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小野参考人 私、
東京大学の
小野と申します。実は私は、
確率及び
統計力学を
専門にしておりますので、今日は、
事故の安全と
確率との問題について、私の
意見を述べさせていた
だきたいと思います。
原子力発電所の安全問題については、
設置者あるいは
政府が
基本的にどのような
立場をとっているかということ、あるいはいわゆるどういう哲学を持っているかということは、私
たちには知らされておりません。しかし、きょう
お話しになります
都甲教授が、
日本物理学会誌昭和四十六年八月に、「
原子炉の安全について」という
論文をお書きになっております。その中に「安全とは何か」という項目があり、安全を絶対的安全と社会的安全に分け、「
災害を減らそうとすると、それに伴って利益が減ることになるので、適当なところで妥協した結果が「社会的
安全性」の内容ということになる。この
考え方によれば、利益の少ないものほど、容認される
災害も小さくなる。また、利益、不利益の
評価は、個人によって異なるので、「安全か否か」の判断、つまり、「社会的
安全性」の内容は、個人の価値判断により左右されることになる。」ということを書いておられます。
これは安全の問題を利益に対応させて考えておるわけでありますが、利益と危険の均衡というのは、元来は同一の個人にとっての話でありまして、住民にとっての利益がなくて危険だけがあって、利益はむしろ
設置者側にある、そういう場合に安全と利益というふうな
原則を使われるのは、もともとの趣旨のこの
原則の誤用でありまして、あるいは悪用であるかもしれません。それに、ある
事故に対する
対策がこういう社会的安全というものによって考えられるといたしますと、極論しますと、住民の安全ということは無視されているということにならざるを得ないと思います。
このように、いろいろな
事故の
対策というものが考えられておりますが、利益を目安にするということでなくて、つまり社会的安全という考えは否定されなければなりませんが、それには目安として何が考えられるかといえば、それはやはり
確率というものが考えられるはずであります。これにつきましては、先ほどの
内田教授の
お話にも、
確率というものを考えていく
方向になるということを言っておられたわけでありますが、実はこの
確率というのは非常にむずかしい話でありまして、
原子炉というものが
運転されてからまだあまり年がたっていない。ですから、われわれの
事故の
確率に対する蓄積というものはない。これは七一年のジュネーブ
会議の
アメリカの
AECにもそう書いておりますけれども、、これはない。少なくとも
日本においてはますますそういうものはないわけです。ですから、こういうふうな
確率というものを基礎にしまして、それを定量的に対処するということは、現在ではむしろ不可能に近いことであると考えられるわけです。もちろん軽微な
事故につきましては、これはしばしば起こっておりますから、次第にその経験が蓄積されると思いますけれども、むしろ重要なものについてはそういう
状態であると思われます。
そこで、
事故というものをむしろ私は三種類に分けて考えられます。それは、しばしば起こるけれども、その結果あるいはその
影響というものはあまり大きくなくて、その
対策が考えられているというようなものがあります。それからもう
一つの極端な例は、とうてい起こることが信じられないようなもので、結果は想像に絶するけれども、その起こる
確率が非常に少なく、まず起こらないと考えられるような
事故があるわけです。そういうものに対しては、当然
対策というものは考えられていないはずです。ところが、その間に、まれにしか起らないけれども、一たん起こるとその
災害が非常に大きい、そういうものについては、当然その
対策を置かなければならないものがあるわけです。
そういう二番目のカテゴリーに属するものが、実は先ほど一番
最後に私が申しました
二つのケースの間に
確率に従って広くスペクトルをつくっているわけでありますけれども、先ほど申しましたように、
確率を使いまして定量的にこの問題をやるということは、現行では不可能であると考えているわけです。
それでは、
事故に対してまず問題になりますのは、被害と
確率と両方、
事故に対する目安といたしましては、利益と危険のバランスではなくて、
確率と被害のバランスということはもちろん問題になりますけれども、先ほど申しましたように、
確率の
評価というものが非常に困難である。その結果、やはり
事故が起こらないと、先ほどの全然インクレジブルなものを除いては、
事故の
対策というものは当然怠ることができないので、こういうものを怠るということは、戦争でいえば、あまり敵が来ないであろうというところに対して全然防備をしないということと同じことになってしまうわけです。
そこで、ちょうど
藤本教授が先ほど
論文でお書きになったケースでありますけれども、このケースについて言いますと、一次
冷却水が
喪失する
事故というのはありますが、これは明らかに、いまの考え得る、しかもまれにしか起こらないけれども、考え得る
事故になるわけです。それで、それに対しての被害の
評価というのが先ほどの
お話にあったわけでありますが、これに対しまして二月二十四日の
原子力特報に
科学技術庁原子力局の
意見が出ておりまして、
藤本教授の計算には、今日の
スプレーとかあるいは
フィルターの工学的
安全装置のある
原子炉に対しては適用できないという反論が載っております。ところが、先ほどの話もありました、工学的
安全装置というものがすべて作動するということを計算して、いつも必ず作動すると考えてよいかどうかということが非常に大きな問題になるわけです。
これにつきましては、そういうものがたびたび作動したということはございませんから、いままでの経験の蓄積によってどうということは言えませんが、もちろんこれが全部または一部作動しないということは当然あり得るわけであります。それをどうして明確に説明されておるかわかりませんが、先ほどの話に戻るわけですが、
確率につきましては、実はわれわれの経験の蓄積がないけれども、むしろいろいろな
事故の集まりとして
確率の計算ができないであろうかという
考え方が一方にあるわけです。ところが、それは、現今では、そういうふうな解析に対してはほとんど否定されております。といいますのは、独立な現象がありますと、
確率はすべてそういうものの積になるわけですが、
原子炉の
事故については、まずそういう代数の法則というものはおそらく適用できないであろう。それから、どういうふうな時間的分布を持っているか、少し
専門的になりますが、それがランダムな時間的分布を持っているかどうかということについては全然根拠がない。それからさらに、幾つかの
事故が複合されるときには、たとえば片っ方の
事故の
確率が千分の一で片っ方が千分の一であれば、これをかけた百万分の一になるというのが非常に簡単な
確率論の計算でありますが、これは多くの場合には、独立と考えられないというよりも、過去の
事故についていろいろさかのぼって解析した結果については、それは独立と考えられないというのがむしろ多く考えられておりまして、ジュネーブ
会議の
報告などにもそういうことがかなり強くいわれているわけです。ですから、このように
確率の簡単な理論を適用できませんので、経験的に
確率を計算することもこれは不可能でありますが、むしろいろいろな
部分の
事故を分解いたしまして、そういうものを合成して
確率の計算をするということも、この際には不可能であるといわざるを得ないわけです。むしろ、先ほど申しましたように、
事故が幾つかの
事故の集まりであったときには、そういう組み合わさった
事故の成分は、因果的に関係していたりあるいは強くそこに関係しているということがはっきりしているケースが非常に多いわけです。ですから、単発的な
事故は起こっても幾つかの
事故の組み合わせばまれであるという考えは、この場合には適用できないわけでありまして、先ほど
原子力局の
意見の中に、こういうものは作動すると断定的に書いてありますけれども、その断定する根拠は何ら
一つもないということであります。
それにもう
一つありますのは、人間の
誤動作というものがもう
一つ加わるわけです。人間の
誤動作については、特にこういうふうな独立性というふうなことは考えられないわけでありまして、これは
原子炉の
事故でなくて、元来、完全に
安全性が保証されていたような新幹線の場合に、
原因はわかりませんけれども、オーバーランしたあとにそれをバックさして脱線さした、これはまさに
誤動作でありますけれども、こういうふうに、
事故というものは必ずしも独立ではなくて、必ず関連した形でもって起こる。ですから、
原子炉の場合にも、実はいろいろな
論理回路その他がありますけれども、
論理回路というものが正常の
状態で働いても、実は
論理回路はいろいろな
論理回路がおりますけれども、正常でないときにはいろいろなパルスが入ったりなんかするということは十分あり得るわけで、そういうときに十分完全に働き得るという保証は、現在のところ経験的には得られていないと考えたほうがむしろいいのではないかと私は思います。
ですから、工学的安全設備について、普通二重、三重にしてあるというわけでありますけれども、二重、三重にすればこれが安全であるかといいますと、二重、三重というのは決して安全でなくて、場合によっては、同じ結果のために全部同じように役に立たなくなるというケースが十分あり得るということが指摘されております。
ですから私は、全般的な
意見といたしましては、ただ現在心配になりますのは、むしろこういうふうな
事故が起こらないという
想定でいろいろなことがやられているということです。たとえば福井県の欧米
原子力調査団のまとめの中に、たとえばECCSにしても、全く起こり得ない
事故を
想定した
対策の一部であり、
わが国で問題となったECCS問題は、米国では最初から行なっている
安全性を高める実験の一環であり、現在でも
研究が進められている。その前の段階になりますけれども、こういうふうなことを書いておりまして、全く起こり得ないのだけれども、こういうものを一応考えておくというふうなニュアンスがむしろ強いと思うわけであります。
それで、実際にわれわれ多くの場合に、安全であるということをたびたび聞かされたことにつきまして、実は多く安全でなかったということをたびたびいままで経験しているわけです。新幹線の例もそうでありますけれども、例の造船の計画でできました船は太平洋のまん中で折れてしまった。それは、
原子力の場合にはあらかじめ
設計の段階から審査するといわれますけれども、おそらくあの船の場合に、あらかじめ審査をされても、同じように
二つに折れたということはほぼ間違いないのではないかと思うわけです。これは
原子炉ではありませんけれども、現在の
技術の進み方一
いうのが、われわれの経験の蓄積に比べてあまりにも早過ぎるということが、同じような形で問題を起こしているのではないかというふうに考えられるべきじゃないかと思います。
これが私の主として申そうと思ったことでありますが、もう一度繰り返しますと、われわれの経験の蓄積から
確率を現在言うことはできない。しかも、われわれの
技術の進歩は、本来の進歩に比べてあまりにも、たとえば
原子力発電所でいいますと、パワーがどんどん大きくなって大
規模なものができていく、そういう形で進展している、そういうことに対して、私は非常に危惧の念を覚えるわけです。ということは、
一つには、現在の
日本の
技術というものが非常に過大な自信過剰によっていろいろ行なわれておりまして、先ほど申しましたような
事故が起こっているということに危険を感じるわけです。特に
原子力発電所の問題につきましては、一番大きな
事故は、先ほど言われましたように、これは一次
冷却水の
喪失でありますけれども、それ以外に、たとえば制御棒が必要なときに入らなくなるとか、あるいは地震があるとか、あるいは津波とか、そういうものがあり得るわけです。あるいは飛行機が落ちるということは、元来はあり得るわけです。そういうことに対して、実際にそういうときにも、初めに考えるとおりに、
工学的安全施設が働くということは、これは私が先ほどから繰り返して申しますように、それが働くということを前提にされて働くということを言って、
藤本先生の
論文に反論されましたけれども、そういうことは全然根拠がないことである。ないということは根拠がないということだと私は思います。
そのほかに幾つか申したいことがあるかと思いますが、もう
一つ申したいのは、現在発電用
施設周辺地の整備の問題というのでありまして、これはそういうことを考えられておりますけれども、この場合に、
原子力発電所に起こる
事故の性質一火力発電所の
事故の性質というのは、本質的に、いま申しました点で違うわけでありますから、やはりそういうものは別個に考えるようにさしていただければたいへん幸いだと思うわけです。
以上で、私の陳述を終わりたいと思います。