○
力石公述人 私は、
年金制度につきまして
日本独特の
積み立て方式をやめて
賦課方式に転換すべきであるという
意見をかねてから主張してまいりましたので、これに対するいまの
政府及び当局の反対の論拠につきまして、
経済理論的に少し問題にしてみたいと思います。
まず、世代間の
負担の不公平が起こるから
積み立て方式でなければだめだという
意見でございますが、つまり
老人が一九七〇年には六十五歳以上が人口の七・一%、紀元二〇〇〇年には一三・四%にもふえる。そのときには
負担が非常に高くなるから、できるだけ
積み立て金を残して将来迷惑をかけないように持っていかなければいかぬ、こういう
考え方であります。したがって、世代間の
負担の不公平ということが非常に大きく強調されています。この問題を
考える場合に、
イギリスやその他で
議論されたことが
日本では忘れられていると思います。それは、
老人の扶養
負担だけを比較してはいけない。世代間の
負担の公平性を
考える場合には、子供の
負担のことも同時に
考えなければいかぬ。一九七〇年には十四歳以下の子供が二四%おりましたけれども、紀元二〇〇〇年にはこれは二一%に減少するわけであります。
老人のほうは六・三%ふえますけれども、子供のほうは三%
負担が減る。したがって生産年齢人口は三・三%落ちるだけなんですね。
所得はずっと上がっておりますから、ここに
負担の不公平というものは成り立たない。左の肩が重くなるけれども右肩は軽くなるということでありまして、かえって次の世代のほうが
負担は軽くなるという説さえあります。この前石垣純二さんと話しておりましたら、彼はそういう説でありまして、つまり
老人と比べて子供はよく食うし、服はよごすし、教育費は非常にかかる。かえって次の世代のほうが軽くなるのだから
負担の不公平なんということを言うのはおかしいのだということを言っておりましたが、こういう
議論はヨーロッパでは
議論をされております。ところが
日本ではまだそれがやられておらない。これは非常に片手落ちではないかと思います。
一九六〇年には生産年齢人口は六四%だった。紀元二〇〇〇年の生産年齢人口は予測では六六%でありまして、つまり子供が多かった六〇年代の初めよりも紀元二〇〇〇年にはまだ生産年齢人口のウエートは高いわけであります。二〇〇〇年以後のことにつきましては、これは人口統計の予測は
意味がないわけであります。それまでの人口政策や住宅政策その他で変わってまいりますから、大体三十年のワク内がまじめな予測で、それ以上のことは完全な概想にすぎないわけでありまして、これについては、あまりそこまで
考えるというのは不健全であるというふうに思います。そう
考えますと、世代間の
負担の不公平というものは起こらないと見るべきではないか、これが第一点です。
それから第二番目には、次の世代にあまり
負担にならないように
積み立て金を持っていくといいましても、
所得は二、三十年
たちますとはるかに上がっておりますし、それから元金はどんどん減価しておりますから、
積み立て金の
意味がなくなってくるわけです。あまり足しにならない。いま使えば非常に
老人には足しになるものが先に行けば行くほど足しにならない
積み立てをやるということは、これは
意味がない。この点で第二に問題になってまいります。
それから第三には、掛け金がどのくらい上がるかという問題でありまして、実際にそんなに高い掛け金はとれないとよくいわれるわけでありますが、
厚生年金で見ますというと、いま労使折半しておりまして、勤労者は三・二%、合わせて六・四%の
負担をしております。これだけ
賃金から出しているわけですが、これが紀元二〇〇〇年には大体二〇%、労使折半としますと一〇%ずつ
負担するということになるわけです。徐々に
負担金としては上がっていかざるを得ない。これは当然だと思います。ただ、勤労者にとって三・二%から一〇%への増大というものはほんとうに
負担の増であるかということを、ちょっと頭を冷静にして
考える必要があると思います。これは実は勤労者にとっては
負担増ではないと私は見ております。といいますのは、勤労者はいま老後不安のために猛烈な貯蓄をしております。
日本の個人貯蓄率は二一%といわれますが、外国の場合は八%か、せいぜい
ドイツのように高くても一二、三%であります。この中には相当大きな老後貯蓄を含んでおりまして、三十歳ぐらいになるともう前途不安でありますから一生懸命ためている。ためたやつがどんどん減価する保険やあるいは預金をしているわけであります。こういう不毛な貯蓄をやめて賦課金にかえればいい、掛け金にかえればいいわけですから、
負担の増ではないと見なければならない。不毛な貯蓄をやめて掛け金にかえておけば、この掛け金を払っておけば次の世代の
所得にリンクして
年金をもらえるわけでありますから、このほうがずっと有効な投資であるというふうに
考えますから、勤労者にとっては
負担増ではない。特に、かえって長男については助かるような
感じがいたします。長男は、たとえば
老人を扶養しているといたしますと、相当金がかかるわけです。それが一〇%で済むということは、次男、三男あるいは全然親のない人、そういう
人たちも掛け金を払って、それがプールされて自分の親へいくわけです。自分は一〇%だけ払っておけば、これがぐるっと回って親へいくわけでありますから、長男の
負担はならされてかえって楽になるということであります。こういうことも
考えてもらわなければならない。いま次男、三男の人で親に仕送りしないで、見向きもしない人がたくさん出ておりますけれども、こういう
人たちは親が死んだら遺産だけよこせというわけです。これは
負担の不公平でありまして、こういう点でも、親に対して仕送りをするかわりに
負担金を払っておくということであります。そうしますと長男は非常に助かるということでありまして、ならされるわけですね。それから、親がない人はこれをやっておけば次の世代からもらえるわけです。それから子供を生まない人も
——これからは人口ゼロ成長ということがいわれておりますが、こういう子供をあまりつくらない場合でも安心していられますし、それから子供の扶養意識がだんだん減退しております。昔の大家族
制度のもとでは、親を養っておけば子供は必ず返してくれるということで、返ってきたわけですが、これがだんだん循環がうまくとれなくなってきています。
昭和三十七年には、六十五歳以上の
老人の約七七%が子供の世話になっております。これに扶養されておりました。四十三年には五六%にもう落ちております。そしてそれをずっと概想してまいりますと、現在おそらく六十五歳以上の
老人の四五%の人がやっと子供にめんどうを見てもらう。
あとの人は乏しい
年金で生活するか、老躯にむち打って働きに行くか、あるいは乏しい、インフレで減価する預金を、どっちが先に
——自分が死ぬのが先かあるいは預金がなくなるのが先かということで、はらはらしながら生活している。これが大部分であるというふうに思います。
これをずっと概想してきますと、われわれ中年層の次の世代はおそらくもう扶養してくれないのではないかという
感じがいたします。これはあぶなくてしょうがないから、一生懸命個人預金をしているわけですが、こんなことをしないで、
賦課方式にして、ちゃんといま親がなくてもその
人たちにかけておく、掛け金をやっておく。そうすれば、次の世代がたとえドラむすこであって、親を絶対見ないということになってもだいじょうぶなわけです。だから、あぶなくてしょうがないからぜひともいま
賦課方式にしておきたいというのが私
たちの
考えでありましていまの少年の諸君がわれわれを養ってくれる可能性は非常に乏しくなっている。これは客観的傾向でありまして、農業
社会、非近代
社会においては
老人は扶養を受けるという家族
制度の傾向があるわけでありますが、これが近代
社会になりますと、サラリーマン化、都市化、そういうのが進んでまいりまして、そういう扶養意識は
——かなり所得の高い人でも親にあまりお金を出していない人が最近非常にふえております。それから家庭内で、奥さんは出したいのだけれども、だんなが出したくないとか、あるいはだんなのほうが親に送りたいけれども、親が違う奥さんのほうがいやがるとか、こういう傾向が非常に強いですね。子供に対しては、扶養意識というのは
かなりまだ本能的に守られています。最近はだいぶロッカー族が出てまいりましたけれども、子供に対しては本能的に扶養意識は残るわけですが、親に対しては、近代
社会になりますとだんだん、これをどうも廃棄物として
考える傾向が出てまいりまして、老醜という醜でありますから、これは義務意識なしには見ないわけです。家族のレベルではだんだんむずかしくなっていく。そこで
社会的なレベルで、
賦課方式でもってこの
老人を見ていくということにしないと、どうしてもやっていけないということになるわけであります。そういう
意味で
賦課方式が望ましいというふうに私は思います。
それからもう
一つは、
老人の
人たちはあまりかけてないんだからあげる必要はないという
考え方、これも間違いであると思います。いまの
老人は
年金権を持っていると見なければなりません。四つの理由があります。まず第一に、いまの
老人は自分の親を見てきたわけですね。にもかかわらず、次の世代から見てもらえない人がたくさん出ている。これは
負担の不公平であります。この
負担の不公平を
政府は何と
考えるか、これが先ではないかということです。
それから、いまの
老人層は老後貯蓄を一生懸命やってまいりましたけれども、これはインフレでみんな減価してしまいまして、すっからかんになってしまった。そのインフレで減価した部分は資本蓄積に回ってわれわれのこの
経済をささえているわけでありまして、この一定の部分を回収する権限をいまの
老人は持っているわけであります。
それから第三番目には、いまの
老人はインフレで減価するから老後貯蓄をするよりも、やっぱり子供にとにかく教育しておくほうが得だと思って、一生懸命教育投資をやってまいりました。実にばく大な教育投資を、私的投資を含めてやってくれたわけであります。これで将来こいつに世話になろうと思ってやってきたわけですが、これがほとんど当てがはずれてしまいました。この教育投資の成果を回収する権限をいまの
老人は持っていると見なければなりません。
それから第四番目に、いまの
老人層の時代には、国会が公債不発行主義でありますから、二、三十年も四十年も使うような、孫子の代まで使うようなものを全部税金でやってくれた。元利償還金なしにわれわれはこれを使っている。本来、孫子の代まで使うものは、公債を使ってこれをやり、元利償還金をだんだん引き受けていくというのが世代間の
負担の公平というものなんですが、
日本政府は経常支出のほうで、
社会保障や教育なんかに使うべき金を公共投資に回しまして、当時の自己金融でやってくれましたから、われわれは元利償還金なしに四十年、五十年使うものをいま使っておるわけであります。本来なら元利償還金を引き受けなければいかぬ、それを
負担するという
意味でも、いまの
老人に対しては、
積み立てておかないで、いまの
老人にあげてしまうというのが
社会保障の
所得再分配の理論にオーソドックスに沿っているというふうに
考えるわけであります。こういうことで、
老人にあげるべきだというふうに私は思います。そして、このあげることによってどういう変化が起こるかということをちょっと
考えてみたいのですが、家庭内でどういうことが起こるかといいますと、いま
老人は家庭内でおもしろくないけれどもがまんして住んでおる人が非常におるわけですね。家がない、
年金もないから別居できない。ほんとうなら別居したいんだけれどもするわけにいかぬ。やむを得ず同居している。いつも内戦状態で、冷戦状態を家内で繰り返している。こういう
人たちが、
年金を
賦課方式に基づいてたっぷりもらうことができれば、そうすれば、せめて台所を別にする、これだけでけんかの材料というのは
かなり減るわけであります。
それから
年金をもらっておりますと、元気な
老人で働きに行く場合でも、無理な仕事を選択しないで、軽い仕事を選べる。いまは
年金がないものですから、もうしょうがない、ダンピングだというわけで、非常に重労働を選ぶ傾向がありますが、これは非常にあぶないわけです。たとえば高速道路のもぎりなんかやっておりますが、ああいうのは
老人には全然向かない職場でありまして、そういうことを
年金が乏しいと選択せざるを得なくなるということで、非常に影響が
——この
年金を出すことによって、こういう点を改めることができます。
それからいまの
老人に対してたっぷりお金が出るということは、マーケットが非常に変わってくるということであります。外国のデパートには
老人コーナーというのが必ずございまして、
老人のものをいろいろ売っております。電子補聴器や電動車いすや年寄りのおむつやいろいろ売っておりますが、
日本には婦人子供コーナーしかありませんね。これはおかしいのでありまして、
年金の生活者がたっぷりとお金を持っているということによって、そういうマーケットが設定されます。ボルボという
スウェーデンの自動車会社は電動車いすをつくっておりますが、
日本のトヨタ自動車はそういうものをつくっておりません。こういうふうなスタイルの違いをはっきりとわれわれは見ることができます。
それから
年金をたっぷりと出しますと、流通機構の非近代的な部門、たとえばじじばばストアなんかにしがみついている人がたくさんいますけれども、こういう
人たちが、
年金をたっぷりもらうことになりますと、スーパーや協同組合がどんどん大量仕入れで安売りをする、とてもかなわぬと思うと、さっさと隠居してしまうわけですね。
スウェーデンでそういう近代的な流通機構の変革に対して零細な
老人層の企業が抵抗しない
一つの原因は、
社会保障が非常に進んでいるために抵抗しないわけです。だから、さっさとやめてしまう。そうすると、それだけ
消費者物価が下がってくるわけであります。
それから農村において非常に大きな影響が出てくると思うのです。現在、農村の就業比率は一五%を割っておりますね。これに対して、農村にいる六十五歳以上の
老人は四三%です。大部分の
老人は、いなか及び地方都市におりまして、若者が都会に出てくるわけですね。ですからこれに対して、若者が払う掛け金は
老人のほうに入ってきますから、これは地方及び農村に対して
所得が再配分されるということであります。これができますと、相当農村に影響が出てくると思うのです。たとえば、いま農民は米価を押えられているから
所得が得られない。そこで、たくさんの家族をかかえていて苦しいものですから、みな出かせぎに行くわけです。出かせぎに行くときに、もうこれは省力化をしなければいかぬから、農薬と肥料をやたら使うわけです。農業は公害状態です。そして土地はどんどんやせていっているわけですね。そこで、これはいかぬというわけで、まじめにやってもらわないと農産物が足りないというので、今度は米価を上げるでしょう。そうすると、今度はどうなるかというと、インフレ圧力を強める。それから米価を上げますと農地を集合して大農地をつくろうという気持ちもあまり起こってこないということになるわけですね。これは悪循環でありまして、むしろ、米価政策よりも、
年金を
賦課方式にしてやれば、たとえばいまの
積み立て金を一兆円ぐらいずつ取りくずして、
厚生年金、
国民年金のやつを、そのまま入ってきた掛け金を右から左に全部やってもらうということをやれば、月三万くらい一人当たり出せるでしょうから、そうすると、農家にそれがたっぷりいくわけです。これによって
所得保障をしておいて、農薬や肥料をやたら使わないでくれ、米価はある程度押えさしてくれということに交渉してみたらいいと思う。そうすると、インフレ圧力に対して相当相殺効果がある。たとえば、米価を上げることによって七千億円かせぐよりも、
賦課方式にして農家が一兆五千億円くらいもらったほうが得なわけであります。こういう
計算をもっとやってみる必要がある。そうすると、食管のほうのお金も
かなり浮いてくるわけでありまして、総合
計算で一番得なやり方というのはこういうオーソドックスなやり方が得なんです。それをオーソドックスにやらないで、ちょこちょこ非オーソドックスな政策をとるものですから、インフレがひどくなるし、むだになるということになるわけてありまして、こういうことももう少し
計算していただきたいと思います。
それからもう
一つ、企業でどういうことが起こるかというと、企業は、賦課金が上がりますと、これは退職金引き当て金を
年金に切りかえていくという形で対応するでしょう。しかし、
負担はある程度上がるわけですね。ですから、これは不平が出てくるでしょう。勤労者にとっては、徐々に賦課金が上がっていって、
負担増ではないと私は思いますけれども、企業側にとっては
負担増になるわけです。しかし、企業はもって瞑すべきであるというふうに思います。イタリアとフランスで問題が起こりました。イタリアが最終給料の六五%の
年金をやっておりまして、フランスは七五%、これで国際競争をやってみましたら、イタリアの冷蔵庫があまりにも競争力が強過ぎて、フランスの冷蔵庫を圧倒しました。外国がぶうぶう文句を言いまして、
年金が安過ぎるからだというので、結局一九六九年には、内圧と外圧と相まってイタリアにおいては最終給料の七五%の保障ということに
年金額を上げるわけでありまして、ソシアル・ロードファクターがそろってない場合には、われわれはヨーロッパ諸国に輸出もできなくなるわけであります。このことを企業家は銘記すべきであります。このトランジスターラジオで月幾らの
年金を保障しながらコストを
負担しているのですか、こう聞かれた場合に、七十歳以上の
老人に対して月五千円出していますなんて言ったら、問題になりませんといって断わられるわけです。そういうふうなことをもう少し検討して長期的に考慮しておかなければ、世界でつき合っていけないということでありまして、そういう点でも転換の時期が来ておるというふうに思います。
それからもう
一つは、銀行家が抵抗すると思うのです。というのは、不毛な預金をやめちゃって賦課金にかえるわけでありますから、そうしますと、預金が減少して、公的な資金のほうへ回っていくということで、銀行家は反対するでありましょう。しかし、これは銀行家が、あまりにも
社会保障が不備なために、みんなを貯蓄に追い込んでおいて、そして
自分たちが集めて、これでもって投機資金に融資したり設備投資競争に融資したりというふうなことをやっておる、こういうシステムというのはもう古いわけでありまして、本来近代的な銀行の姿というのは、そんなにやたらにデパート化して預金を集めなくって、設備金融まで全部やって、床の間の前にすわっておる、こういうふうなところはないわけであります。大体短期金融
——手形割引か、消費者信用か、国債引き受けか、そういう謙譲な役割りを引き受けるわけでありまして、そういうところへそろそろ
日本の銀行も入っていいのではないか。
社会保障が充実してあまり預金が集まらなくなって、個人貯蓄率がある程度落ちるということは、これは金融正常化につながるわけである。銀行よさようなら、という時代が
社会保障の充実を通じて起こってしかるべきである。
日本のように銀行がいばっている国はほかにありません。みな産業と平等でありまして、産業は自己金融で、乏しい資金でもそれをもっと効率的に使ってやっていく、過当競争をやりまくらないというふうな形に体質を変えるべきであるというふうに思います。
次に、大蔵省が財投資金にこれをあまり使えないというので非常にさびしがるわけですけれども、本来公共投資というものは
社会保障の金を横流しして使うべきものではないわけでありまして、財投で使う公共投資は、当然公共債として民間から資金を調達して、そして孫子の代までかけてこれを返していくという形にすべきものであります。したがって、
年金の
積み立て金をやめて、そこに穴があきます。その穴はどうやって埋めるかといいますと、いま公共債を
かなり積み立て金で引き受けておるのがありますが、すでに引き受けているものはこれは引き受けができなくなりますから、この資金調達は民間に回ります。民間は公共債を引き受けますと、だぶつき資金でこれに対応するわけですから、したがって、民間資金が公共部門に回るといいますか、公共部門へ資金配分が変わるということでありまして、これは
財政主導型の
経済成長というコースに沿っているというふうに
考えなければいけません。
〔塩谷
委員長代理退席、
委員長着席〕
いま
年金の掛け金なんかで公共債を引き受けたりなんかするものだから、民間が投資先がない。そこで民間企業にどんどん投機的な資金需要をかり立てて、借金なんか返してくれるなと言ってどんどん貸し出しを進めてしまう。公共債なんかちゃんと引き受けさせるべきであるということ、これはだぶつき資金の吸い上げにもなるわけでありまして、オーソドックスなやり方をとっていれば、こんなに民間金融が余ってしょうがないという事態は起こらなかったはずです。ところが国際収支の大きな黒字で、だぶつきをそのまま放任してまいりました。これは、
年金の
積み立て金なんていうものを財投の公共債引き受けなんかに使ったりするからいけないのでありまして、こういうものはどんとん民間、市中消化をはかっていくということで、インフレ抑制につながる、だぶつき資金を吸い上げる。こういうふうに、お年寄りにちゃんとしたことをやりますと、ほかの状況に大きな変化を及ぼすわけでありまして、霊験実にあらたかであるというふうに
考えます。こういうシステムの方向にいまや切りかえる段階がきたと思います。
ついでに、野党の
人たちの提案について若干触れておきますというと、
賦課方式ということをどういう形で取り上げるかというわけです。
国民年金と
厚生年金について直ちに
賦課方式に転ずる、それから、
政府がある程度の補助金を出して
負担をしていくということも必要でありますが、もう
一つの問題は、早く
国民年金と
厚生年金をプールしまして、
積み立て金をもっと全
社会的に使えるようにすべきだ。
厚生年金のほうだけたっぷり支給をやっておいて
積み立て金は
かなり残す、そしてほかのはほかので別々に、
積み立て金をやめて
賦課方式に
国民年金はもう即時いきなさい、われわれはまだ残しておきます、こういうことはおかしいのでありまして、大体、私は
厚生年金に入っていますけれども、私のおやじは
福祉年金組だし、おふくろは
国民年金組なんです。だから、われわれの
厚生年金の
積み立て金はどんどんほかのグループにも使っていただいてけっこうなんでありまして、いまの労働者諸君は、大部分が
福祉年金組やあるいは
国民年金組の親を持っているわけです。この点について、もっと統計的な調査をやってごらんになるといいと思う。そうすると、
積み立て金を残しておいて、財投に使ったりしてインフレで減価するよりも、いまの
老人にやっておけば、自分の親に仕送りをするのがだいぶ減るわけですから、ずっと得なわけですよ。そういう点をもっと
計算して、
厚生年金組の労働者諸君も
考えてもらいたい。その点が野党のほうで考察が少し欠けているというふうな
感じがいたします。
それからもう
一つは、農民の諸君が出かせぎをやめて、もっと有機肥料を使ってまじめに農業がやるようにできる、そういう
年金が農村に非常に出てくるということ、これは私注目したいのです。いま農民の人は、出かせぎをやって、
あと半分失業保険で食っているわけですよ。ところが出かせぎをやらないで、農村でまじめにやるようになりますと、失業保険は
かなり浮いてきますね。この分を労働者諸君は、失業
保険料を少し安くしてくれというふうな形ではね返りを期待すべきではないかというふうな
感じもいたします。
もう
一つ、時間がありませんので最後に触れておきたいのは、いまの農村の
老人層とそれから中年の
人たちが、自分が老後は
心配だから親を見ている人が半分はいるわけですね。六十五歳以上の
老人がいま四五%は子供に見てもらっているのですが、この見ておる人は、親を見ておって、同時に、子供に世話になる可能性がないから、老後貯蓄もやっているわけです。二つ一緒にやっているわけですから、いまの中年層は実に二重
負担でありまして、昔は、親をやっておけば子供は必ず返してくれたわけですが、今度は返してくれないですから、あぶないから一生懸命老後貯蓄をやっている。これを
賦課方式の掛け方をしておけば、それがくるっと回って、親へ行って、その掛け方をしておけば次の世代から取ってくれるわけですから、いまの老後貯蓄を
かなり削減できますから、中年及び高年の要求、それとそれから
老人とのブロックであるということであります。それから、支給される先は地方都市及び農村に出てまいりますから、自分の郷里に対する支出になりまして、これは都市勤労者と農村の勤労者のブロックであります。こういう布陣になるわけでありまして、こういうことを
考えて、もう少し
厚生年金の
人たちは、
積み立て金を早くほかのほうへもどうぞ流用してくださいという
態度をとっていただきたいというふうに思います。
それからもう
一つは、これをやらないと
日本の保守党というのは非常なピンチに立つということであります。といいますのは、
日本の
老人層は大部分、いま言いましたように農村におるのです。農村におりまして、これがもっと目ざめてこれを要求するようになりますと、応じないと非常にあぶないわけです。これが保守党の大部分をささえているわけでありまして、しかもこの一票は都市の三倍の効果がありますから、実にキャスチングボード的な役割りをしている。したがって、労働者の諸君は、これを統一要求にして行動なさるということでありまして、エネルギーのほとんど七割方はこれに注ぐことが、いまの生活
改善にとって非常に決定的な
意味を持つというふうに思います。
日本社会が進歩するためにはこの問題をぜひ大きく取り上げていただきたい。しかもこういうふうな
年金の
賦課方式というのは、決して
社会民主党がやるものと限っていないわけです。アメリカではルーズベルトが
賦課方式を、一九三五年に
積み立て方式で出発したやつを、四年たったら、これはナンセンスだといって一九三九年にすぐ
賦課方式に変えております。ヨーロッパ諸国では大体
社会民主党
政府か、あるいは
ドイツなんかの場合は、アデナウワーが一九五七年に
賦課方式を取り入れております。こういう
意味で、決してこれは保守、革新なんていうことではないわけでありまして、われわれがほんとうに落ちついた生活をするために、近代
社会の基礎前提であるというふうに
考えて、与野党一緒になって
考えていただきたいというふうに思うわけであります。
どうもありがとうございました。(拍手)