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茜ケ久保重光君
大臣ね、ちょっと聞いていただきたいのですが、少し時間がかかりますが、この吾妻渓谷には
一つの戦争中重大な経緯があるのです。
私、昭和十四、五年ころ、群馬県の鉱業会の
理事長をしておりましたが、当時、いわゆる鉱山の資材とか、労働者の食糧、あるいは作業用品等、群馬県全部をまとめて共同購入をするような
仕事の
理事をしておったわけであります。戦争がだいぶ進みまして、たしか昭和十七年ころだと思います。大東亜戦争になって、だいぶ物資が不足してまいりました。お寺の梵鐘を供出したり、いろいろ家庭における金属類を全部徴発したり、しまいには橋の欄干まで全部はずしていってしまったことは、
大臣御存じのとおりです。そういう際に、吾妻郡草津の隣の六合村に白鉄鉱の存在が発見されまして、これは、当時、
日本鋼管がその鉱業権を獲得して、あそこに群馬鉄山というものをつくったわけでございます。ところが、当時、輸送能力がないので、これは陸軍省・海軍省が主体になって、その鉄山の鉱石を一日も早く
日本鋼管の
川崎製鉄所に送るために鉄道を敷いたのがいまの吾妻線、昔の長野原線でございます。これは、私、最後のその路線の決定と
工事着手の時期をきめる会議が、当時の陸軍省、海軍省、軍需省、あるいは内務省、文部省、農林省、それにたしか商工省軍需部ですか、八つぐらいの
関係省の次官、
局長諸君が集まって会議をしたことがあるのです。私は、その群馬鉄山のいわゆる従業員や鉱山の物資の補給をする任務を持っておりましたので、当時としては、民間人として私一人その会議に
出席したのです。あとは全部そういった
関係各省の次官、
局長の諸君でございました。これは、えんえん何か七時間ぐらい激論があったのです。私はもちろん発言はしませんが、当時、たしか陸軍の軍務
局長はあの有名な武藤とかいう人だったと思いますが、もうそれはえらいけんまくでまくし立てて、鉄道建設に全力を集中する、この鉄道が一年か一年半でできるかできないかが大東亜戦争勝敗のかぎだというようなことを言って、できた。そのときに、これはあらゆるものを犠牲にして、群馬鉄山の鉱石を
川崎に送るために全力を傾注したわけです。そのときに、私は、文部省の
局長だったか、次官だったか
記憶しませんが、そういう戦争に勝つか負けるかという非常に必死なときに、この吾妻渓谷を絶対に守るんだということで一歩も引かなかった、その会議の中で。ところが、いま、あなたは吾妻線に乗ったかどうか知りませんが、あの吾妻渓谷のところはほとんどトンネルになっております。陸軍省や海軍省は、トンネルなんかつくったのじゃ時間がかかるからみんな切りくずせ、あの
道路のそばのところを切りくずして一日も早く鉄道を敷け。そうなりますと、その切りくずしたあとの排滓や何かを全部川に流す。川も一部分こわす。それでは、いま
指定されている天然記念物なり、名勝は、完全にこれはこわされる。そういうことは絶対にしてはいかぬということで、文部省ががんばった。このことで、あとのことは大体きまりましたが、いわゆる吾妻渓谷を守る守らぬで、このことで三、四時間当時議論した。いま言ったように、武藤軍務
局長などは、文部省の次官か
局長だったのですが、この人を頭ごなしにこきおろしておる。しまいには国破れて山河あり、そんなことでいいかという、そんなことまで言ってやったのですが、私は当時の文部省の係官の名前を覚えておりませんが、がんとして聞かない。これは何といっても国の宝であるから守るべきだ。最初は、みんなほかの諸君も、軍部の威圧に押されておりましたけれ
ども、あまり文部省が頑強に抵抗するので、だんだんほかの
関係の諸君も、文部省の主張に同調し出して、さすがの陸軍省の武藤軍務
局長も、最後には、この吾妻渓谷を守るためにおりて、じゃトンネルにしよう、トンネルにして出たズリは全部下に落さないで遠方に運んで、できれば高く土盛りをするところに使おう。これは時間的には
かなり長くなるけれ
ども、やむを得ぬといって、あの戦争に勝つか負けるかのあのせとぎわに、そういったときにすら、いわゆる吾妻の渓谷は守ってきたわけであります。これを私、当時のその会議に出た人が何人残っておるか知りませんが、当時民間人といった、いわゆるそういった官庁に
関係のなかった者としては、私一人しか
出席しておりませんでしたので、あるいはもう今日この実態を知っておるのは私だけかもしれないが、まあ調べればまだ残っておるかもしれない。そういうあのいわゆる大東亜戦争の、だんだん
日本が敗色濃くて、
全国のお寺の梵鐘や、橋の欄干の鉄も、個人の家庭のあらゆる金物も引き上げる、そういった中であったときにも、あの吾妻渓谷は守ってきた。時のいわゆる軍部ですら、あの大事な国民の文化的な資産である吾妻渓谷として、この岩脈は守り続けた。そういう
一つのいわくつきな場所なんです。それをいま建設省は、これはもちろん水が足らぬということもわかりますけれ
ども、そういった
日本民族の興亡をかけたあの大東亜戦争の末期ですら守り抜いてきた大事な国民的な資産である文化財、天然記念物を、いまあなた方は
ダムという、まあ治水という面もありますけれ
ども、工場用水や、その他いわゆるこれは一部資本家の金もうけの手助けをするために、それをこわそうとしておられる。私は、ほかにもいろんな反対の理由がありますけれ
ども、この一事をもってしても、あの吾妻渓谷岩脈が大事なものであるということを思うときに、私はこれをいわゆる破壊させ、破滅させることには、何としても
日本人の民族的な良心なり、血潮がこれを容認できない。これはほんとうに七、八時間論議した。いまこうほうふつとそのときの情景が目のあたりに浮かびますけれ
ども、私、いま端的に指摘したのですが、こういうものはやはり守っていくべきじゃないか。守るのが私
どもの
責任じゃないか、こう思うのです。もう多くは申しませんが、こういう状態でもあなたは——もう一ぺん申しましょう。かつて戦争の勝つか負けるか、まあ負けることがわかっていた時代ですが、いわゆる国破れて山河ありということばまで飛び出した中で、なお文部省の係官が、おそらくそのときは、私は文部省の役人は、あるいは軍務
局長の軍刀の一閃の
もとに死を覚悟しておられたかもしれないと思うんです。それをあえて守りぬいた。いま文部省の当時の係官にこよない愛敬と尊敬を持つわけですが、よくぞがんばってくださったと思うんですが、そういうことを考えながら、
建設大臣としてやはり八ツ場
ダムを強行して、そういったものをあえて破壊しても辞さぬというお気持ちが続いておられるか、ひとつ私はもう一ぺんあなたの率直な御見解をお聞きしたいと思う。