○大出委員 その、大きな声で一便にしろというのが実は困るので御出席をいただいたわけなんですが、小さい声で一便にしろとおっしゃったなら、まあ大きな声のほうで二便になればいいのでございますから。ところが、大きな声で一便にしろ、こう言われっぱなしでは、実は援護
局長さんのほうを通じまして聞いてみたら、
長官から
指示をいただいて、一便だぞ、こう言われている、そうなるともう、一便以外に貝が口をつぐんだように一言も申し上げられませんという。二階堂さんからそうもきちっと言われると、さすがに
関係局長さんも口があけぬというわけです。
そこで、事情を二つだけ申し上げますが、長い時間をかけません。
一つは、中国側の皆さま方と日中議連の方々が相談をなさった、また友好協会の方々が中国側の方々と相談をなさった。昨日その両方の方々から私にも話がございまして、何とかどこかで
長官に御出席をいただいて、直接
委員会で何とか詰めてみてくれ、こういうふうに実は依頼されまして、ごもっともな実は内容でございましたから、あえて御足労いただいたわけでございますが、それは中国の皆さんは、これは厚生
大臣に聞いていただきたいのですけれ
ども、こちらから十一柱をお送りしたときに、たいへんりっぱに祭壇を設けまして、紅十字の方々あるいは各種僧侶団体の方々多数集まりまして盛大な出迎えをする。長い周こちらにおられたわけですから、その十一柱の方々は。だから、りっぱに祭壇を設けて、紅十字会あるいは僧侶の各種団体の方々、あるいは
関係の市民の方々は盛大な慰霊の準備をいたしたい。そして十一柱受け取って、
日本側にも全部出席をしていただいて、まことに盛大な慰霊をしたい。そしてそれはそれとして受け取らしていただく。それから八百九十九柱につきましては、これまた長い
経緯があるので、この遺骨を一堂に集めまして、そしてこれまた紅十字会の方が仲介にお入りになっておるから、あるいは各種僧侶団体その他の方々にも集まっていただいて、これまた十分な慰霊を申し上げて、長い年月中国側にあった遺霊でございますから、その上で受け取っていただきたい、そういう手配を全部中国側が計算をしてみると、どうしてもかれこれ四日かかります。というのは、死者に対する礼を尽くすということで、いろいろ考えてみて、向こう側で最短距離で考えてみて、そのくらいはかかる。だからいろいろな事情が
日本政府の側におありだと思うけれ
ども、向こうには向こうのしきたりもある。長い年月の歴史的なこともあって考えているのだから、まげてひとつこれは御折衝いただきたい、こういう中国側の御意向なんですよ。
それともう
一つ、実は
関係の八百九十九柱に含まれる該当の各種団体が国内にある。実は私の近くにおいでになる方で、こちらのほうの会長をおやりになっている方が、うしろにきようお見えになっているのですが、伊藤
康助さんという方でございます。援護局の方は古くから御存じの方でございます。この人は、いま申し上げた団体の
一つでありますが、和光会という会をおつくりになっておりまして、この名簿だけで三百余のおなくなりになった方の名簿がある。苦心惨たんをして調べたはっきりしている名簿であります。
そこで、一例だけあげますと、伊藤会長さんという方は横浜の南区にお住まいでございますが、上海の大場鎮の作戦で上陸をされて、そして南京作戦に参加をし、例の柳川兵団の
あと、杭州の留守部隊につき、それから一ぺん上海に戻り、徐州作戦をやり、それから漢口作戦をやり、漢口作戦がちょうど
昭和十三年末でございます。百四十三名、南昌の作戦に参加をされて、ここから島へ偵察に行かれて、ここで戦闘をして重傷を負われて、そして動けないで偵察の方々が補虜になった、こういう経過なんです。時に軍曹という階級でございます。この方が負傷のままで捕虜ということで、まず桂林の収容所に連れていかれて、桂林の収容所から病気がなおって、
あと軍事作戦の都合でだんだんかわるわけでありますが、桂林、常徳の収容所の方々が一緒に鎮遠に移動させられて、そこに収容された。さらに戦争の悪化の中で、鎮遠から全部徒歩で重慶まで移動させられて、重慶で最後までおいでになった、こういう経過でありますが、十九年の秋に重慶に行っている六百六十九名ばかりの方々であります。つまりこの間途中でなくなった方もある。これは年次別に全部ございますが、この移動の途中でなくなった方がたくさんあります。かかえていて死んでいくというようなことで、看病などして、最後に全部で六百六十人ばかりを引率して終戦後帰ってくることになったわけであります。
ところが、この方々は自分でやってきた方々ばかりでありますが、ちょうど一緒に収容所においでになりました仲間の一人にお坊さんがおいでになりまして、この人が滋賀県のお寺さんでございますので、そこに供養塔をつくって、生き残った方々が滋賀県大津の月心寺というお寺で、村上どくだんという西本願寺派の有名なお坊さんでありますけれ
ども、そこへ毎年必ず集まってやっている。したがって、こういう方々がいろ相談して、時の
経緯を全部知っているわけです。
この八百九十九柱の中に、この重慶の収容所の
関係の方が三十八柱あるわけです。これは自分たちがみとった方々でもございます。たいへん収容所では親切にしていただいたそうでありますから、その中での不満はないそうでありますが、この間に紅十字の方々に中に入っていただいたりしまして、李徳全女史がおいでになったときに、この会の方々が会見を一時間ばかりいたしまして、そのときに八百九十九柱はこういうふうにしてやろう、三十八柱は軍人と民間と分けてあってこうなっているという話があって、そしてできるだけ早く帰すという話であったのですが、
政治的に話が進まずに今日に至っている、こういうわけです。
そうだとすると、向こうに行って、紅十字の方々だとか、再三お骨折りをいただいた李徳全女史、なくなっておられますから、墓参だとか何かの礼を尽くさぬことには、行きました、三時間でさあ帰りますでは、幾ら何でも慰霊、遺骨の方々に申しわけないと思う。ずいぶんお世話いただいた紅十字やその他の方々にも申しわけない。たいへんな三十八柱集めることについて努力をされた方々にも申しわけない。だから、やはり行った以上は、欲をいえば、途中でたくさんなくなったので、常徳、桂林から鎮遠の間、そこらの土な
ども許可を得ていただいて、いま滋賀県にみんなで金を出してつくっているこの部隊の慰霊塔の中に入れたいという話し合いも実はしている。そういう団体は
一つだけじゃありません。いま一例をあげたのですが、そういうことでございます。
だから私は、
官房長官の気持ちがわからぬわけじゃないけれ
ども、せっかく長い年月一日も早かれということでやってきた方々がたくさんいるのですから、そこらの声を聞く。実はきのう吉田法晴代議士等が、七、八名のそういった団体の方を集めて、
官房長官に面会を求めたいというのでここに来られたのですけれ
ども、
長官がお忙しい日程であったために、お目にかかれずにしまった。そこで、きのうは吉田法晴さんも、何とかこの
委員会で
官房長官にそこらも訴えて、いまの、一往復ということについて声を大きくして言われたというのですが、少し声を小さくしていただいて、
関係団体等との話し合いも少ししていただいて、そこらも御尊重いただいて、何とかひとつそういう話し合いを進めた過程で再考願うという御配慮をいただけぬか、こういう話を実は私
ども直接いただきまして、それで実はきょう御出席いただいた、こういうわけなんで、そこのところを言い切りにしないで、少し話し合いの余地をおつくりいただけぬか、こう思うわけであります。三時間ではいかんともなしがたいわけであります。