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奥野国務大臣 四十三、四年ごろ一番
大学紛争が激しかったと思います。そういう際におきましても、最も問題になっておりましたのは
教育と
研究の
あり方でございました。したがいまして、その後各
大学が
大学改革に取り組んでまいりました場合に、この
教育と
研究の
あり方をどうするかということが一番
中心の
課題であったわけでございまして、このことにつきまして
東京教育大学が
一つの
改革案を提示したというのが、今度の
筑波大学であるわけであります。
御承知のように、
教育と
研究とを
一体として
学部単位において扱っていく、そういうことを通じて
学問の自由というものを大いに発展さしていきたい、こういう
願いがあるわけでございまして、
それなりに
役割りを果たしてきた、かように考えるわけです。しかしながら、
社会の発展に伴いまして、
研究という面について見てまいりますと、
専門がどんどん分化しながら、分化したものがさらに深く深くなってまいってきているわけでございます。同時にまた、
学部と
学部との間に広がりも見せてまいってきているわけでございます。一面には深くなり、一面には広くなってきておる。これをそのまま
教育に持ってこられた場合に、一面には深く深くなったものをそのまま
教育として受けまして
社会に出ていろいろな変化に対応できるだろうかということでございまして、
教育という面から考えますと、広く学識を養っていかなければならない。
大学に入ってみたけれども、
自分の希望するような
教育は受けられないということになってしまうわけでございます。
同時にまた、
先生自身が部分的には嘆いておられるわけでございますけれども、
先生の
立場になりますと、
社会に認められるためには、
自分の業績を公表して、
幾つか論文をつくってこれを公にしていく、自然こういうことには熱が入るけれども、必ずしもよき
研究者がよき
教育者たる
役割りを果たしていない、結果的に
学生はたいへんそれに
不満を抱くというような姿にもなっておったようでございまして、そうしますと、
教育という
立場からどのような
先生にどのような部門を担当してもらうか、それは
それなりに深く考えていかなければならぬのじゃないか、こういうことになるわけでございまして、そういう
意味で
研究と
教育とを分離すべきだという
考え方が
筑波大学で出てまいったわけでございます。そうすることによって、
研究も十分その
目的を達することができるし、
教育もまた
それなりに十分その
目的を達することができるのだということになってまいったわけでございます。
研究という
意味においては
学系という
組織をとる。
筑波大学の場合には二十六ぐらいの
学系を考えておられるようでございます。従来の
学部間のいわゆる
境界領域に属する
学問につきましても、
プロジェクトチームをつくりまして大
規模にその
研究に取り組む
体制も立てることができるわけでございます。
教育の面につきましては、それぞれの
学系から
学群に出向いてもらう、そして人を育てるにふさわしいようなカリキュラムを編成していくことができるということになってまいるわけでございまして、そういうことから自然、
人事組織をどうするとか、いろんな問題が出てまいるわけでございまして、従来は
教育も
研究も
学部で
一体として扱っておりますから、
人事も
学部教授会できめられる、こういうことになるわけでございますが、それがございませんので、
教育の
機関であります
学群のほうから
教員を出してもらう、また
研究の
機関であります
学系から
教員を出してもらう、両者合わせて
人事委員会というものを
構成して、そこで
人事を運営していくということになるわけでございます。従来のような姿でございますと、
学部、
学科、
講座、そこで
人事が、
教授がやめない限りにおいては
助教授が
教授になれない、
助教授がやめない限りは助手が
助教授になれないというようなこともしばしばいわれてまいった、いわゆる閉鎖的な姿、
学部教授会が何もかも処理してまいりますので、全体的にきわめて閉鎖的な色彩を強めてきたということが多分にあると思うのでございます。そういうことも打ち破っていきたい。そして
先生がかりに退官せられました場合には、
学群の
教育の
組織あるいは
学系の
研究の
組織、両者が寄り集まって後任の適材をさがしていくというような方向で絶えず各方面から
人材を集めていきたい、こういう
願いも
筑波大学では持っておられるようでございまして、その点が
中心であろうか、かように考えております。