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林参考人 林でございます。
いきなり私
個人のことを申し上げてちょっと恐縮なんですけれども、私はことし五十七歳になります。この五十七歳になるまでいろいろな
経験をしてまいりましたけれども、私の前半生は、
行政官として
かなりの年月にわたりまして
行政的な
仕事をやってまいりました。それから引き続きまして今度は
東京工業大学という
大学で、
大学人として現在数年をすでにけみしたわけであります。そうして今日、かたわら
財団法人の未来工学
研究所という
一つの
シンクタンクの
所長も兼ねてやっておるわけであります。そういうようなことで、私
個人の
経験に照らし合わせましてもいろいろなことを感ずるわけでありますが、さらにその間、
期間はそう長くはございませんでしたけれども、
アメリカのある
大学で
客員教授としてしばらく滞在いたしまして、
アメリカの
教育並びに
研究ということの
実態を身近にはだで感ずることもございました。
そうした私の体験をベースにいたしましていろいろ感ずることがあるわけでありますが、ただいままで
田畑さん、
野田さんが言われましたように、現在これは
日本だけではありませんで、
世界じゅう、特に
工業国であればよけいそうでありますけれども、いろいろなやっかいな問題が次々に起こっております。
いまよく
工業化社会から
情報化社会に入りつつあるんだということをいわれますけれども、確かに、
世界的な第二の
産業革命といいますか、非常な
社会変革の
過程にあることは事実であろうと思います。
日本はその中で、最もその渦の最先端に立っているということも、これまた事実であろうと思います。つまり新しい
変化が次々と起こってまいります。そしてその新しい
変化というのは、いずれもいままでの
経験ではなかなか律しきれないといいますか、見当のつかないようなことも含んでおりまして、しかも、その
変化の
規模というのがきわめて局部的なものばかりではありませんで、非常に大きな、場合によりましては
世界的な
規模、全地球的な
規模で影響を与えるような非常に大きな
変化がいろいろ起こっております。たとえて申しますと、公害の
問題等がそれでございますが、そのほかにも、数えあげていけば私
たちの周囲にいろいろなことが起こっておるわけです。
そういうようないろいろな問題が起こってまいります場合に、
評論家の
人たちはそれをいかにも
人ごとのようにいろいろ言うわけでありますが、しかし、それをただ評論しているだけでは何にもならないのでありまして、問題が起こりますと、その問題をとにかく
解決していかなければならないわけです。その問題によってとにかく非常に苦しむ人が出てきたり、あるいはもっと端的に申しますと、いろいろな
意味での
犠牲者が出てくる。それをそのまま済ましておくわけにはいかないわけでありまして、いま
野田さんが言われましたように、
問題解決型という
ことばがございましたけれども、とにかくいろいろな問題が起こってまいりますと、その問題を具体的に
解決していかなければならない。しかも、その
解決は、いわゆる対症療法的といいますか、
応急処置でいろいろな
処置をするということも場合によっては必要でありますけれども、それだけではやはり足りませんで、問題の
根源にまで立ち入りまして、どうしてそういう
変化が起こってくるのか、その
因果関係を的確に見きわめまして、そしてその原因に対して適切な
処置をするというようなことがどうしても必要になってまいります。
確かに、先ほど
田畑さんもおっしゃいましたように、
日本の
行政機関というのは、そういう点では
世界的にも非常にすぐれた
ブレーンを持っておりますし、そういう
調査研究能力という点でも私はたいへんすぐれた
能力を持っていると思うのですけれども、しかし何と申しましても、
行政機関はやはり日々の
行政というものと取り組まなければならない、それは当然のことであります。そういたしますと、どうしても問題が大きければ大きいほどその
根源に立ち返って、この
因果関係を冷静に分析いたしまして、そして病理学的な
処置をするというところまでは、幾らそういう
意欲がありましても、なかなか現実問題として手が及ばないということがあるのは当然であります。
そこで一方、今度は
研究の場といたしましては
大学がたくさんございます。これも先ほど来お二人の
参考人の方が言われましたように、
日本には、
個々の
専門領域では優に
世界的な水準の
頭脳と腕の持ち主といいますか、そういうすぐれた
研究者、学者がたくさんおられます。そういう方が、いままでは、多くは
大学、それから
既存の
研究所等におられたわけです。ところが、そういう
既存の
研究の場では、
インターディシプリナリーという
ことばがこの
シンクタンクでよく出てまいりますが、
野田さんはそれを
学際という
ことばで表現されました。いろいろな
専門分野を越えて
一つの共同の場をつくる、そういうことになりますと、いろいろな点でどうも不都合なことがいろいろ出てまいります。
たとえて申しますと、
大学における
講座制、これは古い伝統を持っておりまして、いわゆる
縦割りというものができておるのですが、そこでそういう
講座制のワクを越えまして、
一つの
インターディシプリナリーなチームをつくろうということになりますと、いろいろ制度的にもむずかしいことがありますが、長年そういう
講座制の中でずっとやってまいりました
研究者には、
研究者自身のマインドといたしまして、なかなか
自分の土俵の外に出たがらないというような習性もございます。
ここで、
ことばの
意味をくどくど申し上げるまでもないのですが、
インターディシプリナリー、ディシプリンというのはいろいろな
専門領域ということですが、そこにインターという
ことばがついております。そのインターというのは、そこにいろいろな異なった
専門領域があるということを前提にしておるわけでありまして、したがって、いろいろ異なった
専門領域の人が異なった専門、つまりいろいろな異なった土俵があるわけですが、その異なった土俵から出て、そして新しい土俵をつくろうというわけなんです。ところが、その場合に、どうも従来のそういう
縦割りの
社会でありますと、それぞれの土俵の中から犬の遠ぼえみたいにいろいろなことを言う、あるいは茶飲み話的なことですと、
専門領域を越えていろいろ
意見を交換することがありますけれども、さてその
専門領域をそれぞれ出て、そして新しい土俵をつくって、その土俵の中で新しくいろいろな問題を
解決していこう、つまりそのために実際の
研究をそこでチームを組んでやっていこうということになりますと、どうもそのもとの土俵が気になるといいますか、そういう
傾向が強くなりまして、足のつま先ぐらいはちょっと土俵を出ますけれども、本格的に上表をおりて新しい土俵をつくるということになりますとなかなか憶病になってしまう、こういう
傾向があるわけであります。
一方、
大学だけではありませんで、
既存の
研究所もたくさんございます。それから最近は、そういう
シンクタンクといわれるような、最初から総合的な
インターディシプリナリーな
研究をやることを目標にいたしまして
問題解決のための方策を見出そう、そういうことをやっている
研究所もだんだん出てきております。そういうところでいろいろ
問題解決のための
研究をやっていますと、私
自身も若干そういう
経験があるわけですが、非常に痛感いたしますことは、最近非常な勢いで技術革新が進んで、この技術革新の結果いろいろな新しい物質が出る、いろいろな新しい機械が発明される、いろいろな新しいシステムが設計される、そういうことが次々と起こってくるわけですが、そういう新しいもの——ものというと少しおかしいのですが、いろいろなそういう物質であるとか、機械であるとか、システムであるとか、そういうものを含めましてそうい新いもの、それをひっくるめましてハードウエアという
ことばを使いますと、そういういろいろな新しいハードウエアがつくられる。新しいものがつくられるのですが、その新しいものが結局は
社会の中で使われるわけであります。
ところが一方、
社会の中にはいろいろな
価値観を持った
人間がおります。そこで、これは
価値の多元化ということがしきりにいわれますが、とにかくいろいろな
価値観を持った
人間がおるわけであります。したがって、
人間の欲求なりニーズなりもそれだけ非常に多様化しておるわけです。もともとそういう
人間の欲求やニーズに基づいて技術革新がいろいろ新しいものをつくり出すわけなんですけれども、しかし、そのつくり出された機械にしろ装置にしろ、そういうようなものを、たくさんの
価値観を持った人が一ぱい集まって共同生活をしておる
社会の中で実際に使っていこうということになりますと、結果的には、ある人にとってはたいへんありがたいことだけれども、ある人にとってはそうでもない、また、ある人にとっては逆にとんでもないものが出てきたといってそれを敵視するというような、そういう非常にごちゃごちゃしたことが起こってくるわけであります。
そこで、そういう場合に、非常に多様化した
価値観によく対応して、そしてそれぞれの人にうまくマッチするような、そういう使われ方、そういういうようなことはないものだろうかということを
考えてみますと、それはないことはないと思うのですけれども、そのためには結局多元化した
価値観の
実態というものはどういうものであるのか、それと、われわれがつくり出してきたいろいろな、ハードウエアと私さっき申しましたけれども、それとの結びつきをどういうふうにやっていくのか、これはよほど立ち入った
研究、勉強をいたしませんと、なかなかおいそれと答えが出てまいりません。私は、そういうような新しい
研究領域を
社会的なソフトウエアというふうに言っておるのですが、コンピューターの場合に、コンピューターの機械の実体は、機械でありますからハードウエアですね。ところが、それを使いこなす利用技術、それをソフトウエアと言っております。つまり、ソフトウエアが非常にうまく開発されませんと、せっかく大きなコンピューターを買ったはいいけれども、宝の持ちぐされになる、これは御承知のとおりであります。同じように、次々と新しい機械を私
たちがつくり出す、たとえば新しいジェット機を開発する、そのジェット機を開発しても、それをうまく運転する、その運転の
方法をうまく会得いたしませんと何にもならない。これは要するにソフトウエアであります。
ところが、それだけではならないのでありまして、それを今度
社会の場でうまく使いこなすためにはいろいろなことが要ります。まず第一に、どういうふうなダイヤの編成で、どういうネットワークで運転させたらいいのか、あるいは飛行場をつくるときにその住民のニーズとどういうふうに組み合わせていったら一番いいのか、あるいは飛行機の性能として、いい性能はむろん言うまでもないのですが、同時に起こってくるやっかいな、たとえば非常な騒音であるとか排気ガスの問題とか、いろんなそういうようなことをどういうふうに
解決していったらいいのか、そういうようなことがいろいろあるわけです。そういうようなことをひっくるめまして
社会の場の中でそれを最も理想的な形でうまく使いこなす、そういうことのための新しい
学問、
研究というものが必要になってまいります。そういうようなことを私は
社会的なソフトウエアをつくるんだというふうに言っておるわけですが、そのためには、さらに基本的な
学問というものが非常に必要になってまいります。それを一口でソフトサイエンスという
ことばで表現しておりますが、そういうことになってまいりますと、このソフトサイエンス自体、非常にすぐれて、いろいろな
研究分野を離れて新しい土俵というものの中での
研究ということになるわけです。そうなりますと、どうも
既存の
研究所ではいろいろとうまくないことが起こってきます。
さて、そこで
シンクタンクというものがそういう輿望にこたえていまいろいろできつつあるわけでありますが、この場合に二つの方策があると私は思います。たまたまこの
総合研究開発機構の
法案ではどういうことをやるのかということを読んでみますと、そこにいみじくもうまく表現してございますが、たとえばこれが
総合研究開発機構であったといたします。そうすると、これは、上、下という表現をするのはほんとうは穏当でないのですけれども、便宜的にそういう表現をお許しいただきたいと思うのですが、この上に——この上というのはあまりこだわらないでいただきたいと思うのですが、この上に、各
行政官庁あるいは会社でもよろしゅうございます。
行政でもよろしいし、
企業の
活動でもよろしいのですが、実際にいろいろな事業を日々やっている、そういう
機関といいますか、組織体があります。それはそれぞれ
研究所を持っておりますし、それぞれそこに
ブレーンを持っているかもしれないのですが、とにかくそういうのがある。一方今度はこの下に、それぞれの
研究所であるとか、あるいは
シンクタンクがたくさんあります。そういう
関係を
考えてみました場合に、いままでは、たとえば
企業がその
研究所に
研究を委託する、あるいは
行政機関が直接いろいろな
シンクタンクに
研究を委託する、こういうことをやっておるわけです。むろんそれも
一つの
方法として、これから先も大いに必要であろうと私は思います。
ところが、実際に問題を
解決するためにいろんな
研究をやっていくということになりますと、つまりそういう注文主に応じて
研究をやっていきますと、問題を
解決する
過程で、注文主とは
関係のない、つまりお隣の、直接それを注文しなかった組織体なんですが、そこの
仕事に非常にかかわり合いのあるような、そういうようなことも言わなければならぬということもいろいろ出てくるわけです。つまり、それほど問題が非常に複雑にからみ合っておりまして、問題が根が深いわけですね。
そこで、そういうような非常に広い問題になってまいりますので、ここに
総合研究開発機構のような、何かそういうボディができるといたしますと、そこに全部問題をほうり込みまして、そこで今度は
総合研究開発機構でいろいろ問題ごとにオリエンテーションをしまして、そうしてそれぞれの問題ごとに非常に平仄の合った
一つの
課題としてそれを整理し直す、そうしてその
課題として整理し直したものを、それぞれの
研究所あるいはそれぞれの
シンクタンクはそれぞれのえてを持っておりまして、それぞれにその得意な
分野を持っていなければなりませんから、その最も得意とする
シンクタンクなり
研究所にそのある
課題を委託するというような形にいたしますと、その委託を受けた
研究所なり
シンクタンクなりは、直接それがどこの組織体から来ているのかということはよくわからない。そうすると、最初から迎合するようなことを
考えたりというようなことなしに、きわめて厳正
中立的な立場で
問題解決の答えを出すことができます。そうしてそれをこの
機構にほうり込む、それを今度はまたその
機構でそれぞれの親元に編成し直して答えるというような形にいたしますと、
問題解決の処方といたしましても非常に
中立的でしかも正しい答えができるのではないか、場合によっては、それが親元の委託主に返ったときには、委託主にとってははなはだ耳の痛い答えになってくるかもしれません。それが最初から直接でありますと、やはり人情で、あまり耳の痛いことは言いたくないというようなことになって、結局正しくない答えになるということもありますけれども、そういうフィルターが途中にありますと、たいへん正しい答えが出て、しかも
研究が非常にしやすくなるのではないか。一方それは、ものによりまして、いままでと同じようにそれぞれの委託主が直接委託をする、そのほうがいいものもむろんありますから、すべてそれに一元化する必要は毛頭ないと思います。しかし、少なくともそういう二つの道というのが
日本にとって非常に必要ではないかということを私は
自分の体験を通じて非常に感ずるものでございます。
いまのところは、そういういま申し上げました、途中でいろいろな注文を受けてそれをオリエンテーションしてそれぞれの
シンクタンクに再委託する、そういうような
機構がございませんので、どうもその間いろいろな点で答えが中途はんぱになってみたり、あるいは途中で妙な遠慮をしてしまったり、そういうようなことがあるおそれがあるわけであります。したがいまして、そういう二本立てでやっていけるというようなことになりますと、私は、
問題解決のために、従来のような単なる対症療法的な
解決の答えだけではなくて、
かなり問題の
根源にさかのぼる抜本的な答えというものを期待することができるのではないだろうか、そういうふうに
考えるわけであります。
以上、いままで私の
個人的な体験を通じまして感じましたことを申し上げまして、あと何か御質問がおありになると思いますので、その御質問に応じてまたお答えをさしていただきたいと存じます。どうも失礼いたしました。