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渡辺(惣)
委員 大臣が見えられましたので、私の
質問の最後の問題についてひとつ
大臣の所見を明らかにしていただきたいと思う問題があります。それは、去る三月三十日に名古屋
地方裁判所で飛騨川のバス事故にかかわる国家賠償請求事件の判決が下りました。これは御了承のように国家賠償法第二条一項の「
道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があったために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、これを賠償する責に任ずる。」こういう法のたてまえから、国家賠償法の規定の上に立った判決でありまして、判決の
内容は、国が六割の責任を負う、国以外の責任が四割の認定という、分割判決をした異例の判決として注目されておるところであります。
この事件は、
昭和四十三年八月十八日に名古屋の市民が観光旅行の途中、岐阜県の
国道四十一号線で、約七百七十人の観光客が十五台のバスを連ねて行っておりますうちに、途中で、その前に十九カ所の
道路決壊があったのを押してこの観光バスが進行しておるうちに、とうとう土砂の崩壊の個所にぶつかってストップしてしまった。数時間にわたってストップして、そのあげくに
——そこで瞬間にやられたのではなくて、
道路の土砂くずれのために十五台のバスがストップをさせられていて数時間を
経過した後に、そのストップしている中でがけくずれが起こって、二台のバスが押し流され、一瞬に生命を失った者が百四名、陸上
交通史上かつてない大災害であったことは御了承のとおりであります。
こういう事件に対しまして世間は鋭い反応を示しております。現に私の手元で見ました新聞のこの事件に対する批判のおおむねは、朝日新聞にいたしましても「飛騨川事故判決と国の責任」という社説を掲げて論評しておりますし、あるいは毎日新聞も「飛騨川バス事故判決の示すもの」、読売新聞は「「飛騨川」判決座談会」という特集の記事まで掲げております。そしてこれと付帯いたしまして、学者、評論家が多くの
意見を掲げております。たぶん
大臣も
道路局長も、所管の重要な問題ですからそれぞれ目を通されておると思いますが、都立大学の野村教授は「割合的因果
関係論公害公判にも影響」という表題で論評しておりますし、名古屋大学の森島教授は、「おかしい天災重視 その分だけ賠償額削る」こういう見出しであります。名古屋大学の室井力教授は、「飛騨川判決を聞いて」と、おのおの各社それぞれ論評を下して、この問題は非常に重大な社会的な問題として関心を集めております。したがいまして、これらの主要な新聞の社説、報道、それから学者その他の第三者の論評等のことごとくは、国の責任である、国の責任が割合因果論で六分四分の責任を負ったというのはおかしい、むしろ全部国の責任だという主張、各社共通の
考え方に立っておるわけであります。
この間、どういうぐあいか、
金丸建設大臣は沈黙を守っておる旨であります。
金丸大臣の発言というものはいずれにも出ていない。しかしちらほら、
菊池道路局長は災害の責任は国の責任ではないという発言をし、控訴するかしないかということはさらに検討するという
意見の表示をしておられる。このような重大な問題で、
道路局長の発言は直接の責任でありますからやむを得ないとしても、しかし
建設大臣として、これだけの災害に対して、
建設大臣に故意に発言をさせないようにしかけたのか、もしくは
建設大臣が逃げたのか、逃避したのか、あるいは所見がなかったのか。どこの各省でも
大臣がそれぞれの発言をして政治的責任を負うべきなのに、工事の責任を負うべきこの主管
大臣が発言なかったことは残念しごくだと私は思っております。したがって、私はここで質疑をいたしますのは、特に
建設省に一〇〇%の責任がある。どんなに弁解しても、これだけの事実を基礎にして
建設省は謙虚にこの名古屋判決を受け入れるべきである。それこそが人命尊重、生活優先をことばの上だけでも主張しておる
田中内閣のせめてもの気持ちでなければならぬと思うのです。ところがこれは六分四分の責任論でさえ回避しておる。それはまあ
道路局長としては当時在任しておらなかった。先輩の人々をかばったり、現場で勤務して一生懸命に命がけでその救済に当たったり救護に当たった人々を、部下、友人を思えば、やはり身内をかばうという
考え方、あるいは仕事を大事にしようという気持ちはよくわかるのです。わかるけれ
ども、このような天下の社会問題になって国家賠償法の規定で判決が下ったものをすなをに受けとめるという心がまえがほしい。それこそが人間愛の政治である、行政である、こう思うわけであります。
私がそういう論拠を特に主張いたしますのは偶然ではないわけであります。この場所はこの事件が
昭和四十三年に起こる以前に、
昭和四十一年の七月から四十二年六月までに同一個所、それは何メートルか、どこかは知りませんが、この峠の街道で二年間に前後六回崩落事故があった。ないとおっしゃるならけっこうですが、そういうように新聞その他は指摘しておる。前後六回あった。だからこの大事故は全く不測の
事態ではなくて、危険区域であったことは間違いのないことであったと思うのです。その危険区域について役所は役所なりの、
道路管理者は適正なる措置を講じたでしょう。しかしあわてて
建設省はこの事件直後に危険個所の総点検を行なっております。その危険個所の総点検は、事故の起こったこの年直ちに総点検運動を起こして、四十四年から三カ年
計画で回復、手直しした。危険区域として洗い出したものが全国で二万一千百五十一カ所、そのうち特に危険個所として指定したものが八千五百カ所にわたった、このために
建設省は四百五十億円の資金を投じた。この報道が誤りであるかどうか知りませんが、こう新聞は報じている。四十六年度からさらに調査を進めて、そうしてその結果危険個所がさらにふえて三万四千六百九十六カ所、その改修は九千カ所、一千二十一億円の資金を投じている、こう書いております。それは前段の数字と重なり合っているかもしれません。しかし、ということになりますと、この
状況から見ますと、
建設省では現実にその事件後にこれだけの、三万幾らの危険個所を見出して高額の手当てをしている。前にはしていなかったわけです。前にはしていてもゼロにひとしかったわけですね。事件後に総点検をすることはあり得ることですよ、国鉄でもどこでも。しかし、事件後に総点検したけれ
どもほとんど絶無であったということならば天災論が成り立ちますが、事件の直後調べたらざくざく出てきたというのでは、これでは事件の責任について、その危険個所についての十分な点検が尽くされていなかったという事実を証明するだけです。
決して私は
建設省がサボタージュしたというわけじゃない。不測の
事態が起こり得る。集中豪雨のようなことが起こり得る。その集中豪雨による土砂くずれ等も必ずしも天災のみでない。長年山を荒らし抜いた国策上からくる結果であって、天災論に一切をまかしてしまうというのは間違いだ。そのような天災ですら克服するのが人類の要求であると思う。国の責任だと思う。したがってその事件の以前において、災害自体に対する、可能な限界において科学技術の最高の責任を果たすべきであると思う。人類は無限に災害を防除する道がないから、したがって将来
計画については責任を負えぬということでは、われわれは一体何をたよって日常生活を続けたらいいのか。国も
地方自治体も信頼することができないということになったら、未来永劫に、人類の世界、宇宙の世界の中で究極の科学的な判定が出ないうちは承服しがたいということでは、全く人権無視、人類無視の
考え方であり、血も愛情もない
考え方だと思うわけであります。
だからこそ過去において、この事件をきっかけにいたしまして
道路をめぐる訴訟事件が起こっておるのは百七十五件にわたっております。しかもそのうちで判決が下ったものが六十一件、おもなるものは穴ぼことか崩壊、工事の不備であるとか落石であります。穴ぼこが二十一件、崩壊、工事不備が十五件、落石が六件であります。そのうち国の責任として認定されたものが四十九件、国の言い分が通ったのが十二件のわずかであります。しかし、けさほど到着いたしました
建設省の
資料によると、四十三年のこの事件以前に
建設省の
道路のこういう事件が起こったのは十三件、四十三年に十件起こっておる。にもかかわらず四十七年にはなおかつ十四件の件数があるわけです。減っていないわけです。訴訟事件は、国民が人権意識に目ざめて、いままで泣き寝入りしたことも、あるいは当然の国民の権利の立場から、こういう事件に対して基本的人権に基づく賠償要求の運動が起こりますから、あるいは市民的要求、市民意識の高まりから、当然権利意識からその賠償要求の訴訟事件が起こることは時代の趨勢であります。しかしそれは国民の本来の要求であり、権利保障でありますから、それをわずらわしいからとか、それをやれば癖になるとか、前例ができると困るとかというようなことをすべきではないと思うのであります。
大臣にしても
道路局長にしても永久に死ぬまでこのポストにいるわけではないのです。よけいな、憎まれた、人道に反するような姿勢をとって、将来に悔いを残すことがないように新例を開く。すなおに、正しいことは正しい、誤りは誤り、率直な姿勢を示すことこそが私は行政最高首脳の責任であると思います。
だから、この事件は国家賠償法によって、直接の責任を負われるのは言うまでもなく
大臣であります。あるいは
道路局長であります。たまたま判決の
時点でそのポストにおられた人々は気の毒であります。気の毒でありますけれ
ども、それだけにその判断の誤りない政治姿勢を要求せざるを得ないのであります。したがいまして、この事件の六割判決の責任は当然だ。私は十割の責任を負うべきだと思いますが、六割判決、分割判決が出ておるわけですから、この際すなおに、この被害者が控訴するかどうかは別として、加害者である国家は、賠償の責任を負うべき国家は、人道的な立場からも、生活優先の立場からも、環境保全の立場からも、災害防除の立場からも、その責任を回避することなく、すなおに名古屋判決に対して服して、控訴する等の手続をやめるべきである。それこそが建設行政の生きた行政であり、生活優先、人々が安心して建設行政にたよれる道を切り開く道だと思うのです。この際、
大臣の勇断ある
答弁と処置を要求するものであります。