○
嶋崎委員 私は、こう考えるのです。ここでまた、長い議論をしても始まりませんが、小中
学校教育の場合でも、たとえばおっしゃるように、
小学校の
教育課程は小
学校教育、つまり子供たちの発展の段階に応じてそれをエデュケートしていくことが
教育の課題なんですから、それに応じた
教育というのは、当然それ自体学問の自由と直接関係はないと思います。しかし、子供の生理というものをわれわれはどうつかむかということについて、
学校の
教師は一定の専門性を持たなければ、ないしは子供の発展段階というものに対する科学的な認識を持たなければ、それに対して引き出す、エデュケートしていくことはできないと思うのです。そうなりますと、当然
大学のアカデミックフリーダムで問題になっているところの生理学、そういう学問的な成果と、
小中学校の
教師の
教育とは密接不可分だと私は思うのです。つまり学説がいろいろあるわけですから、たとえば自然科学の場合は別としても、いろいろな
一つの科目をとらえる、学科目の中身をつかむための方法論というものを考えてみますと、その基礎になるものは
大学に有るアカデミックフリーダムの中でいろいろな学説の対立があるということが、実は
小中学校の
教師の場合でも、その
意味での学説的なものを踏まえて、子供のいわば発展段階をとらえるとらえ方について意見の違いが出てくるのはあり得ると思うのです。
そういう
意味で、学問の自由と憲法二十三条でいっているのは、
大学だけではなくて、イギリスでいっているようなアカデミックフリーダムの
考え方をとるべきなんで、小・中・
高等学校の場合でも、
大学におけるアカデミックフリーダムの中でつくり出された成果といいますか、そういうものが
教育研究の研究者のいわば
教育理念であったり
教育の方法であったり、そういうものを媒介にすることによって、非常に多様な子供たちの発展段階をエデュケートしていくやり方というものがきまっていきやしないだろうかというふうに私は考えるわけであります。ですから、
昭和三十九年の憲法
調査会の答申の中で、憲法二十三条でいうところのアカデミックフリーダムというのは
大学の問題なんであって、
高等学校、
小中学校とは関係がないという断定をしていく
考え方、この
考え方ははたして妥当であるかどうかという点がひとつ論争的な問題としてあるのではないかと私は思います。
そういうふうに考えてまいりますと、
教育系大学の
学部の
教官も、学問研究の自由というものを前提にした
教育研究の主体であり、そうでなければならない。同時に、そのことはストレートに
教育の内容にあらわれるのではなくて、確かに
教育というものと自分の研究領域でやっていることとは切り離されながらも、その
教育的な見地に際して結びついていくというつながりをもってあらわれるというふうに私は思うのです。これは私の
考え方ですよ。
ですから、ここの国大協でいっている
趣旨は、結局
教育系大学の
学部というのは、
教育に力点を置いて、極端にいうと
教育研究という観点を持たなくてもいいというような方向に
教育系大学のあり方というものが規定されてきたら困りますよという
意味の警告だと私は
理解するのです。そういう
意味で、教養
学部と同じように、
教育系学部というのは、学科目制の形をとっていくのが、
小中学校、
高等学校の教科の課程としていいのかどうか。こういう問題は
教員養成のあり方の問題として今後非常に問題になりはせぬかというふうに考えるわけであります。
あれやこれやで、さっきの質問も
あとでもうちょっとやりたいものですから、ここで締めくくりたいのですけれ
ども、午前中の質問で私が言った、いまの
教員養成というものを考えたときに、たとえば
先生方の
給与を一〇%上げれば
人材が集まるであろうという楽天主義、オプティミズムは、現在の制度の中ではそうはなりませんよというふうに私は
判断する。
一つの側面の一要素であるかもしれない。しかし、そのほかに、たとえば入社試験の時期とそれから
学生採用の時期をどうするかという問題、それから
教員の
資格をとった
人たちが三月なら三月の段階で、非常に不安定な状態になるという制度的な仕組みの問題、こういう問題について、かなり抜本的な改革をやらなければ
教師の
人材というものは確保できないのではないか。
同時に、いまの
教育系学部のあり方、それから
あとでまた問題になる
一般大学の
学部の
教員養成のあり方を見ましても、ここでは単位を
取得して
資格をとることに狂奔する
学生が大半を占めていて、ほんとうに
教育熱心になろうという
教師が、
小学校教員の単位だけとって、
あとは小
学校教育についての専門的な科目を深めて
教師になっていくという単位の履修の仕組みになっていない。こういう問題についても根本的な
大学のあり方というものを考えないと、ただ
給与を一〇%上げたところで、いい
人材が確保できるというほど単純ではないというふうに私は考えるわけであります。
ですから、この一〇%から三〇%になるとか、これも作業は非常にあいまいなもので、
大学の場合でも、
最初私が申し上げましたように、
大学院担当の
教員を
裁判官並みにすると叫んでから、もう十年以上たっている。しかし、
大学院担当の
教員は、わずか八%
程度でお茶を濁されている。そういう、いままでやってきた
人事院勧告のあり方、またそういうものに対して、
文部省も努力してきたんでしょうけれ
ども、実際には、いわれた願望と現実のギャップが起きてきている。
そういう一連の過去の
経験、それから現状の仕組み、それから
大学教員養成制度のあり方、こういうものを考えてみると、この
法案で大きくいっている、日本語として「すぐれた
人材」という日本語はないと思うのです。
人材というのはすぐれている者をいうので、だから、すぐれた、すぐれた
人材、二つのことばを同時にしゃべっているようなものだと思うけれ
ども、ほんとうに
人材を確保していくという観点で今日の
教育問題に対処していくには、
大臣が本
会議で言われたような、選挙公約で云々というようなことじゃなくて、抜本的な制度、それから現実の運用のあり方、それから
教員の
給与、
教育労働の位置づけとか、全体を総合的に考えていかないと、今日のような情勢のもとでは
学校教育にいい
人材が集まるという楽天主義はとてもむずかしいのではないか。いままでの
先生方が
人材ではないという
意味じゃなくて、よりいい
先生を集めるには、それはあまりにもオプティミズムなんじゃないかという
意味で、私は
教員養成のこの
法案の出し方そのものが非常に一面を強調しているのではないかというふうに考えるわけであります。
こまかな問題まだまだ質問したいことがありますけれ
ども、時間もとりますから、この問題はこの辺でやめさせていただきます。
最後に、ほんとうは
人事院にお聞きしたがったのですけれ
ども、
一つだけ
大臣にお聞きしておきますけれ
ども、先進国、たとえばアメリカとかフランスとかイギリスとかというような国々では、初任給の
給与から一番高い
給与の格差というものは、先進国では大体どのくらいになっているという御
判断でしょうか。日本と比べてみて、ヨーロッパの場合には、年功型の格差というものがぐっと縮まっているというふうに私は
判断いたしますが、これは
大臣ですか、初中
局長でもいいですけれ
ども、外国と比較して日本の今日の年功序列型賃金
体系が、
教育労働というものの科学的
判断に立ってどういう
実情になっていると思われますか。