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鈴木強君
議員斎藤昇君は、去る九月八日
郷里三重県に御帰郷中こつ然として
逝去されました。そのあまりにも突然の御急逝に、われわれは耳を疑い、言うべきことばを知りませんでした。
同僚議員としてまことに
痛惜にたえません。ここに
同君の御生前をしのび、つつしんで
哀悼の意を表する次第であります。
斎藤君は、
明治三十六年
三重県に生まれ、
東京大学を御卒業の後、
内務省官吏となり、累進して
山梨県知事、
内務次官、警視総監を歴任され、
昭和二十三年
国家地方警察本部が創設されるや、その
初代長官に、次いで同二十九年
警察庁長官に、それぞれ就任され、この間にあって戦後
警察制度の推移する中で
現行制度の確立に寄与されたのであります。
退官の後、
昭和三十年本
院議員に当選され、自来、当選を重ねられること四回、その間、
社会労働、
商工、文教、
法務の
常任委員として各分野にわたる
国政審議に参画してこられたのであります。
斎藤君は、
昭和三十五年には
議院運営委員長の
重責をになわれて
国会の
運営に尽瘁され、翌
昭和三十六年には
運輸大臣に、また同四十三年と同四十六年の再度にわたり
厚生大臣に就任され、特に
医療保険制度の当面する諸課題、難問に処するに粉骨砕身されたのであります。
また、
自由民主党にあっては、
党紀委員長、
参議院自民党幹事長、同
国会対策委員長など党の要職を歴任され、最近は
参議院自由民主党幹事長として御
逝去の前日まで重要な党務の衝に当たられました。
長年月にわたるこのような官界、政界を通じての御活躍によってあまたの
業績を残されましたことは御承知のとおりであります。
斎藤君は、「笑わぬ殿下」の
ニックネームで知られておりましたが、まことに謹厳にして篤実、思慮また緻密にして周到、事をなすにあたり、いやしくもゆるがせにせず、事に臨んでは常に穏健適正な判断に誤るところがありませんでした。
ニックネームといえば、そのほかに、あるいは「たにし」、「するめ」または「金平糖」、さては「スフィンクス」の
ニックネームもあったことを
同君がみずからその随筆の中にしるしておられます。いずれもかた物という意味を含んでおりますが、またそのほかに、味わいのある人物であるという善意に満ちた好意ある解釈が含まれております。
斎藤君は、強い信念の人であり、おのれの是と信ずる道は千万人といえどもわれ行かんの気概をもって邁進され、その節を曲げず、所信を貫徹されたことは、かの有名な
国警長官罷免事件においてもよく知られているところであります。
また然諾を重んじ、人の信をつなぎ得て、まことに厚いものがありました。さらに
同君は、詩情豊かな心の持ち主でもあられ、「北国の空」という題名の詩集を出版しておられます。そのロマンチックな心情は若者にも似た純粋さとやさしさにあふれ、
同君の性格の一端を物語るものがあると同時に、
同君の多才な一面を示しております。
斎藤君の頭脳の犀利なことはあまねく人の知るところでありますが、かの複雑な
保険理論の知識をたちまちの間に消化して、
自家薬籠中のものとなし、
保険制度についてもまた一家の見識を有しておられました。
同君と
保険制度とはまことに因縁浅からぬものがあり、二度にわたる
厚生大臣として御在任中は、この問題に心を砕かれ、特に
昭和四十六年、かの
保険医総辞退という深刻な
事態に際会されるや、
事態収拾のためにたいへんな御苦労をされ、
日本医師会長との
テレビ公開対談すらもあえて辞せず、
一身の褒賄を顧みることなく、これが解決のためにあらゆる
苦心努力を惜しまれなかったことは、いまなおわれわれの記憶に新たなところであります。
同君は、まことに誠意の人でありました。
今日、
参議院が、
二院制下におけるその
存在意義と
自主性をまさに発揮すべきときにあたり、
同君のごとき高い
人格識見と、豊かな
力量手腕を備えた
人材を欲するやまことに切なるものがあります。しかるに、いまや
幽冥境を異にし、再び議場において君の英姿に接することはできなくなりました。
斎藤君のごとき卓抜した
人材を失うに
至りましたことは
国家的大損失であり、まことに惜しみても余りあるものと申さねばなりません。
ここに、
衷心より
哀悼の誠をささげ、みたまの御
冥福をお祈り申し上げて
追悼の辞といたします。(
拍手)
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