事事件に巻き込まれるかもしれない、あるいは自分の親類の者がそういう事件に何もないのに罪になるのじゃないか、そういうおそれというものを現在の社会においてはみんながかなり持っているのじゃないか。そういう立場から考えますと、この刑事補償の問題も、法律論以前に、一般の感情からも考えてみたいと思うのです。  そうした場合、ただいまの刑事補償規定と申しますのは、理論的には非常に合理的だともいえます。理論的にという意味は、つまり開かれた社会においてはこれでいい。私の言う開かれた社会というのは、先ほど両参考人の先生がおっしゃったように、刑事訴追を受けた者が原則として無罪推定を受ける、そういうことを全国民あるいは社会が完全に受け入れている社会においては、それだけ、つまり抑留された、自由を拘束された期間というものに対する補償だけで十分成り立つと思います。ところが、現代の社会においては、遺憾ながらそこまではいっていません。つまり、抑留抑留されないにかかわらず、両方とも刑事訴追を受けたということだけで、非常に社会から差別を受ける、具体的な被害も受けるという状態であるということは、一応言えると思います。そういう社会においては、抑留だけの期間補償するということがはたして妥当であるかどうか。そういう意味から申しますと、私は、起訴以後抑留期間以外についての補償ということも、やはり考えていただきたいと思います。  そしてまた、抑留期間だけの補償というようなこと、あるいは刑事補償の額が少ないような場合にはこれがかえって真実発見の障害になるということもあり得るのじゃないか。これは推理作家としての考えなんですけれども、たとえば十日間抑留されて裁判になりました。そうしまして、途中でほかの犯人が見つかりまして、検察官公訴を取り下げた。その場合、十日間の分について補償がされます。この場合には、犯人が発見されたということで新聞なども大きく書いてくれるでしょう。この場合は十日分の補償がされる。ところが逆に、今度は同じ十日間抑留されまして、そしてその人が一審で有罪判決を受け、二審でも有罪というような形になって、最後になって無罪が確定した場合、この場合もやはり同じ額だ。これはぼくなりに考えまして非常に不公平な感じがいたします。  それから、こういうこともあるのじゃないか。一審で、有罪でありますが執行猶予の判決を受けました。これで二審を争って無罪にして、はたしてどれだけの得になるかというふうに考えた場合に、何年かかって刑事補償を受けますその額と、いまここで、有罪ではあるけれども執行猶予をもらったから、ここのところでそれを承認してしまえというような、損得を考えた場合に、また自分の家族の生活を考えた場合に、あくまでがんばるよりも、ここで一応執行猶予でおとなしく引っ込んで、ほかの仕事でもさがしたほうが家族や子供のためにはいいのじゃないかというふうにしてあきらめる人もいるのじゃないか。こういうふうに考えますと、抑留期間だけで、あるいは刑事補償というものを純理論的だけでやっていって、はたしていいのか。むしろ、いつ自分たちが被疑者になるかもしれないという考えを持っている立場から考えますと、そういう分についても十分に補償されるのがほんとうではないか、そういうふうな気がいたします。  それから、これははっきり私は研究してないし、また聞いてもいないのですけれども、何でも未決の抑留期間というのを刑事補償法でいわれているのは、逮捕され、被疑者としていわゆる判事勾留されたり何かしている部分について含まれないという話をちょっと聞いたのですが、もしそうだとすれば、これは少し不合理で、これもやっぱり含むべきじゃないかというふうに考えております。  まとまりございませんでしたが、あとで御質問のときにでもまた私の考えを述べたいと思います。
  8. 中垣國男

    中垣委員長 これにて参考人意見の開陳は終わりました。     —————————————
  9. 中垣國男

    中垣委員長 引き続き質疑に入ります。  申し出がありますので、順次これを許します。大竹太郎君。
  10. 大竹太郎

    ○大竹委員 まず田上参考人にお伺いをいたしたいと思います。  この問題になっております刑事補償法は、憲法四十条の規定に基づくことは申し上げるまでもございませんが、一方、日本の憲法は十七条という規定を持っていることもまた御承知のとおりでございます。そういうようなところから考えてみまして、これは私不勉強で申しわけないのでありますが、外国のいわゆる先進国といわれておる国の憲法でも、国家賠償法刑事補償法の二つを憲法の中で分けて規定している憲法というものはごくまれだというふうに聞いておるわけでありますが、その点についての御見解をまずお聞きをいたしたい。  いま一つ、時間がございませんから、質問を全部一諸にさせていただきたいと思いますが、さっきちょっとお触れになりました被疑者補償規程の問題でありますが、憲法四十条というもののたてまえからいたしまして、被疑者補償規程というものは法律的な効果はないわけでありますので、これも利事補償法の中に取り入れて、憲法のたてまえからしてよろしいかどうか、この二つの点をお聞きいたしたいと思います。
  11. 田上穰治

    田上参考人 御指摘のように、第一点の外国の憲法は私も正確に調べてまいったわけではございませんが、非常に少ないというふうに聞いております。ただ先ほど申し上げましたことに関連いたしますが、四十条の刑事補償並びに十七条の国家賠償の根拠規定になるものはいずれも基本的人権の保障とは関係がないというのが憲法学のほうの通説でございまして、これは人類普遍原理であり、いかなる時代、いかなる国家においても本来認めらるべきものというのが人権考え方でございますが、過去においては、どうもそれは空想に近いかと思いますけれども、少なくとも将来においてはこれを人類から奪うことのできない権利であるというふうに普通人権を解釈しているのでございますが、そうではなくて、刑事補償請求国家賠償請求と同じようにかなり立法権によって左右される性質のものである。でありますから、かりに憲法改正して、この規定を削除してしまうと、これらの権利は消滅する。人権の保障の規定でありますとこれはいわば宣言的な規定でございますから、憲法改正によって規定を削除してもなお実体は残る、その意味改正ができないというのが普通の一般の学者の考えておるところでございます。  そういう意味におきまして、一々名前は申しませんけれども、ほとんど大多数の学者がそのように認めているのでございまして、その意味刑事補償国家賠償規定はその点で関連しておりますが、これは普通の法律をもってもその本質を変えることのできないような厳格な国民憲法上の権利とは考えられないということを申したいのでございます。お答えになるかどうかわかりませんが。  それからもう一点の被疑者補償の規程でございますが、これは確かに法務大臣の訓令でございますから、訓令は法的な、法規としての拘束力はない。でありますから、実際にはやや恩恵的な補償ということになると思うのでございまして、私もよく聞いておりませんけれども、不起訴処分になった者が補償を求める場合には、一応法務省に伺いを立てるというと変でございますが、法務省に申し出て、そして法務省のほうから、あなたは不起訴処分になったけれども、これはいわば証拠不十分であって、ほんとうは無罪ということでは必ずしもないけれども、一応起訴するに当たらないというふうな意味で処理したのだということになると補償が認められない。けれどもそうでなくて、本来この犯罪は成立しないのだという意味法務省の回答がありますと補償されるというようなことの扱いのように聞いておりますが、実例は非常に少ないそうでありますけれども。そういうことであれば私は、法律にするかしないかはもちろん国会のお考えできまることで、私がしてはならないというふうなことを申し上げるわけでございませんが、しかしもっと周知させる必要があるのではないか。そういの請求の件数が少ないといたしますと、近ごろは行政事件訴訟法でも教示の制度が入りましたように、不起訴処分になったときには検察当局のほうからそういう補償を申し出ることが可能であるという手続について教えてやるというくらいのことはしないと徹底しない、せっかくの親切というか、そういう制度が活用されないうらみがございますので、そういう点では当局のほうにひとつ将来はそういう意味において告知というか、あるいは教示のようなことを考えていただいたらどうか、かように考えております。  以上でございます。
  12. 大竹太郎

    ○大竹委員 次に田邨参考人にお聞きいたしたいのでありますが、先ほど、不拘束の場合にも損害があるし、それをある程度賠償すべきであるという御意見ごもっともだと拝聴いたしたわけでございますが、弁護士さんの立場として、そのほかにもいわゆる国家の行為によって相当の損害を受ける場合があるわけでありますが、そういう面について弁護士会として御討論、御研究になったことがありますか。ありましたらひとつお聞かせいただきたいと思います。
  13. 田邨正義

    田邨参考人 刑事補償以外の、おそらく収用その他を除きました補償の問題という御趣旨だと思いますが、私の記憶では、日本弁護士連合会におきまして、その他の分野について、特に国側の過失なしに補償を認めるべきであるということで改正案等につきまして検討を加えました具体的な事例についてはいま直ちには思い浮かばないわけでございます。ただ刑事補償と若干関連いたしますが、これは有罪無罪とは別に、たとえば違法な押収、差し押え、捜索、このような手続がとられた場合に、これに対する補償はやはり当然考えるべきではないかということが、この刑事補償法改正案につきまして検討した機会に意見が出ております。さらに国家賠償法そのものにつきまして無過失責任にすべきだという意見は、日本弁護士連合会の内部でも決してないわけではございません。ただ、現在のところは公の営造物等の瑕疵に基づく損害につきまして無過失責任規定されておりますので、さらにそれを越えてということになりますと具体的な結論等は出ておりません。
  14. 大竹太郎

    ○大竹委員 次に、佐野参考人にお聞きしたいのでありますが、推理小説の作家としての刑事事件に関してだけの御意見をお伺いしたいのでありますが、いま田邨参考人にお聞きいたしましたと同様、国家の行為によりまして、国民としてほかにも被害を受ける場合も相当あると私は思うのでありますが、そういう場合もやはり国家としては賠償すべきである、もちろん故意過失がない場合においてもやる責任がある、やったほうがいいというふうにお考えになりますか。
  15. 佐野洋

    佐野参考人 私先ほども申しましたように、被害者立場から申し上げますと、たとえば私がある週刊誌に連載をいたしております、そのときに警察側につかまりあるいは刑事訴追を受けるようなことになります、そうしますと当然編集部のほうでは、抑留中はもちろん書けませんし、それが終わって保釈になりましても、とにかくそれじゃこの刑事事件がはっきりするまではということで、連載はおそらく打ち切りになると思いますし、私のほうでも辞退するというふうな形になるのじゃないかと思います。それでその刑が無罪になりました、この場合に、あとずっとはたして書けるかどうかわかりませんし、こういった場合に受けた損害というものは非常にたいへんなものだと思うのですけれども、そういう意味におきまして私横山先生ほかの御提出になった、内閣案に比べてやはり高い補償をうたっていらっしゃいますけれども上限はあるいはここに制限しなくてもいいのじゃないか。それは裁判長の判断にまかすこともできるのじゃないかというふうに考えております。  それから、その場合国家の過失あるいは国家の重大なる過失あるいは故意がなかった場合、これについてもそれではどこがあれするのか。それは当然出版社との民事の問題になるかもしれませんけれども、そういうふうなことを考えました場合に、国のほうでも過失がないからといって黙っているというのは感情としてやはりおかしいのではないかという、非常に感情論で申しわけございませんけれども、やはりこれは公害が無過失でも補償しなければならないと同じように、無過失でも補償していただきたいというふうに考えております。
  16. 大竹太郎

    ○大竹委員 そうするとこの憲法十七条の国家賠償規定、いわゆる十七条は故意または過失による損害について賠償するということになっておりますが、これを故意過失を取ってしまって無過失にするべきだという御意見とお伺いしてよろしゅうございますか。
  17. 佐野洋

    佐野参考人 無過失という場合の過失考え方にもよるのですけれども、重大なる過失でなく何らかの形の意味過失があった。あるからこそそういうことになったんじゃないかというふうに見た場合にはやはり過失があったとも解釈できるのではないか。完全なる無過失、その辺が私法律的に、無過失という場合と重大なる過失がないという場合の区別がちょっとつきかねるのですけれども。そのくらいの含みにおいて無過失でもというお答えでございます。
  18. 大竹太郎

    ○大竹委員 終わります。
  19. 田邨正義

    田邨参考人 ちょっと大竹委員の御質問に答え足りなかった点があるので……。  日弁連で無過失賠償責任との関係につきましても若干議論をいたしましたので、それを若干答えにつけ加えさせていただきたいと思いますが、そもそも刑事補償法そのものが一種の無過矢賠償といいますか、あるいは補償というのが正しいかは別といたしまして、国家機関の側に過失がなくても補償をするというたてまえをとっているわけでございます。したがいまして、日本弁護士連合会考え方としましても、問題はすでに憲法なりあるいは現行法によりまして無過失にもかかわらず、補償するという考え方は樹立されておる。問題はその補償範囲をどこまで広げるべきかという観点から問題を検討すべきだと考えたわけでございます。それが一つでございます。  それから、世界各国の憲法を見ましても、これは全部調べたわけではございませんが、わが国の憲法四十条のような規定を持っているところはまずないか、あったとしてもきわめて少ないと存じます。しかしながら、憲法には規定がなくても、わが国の刑事補償法と同様の法律を持っている国は先進諸国の中できわめて多いわけでございます。その意味でやはり国家権力の行使の最も極限にあるものとしての司法権の行使が誤った場合については過失の有無を問わず一定の補償考えるのが当然であるというような考え方が世界的なレベルにおいても確立をされているというふうに考えてよろしかろうというのが私ども結論であったわけでございます。
  20. 大竹太郎

    ○大竹委員 いまのお答えについて簡単に再質問させていただきます。  いま外国でも憲法にはなくともいわゆる国家賠償規定を持っている先進国が多いというお話でありますが、その中で不拘束でもいわゆる賠償をしている法制を持っている国がございましたらひとつ教えていただきたいと思います。
  21. 田邨正義

    田邨参考人 これは七、八年前に調べましたことでございますので、今日の時点において正確であるかどうかは留保いたしますが、私の記憶いたしますところでは、フランスにおきましては再審で無罪になったケースにつきましては、不拘禁の場合でも補償がなし得るように読めます規定が少なくとも存在はいたしております。その他の地域につきましては不拘束の場合について補償する明示の規定を設けているところは私どもの調査では見当たらなかったと思います。
  22. 中垣國男

    中垣委員長 次に横山利秋君。
  23. 横山利秋

    横山委員 三人の参考人の皆さんには御苦労さまです。私が横山でございまして、法案提起者でございます。よろしくお願いしたいと思います。  私は実は弁護士でもございませんし、専門家でもございませんので、たいへんしろうとじみた考えでありますが、佐野さんの御提起なさいました一つの例、たとえば、拘束はA、Bとも十日であった。しかしAさんは一審ですぐ無罪になった。Bさんは一審、二審で有罪で最高裁で、無罪になった、こういう提起をなさいました。それで補償が一緒ではどうしても割り切れないではないかという問題提起につきまして、田上先生はどうお考えでございましょうか。
  24. 田上穰治

    田上参考人 私は、いまの具体的な御質問に対しましては、確かにBさんといいますか、最高裁判所で無罪になったその被告人につきまして、補償がAと同じであるということは、少しバランスがとれないような感じもするのでございますが、しかし結論は、非常にむずかしくなりますけれども、初めに具体的には、だから金額どうこうということもございますが、私の補償についての見方を若干先ほど申し上げたわけでございまして、一つは、精神的な損害という、苦痛ということが、——だけではございませんでしょうが、非常に裁判官の裁量によって補償額をきめるということになると、非常に主観が入ってきめにくいのではないかという点が一つございます。しかし、そのことよりもむしろ刑事補償というものが、たとえば公害なんかについて言われますように、被害者の生活を保障するというふうなそういう意味社会国家的な原理、これは現在の憲法の重要なものとされておりますが、そのことと結びつくのではないというふうに考えているのでございます。つまり憲法二十五条の生存権であるとか、あるいは労働者の基本権、二十八条とか二十七条のようなものでありますと、おわかりのように資本主義経済を修正するという意味におきまして、特に使用者ではなく、労働者のほう、いわゆる経済的に弱いほうの国民を特に憲法は保護していくという原理を新しく打ち出しているのでございます。これは社会権の規定という、あるいは生存権的基本権というふうに申しますが、ただこの刑事補償請求権憲法四十条はそれとは種類が違いまして、普通の意味の従来から認められている。つまり国民の経済的な格差を計算に入れないで、富める者も、貧しい者もひとしく適用される条文、権利というふうに種類分けをしているのでございます。ほかにはいまの国家賠償請求権もありましょうし、あるいは種類が違いますが、請願権とか裁判を受ける権利のようなものも、みな積極的に国家の作為あるいは給付を請求する権利ということでありまして、しかもそれは特に弱者の階級、比較的経済的に恵まれない者のための、保護するという社会国家の原理とは一応切り離しているのでございます。そういう意味で公害の訴訟なんかでは、将来の生活を保障せよというふうな、そういう生活保障という考え方が次第に出てきておりますが、それはやや刑事補償の場合とは違うのではないかということを、先ほど不完全でございますが申し上げました。そういうことでありますから、多々ますます弁ずというか、補償は手厚いほどよろしいという考え方が一方でございますし、むろん、これは先ほどの立法政策でございますから、国会法律でおきめになれば私は決して反対ではございませんけれども、しかしその立法がさて憲法上妥当であるかどうか——違憲ということはちょっと考えられませんが、適当か不適当かという問題になりますと、憲法の保障した権利の種類によりまして相当な違いが出てくるのではないか。いまの生活の保障というふうな考え方は、むろんこれも一家の働き手である人が長く拘束されまして、あるいは拘束されないでも起訴によって非常な不利益を受け、あるいは先ほども佐野参考人がおっしゃったように職業を放棄しなければならないようなことも考えられます。あるいはつとめのある者は休職になると収入が減ってしまう。そういうことにおいて生活を保障せよというような考え方もあると思いますが、刑事補償の場合にはそこまでは考えていないのでございます。しかし、これもそのことから直ちにそこまで補償することが憲法違反という意味ではございません。  なお、もう一言申させていただきますと、これは先ほどお話の途中にあったようでございますが、横山議員の御提出になりました法案でありますと、民事訴訟の場合の原告が敗訴に終わった、つまり被告人無罪になるということは被告が勝ったのと同じだというふうに見ますと、その敗訴になった原告のほうが訴訟費用を負担するという考え方も確かにあると思うのでございますが、これなんかも、刑事訴訟というものと民事訴訟との性格が幾ぶん違っている。刑事訴訟の場合には、ほんとうに実質的な訴訟というか、権利義務の争いではなくて、形式的に、手続上裁判官判断を正確にするために検事と裁判官とを区別して対立させているというふうに考えますと、実質的な訴訟ではなく形式的な訴訟という意味において、つまり普通の意味の当事者としての民事訴訟の場合と、刑事訴訟の場合の国家とかあるいは検察官によって代表される国家というものの地位はかなり違っているのではないか。公益と私益という区別をしてもよろしいと思いますが、民事の当事者の場合と若干違うということもございます。  あとは、ちょっと御質問範囲外になりましたのでこの程度にして、また御意見を伺いましてお答えしたいと思います。
  25. 横山利秋

    横山委員 お断わりいたしましたように、私はほんとうに法律の専門家でもございませんので、庶民にわかりやすく簡単にお答えを願いたいのであります。  要するに、A、Bさんとも十日の勾留を受けた、Aさんが一審で無罪、Bさんが一審、二審で有罪、最高裁で無罪になった、それにもかかわらず補償は両方とも十日分というのはおかしいじゃないかという私の質問なんでありますが、先生のお話を速記録で十分に読ませていただきますけれども、いまうかがい知るところでは庶民的にはなかなか納得できない、すなおに頭に入っていかない論理ではなかろうか、そう思います。  もう一つお尋ねしますが、おまえはどろぼうだ、おまえは人殺しだと新聞やテレビで騒がれて、そして裁判無罪になった。その被告人裁判の費用を払えと国がいうのは私はどうにも納得できないのでございますが、この点は庶民的にどういうふうに説明したらよろしゅうございましょうか。
  26. 田上穰治

    田上参考人 私がそれをうっかり申してしまいましたのでたいへん失礼になったと思いますが、私が先ほど申し上げましたように、民事訴訟の場合でありますと、原告が勝てば被告訴訟費用を負担する、被告が勝つといいますか、原告が敗訴になれば今度は原告のほうで訴訟費用を負担するという形のものがございます。  これを刑事訴訟のほうに当てはめてみますと、確かに無罪になったということは国、検察官側が負けたということでありまして、そういう意味では、検察官が、起訴したほうが原告だといたしますと、原告が負けたのだから原告が訴訟費用を持つべきであるということになりまして、それがただいまの御質問のお気持ちというか理由だろうと思うのでございます。しかし、先ほど申し上げたように、私は明快にそれが正しいとか正しくないとかという答えはちょっと申し上げられないのでございますが、一応刑事訴訟と民事訴訟との比較をいたしますと、刑事訴訟の場合の当事者である検察官というのは国を代表する者であって、公益を代表する者である。そうなりますと、負けるとかあるいは有罪でなかったということの意味が、普通の訴訟で負けたのとはやや違うのではないか。と申しますのは、結局令状の問題でも、被疑者犯罪の嫌疑がかりに五〇%である、しかしまた犯人でないと思われるような節も五〇%ある、こういう場合に起訴すべきかどうか、あるいは四分六分の場合にどうかというふうに考えてまいりますと、実務は私もよく存じませんが、九〇%黒であるというところまでくれば常識的に見て起訴は当然だというふうな感じもするのでございます。しかしこの判断が非常にむずかしいので、検察官のほうで有罪であると、八〇%あるいはそれ以上の証拠が十分だと考えましても、しかし裁判無罪になるかもしれない。こういう心配を考えますと起訴に踏み切れない。  ところが一般国民立場から見ますと、御質問もございましたが微妙でございまして、おそるべき犯罪のようなものが発生いたしますと、すみやかに犯人を検挙し処罰してもらいたいという気持ちも一方でございます。むろんそれが犯人でない者をつかまえて罰したらたいへんなことでございますが、しかし犯人がいつまでも出ないということは非常に不安であり、犯罪の性質にもよりますが、いわゆるまくらを高くして一般庶民は夜休むことができないという場合もあり得ると思うのでございます。  そういう場合に、どの程度まで黒であるということになったら起訴できるか非常にむずかしいわけでございまして、逮捕のような場合でありますと普通ならば裁判官の令状によってきめる、起訴裁判官にそこまで確かめないで踏み切るのでございますが、そういう意味裁判官が令状を出せば当然逮捕できるし、そしていかに警察なり検察当局が黒であると考えても、令状を出さなければ逮捕できない。大体憲法一つの答えは裁判官によってきめてもらうということ、つまり逮捕される者の不利益を考えてできるだけ逮捕すべきでない、身柄を拘束すべきでないという原理が一方であり、他方では、しかしほんとうに罰すべき者はすみやかに罰しなければならないという逆の原理もございます。これは被害者の個人的な感情ではなくて、一般社会の秩序を維持するという上から申しまして、すみやかにほんとうの犯人を見つけ出して逮捕し罰すべきである。この両方の矛盾した原理を調整し具体的にきめるのは、結局裁判官の良識、判断憲法は持ち出しまして、それによって解決をする。  ところが、逮捕あるいは家宅捜索などの場合については令状ということになりますが、起訴の場合には、それは裁判官判断ではなくてもっぱら検察当局判断によって起訴、不起訴決定される。こうなりますと、もちろん常識的に検察官はできるだけ慎重な態度をとるべきであり、いまの五分五分というような場合にはもちろん起訴すべきでないと私は考えるのでございますが、いかしそういう意味において検察官有罪だと信じて起訴いたしましても結果が無罪になることもある。その無罪もまた、第一審の裁判官有罪であると良心的に考え判決をしたと思いますが、それが実は上級審においてくつがえされるということもあり得るわけでございます。それによって御指摘のように被告人の非常な損失というか苦痛程度も違ってくる。そういうことで私は一方ではむろんそれを補償すべきだという御意見もごもっともだと思うのでございますが、しかしまた、反対に補償しなければならないということにも受け取れないのでございまして、そういう意味でまあ不幸なことでありますが、われわれはそういう公の権力からこうむる危険をある程度は忍ばなければならないという気がするのでございます。権力には、常にそういう権力の行使に伴って人民の側には何らかの権利侵害、損失が伴うのであって、たとえば検察官刑事訴追のみならず一般警察権あるいは課税権のようなものを考えますと、必ずそこに警察権ならば人身の自由の拘束あるいは課税権ならば財産権の侵害ということが出てくるわけでございます。ですからよほど慎重にいたしませんともろ刃の剣であって、そういう意味で人民のほうでは損害をこうむることをある程度覚悟しなければならぬ。しかし問題は、どこまでが忍ぶべきであるか、受忍の限度というところが問題でございまして、受忍の限度を越えれば、抽象的に申しまして補償しなければならないという結論になるのでございますが、その受忍の限度を判定する場合に、いま御指摘の場合は生活とかということではなくて、期間が長い、拘束されている期間は同じであっても非拘束期間が長いという御趣旨であろうと思います、そういうことが受忍の限度を越えて補償すべきかどうかということは、結局一つ裁判官の裁量というか、法案でありますと結局は法律をつくる国会の立法上の裁量という問題になると思いますが、私はそういう意味において、繰り返し申しますが、明快な答え、違憲とか合憲という答えは出せませんけれども、しかしどちらが法律として、立法政策として適当であるかという意味において申しますと、憲法は生活の保障までは刑事補償については考えていない、こう思うのでございます。  それからまた刑事の場合には民事訴訟とやや違って、国という検察官によって代表される当事者が負けたとしましても、民事の原告なり被告が負けて訴訟費用を当然に負担するという議論とはやや違ったものがあるんではないか。これも程度問題でございますが……。そしてまたいまの裁判官判断は、そういうあいまいな問題については、憲法はきめ手になる令状の規定で認めておるんですが、起訴、不起訴の場合についてはその令状主義をむろん使えないわけでございますから、そうなると勢い検察官のほうでそこまで責任をとることができないと、当然理論的に国が補償すべきであるという結論にはならない。しかしそういう結論にならなくても法律でおきめになることに対しては私は異論を唱えておるわけではございません。法案が二つ出てどちらが適当かという話になると、そこまで補償しなくても当面はよろしいんではないかという意見でございます。
  27. 横山利秋

    横山委員 ありがとうございました。  先生とはだいぶ私意見が違うのでございますけれども、時間がございませんので次の質問に移りたいと思います。  田邨さんにお伺いをいたします。先ほど被疑者補償規程の問題でちょっと質疑が行なわれました。この委員会に出ておりますのは刑事訴訟法刑事補償法なんでありますが、先ほど田上さんから御意見がございましたように、被疑者補償規程というのは恩恵的なものである。しかも警察官が被疑者に対してそれを告知しておるかどうかもはっきりしない。そして実績もきわめて少ない。ほんとうに少ないのです。これは告知をする義務、つまり法律に基づいて行なうべきである。国民税金が、おまわりさんが適当に、おまえは人殺しだ、おまえは火つけだというて引っぱっておいて、ああ白だった、さようなら、おまえにちょっと銭やるというようなかってな自由裁量は許されない、こう私は思うのでありますが、もし田邨さんがこの種の問題について御体験がありましたならばその御体験を含めて被疑者補償規程の本来あるべき姿について御意見を伺いたいと思います。
  28. 田邨正義

    田邨参考人 私が具体的に体験しておりますのは、被疑者が不起訴ということで公訴提起なり略式起訴なりを受けないで終わるケースというのは幾つも経験をしたわけでございます。その場合に、不起訴になったということはおおむねわかるわけでございますが、さらにその不起訴理由が単なる起訴猶予であるのか嫌疑不十分であるのかということになりますと、検察官のほうから進んで被疑者なり弁護人に告知をしてくださることは私の経験ではまずございません。こちらから問い合わせた場合には起訴猶予であるというようなお答えをいただくことはございますけれども、積極的にその内容区分を検察官からおっしゃっていただいたことはないわけでございます。で、被疑者補償規程の場合でございますと、嫌疑不十分、まあ裁判でいえば証拠不十分という場合でないと適用がないということになりますが、これがはたして、特に弁護人などが捜査段階でついてない被疑者に対して、あなたは嫌疑不十分で不起訴になったのだということを検察官のほうから積極的におっしゃっていただいているかどうかということになりますとたいへん疑問を持っているわけでございます。その点、法律上の義務づけその他の処置によりまして必ずその結論内容の告知を義務づけて、さらに補償の手続について教示するような明確な義務づけ規定を置かれることが望ましいというふうには考えている次第でございます。
  29. 横山利秋

    横山委員 佐野さんに伺います。  私、たまたまこの「オール読物」を汽車の中で買いまして、佐野さんの「有罪無罪の間」という「読ませる話」をずっと熟読いたしまして、まことに本委員会の審議についてタイムリーなものだと、私みんな万年筆で佐野さんがお書きになったところをチェックをしたわけでありますが、この中で同僚諸君にもひとつあなたのお考えを聞いてもらいたいと思いますのは、こういうことが書いてあります。「そのときに、日本の刑事訴訟法というのは非常に立派なものだと思いましたね。少なくとも、条文自体は、被疑者なり、被告人権を守ることに関して、非常に行き届いているんですね、裁判の手続きでも物的証拠がない限り、有罪にできないようになっているわけだし、逮捕などいわゆる強制捜査も、令状がなければできないとか、非常に制限が加えられ、人権が守られるようになっている。それは事実なのです。しかし、条文は、そんなに立派でも、実際にはそれがその通り行なわれていないということも、そのころ知ったのでした。」ということばがございます。以下その例示が出ておるのでありますけれども、もう少し簡潔に、恐縮でございますが、なぜそういうことをお考えになったのか、御体験になったのか。新聞記者時代の御体験のようでありますけれども、御体験をひとつなまでお伺いをいたしたい。
  30. 佐野洋

    佐野参考人 ただいまおほめをいただきまして恐縮でございます。ただ、私きょうここに参りますのに刑事補償の問題だと申しますので、当時のメモなど持ってきておりませんので、具体的なあれがどの程度申し上げられるかちょっと疑問なんでございますが、たとえばいま刑事訴訟法というものの運用において、非常に人権無視、あるいはこれでほんとうに刑事訴訟法精神が生かされているのかと思うような一つの例として思い浮かべたのがございます。それは、当時私北海道の記者をやっておりましたけれども、ある事件で被疑者が逮捕されまして、二十日間のいわゆる判事勾留というのも終わりましてどうなるかと思いましたら、きょう釈放されるというので、釈放されるところをぼくらは待っていたわけです。そのお父さんが長野県にいて、長野県から釈放されるというので、お父さんが着物などを持って拘置所の門のところで待っていました。そうしたら、やがて被疑者が釈放されまして、その門を出たのです。そうしたら、お父さんから荷物をもらう直前になったら、別の容疑で逮捕された。いわゆる再逮捕というものがありました。こういうふうに、ある事件を調べるために別件で逮捕して、その別件逮捕のときに、別件についてはほとんど形式的に聞くだけで、ほかの事件についてどんどん質問していく。それで、二十日の勾留期間でも調べがつかない。しようがないから、法律上のあれによって釈放する。しかしもう一つ小さい別件をもってきて、また別件逮捕する、こういうことが実際に行なわれておりました。本来別件でそういう逮捕するぐらいのものがあるならば、その二十日間においてもそれをやればいいわけです。それもやらずに、ちゃんときめられた二十日間の期限を何回か延長していくという形が現実に行なわれていたわけでございまして、こういうのはやはり運用が刑事訴訟法精神に合っていないのではないかというふうに思わざるを得なかった。あまり長くなるといけせまんので、一応この程度でよろしゅうございましょうか。
  31. 横山利秋

    横山委員 もう一つ佐野さんにお伺いしますけれども、最後に取り上げていらっしゃる愛知県の風天会事件、私も愛知県でございますので、当時記憶になまなましいことでありますが、警察署で警察官が殺された。それで風天会の構成員たちが追及をされて、それが自白をした。そして警察は一応解決したというわけであったが、凶器を捨てたところに、しゅんせつ船やしゅんせつ機をもって刑事たちがどろやヘドロにまみれてたいへんな作業をして、テレビも——私もそのテレビを見たのですけれども、凶器が発見されなかった。そして一カ月以上たって捜査が打ち切りになってしまい、凶器がないままに起訴しようと思ったら、真犯人が、十七歳の少年が名乗り出たということにつきましては、愛知県の警察本部長も私のところへ参りまして、たいへん申しわけない、疑うに足る十分な理由があったんだ、けれども結局はシロはシロであってたいへん申しわけない、こういう釈明をしたのであります。しかしこの問題は、愛知県の警察本部としてはもう全くミスもミス、たいへんなマイナスでありました。佐野さんがこの風天会事件をお取り上げになりまして、いろいろと書いていらしゃいますけれども、風天会事件を考えてみて、警察故意であったかということになりますと、私は必ずしもそうではないと思うのでありますけれども、要するに、警察官が警察署で殺された、社会からごうごうたる非難が出る、したがって警察としては全力をあげて自分の職にかけて、あるいはまたそのメンツにかられてあらゆる努力をする、それがそういう結果になったんだ。先ほど田上さんは社会的なそういう世論というものに対する立場ということも考えて、国民は受忍義務があるのだ。その受忍の限界を越えてはいけないけれども、ある程度受忍義務があるのだという説をなされたわけでありますけれども、この風天会事件を考えてみて、佐野さんはいわゆる受忍義務とかいうことについてどうお考えでございましょう。
  32. 佐野洋

    佐野参考人 私、先ほど受忍義務があるという田上先生のお説を聞きまして、初めてそういうものがあるのかというふうに感じたわけでございます。そうしますと、考えてみると確かにある程度の受忍義務というのはあるのかもしれない。少なくとも現実にはそういうものを感じながら生活していたらしいなということをちょっと感じたわけでございます。ただ、風天会の事件につきましては、警察の調べ方あるいはそういうものについて警察の調書のつくられる段階までも知りませんので、はたしてそちらに過失があったかどうかわかりませんですけれども、彼らが逃げたとかそういう面で疑うに足る十分な理由があったと言われてしまえばそれまでで、そのときにやはり彼らに受忍義務があったかどうかちょっと判断しかねるのであります。  ただ、要するに犯罪学のほうには被害者学というのがありまして、被害者になるにはやはり被害者になる要素があるというようなことがございます。そうしますと、今度は被疑者学みたいなものがありまして、被疑者になるにはやはり被疑者になるような者がいるんじゃないか。そういうふうになってきますと、たとえば私もあるとき警察にポン引きと間違えられたことがございまして、そういうふうにそういう面から被疑者的な立場からものを考えるほうなんでございますが、やはり受忍義務というふうに言われてしまうと割り切れないという感じでございます。
  33. 横山利秋

    横山委員 私も卒直に申しますと、田上先生がたいへん重要な問題提起をされた。いまおまえは人殺しだ、おまえはどろぼうだ、火つけだと言われて、それで長い間裁判をやってシロになった。おまえは国家権力が真犯人をつかまえるために、おまえにもそういうことを受忍する義務があったのだという説がもし出たとすると、これは私はたいへんなことではないかという感じがするのでありますけれども、それはそうといたしまして、もう一つ田上さんと田邨さんにお伺いしたいのであります。  私は問題を三つに分けます。一つ裁判無罪になったもの、もう一つ被疑者補償規程の発動されるもの、もう一つ被疑者ではないけれども警察が間違ってちょっと来てくれというて任意同行という立場警察へ連れていってそこでシロであったものあるいはまた、この間名古屋大学で学生がデモに間違われて、本人は連行というのでありますが、警察は任意同行というのでありますが、そういうもので愛知県は議会におきまして四十四万円の補償をいたしました。無罪になって補償されるもの、被疑者補償規程によって補償されるもの、そして愛知県のように議会の議決をもって、警察もシロでありますといって四十四万円補償されるもの、三つのクラスがあるわけであります。法律裁判無罪になったものだけを補償します。被疑者補償規程は警察が恩恵的にやります。そして一番最後の警察官が酔っぱらって人をひいたとかあるいは間違って任意同行をして信用を傷つけた、新聞にも載った、テレビにも出たというような問題を全体的に見直さなければならぬと私は思うのであります。私は、警察官が決して全体を律しているわけではなくて、警察官も場合によっては、中には悪質な警察官もないとはいいませんし、間違いもないとはいいません。そういう国家権力が末端において発動されるのが、実は裁判無罪になる人よりも圧倒的に多いのであります。庶民の世界においては圧倒的に多いのであります。そういうものが、裁判無罪になるこの本件の問題よりももっともっと庶民的であろうと思うのです。そういうことを私どもは実はなおざりにしてはならぬのだと思います。したがって、私の意見としては、本来ならば被疑者補償規程は立法によって国民税金できちんと補償すべきである、告知をすべきであると考える。それから被疑者補償規程の適用されない警察官の一般的な被疑行為だとか間違った行為につきましても何らかの形で補償さるべきである。その三つのクラスを相対的にとらえてやらなければいかぬのではないか、こう考えますが、お二人の御意見をそれぞれ伺いたいと思います。
  34. 田上穰治

    田上参考人 三つの場合分けておっしゃいましたが、まず無罪の場合、裁判官無罪判決をした場合でありますというと、これは、私は御提出になっております法案のように、非拘束期間についての補償に反対ではございません。ただ問題は、そうなりますと、やはりちょっと、条件ということなんでございますが、たとえば被告人の側で不当に訴訟を遅延させたような場合はどうか。最近は必ずしもこれは被告人というわけではなくて、あるいは弁護人ということではなくて、裁判所のほうの不手ぎわということもございましょうが、かなり訴訟の長引いておるものがございます。それが、もちろんその何割かということはわかりませんが、その中には、場合によりまして裁判所のほうの責任ではなくて、あるいは当事者の側の理由によってあるいは出廷しないとかいろんな場合もごごいましょうが、そういうことで裁判が非常におくれるような場合、そういう場合に、もし非拘束ということになるとそれだけ補償額がふえる。その金額はたいしたことはないと思いますけれども、公平の原則からいうと、若干疑問がある。そこで、もし非拘束一般について無罪判決の場合に補償せよということになりますと、そういう点を十分立法の上で考慮していただく必要があるのではないかということだけを申し上げておきます。  肝心なのは第二点、第三点の御質問だろうと思いますが、次に不起訴処分のような場合、起訴猶予の場合について考えますと、私は法律に直していただくことはけっこうであり、決して反対ではございません。そのほうが、何というか、教示あるいは告知というふうなことを書くだけ、あるいは書かないで実際に行なうようにということよりははるかに徹底するからでございます。しかし、御承知のように、不起訴処分について、たとえば当然検察庁のほうから教えてやって、補償手続を請求をさせるということになりますと、そこに先ほど申し上げたように、常に補償請求を認めるかどうか、これは無罪判決とは違うわけでございまして、裁判官無罪だという判断を下したわけではないのでございますから、検察官判断がまた誤っているかもしれない。ですから、検察官のほうで慎重に考えて、たとえば証拠不十分の場合と、それから犯罪が成立しないという場合との区別を明確にするとかいうふうなことを、つまり現在もこれは訓令でやっておるはずでございますが、そういう一応審査を厳格にしなければならないと思うのでございます。実際は、これがかなりめんどうであるから一つは法制化されてないようにも聞いておりますが、なおこの点は、憲法規定からはややはずれるわけでございまして、憲法が直接適用がある場合とは違いますけれども、むろんこれも法律でおつくりになるならば私は異論がございません。  なお、第三点でちょっとお触れになりましたが、警察官が任意同行というふうなことで職権を乱用した場合はどうかということでございまして、私ははなはだ形式的なお答えになりますが、厳密な意味の、ほんとうの意味の任意同行ならば問題はないし、また補償の必要はないと思うのでありますが、どうも伺っておりますと、また世間の実情の中には、任意同行といいながら実際には強制的に引致するというふうな場合も考えられるのでございます。これは、そういう点で明確になればむろん職権乱用でございますから、先ほど私がちょっと不適当なことばを申しましたが、しいて言えば受忍義務というものは認められない。受忍義務と申しましたのは、適法な職権の行使に対しては、公務執行という場合にはわれわれはそれに抵抗はできない、従う義務がある、抵抗すれば公務執行妨害罪に問われるという意味でございまして、普通の私人であれば、当然単純な暴行なりあるいは不法な監禁、逮捕ということで刑法の犯罪になる場合であっても、職権の行使ならば、それは犯罪とはならない。つまり刑法三十五条で犯罪にはならないという正当な業務ということでございますが、そういう意味で受忍義務ということを、あるいはちょっと不適当な響きを持つかと思いますが、申し上たのでございます。むろんそういうふうに職権乱用であれば、一方では当該警察官は本来刑罰を科せらるべきものであり、同時に、損害賠償請求もできるわけでございまして、これは刑事補償というよりむしろまともな、先ほどの憲法十七条の国家賠償法のほうの事件になると思うのでございます。  なお、補足させていただきますと、先ほど私がいろいろ申し上げた中に、故意過失というふうなことを私は刑事補償の要件とはしていないのでございまして、過失があればむろんこれは損害賠償のほうになると考えております。その場合は、もちろん補償法律できめられた上限下限というふうな制限はないわけでございまして、実際の損害に応じて賠償請求ができる、これはまあおわかりと思いますが、当然のことでございます。したがいまして、故意過失を、特に私は補償においては考えてはいないということを申し上げたいのでございます。  受忍義務は、つまり公務としての実力の行使には相手方は抵抗できないという意味の受忍義務でございまして、いろいろございますが、火事のときに消防が破壊消防でわれわれの家をたたきこわしましても、それには抵抗できない、受忍しなければならないというような意味でございます。決して何でも公の権力に対しては国民は従えというふうな乱暴なことを申したわけでないのでございますが、ことばが足りませんでたいへん申しわけなかったと思います。  以上でございます。
  35. 田邨正義

    田邨参考人 いま横山委員があげられました三つの場合、共通して基本的にどう考えるかということが一つあると思うのでございますが、つまり、警察権の行使にしろ、あるいは検察官公訴権の行使にしろ、あるいは裁判官のなす司法権の行使にいたしましても、これは社会の秩序を維持していく上で必要な行為でございます。したがいまして、またしかも、そのにない手が人間である以上は、一〇〇%誤りなきを期すということもこれはできないわけでございます。そこで、やはり若干なりとも誤りのある事態が出てくることは許容せざるを得ないだろう、ただ、その場合、その誤りがあったことによる損害被害というものを、それが社会に必要だからということで個人にしわ寄せしていいのか、それはやむを得ないのか、それともそれは個人にしわ寄せすべきではなくて、国民全体に必要な制度の運営でございますから、国民全体として負担すべきなのかという基本的な考え方があるだろうと思います。私は、今後の方向としては極力国民全体で、もう少し端的には税金ということになりますが、負担して、個人にしわ寄せするという方向は次第に取り除いていくべきではないかというふうに考えるわけでございます。ただ、そうしますと、個人の負担にしわ寄せしないということになりますと、一定の補償を与えるということになるわけでありますが、その場合に、補償金額とそれから認定の機関をどうするかという問題があろうかと思います。  まず、補償金額の点でございますが、これはいろいろ考え方があろうかと思いますが、やはり公務員のほうに違法行為があったという場合と、必ずしも違法行為であったというふうには証明できない場合と、同一でいいという考え方もあろうかと思いますし、やはり前者と後者で額は違ってもやむを得ないという考え方はあろうかと思います。  それから、認定の機関の問題でございますが、刑事補償で問題になっておりますような裁判無罪が確定した場合ですと、これはすでに裁判によって結論が明白でございますから、あまり認定の問題は起こらないだろうと思います。それがもう一歩下がりまして、検察官捜査権の発動の適否ということになりますと、どうも検察官御自身がそれを判断するというのは若干問題があろうか、そこではどういう機構にするかは別として、第三者機関の設置ということも考えなければならないのではないかというふうに考えます。また、警察権の行使になりますと、一そうその問題は出てまいるわけであります。従来の考え方ですと、警察官のほうに故意過失があったということを証明しないと国家賠償が得られない。これをもう一つ過失責任に近づけていくということになりますと、やはり具体的な補償金額決定や、あるいは補償を与えるかどうかなどということについての具体的な認定機関を裁判所とは別に考えなければいけないかなという気もいたしているわけでございます。  具体的な成案はございませんが、基本的な考え方としてはそういうような問題点があろうかと思います。
  36. 横山利秋

    横山委員 時間がありませんので終わります。どうもありがとうございました。
  37. 中垣國男

    中垣委員長 青柳盛雄君。
  38. 青柳盛雄

    ○青柳委員 あと正森委員からも少し質問がありますので、私は簡単に……。  田上先生にはたくさんお尋ねしたいのですけれども、御返事が非常に長いものですから、時間がそれで食われてしまいますから、最後にいたしまして、最初に佐野さんにお尋ねいたしたいのですが、昨年の十二月一日にいわゆる辰野事件というのが控訴審で無罪判決が出ました。あなたは、辰野事件の被告から、この事件のことを調べてくれということで、いろいろ依頼を受けたというようないきさつもあって、現地などへもお越しになって、いろいろと調書もお調べになったというふうに聞いておりますが、この判決を受けたときの御感想を、読売新聞の十二月一日の夕刊に佐野洋記ということで、御自身でお書きになったように受け取れる文章が掲載されておりますが、それによりますと、あなたはこの判決を聞いたときに、「私は深い怒りを感ぜずにはいられない。たしかに、被告団は無罪になり、“勝った”ことになる。しかし、本当に“勝った”のだろうか。何もしていない人たちが、無罪になるのは当たり前であり、ただ二十年前の振り出しに戻ったというに過ぎないではないか。」無罪になってもこの人たちの失った二十年は絶対に帰ってこないのである。また、被告たちが無罪判決を得るまでには、二十年の歳月、たいへんな苦労を重ねねばならなかった、その点がおそろしいと思うというふうに、これはちょっと抜き読みをしただけでございますけれども、あなたが深いいかりを感ぜられたというのはいろいろおありになると思いますけれども、これに関連して、刑事補償という制度に何か御疑問をお持ちになっていらっしゃるのじゃないかというふうに考えますので、いろいろとお話を承りたいと思います。
  39. 佐野洋

    佐野参考人 ただいま青柳先生からお話のありました辰野事件でございますが、辰野事件関係被告団全員が刑事補償を受けましたが、全員、最高額の千三百円でございますが、そのあれで受けた。合計が千七百四十七日で二百二十七万だったと聞いております。そうしますと、十三人被告団がおりまして、一人当たり二十万足らずなわけでございます。二十年間で二十万足らず、つまり一年間で一万足らずということになりまして、これはいまの刑事補償考え方抑留日数だけのせいかもしれませんけれども、しかも被告団の方はあちらこちら活動なさったり、あるいはカンパを集めたりしても、なおかなり自分たちで働いた分が——結局働いたというのは生活を維持するためでなくて、無罪判決を得るために、その被告も、被告の家族も働いたようなわけでございまして、そうしますと、わずか二十万だということがやはり納得がいかない。新聞には二十年前の振り出しに戻ったのではないかと書きましたけれども、借金が残ったとなると、振り出しに戻ったどころではなくて、もっとマイナスになってしまったわけでございます。こういう面から見まして、また、当時、その少し前にありましたメーデー事件の被告もやはり千三百円を受けておりますけれども、結局これは規定で、千三百円という規定があるから裁判所のほうでもこれしか出さないわけで、本来裁判官もこれでは非常に少ないということはお感じになっておるからこそ、わりに早い期間に千三百円がぽんぽんと出てしまったのではないかと思うのです。現実の現在の法律では、どうしてもこれっぽっちしか出ないというのが実情で、これはやはり法律的に不備といっては失礼ですけれども、もう少し考え余地があるのじゃないかというふうに考えております。
  40. 青柳盛雄

    ○青柳委員 ありがとうございました。特に佐野さんはすぐれた推理作家として記録などをごらんになって、この辰野事件はフレームアップ、しかも幼稚な証拠や証言でフレームアップをやったから、結局はぼろが出て、二十年ぶりとはいいながら失敗したんだ、こういうフレームアップが権力によってつくられているというところにもまた憤りを感じていらっしゃるのではないかと私は推察をするわけなんですが、メーデー事件もその点ではあまり変わりはない、むしろ同質だと思うのですが、それが偶然昨年、一月の間に立て続けに控訴審で無罪になり、しかもいずれも検察当局は上告する権利を放棄した。当然のことだと思うのです。そして確定してこうなった。一般の無実の、冤罪事件というのもございますけれども、こういう思想的なものが入ってまいりますと、治安当局が、しまいは無罪になっても、とにかく当面弾圧をしてやろうというようなことで、それで一定の政治的効果は達成できるというようなことでやる場合が往々にしてあるのじゃないかと私も思うのです。松川事件では、刑事補償だけではとうてい満足ができないということで、また膨大な努力と費用とをかけまして国家賠償法裁判をやって、勝訴をし、一億円ばかりの賠償を取ったわけでありますけれども、そういうような場合でも、当の責任者たちは行政的にも政治的にも、また財政的にも何らの制裁を受けない。そしてむしろ逆に出世をするというような例がこれらの事件にあるわけですね。こういうことまで考えてきますと、一体刑事補償という制度を設けられたのは何なのかということについて、あるいはまた国家賠償法という制度が設けられたのは何なのかということについてたいへんな疑問を——疑問というか、その原点に戻って考えなければならぬということをわれわれは痛感するわけなんですけれども、この点についてお三人の方々にそれぞれ御意見を承りたいと思います。
  41. 田上穰治

    田上参考人 なるべく簡単にという御指摘でございますし、私も率直に申しますと、ただいまの裁判が非常におくれた、私は、これは刑事事件に限らない、民事、行政事件についても同様の問題があると思うのであります。これは全体として重大問題であって、もし裁判を受ける権利憲法で保障されておりましても、実際に裁判が確定するまでに非常な期間がかかるということになりますと、憲法三十二条の権利もほとんど無意味なものになってしまうのみならず、これは人権一般の保障の致命傷となると思うのでございます。でありますから、ひとり刑事——特に刑事の場合には影響も大きいわけでございますが、行政事件、民事事件を問わず、裁判の迅速な進行、処理ということについては、私は憲法問題としても重大な関心を持っておりまして、それを具体的にどう解決するかということは、一つは、いまの刑事補償のほうの制度を改善していくということもございましょうが、全体として肝心なのは、金で済むだけではなくて、一歩進めて早く判決が確定するということでございます。これがまたあまりお粗末な、審理を尽くさないで判決されても困るのですけれども、そういうことのないようにして、しかも迅速な事件の処理を——直接は裁判所になりますが、裁判所だけというわけにもいかないし、御指摘になったかと思いますが、あるいは行政当局の出世というふうなお話がございましたが、特に責任が重大だというふうに伺うのでございますけれども、全体として裁判関係者、行政、司法問わずこれが協力して、すみやかに裁判が確定するようにということを希望するのであります。  さて、方法になるといろいろ問題がございまして、裁判制度の機構改革にも入ってまいりますが、いろいろ伺ってみましても、まだ私としては明確な解決策があるというふうにもちょっと言えないのでございますが、同時に最高裁判所の機構改革も含めまして努力すべきではないかという点で、全く御質問意味に同感でございます。  お答えになったかどうかわかりませんけれども……。
  42. 田邨正義

    田邨参考人 私は、特に国家賠償法被疑者被告人の救済に対してどの程度機能しておるのだろうかという観点から若干お答えさしていただきたいと思うのですが、確かに、国家賠償法によりまして検察官なり警察官に不法行為があれば損害賠償責任ができるということになっております。しかしながら、実際に疑疑者なり被告人がその権利を行使するということはたいへん困難を伴うのが実情でございます。  一つはやはり検察官等の故意過失——故意ということはほとんどないと思いますが、過失を証明するということがなかなか容易なことではない。私はここ数年の例を調べましたが、三件ぐらい見当たりまして、そのうち一件が原告敗訴になりまして、二件が勝訴になっておりますが、起こしたからといって必ず常に国家賠償法によって賠償が取れるという保障はないのでございます。  それから二番目に、裁判にたいへん時間がかかる。御指摘のように刑事事件で無罪になるまで十年、二十年かかり、さらにそれから国家賠償請求して民事の賠償判決をとる、これにまた三年も四年もかかる。これは通常の人であればもうくたびれ果ててあきらめてしまうおそれが非常に大きいのではないか。したがいまして、国家賠償法があるから被疑者被告人権利は守られているとは一がいにいえないのでありまして、その点を補完するものとしてやはり刑事補償法の機能というのが、重要であろうかというふうに考える次第でございます。
  43. 佐野洋

    佐野参考人 私、辰野事件の被告団に即して申し上げますと、ちょうど東京高検が上告を放棄したというふうに発表した日に、私、裁判所のクラブにほかの用で参っておりまして、そのときにちょうど被告団長がいらっしゃいまして、そこで会ったわけです。そのときに、大体刑事補償はどのくらいになるか、これこれになる、それじゃどうにもならないじゃないか、国家賠償請求したらどうかというような話が出たのでございます。そうしましたら、それはほかの被告の者とも話し合わなければならないけれども被告団の気持ちとしては、二十年間こうやって戦ってきて、もうたくさんだという気持ちが非常に強い。これからまた国家賠償請求しても、検察官のあるいは警察官の故意または重大なる過失というものを立証するのは非常に骨が折れることだし、いままでの裁判の過程を見てみても、警察官は偽証はするし、自分に不利なことは忘れてしまう、そういうふうな状態で立証することはほとんど不可能に近い。それよりもそのことはもう忘れてほかの活動をしたいというふうな話をしておりました。そして二十年間こうやってがんばり続けてきた彼らでさえもうたくさんだという気持ちになる。そのくらい国家賠償賠償を得るということはむずかしいことらしいのでございます。そうしますと、国家賠償があるから刑事補償については抑留期間だけでいいではないか、あるいは抑留期間でもこのくらいでいいのではないかというふうな考え方はできないと思いますし、過失を立証するということは実際に困難なんですから、故意過失があった場合にはこっちがあるんだから、そういうものがなかった場合にはこの程度でいいというふうに刑事補償のほうをある程度制限しておくというのはどうか。もちろん理想的にはそういうものは国家賠償で、そうじゃないのは刑事補償でという方法が理論的にはいいのかもしれませんけれども、現実にはそういうことができない現実であれば、やはりそれを救済する方法を刑事補償のほうに持っていただいたほうがいいのではないか、そういうふうに考えております。
  44. 青柳盛雄

    ○青柳委員 あと一点だけ田上先生にお尋ねしたいのですけれども、先ほどからのお話を聞いておりますと、憲法十七条のほうは違法性責任が必要になってくるけれども、四十条のほうは故意過失を問わない、それがたてまえだというお話でございまして、私もそれなら一つの区別がつくんじゃないかと思ったのです。刑事補償法を読んでみますと、第四条第二項に「裁判所は、前項の補償金の額を定めるには、拘束の種類及びその期間の長短、本人が受けた財産上の損失、得るはずであった利益の喪失、精神上の苦痛及び身体上の損傷並びに」これからが問題です。「警察、検察及び裁判の各機関の故意過失の有無その他一切の事情を考感しなければならない。」これは先生の御説からいうとおかしなことをこの補償法の四条二項はきめたことで、少なくともこの「警察、検察及び裁判の各機関の故意過失の有無」というのは、この額をきめる上に参考にすると一貫してないような気がするが、いかがでございましょう。
  45. 田上穰治

    田上参考人 私もその点はそのように考えます。ただ、これはまた長くなって恐縮ですが、その補償請求権故意過失を問わず認められる、こういうことを考えているのでございますが、いまのお話でありますと、裁判官が具体的に補償金額をきめるときの裁量として一つ判断参考にする、参考というか、基準一つに数えているということでありますと、ちょっとこれは補償請求すること自体とはまた別の次元ではないかと思うのですけれども、私はそのいまの御指摘の条文は削ることには異論がないのでございます。  それから、先ほどから国家賠償法との関係がちょっと問題になったようでございますが、私は国家賠償法については若干の異論を持っておるのでございまして、これまた時間の都合で、御質問がありましたらお答えしたいと思います。
  46. 青柳盛雄

    ○青柳委員 ありがとうございました。
  47. 中垣國男

    中垣委員長 次は正森成二君。
  48. 正森成二

    ○正森委員 田上参考人に伺いたいと思いますが、ただいまの御意見の中で、刑事補償というのは生活の保障までは考えていないという意味のことをおっしゃったと思うのです。さよう伺ってよろしゅうございますか。
  49. 田上穰治

    田上参考人 そういうことを申し上げました。その意味は、繰り返しになりますが、つまり憲法四十条というものの性格が、そういう中で、社会生活保障のような生存権的な基本権でないという判断でお答えを申し上げたのでございます。
  50. 正森成二

    ○正森委員 まあ、いまそういう御釈明がございましたが、刑事補償が生活の保障まで考えていないというように御発言されると、刑事補償法の第四条の三項を見ますと、死刑がかりにあやまって執行された場合には三百万円以内で補償額を交付するこうなっております。「但し、本人の死亡によって生じた財産上の損失額が証明された場合には、補償金の額は、その損失額に三百万円を加算した額の範囲内とする。」と、明白にこう規定されております。したがって三百万円というのは精神的な損害であり、それ以上に死刑の場合には財産上、あるいはことばを言いかえると生活上の損害があれば、これは当然補償するというように法律上のたてまえはなっております。したがって先生のように、刑事補償は生活の保障は考えていないんだというように言い過ぎると、これは言い過ぎになるのではないか。  また、いま青柳委員もお読みになりましたが、第四条の二項では「本人が受けた財産上の損失、得るはずであった利益の喪失」こういう事情を考感してきめろ、こうなっているわけですね。したがって精神的な慰謝料だけでなしに、財産上の損失についても考慮することを前提にしておるというようにやはり刑事補償考えていいんじゃないかと思うのですが、そうではございませんか。
  51. 田上穰治

    田上参考人 御指摘のとおりでございますが、私が生活の保障の意味でないと申し上げたのは、直接の違法な行為によって、加害行為によって損害を受けたその損失補てんというだけでなくて、生活となりますと、直接の損害は少なくても将来その人がまともに社会生活を営むために必要な費用、それがちょうど生活保護のような含みがございまして、そういうものまで補償するかどうかという点で、そこまでは考えないということを申し上げたわけでございます。  御指摘の財産上の損害についてはむろん単なる慰謝料とかなんとかいうことでなくて補償の対象になると考えております。おっしゃるとおりだと思います。
  52. 正森成二

    ○正森委員 田上先生の御意見では、自由権的権利あるいは生存権的社会権利といろいろ憲法上説がございますが、四十条は普遍的な原理とはいえないので、実定法上の問題である。補償しても違憲ではないのだ、こういう規定があるから。補償しても違憲ではないのだ、そういう表現を最初になさったと思うのですね。しかし私どもの感覚としては、補償しても違憲ではないなどというのはおよそ国民主権のたてまえからいえば発想として浮かんでこないので、むしろ補償しないほうが著しく憲法人権保障の精神から反するというように考えるべきじゃないかと思うのですね。わが国の憲法が三十一条から四十条まで刑事訴訟関係規定を設けておりますが、これは世界の憲法のたてまえからしてきわめて異例のことなんですね。憲法のわずか百条ぐらいのところに十条も刑事訴訟手続関係のことをきめて人身の不当な拘束を禁じておる。これはなぜかといえば戦前に治安維持法あるいは治安警察法、違警罪即決例その他等々でわが国の人民の権利が不当に侵害された。政府の行為により、警察によりそういう侵害をこうむった反省の上に立って、憲法というような基本法にこういうことを規定するのは本来からいえばおかしいのだけれども、わざわざこれを規定して国民人権を守るということであったとわれわれは大学以来一貫して習っておるわけですね。そいうたてまえから見ますと、これはやはりわが国の憲法のそういう考え方から見て、補償については十分に考えていくべきであって、補償しても違憲ではないというようなそういう発想方法というのは根本的に誤っているのではないかというように思いますがいかがですか。  なお、この点については田邨弁護士さん、私と同業でございますが、お伺いしたいと思います。
  53. 田上穰治

    田上参考人 私のお答え方が少しことばが足りなかったと思いまして、その点はおわびいたします。  私が申しましたのは、憲法に書いてある抑留または拘禁を受けた者がその後に無罪裁判を受けたときには補償請求することができるという、その限度においてはむろん憲法の要求でございまして、なぜ世界にあまり例のない規定憲法に入ったかといえば、御指摘のように過去の経験から考えられるわけでございます。  つまり、過去においてそういう刑事補償の必要が御指摘のようにあるのに補償しなかった。そしてむろん憲法になくても、法律をつくって補償の制度を認めることはできますが、過去においては国会においてもなかなかいろいろな事情があって、刑事補償の立法には踏み切れなかった。法律はございましたけれども、御承知のようにきわめて不完全なものしがなかったということで、一歩進めて将来立法に対して憲法が注文をつけたというふうに考えております。ですからその意味で、憲法が直接要求する限度においては国会法律をつくらなければならないのであって、つくっても差しつかえないというふうにもし私が申し上げたとすれば、それは訂正しなければならないと思うのでございます。  ただしかし私が先ほど申し上げたのは、そういう憲法直接の要求、抑留または拘禁を受けた者というふうになっておりますが、無罪裁判ということもございますが、そうでなくて、その補償範囲をもっと広げることはどうかということで——これも御議論があると思いますが、非拘束期間ということになると抑留または拘禁を受けた者、まあそれを全然受けない、初めから何ら拘束を受けない者という意味でないかもしれませんが、しかし憲法の読み方としまして、抑留または拘禁について補償というふうに私ども読みますというと、憲法の直接の要求はそこまでであって、それ以上にこれにプラスして非拘束期間補償を入れるとすればそれはどうかということになりますと、私の解釈では憲法が直接命じていないと思いますけれども、しかしそれをお入れになることには、立法政策として別に異論はないという意味で申し上げたので、つくってもつくらなくてもよろしいという、ことばが少し不適当であったかと思いますが、同様に無罪裁判を受けたときにというのでございますから、無罪でなくて、先ほど申し上げました不起訴処分というふうな場合、これは直接の結論としては必ず補償しなければならない。補償を認めないことは、現行刑事補償法はその意味において憲法違反であるというふうには考えない、こういう意味で先ほど申し上げたのでございますが、しかしさらに補償範囲を広げることが憲法に反するという意味では決してないわけでございまして、そこは立法府の裁量によって自主的な御判断決定されることが正しい、当然であると思うのでございます。  ちょっとことばが足りないことをおわびいたします。
  54. 田邨正義

    田邨参考人 憲法四十条そのものの解釈につきましては、田上先生の述べられたこととたいして違いません。ただ、単なるプログラム規定であるのか、あるいは立法を待たずに、直接請求を可能とせしめる意味まで四十条が含んでいるかというような点については、若干議論余地があろうかと思います。  ただ、憲法関係から申しますと、やはり憲法十三条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民権利については、」「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という趣旨の規定を設けているわけでございます。確かに四十条としては、拘禁中の補償のみすれば最低補償は足りるとしている趣旨だろうと思いますが、憲法十三条との関係から申しますと、やはりその最低補償以上のものに国が努力をするということが望ましいという指針は憲法の中に示されているのではないかというふうに考えるわけでございます。
  55. 正森成二

    ○正森委員 田上先生に伺いますが、先ほど横山委員質問で、若干訂正されたようでございますけれども国民は公の権力からの危険を忍ばなければならない、こうおっしゃったんですね。若干速記は違うかもしれませんけれども。しかし私は、こういう発想というのは新憲法になじまないのではないかというように思います。これは江戸時代の、お上の権力の行使には国民はしんぼうしなければいけない、もし何らかの保障があるとすれば、大岡裁判のこれは恩恵であるという考えじゃないかと思うのです。憲法の前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」こう書いてあります。憲法教授で長らくおられました田上さんにこういうことを申し上げるのは失礼ですけれども国民は公の権力からの危険を忍ばなければならないというようなことは一切ないのです。税金を納めるということでも、租税法律主義で、国会できめた法律範囲内だけで納めればいい。それに対しても、生活費にまで侵害するというものについては、これは反対運動を起こし、法律改正を求めるということもできるわけですね。まして人権に関するようなことについて、これは権力からの危険にある程度忍ばなければならないということはないので、万が一自分が罪も犯していないのに逮捕される、自分が罪を犯していないのに起訴される、まして有罪になるというようなことになれば、その権力の非違に対してこれは弾劾し、当然の補償を求めるというのは国民の奪うことのできない権利だというように思うのですね。そしてさらに先生が、この点を補足されて、公務員適法行為による実力行使には抵抗できない、こういう意味のことをおっしゃいました。しかし、これもはなはだおかしなことで、たとえ公務員であっても、その権力の行使が外形上適法であっても、実質的に不適法な場合には、国民には断固として抵抗する権利がある。判例でもそれを認めております。  たとえば尼崎の国労事件などでは、鉄道公安官が国鉄労働者の行なったピケットに対して不当にこれを排除しようとし実力行使したのに対して、これに抵抗した。そのために鉄道公安官に傷害が生じた事件について、これは違法な公権力の行使であるから公務執行とはいえない、したがって無罪である、こういうことに裁判所も認めております。それは当然のことであって、外形上適法行為であれば、それに対して国民が実力をもって反撃することができないなんということはないので、刑法第三十六条も正当防衛の権利を認めております。  したがって、先生のように、一がいに公の権力からの危険は忍ばなければならない、公務員による実力行使には抵抗できないというようなことを言うのは、国民に対して、お上の言うことは何でも従わなければならないということを求めるものではないか。それは憲法精神から著しく反するものではないかというように思いますが、いかがです。
  56. 田上穰治

    田上参考人 これも私のことばの足りないことをおわびいたしますが、結論はいま御質問になったとおりで、私も同じ意見でございます。つまりもう一度、訂正になるかどうかわかりませんが、私の先ほど申しましたのは、普通の民間人、私人の行為であれば、われわれがそれを犯罪として抵抗することができる場合であっても、公務員公務適法執行であれば、つまりそれに対しては抵抗できない。端的に申しますと、刑法の九十五条、公務執行妨害罪は合憲であるという程度意味でございまして、もちろん御指摘になったようなところは、公務員が形の上では適法公務執行のようであっても、実際には法律に反しておるということであれば、法律の定める手続によらないで自由を奪いあるいは刑罰を科するという意味ですでに憲法に触れるわけでございますから、御質問になりましたような場合は、私もむろん異論はないのでございまして、そういう違法な行為にわれわれが受忍義務があるというふうには考えていないのでございます。  私が先ほど申し上げたのは、一般の私人の場合には公務執行でないから、その意味において相手方が抵抗しましても、直ちにそういう特別な犯罪を構成しないという意味で申したのでございまして、その点が私人の民間の行為公務員行為との違い、こんなことは申し上げる必要はないのでございますが、一般にはよく混同される点もあるかと思いまして申し上げたにすぎないのでございます。ことばの足りないところはおわびいたします。
  57. 正森成二

    ○正森委員 時間がございませんので、最後に一つだけ伺います。  田上参考人は、刑事補償をする場合がいろいろある。検察官がときには五分五分の場合あるいは七、三の場合、九、一の場合というように、有罪であるという考え方について程度の差がある場合でも、これは起訴せざるを得ない場合があるのだという意味のことをおっしゃって、その理由は、国民はすみやかに凶悪犯などの場合には犯人を逮捕してほしい。そうでなければまくらを高くして寝られないという国民感情を考慮しなければならないのだという意味のことをおっしゃったと思うのですね。  これは私はある意味ではほんとうでございますけれども、しかしこれはもろ刃の剣になる。国民はすべて自分が被害者になって、財産や生命を侵害されることがあると同時に、すべての国民は自分が被疑者になる、そういう可能性を持っておるので、そういうことにならないために、なった場合にどうするかという、そういう国民権利憲法はきめているのですね。自由というのは国家からの自由だ、フライ・フォン・シュタートということはわれわれが習っておるところでございます。  そういう意味からいいますと、たとえば松川裁判のときには、あの判決の前後を見ますと、田中最高裁長官は、これだけ長くかかった事件だから、もうここらでそろそろ終止符を打つのがいいと思うという意味のことを言ったということは、法律雑誌にも載っておるところです。そういうこんなに長くなったんだからそろそろ裁判に終止符を打ったらいいんじゃないかというようなことで、田中裁判官有罪に一票を投じておる。こういう裁判官ばかりだとすれば、松川事件の何人かはもうすでに死刑になっておる。したがってわれわれは事が国民の生命、身体に関係することでは、すみやかに犯人を逮捕してほしいということは当然として、そのことのためにいやしくも無実の者が、あるいは十分に合理的な疑いを残さない程度犯罪を立証されない者が被害をこうむることがあってはならないし、そういうたてまえで法は運用されなきゃならない。そして無罪になった場合には十分にこれを補償するというのが法のたてまえだと思うのですね。それで、私は、いま先生がおっしゃったことも、私がいま質問しているような趣旨を排除するものではないというように善意に伺いたいと思いますが、それでよろしゅうございますか。
  58. 田上穰治

    田上参考人 そのとおりでございます。つまりそういう意味におきましては、最後の、だれが犯人であるかというふうなことは、実は人間として正確に判断する自信はだれも持っていないと思うのでございますが、それでは答えになりませんので、憲法の答えは、御承知のように、裁判官訴訟の審理を尽くした上で判決をすれば、それが、再審というような問題もございますけれども、それでもまだ誤判、誤った判決もあり得ると思いますが、しかし、一応われわれ国民としてはそれに従うということになるのではないか。これが先ほどから申している意味でございまして、ですから、御指摘のような問題について裁判官がもう終止符を打つというので長引いた事件を有罪判決をするというふうなそういう態度は、私は反対でございます。その意味で御指摘のとおりと思います。
  59. 正森成二

    ○正森委員 それじゃ質問を終わりますが、最後に、法律のしろうとといったら失礼でございますが、しかし、国民の声を非常に反映しておると思われる佐野先生に、私の質問を聞かれて、それについての御意見がもしおありでございましたら、伺って、質問を終わります。
  60. 佐野洋

    佐野参考人 正森先生の御活躍は新聞などでもよく拝見しておるのでございますが、先ほどから申し上げましたように、法律のしろうとの立場で言いたいと思っていたことを、いま法律の専門家の用語として——こんなことを言うと変でございますが、かわりに言ってくださったような感じがしております。
  61. 正森成二

    ○正森委員 終わります。
  62. 中垣國男

    中垣委員長 これにて、参考人に対する質疑は終わりました。  一言ごあいさつ申し上げます。  参考人各位には、長時間にわたり、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚く御礼申し上げます。  次回は、来たる十七日火曜日午前十時理事会、午前十時十五分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。    午後零時三十三分散会