○広瀬(秀)
委員 私のところの
資料によりますと、四十六年で相続財産の種類別表がありますが、四十一年当時は
土地の財産価額が五八・八%であった。これが四十六
年度ではもう七〇%になっている、こういうことになっていますし、さらに宅地は四二・五%が逆に三九・九というような、むしろ奇妙な数字が出ているんですけれども、いずれにしても
土地全体でかなりの
上昇を示しておる、こういうことであります。その他はみな幾ぶんずつ減っているというような数字になっているわけでありますから、相続税を審議する際にやはりわれわれがいま最も重点的に
考えなければならないことは
土地問題である、地価の
上昇ということだろうと思うのであります。いまの数字を別に訂正してもらわなくてけっこうでございますが、私が出した数字はやはり
大蔵省からとった数字ですから、そういう
状態になっているということであります。
そこで、そういう
状態で
先ほど荒木
委員も質問をいたしましたけれども、相続税というのは一体どういう
機能と目的を持つものであるか。これも
大蔵省の「私
たちの税金」という本によりますと、富の過度の集中を排除して再分配をはかるんだ、生存中に国から受けた便益の提供による蓄積財産を国に還元をする、こういうことも書かれております。納税者が相続や贈与によって偶発的に受けた富に担税力を求めていくんだ、こういう被相続人の立場、相続をする者の立場、両面からそういうことをいわれておるわけであります。そして特に、相続の時点で、被相続人の一生を通じての租税負担を清算をする、こういう意味で、言うならば所得税の補完税であるというように説かれておるわけであります。
先ほどからの御答弁の中にもそういう
趣旨での御答弁があったわけでありますが、さて私どもが
考えまするに、この相続税の負担が逐次
上昇をし、税収においてもかなりの税収が見込まれてきている。四十四年当時に六百四十五億
程度であったものが、四十八年の見込みでは大体千百七十億になる。これはおそらくこれ以上になることはほぼ間違いないであろう。そうすると、大体四十四年から比較しても二倍くらいにはなるんだ、税収の伸びも。やはりそれだけ多くの人が課税をされ、またその
土地の
価格上昇によって、居住に必要な必要最小限度の狭いところではあるけれども、まわりの地価が上がったということで、たとえば都会に住む人
たちが重い相続税を負担しなければならないというようなことになってくる。これは、居住をする、生活をそこで営むということ、それによってその人がその生涯を通じて、サラリーマンとして、労働者として、その賃金稼得者として生きてきた、そしてその住まいに要した必要最小限度の
土地というものは、いわゆる営業的な利益を生むことでも何でもなかった、国からも別にそれほど便益を提供された覚えもない、それでいながら、いつの間にかその
土地の評価だけは上がって、固定資産税の負担に苦しめられながらきたというような者が、たまたまその労働者がなくなって、いままで養ってきた子供や奥さんに相続をされる、こういうような事態のときに、その人
たちの生活を根底から破壊するような事態にも、いまのこの税法のたてまえからいえば、なりかねない。そういうようなことで
相続税法というものははたしていいのだろうか。
おっしゃっていることはそれなりにわかるけれども、そういうことを
考えるならば、これは何かもっと発想の転換というようなものを相続税についてやらなければいけないのではないか。やはり相続人の生活がそのことによってそこからどこかへほんとうに追い出される、あぶり出されるような事態というものは避けなければならない。基礎控除だとか、そういうものが低いということもあるかもしれぬけれども、しかし、そういうものを画一的につくれば、これは大都市と過疎地帯との間にいろいろな条件の差というものも出てくるから、税法はやはり画一的だという形の中ではなかなかカバーしきれない。そういうことになれば、そういう相続という段階において、
先ほど読み上げたようなこと以上に、生活の破壊、もうそこで生活することはまかりならぬというような事態にまで追い込むことはおかしいのではないか。相続税がそういう
機能を果たすということになってくるとするならば、あなた方がおっしゃっていることはもっともなことであるけれども、これは現実に合わないものになってくるのではないか。そうだとすれば、この
程度の基礎控除だとか配偶者控除の引き上げだとかいうものだけでは、特に今日の大都市における地価の
上昇という事態はカバーしきれないというような問題と、
相続税法の今日のたてまえというものをかみ合わせた場合に、もう時代的な感覚が完全にずれてきているのではないか、こういうことが
考えられるわけです。そういう点について何らか新しい発想の転換の上に立った
相続税法のたてまえというものを
考えなければならない時期に来ていると私は思うのですが、いかがでございましょうか。