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石原慎太郎君 それはそのとおりで、私もその
文化というと、
日本の古典芸能という連想ではこれはやはり非常に陳腐で、貧しいものでしかないと思います。ただ、
大臣がいま言われました経済
交流というものが高まれば高まるほど出てくる弊害というものを、心と心の触れ合いで相殺するとい非常に高度の
目的を持たれる限り、やはりお茶、いけ花等ということでなしに、
ほんとうの意味の
文化というものを正しく
交流させる必要があると思う。たとえば、
あとでも触れますが、川端康成氏がこの間自殺をされた。これはいろんな論評がありますが、私はそのときに
外国の評論家が
日本の
文化の
一つのひよわさというものを示すものであるという評論をして、それが非常に大きく扱われた。これは全く僭越な西洋人の誤解でしかない。こういったものが非常に
日本人的で高揚的で、非常におそらく
日本の高度の
文化というものを象徴する事件だということです。やはりこれ自身が
国際交流のどういうアイテムになるか知りませんけれども、しかし、やはりそういったものを強く相手に知らせるべきであるということで、
日本というものの持っている
文化というものの実態がわかる。その上に乗っかった
日本の独特の経済なら経済という認識ができてくる。それがなかったら私はやはり経済というものを
文化の
一つの要因として考えることにはならぬと思うんですが、ただ科学技術だとか学問であるとかいうものは、それ自身の
一つの本質的な機能から、ほうっておいても
交流するものですが、精神性とかあるいは情念とか情操というものの要素の強い
文化というものは非常になかなか
交流しにくい。つまり逆に非常に疎外しやすいものである。死んだ三島由紀夫氏も言っておりましたが、私は
外国の
文化というものはそういったものを輸入する、あるいは見せつけられる
外国人にとっては
一つの毒だと思う。これはやはり
文化というものの本質がそうで、精神性、情念性、心理性というものが、強い
文化というものは、これはそれこそが実は学問とか科学技術以上に各民族の個性であって、それは非常に互いに反発し合い疎外し合うものですが、だからここにうたっているように、「国際相互
理解」というものも、決してにこにこ笑って、相手の
文化はけっこうなものであるということではなしに、実はやはり自分たちの持っているそういうものを入れたような存在があるということに対する、あるいは畏怖感なりを伴った
一つの敬意という形でなかったら、私は
日本の
文化というものは、
日本のディグニティをもって
外国に伝わらない。そういう
文化の認識の上に
日本の経済というものを
理解させてこなければならないと思うのです。そういう点で私は、どうも
日本の
文化、西欧の
文化というものに対する
日本人自身の非常に大きな誤謬がいまでもあると思いますし、一番いい例が、これは
外務省の当事者にとってはいやな例かもしれませんが、河崎大使という非常に愚かな大使がございました。この人が要するに、アン
マスクド何とかという本を書きましたね。いろいろ風評がありましたけれども、その
責任をとってやめられた。これは
外務省は実にき然たる処置をとられたと思いますし、全く間違った発想でああいう本を書かれた。
日本人ががにまたである、背が低いということはけっこうですが、あの中でまことに一国の代表たる外交官として許しがたい誤謬を一カ所河崎氏が書かれている。その誤謬を彼が犯しているから、すべて
日本人のそういう屈辱的な要件というものを、これは彼は彼なりに客観的に書いたつもりで、実はこれが彼の主観でしかなかったということが証明されたと思うのです。
あの中で彼は、
日本の
文化というものは
一つの特性を持っているけれども、しかし、ミケランジョロとかラファエルを生んだ西欧
文化に比べると偉大さという点で劣るという表述なんです。全く愚かな認識なんです。たとえば川端氏が持っている生と死が常に混在した存在感、
日本人独特のもののあわれというものを持っておって、西洋人には
理解できないおそろしい
文化性というものを
外務省の大使が
理解しなくちゃいかぬということで、どういう方か知りませんけれども、西欧に長くい過ぎてそういった
理解というものをふっ飛ばした。そういう河崎大使を
外務省は暗黙に批判はされましたが、しかし私は考えてみると、
外務省に限らず、特に
外務省が、河崎さんが犯したと同じ誤謬というものを無意識に犯しているんじゃないかという気がするのです。
たとえば川端康成氏がノーベル賞をもらわれたときにストックホルムでされた演説というものは、これは実にみごとな演説で、聞けば聞くほど、西洋人にはおれたちのやっていることはわからないんだという講演でしかなかった。これは非常に象徴であるということであればそれでしかないのですけれども、しかし、ただ単に象徴ではなしに、その中に西洋人と違った
文化性というものを持って、存在感を持った、生命感を持ったそういうつまり
日本独特の
文化というものを彼はその中で話をしたし、書いてきたし、しかしいまああやって非常にふっと死んでいく、ああいう自殺の姿の中に、実は西洋人に
理解できない
日本人の持っている
文化の一番コアにあるもののおそろしさがあったわけです。そういうものをわれわれは伝えなくちゃいけない。それを伝えなかったら
日本というものの
理解というものは決して本質的にはされないと思う。そういう存在があるということのおそろしさ――おそろしさということばも非常に誤解を受けますが――そういったものを、つまりこれだけのお金をかけるなら、私たちは執拗に西洋人に向かって、
外国に向かってデモンストレートしなくちゃいけない。
理解してくれという前に、われわれが持っている一番大事なものをはっきり示さなくちゃいけない。
そのために、この
交流の中でどういうアイテムをどういう形で取り上げていくかということが問題になっていくと思うんですけれども、まあ
基金の額もふえたことですし、非常に多角的なことができると思いますが、とにかく私たちがこれだけの
基金を使って、これだけの努力をして
交流をはかろうとするならば、やっぱり経済に限らず、芸術に限らず、すべて
日本の
文化、文明の一番コアになるものを伝えるという努力をするという、その発想の転換をしていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。いかがでしょうかという言い方はまずいのですが……。