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国務大臣(竹下登君) 昨日、私も二時半と
承知いたしておりました。きょう連絡をとったら三時であるということでありまして、国際経済シンポジウムでありますか、そこへ総理
大臣の代理でスピーチに参っておりました。おくれましたことをおわびを申し上げます。
なお、政府全体といたしまして、
委員会への出席については、私の責任において督励し、できるだけ御
要望に沿うような心がまえで臨みたいと、最初に
あたりまして一言おわびを申し上げます。
そこで、機密ということでありますが、実はこの点につきましては、私が去る日曜日、放送討論会を本院議員の
方々と行ないました際、一応官房長官として機密を判断するということについて一つの基礎的見解を述べてほしいと、こういうことについて述べましたものが、その後予算
委員会等で論議が行なわれておるところであります。で、私が基礎的に、
基本的な見解として申し上げましたのは、機密というものの判断は、おのずから機密にすることが国益に沿うものであると判断した場合にのみ機密というものは成り立つものである、したがって国益とはという議論にもとを置かなければならない、しかし国益論争というものをやるとそれなりにたいへん
国民一人一人
意見のあるところであると、そこで国益論争というものは横に置きまして、その国益をそこなうおそれがあるかいなかという判断はどこでするか、こういうところに焦点を合わした発言をいたしたのであります。
基本的には国益とは
国民のきめるべきものである、しかし下世話なことばで申しまするならば、一つ一つの問題について一億四百万人にアンケートをとって歩くわけにもいかない、そこで今日主権者たる
国民にかわって国権の最高機関としては
国会というものが存在をしておる、その
国会が
行政府の長たる内閣総理
大臣を指名する、さすれば機密であることが国益に沿うものであるという判定は、それなりの立論から言えば、政府できめることができる、こういう論理体系が整うものではなかろうか。しかし、これは機密文書の扱いというような、
行政の範囲で政府が措置することは許されるであろうが、これが問題により、当然法律等の定めにより、
国会へ報告し、その承認を求めなければならないという性格のものであれば、ストレートに主権者たる
国民の代表である
国会でおきめいただくということになるではなかろうか。さらに、問題自体によっては、そのつど
国民の直接選挙による選挙の際に、国益の存するところが判断されて投票がなされるということになれば、大きな問題は直接
国民によって
決定されると、こういう論理も成り立つであろう。しかし、部分的なものであっても、政府がそのとき判断する国益というものが誤っておるならば、当然主権者たる
国民の次の直接投票の際、それは批判され、くつがえっていくものではなかろうか。こういう
国民が定めることであり、そして立論上は、
国会、政府ということが言えるわけであるが、それは最終的にはまた
国民の手元へ返ってくるものである、このようなことを申しておったのであります。
しかも、その際、最も大事なことが二つあると思われます。その一つというものは、この論理を一方的な
理解のしかたで解釈をいたしますならば、言うならば、選挙で多数を得た者が、その任期間はいわばかってに何でもきめたらよろしい、そういう議会制民主主義否定の方向に進むことが最も危険な方向である。そこで、それなりには、絶えず今日まで少数
意見に耳を傾ける。あるいは
国会が、日本の場合、四分の一世紀の議会制民主主義の中において、理事会とか
国会対策、そういうものがおのずから多数党横暴を許さない良識の場として働いておる。それはそれなりに今後守り続けなければならないし、それと、第二の、同じ意味におきまして、政府が許された範囲の国益をきめる際、それは当然
国会の監視というものがあり、そしてまた世論を代表するマスコミの批判と監視というものがある限りにおいては、社会通念上良識のところへ落ちついていくのが当然ではなかろうか。
——この種の発言を行なったわけであります。
さらに、それだけに監視機関
——国会、そしてそれなりに、知る権利と同時に、
国民に対して知らす義務を持つ報道機関に対しては、主権者たる
国民に知らす義務を大きく踏まえておる政府としては、可能な限り知らす努力もそれに伴わなければ、おのずからの良識というものが社会通念上定着しないであろうと、このような趣旨のことを申し上げた次第でございます。
国会討論会は、私の持ち時間が全部で八分二十秒で、そのうち四分の一をそれに充てろと、こういうことでございましたので、意を尽くせない点がありましたが、きょうは少しく時間をちょうだいいたしましたので、御批判を賜われば幸いだと思います。