○田口
委員 よくわかりました。
そこで、いま
援護ということばが出てきたのですが、別にことばじりをとらえる意味じゃありませんが、
社会援護という
考え方について、先ほど申し上げた自分の経験から
感じておることをずばり言って、その辺の定義といいますか、扱い方をひとつお聞きをしたいと思うのです。
先ほどケースワーカーの経験を持っておると言ったのですが、ちょうど
昭和二十六年、二十七年、それから二十八、二十九、三十年ごろまでの間に私が扱った被保護世帯、
生活保護ですね、大体八十二、三世帯あったのですが、それを大きく分けますと、三つの世帯構成、それから
生活保護を受ける原因というものが出てくると思います。
〔
委員長退席、伊東
委員長代理着席〕
その第一はいうところの母子世帯、それから第二は老人世帯、第三は、いまもそういうことばがあるかどうか知りませんが、医療の単給から始まって併給という状態になってしまう。
その第三の問題は別といたしまして、第一の母子世帯の
生活保護を開始する原因をさらに調べてみますと、
一つには、その当時はこういう
援護法がありませんでしたから、すべて
生活保護法で包括しておって、夫が戦死をする、
子供が戦死をする、こういったことで収入の道がないから、結局
生活保護を開始せざるを得ない。こういう世帯につきましては、母子世帯の中でも
一つの類型として言えると思うのです。
それからもう
一つの母子世帯は、引き揚げてきて、その途中で夫がなくなったとか、それから
戦争当時ありましたように、疎開ということで強制疎開をさせられて、おやじさんが軍需工場なりその他で都会に残る。妻と
子供が縁故をたずねていなかに疎開をする。そのおやじさんが空襲その他でやられて、身寄りといっても、あの当時ですから、そうそう
生活が十分でない。結局
生活保護の開始をする。こういう母子世帯の二つに、大別すると分けられると思います。
さらに、第二の老人世帯の場合にも、いま言いましたように、働き手が戦没したとか病死したとか、いろいろありますけれ
ども、老人問題は別といたしまして、この母子世帯を
考えますと、いまの時代と多少
年齢的に違いますけれ
ども、総領の十五は世の谷間、末の十五は世の盛りといった言い方があるのですが、いずれも
子供が当時の小学校六年からせいぜい中学校一、二年、たいへん苦しい状態であったことは大臣も御理解できると思います。
そういう状態の中で
援護法ができて、
昭和二十七年、それから二十八年に、これはたいへん悪いことばなんですが、それを
一つの理由にして
生活保護をどんどん切っていく、廃止をする。このことはあとでも申し上げますけれ
ども、そういう状態の中で、母子世帯のうちの遺家族については、この
援護法ができたことによって
生活保護の分を切ってしまう。自立をするということばを使うのですが、一応被保護世帯ではなくなる。ところが一方の母子世帯の場合には、そういう
援護の
措置がありませんから、依然として残るわけです。母子寮に入っておる。そういう母子世帯が自立する、保護を廃止するようになるのは、その
子供たちが中学校を卒業して都会に働きに行って、その収入を認定して保護を廃止する。そういう以外に自立の方法というものはない。
この二つの例だけを
考えてみますと、今日、
援護法ができてから二十年たつのですが、
援護法だけではなくて、いろいろな
社会援護の法制が、中身は別として整備されたことは、私も承知いたしております。老人には老人福祉法、心身
障害者にはそれぞれの福祉法なり精薄福祉法、また母子世帯については母子保健法であるとか、いろいろな
法律ができております。
こういう
社会援護という法制が、中身は別として一応整備された今日、この遺家族
援護法というものは一体
社会援護という範疇に入るのかどうか。むしろ
社会保障の政策の一環として
社会援護ということを
考えるならば、この遺家族
援護法というものはどういう位置を占めるのか。
社会援護という
一つなのか。それとも戦後処理の一連の法規として、この
法律が独立して別に位置づけられておるのか。こういう点が、自分自身の経験からいっても、また今日いろいろな意見を聞く中で、どうも頭の中でわからない。その辺を、ただことばの上で整理をすればすっきりするというものじゃありませんから、一応そういった法体系の位置づけを、
社会援護なのか、それとも戦後処理の一環の法規なのか、こういう点についてどのように見ておられるのか、その辺のところをひとつお聞きをしたいと思います。