○原(茂)
委員 どうも抽象論議になってしまっておかしなものですが、いまのお話を聞いていると、
日本の
学者はもやしみたいなものだ。ちょっとでも、そよとも風に当たったんじゃだめだ、欧米の
学者は強靱だ、こういう違いが出てくるのですけれ
ども、そんな、確かに試行錯誤する、われわれもそうですが、その経過、プロセスに関して、一々発表されたらたいへんだという心配もあるかもしれませんが、そんなことをおそれるのではなくて、
審査会なら
審査会が
責任を負うべき結論というのは、そのディスカッションの中で出てきた結論、その結論で
責任を負うんですからね。その経過で何を言ったかで
責任を問われることはないわけですよね。
許可すべきだとかすべきではない、かくかくの理由で、こういう結論が出るわけでしょう。その出たときに、その結論に対する
責任を負うのが
委員の
責任論なんですよ。その間に何を言ったかによって
責任を問われるということはないわけですからね。
私は、武藤さんにも、もちろん言わなくてもおわかりだと思うのですが、
原子力の三原則というものが、これは
日本の場合、国是ですよ。世界に例を見ないわけです。
日本の国是ですから、これをやはりお互いに
国民として守る義務があると思うのです。その三原則がある限り、いつでも必要があったら公開ができる準備をする義務がある。それを、
要領をメモするなんというものではいけないという
立場でものをずっと言ってきているわけですよ。そういうたてまえです。
これは私は武藤さんの良心にかけても、一
国民としての義務からいっても、その点は御理解いただけると思うのです。ということになると、必要があれば一体どこが問題になって、どういうことが論議をされたのだろう、そのときに一体どういう経過でその結論が出されたのだろうかということを、やはり
日本の学界全体が必要があれば見ることができるようにしなければ、この種の技術の進歩というものはあり得ない。経過は、全然何があっても絶対出さない、詳細にわたって
学者に対して、
住民に対して知らせることはしないのだ。そうして、権威者といわれる何人かの
審査会のメンバーが結論をここに出したら、これに従え、安全なんだ、絶対安全だと言わんばかりの
態度で、押し切るのと同じように理解をされてしまうわけです。私はこれは間違いじゃないかと思うのです。やはり三原則のある限り、これは非常に重要な問題なんで、何が何でも私は公開の原則というものだけは基本的にいつでも準備をしておく。欧米は公開するしないは、これは
当局の側の厳正な審議の結果公開するしないをやっています。あたりまえの話ですよ。
日本の場合はそうはいかない。公開の原則がある。これは確かにおくれた
日本の
原子力技術から言うなら、私は公開の原則というのは、幸いに非常に
国民全体の大きな英知というものが集めやすい、いろいろな発言を求めることができる、自然発生的に技術的な
意見が出てくる、あるいは
住民の側から、おそれているいろいろな予想される問題が提起されてくる。これをやっぱりこなすことによって
日本の
原子力技術というものが、非常におくれてはいるけれ
ども、進歩していくもとになるから、公開の原則というものは、
日本にとって私はプラスなんだというふうにすら
考えている。
つくったものが安全であることは絶対必要なんですから、しかも
安全性審査という点からいくなら、その
意見が必要以上に各
学者から、各
住民から出てくることが好ましい。出てきたものをこなして、まずまずこれでいこうではないかという
ほんとうの
意味のコンセンサスができたときに、それが形になってあらわれていくようにすべきなんだ。何か塔に立てこもって、権威者が、
政府によって任命されたのだから、これがやっているんだから必配するな、こういうようなことに結果的にいまなっているわけです。そういう
原子力行政というものは非常に間違いだし、私は
原子力の進歩発達のためにも避くべきだと思うのですね。
したがって、その
意味からも、公開の原則というものは非常に大事なんだ。守らなければいけない。いつ公開の必要があっても、詳細にわたって公開ができるように、詳細にわたって再検討ができるように、そのメンバー自身でも再検討ができるように、
原子力委員の
皆さんが、
審査会の実際の技術的な討論をやったその足
あとを見て、いや、こういう
意見もあったじゃないかというようなことが、少なくとも同じ側の核の中にある
原子力委員自体が、少なくとも目を通そうとしたときには目が通せるように、最小限度ですよ、そのためにも
速記録をとるということだけは絶対やるべきだ。まるでもやしの
学者みたいに、何かちょっと変な音がしておるとものが言いにくかったり、試行錯誤しているとたいへんだからというので言いづらくなったり、そんなばかげた——
日本の
学者先生方はそんなものじゃない、欧米の
学者と比べて遜色はない。したがって、制度そのものを大胆に変えていったらいい。しかも、何もこれは法律を変えるわけではない。院の議決が必要なわけではない。少なくとも
原子力委員長が、とにかく
政治家の良心にかけて、
速記録をとりなさい、と言ったらそれで終わるわけです。それでものが言えない
学者があったら取りかえるよりしようがない。そんな人はいないと確信をします。私はやはりこれは
原子力委員長としての
政治家の良心の問題だと思うし、そのことは
学者自身も、前から申し上げるように、私は、好ましいことだと
考えるに違いないと思うのです。何でびくびく、おずおず、わざわざ
学者をもやしみたいにしてしまうのか。これは非常におかしい。
長官、ひとつ良心にかけて
速記をとる。公開のことは別問題、それをいつ
利用するかは別問題です。
速記録だけはとっておくことが、もう一度
審査会のメンバーの諸君が、あのときはああだったがこんな問題が起きた、再検討するときになって、そんな
要領のメモ程度でもって済んでいるなんというんだったら、学問の進歩発達に非常に悪影響があると思う。もったいないという観点からも、やはり
審査会の
速記録はとるべきだと思いますが、いかがですか。