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公述人(宝田善君) ただいま四名の
公述人から話がありましたが、私は労働組合に所属する者でありますので、労働者あるいは国民一般の
立場から、私たちの
生活論という
立場から、今度の
国鉄運賃の引き上げについての
意見を申し上げたいと思います。
最初に総括いたしますと、われわれは今度の
運賃値上げには絶対
反対であります。
その
反対の理由は、幾つかあるわけでありますが、まず第一は、労働者あるいは国民の家計への影響が非常に大きいということであります。その点は、すでに川口
公述人から詳しく数字をあげて述べられておりますから、省略をいたしますが、家計への影響が非常に大きいということは、過去において
政府みずから言ってきたことではなかったか。今回の
運賃値上げも、家計に直接及ぼす影響というのは〇・三六%というふうな数字が載っておりますけれ
ども、実態的に、
国鉄を利用しておる世帯は、利用していない世帯と比べますと、この平均値以上の問題を持っているわけであります。そのことは、今度の値上げ
法案が出ました直後に、新聞社が新聞でおのおの取り上げております。たとえば、一月八日の毎日新聞では、ある世帯のモデルをつくりまして、そこで
通勤費用がどうなるか、
通学の
費用がどうなるか、それから家族の旅行がどうなるか、家庭関係で親戚に行った場合どうなるか、転勤等の荷物を引っ越しをした場合にどうなるか、たいへんな問題であるということは詳しく書かれていると思うんであります。
それから第二番目に、
貨物を含めました
運賃の引き上げというのは、かなり物価全体に波及効果を持っているわけであります。
それから三番目に、これもすでに申し上げましたように、公共
料金全体の上昇の引き金の
役割りをかなり果たしてきたわけであります。過去においてもそうであるし、今回もそうであります。そういう理由で、労働者、国民からしますと、
生活上非常に大きな脅威になってきている。物価の上昇というのは
国鉄運賃だけではないのでありますから、至るところで苦しめられたあげくに、また国会の審議を通してこういう問題が出てくるということで、これは世論調査をおやりになれば明確だろうと思うんであります。おそらく
大衆でこの問題に賛成する者はだれもいないと思います。したがいまして、そういう国民の、大体
大衆の世論というものがわかっているのでありますから、その中で
国鉄運賃の引き上げということを審議するのであれば、国民に対してもう少し納得のいく理由を提起してもらいたい、これが第三番目の
問題点であります。
いまのこの
運賃の値上げというのは、そのうしろに
国鉄の財政
再建促進
特別措置法の改正という非常に長期的なある
国鉄の計画がありまして、その四回かの値上げの第一回でありまして、川口
公述人が申し上げましたように、
再建計画による計画的な引き上げの第一回であります。われわれは、この
再建計画の改正、あるいは
再建計画それ
自身にまず
反対なのであります。で、労働者とか国民というのは直感的な気持ちで
反対をしておりますので、それを多少整理をしてみますと、単に家計に及ぼす影響だけではなくして、こういう
再建計画そのものにかなり問題がある。その
一つは労働条件であります。この
再建計画を見ますと、すでに出ましたように、賃金であるとか、雇用であるとか、こういうところが常識をはずれた前提で
再建計画が行なわれている。今日
日本の社会で働いている労働者というのは、いかなる職場にあろうとも、世間の相場の所得が得られなければ
生活はできない。
生活は
国鉄の中でやっているわけではないのでありますから、これからの国民の所得の水準をこのように非常に低いところに見積もってやったとしても、これは実現性があり得ない。そういう世間相場を無視したような前提で計画を組むということに、まず
国鉄に働く労働者からは問題があるわけであります。
それから、何よりも、この
再建計画のうしろには、ことしの初めに出ました
政府の臨時総合交通問題閣僚協ですか、そこから出されました総合交通体系論というものが背後にありまして今度の改定論は出てきている。それはさらに物価安定推進会議のこの間の
国鉄運賃問題に引き継がれているわけでありますが、ここに非常に大きな問題がある。その理由は、前回の
運賃の引き上げのときに、すでに一部の学者から
国鉄運賃問題について経済学的な問題の提起がなされていたはずであります。それは、いわゆるイコールフッティングの問題。
国鉄のいまの
経営というものは、ほかの交通
手段に対して適正な競争条件に置かれているのかどうか。置かれていないのに、その財政バランスだけを
運賃にかぶせることには問題があるではないか。たとえば、道路というのは別に国家の資金をかなり大量につぎ込んでいる、それを利用している交通機関と、独立採算的なことをやっている
国鉄とは、はたして公正な競争条件に立っているのかどうか、この問題をまず解くべきであるという提起がされているはずであります。これは前回の
運賃引き上げのときにすでに提起をされているのでありますけれ
ども、いまだもってこれに対する答えが運輸省あるいは
国鉄から出されていないのはどういうわけであるか。
しかも、それだけではない。その後さらに交通問題というものは性格を変えてきております。それは公害その他の問題と同じでありまして、いまの公害問題は三年前の公害問題とはかなり性格が変わっているのであります。その後どう変わったかといいますと、
大衆的な交通
手段というものは、いわゆる公共資本の問題でありまして、公共経済学的なアプローチをすべきではないかというのが最近の定説ではなかろうか。で、そういうふうな角度から見ますと、いまのこの
運賃の引き上げ及び長期的な財政
再建計画というものの
考え方というのは、まず
料金問題を先に考えまして、しかる後に、交通
政策論の問題を避けて通るか、あるいは巻き込むか、いずれにしましても、関係論が転倒していると言わなければならない。これでは国民は納得することができない、こういう考えであります。
なぜならば、この
再建計画、あるいは今度の
運賃引き上げというものは、明らかに
企業採算主義であり、受益者負担を明確にしている。特に
政府の総合交通体系というものはそうであります。その場合に、開発利益の問題という形で、先ほど申し上げましたイコールフッティングという問題が入ってきているわけでありますが、これは具体的な措置が立たない。
国鉄にいかに社会的な開発利益を入れるかといっても、これは計算ができないから、しょせんは今度の長期
再建計画ではあて馬になっているわけです。あて馬になっているからこそ、受益者負担論で全部通すわけであります。通すから、それは国民の負担の
料金の引き上げにならざるを得ない。ですから、この問題にまず明確な回答を出すべきである。さもなければ、これは結局あて馬でしかないのであります。
で、われわれの考えでは、この受益者負担論と公共資本論とは相いれない
考え方でありますから、
民間の
企業と同じような原理を採用しまして、開発利益をそこにつぎ込むということは、これはあり得ない。開発利益をなぜ
国鉄に入れるかといえば、それはいまの鉄道
輸送というものが公共資本になっているからであります。性格が明らかに転換をしているから、そういう論理が成り立つわけであります。
もちろん、公共資本といいましてもいろいろありますから、その中の
公共性のよってきたるゆえん、性格論を明確にすれば、公共資本の中でもいろいろな負担関係というものはあり得るわけであります。ですから、われわれはすべてをただにしろと言っているのではない。ただ言えることは、こういう社会資本論、あるいは公共資本論、あるいは公共経済学というふうな問題が出てきたのは、こういう分野ですね、教育であるとか、医療であるとか、老後の保障であるとか、
大衆交通
手段であるとか、公害であるとか、こういうものが、そういう
市場原理、いわゆる独立採算であるとか、そういう原理ではやれないから、
市場原理の挫折あるいは欠落というところから出てきている問題なんであります。そもそもそういう問題が出てきているゆえんというのは、独立採算でいまやったならば、過疎地帯の交通はなくなってしまう。
都市の安全であるとか、公害対策というものはやれない。そんなものは一
企業の採算ベースで考えたらやらないほうがもうかるわけでありますから、そういう原理ではやれない問題が一ぱいある。それを国家の責任でどうすべきかというのが公共経済学の
問題点であります。われわれの
ことばに直せば、それはいわゆるナショナルミニマムというものをどう考えるか、その範囲をどう考えるかという問題であります。現在では義務教育はナショナルミニマムである、これは公費で責任を持ってやるべきものである。そういうナショナルミニマムの中に何が入るかといいますと、これは歴史的に問題が変わってきている。
日本は明治以来教育はそうであったかもしれませんが、今日では老後保障もやらなければいけない、公害もそういう国家の責任におけるナショナルミニマムの問題に入ってきているわけです。こういういろいろあります公共的な責任、特に資本を要するものは、中に一番大きいのは
大衆的な交通
手段であります。そういう性格でありますから、今日では
大衆的な交通
手段というものは、諸外国の場合には社会
サービスという概念の中に入っているわけであります。決して私
企業原理に入っているわけではないのであります。この傾向というのは世界共通であります。にもかかわらず、今日
都市問題その他
大衆交通
手段というものが非常に荒廃をしてきている。そこから、先ほ
ども公述人の話にありましたように、新しい
都市内のあるいはその他の
大衆交通
手段の再開発というものが世界的に問題になってきている。これは、私
企業原理から開発されているのではなくて、
大衆的な交通
手段というものを社会
サービスのものとして考えるからこそ、そういう問題が出てきているわけであります。今日われわれ労働者の
生活あるいは国民の
生活から考えますと、そういう問題は、学者の議論以前に、すでに実態的に進行をしてきているわけであります。
通勤通学というものは今日では常識であります。われわれは、自分のうちで働いているいわゆる自営業的な業態が主流であったのは過去の話でありまして、多かれ少なかれ
通勤通学状態になってきております。それは一般的な
現象でありますが、特に
日本においては
通勤距離が長いわけであります。あるいは過疎問題というものが非常に深刻であります。過疎地帯においては、
大衆的な交通
手段を私
企業ベースで撤去すれば、
生活基盤そのものが崩壊をしてしまう。ですから、最低の医療とか、最低の交通
手段というものは、いかなる僻地といえ
ども義務教育と同じレベルで維持しなければならない。それがなければ生きていけないという問題になってきているわけであります。ですから、実態的に、われわれの
生活の中では、こういう交通
手段というものは明らかにもう社会資本であり、社会
サービス化しているわけであります。にもかかわらず、
国鉄の
運賃問題に入りますと、とたんに私
企業原理が主流になるということは、今日では実態からずれているのではないかということをわれわれは
生活から感ずるわけであります。加えて、いわゆるマイカー、
通勤通学にマイカーを使うということは、一部の人は可能かもしれませんが、全部の国民が利用することは不可能であります。子供はどうやって学校に通うか、病人はどうやって病院に行くかというふうなことを考えますと、最低限の
大衆交通
手段というのは全国に維持するのが今日の国家の責任であります。加えて、いまや東京近辺の公害問題にありますように、マイカーの公害
現象というものはごく最近起きてきている。いずれにしましても、
都市部においては
大衆的な交通
手段というものを再開発しませんと、われわれは生命の安全さえ保障できないという状態になっているではないですか。したがって、この問題は、ひとり
国鉄だけではなく、
国鉄、
私鉄を問わず、
日本の社会で
大衆的な交通
手段というものがいまや
生活必需的な条件になっていて、それを前提としてわれわれは生きているのだ、
生活をしているのだという条件であります。ですから、それは
生活保護とか義務教育と同じように、最低限の保障というものは社会の責任であります。われわれはそういう社会的なフレームの上にしか
生活はできない。この問題を抜きにしまして、福祉国家を幾ら言ってみたところで、それはだめであります。所得を保障し、交通
手段を保障し、医療を保障し、教育を保障しなければ、福祉国家の資格はないと思うのであります。それを損益計算で交通
政策そのものを考え、その前提でまた
運賃問題を考える。しかもそれを、これから十年も長期的にこういう原理をやろうということで、今回の
運賃引き上げを提起しているということに、われわれは原則的な
反対をする理由があるわけであります。
特にもう
一つ追加的に申し上げますと、この総合交通
政策体系の中では、
国鉄は独占
企業であったかつてのように、独占だから安い
運賃というわけにはいかない、もっと
企業的になって
運賃を上げよう、こういう理屈というのは、いま私が申し上げましたような論法からいきますと、全くナンセンスであります。
国鉄は独占だから安かったのではないのであります。今日こそもっと実質的に社会化をすべき時代に来ているのであります。そうでないと、安全であるとか、過疎問題とか、
都市の勤労
大衆の
生活条件というもののミニマムは保てるはずはない。
問題を戻しますが、開発利益論を掲げて、結局はあて馬で、独立採算だけが先行するというふうなこと、ここになぜ問題が出るかといえば、そもそも
企業主義では開発利益というものは入らない。ある
地域の地価が上がったといっても、それは
国鉄が何割影響を与えたかというふうなものはわからない。非常に総合的なものでありますから、水道がある、鉄道を敷く、人が集まる、人が集まって開発利益というものがまた生まれてくる。ですから、開発利益論を
政府はおっしゃるようですけれ
ども、結局はこれはあて馬にすぎないと言わざるを得ない。そうしますと、今回の改定計画で
政府はかなり出資金、補助金を引き上げたけれ
ども、その理由は一体どこにあるか、今度はそっちの面の説明もつかなかろう。単に
国鉄が
赤字だから金を多少つぎ込むというだけにすぎない。われわれは、
国鉄が
赤字だから国家資金を入れるということにも、これまた
反対であります。
反対というのは、その結果を言うのではなくて、どういう理由で出しているかという理由がいいかげんだという
意味であります。われわれが言うのは、いまや
大衆的な交通
手段というのは
生活必需品なんだから、
社会生活上の基本条件なんだから、本来国費でやるべきであって、その上に公共資本の諸
政策に応じて
運賃というものが乗っかるべきである。そういう原理であれば、いまのような
赤字だから金を出すという原理とはこれは違うのであります。そういう
意味で、いま私はいいかげんな補助金
政策には
反対であるというのは、補助金の根拠がない、これでは。むしろ、国家が責任者であって、社会的な
サービスを確保するという
立場を前提にした上で
料金の問題をもう一ぺん考え直せと。もちろん
国鉄、
私鉄というのは運営者でありますから、その背後に運輸省並びに
政府、これが本来
大衆的な交通
手段の責任者であるというのが福祉
政策であろう。国民にとっては、すでに実態的にそのようなものに
大衆的な交通
手段というものはなっている、社会資本になっている。というのに、理屈だけはなっていない。そこに問題があるのであります。したがいまして、
赤字路線を撤去してバスにかえたって問題は解決しない、そのバスがまた
赤字でありますから。一体、僻地の国民に対して義務教育並みの最低保障はどこにもない。したがって、結論を申し上げますと、まずわれわれ国民からの要望としましては、
政府は一体
日本全体の
大衆的な交通
手段というものをナショナルミニマムとして保障してくれるのかくれないのか、どういう保障をするのか、そのことをまず明らかにすべきである。そうしますと、もちろんそれは一方的な保障だけではないのでありますから、過疎地帯を振興するとか、
都市問題を解決するとか、そういうことに役立つわけでありますから、社会的な利益も当然生まれてくる。同時に、公害その他の社会的なデメリットも生まれてくる。これは成田新幹線を見ればわかります。沿線の住民には何も恩典はない、公害だけが残るというふうな問題もあるわけですから、全部がメリットとは言えませんが。まずナショナルミニマムをどうすべきかというふうに考えた上で、そういう社会的なメリット、デメリットを調べるべきである。それらを考慮した上で、なお残った問題として財政の問題を考えてもらいたい。そこで各公共資本の性格によっておのおの負担の関係を明らかにしてもらいたい。そのことは、先ほど来
公述人の多くの方が、投資基準を明確にしろとか、税制と
運賃の関係を明確にしろとか言っている問題であります。
以上三段階を経ました結果として、ある時期には
運賃を上げることも、ある時期にはとめておくことも、それは国民は、論理的に問題が提起されますから、是非の判断が可能であります。
政府、運輸省は、少なくともそういう手続を経て
国鉄運賃を今回上げるなら上げる、上げないなら上げないという問題を国民の前に出すべきであります。そうでなければ、鉄道は社会資本であるといっても、社会資本論になっていない、社会負担資本論であります。
最後に、もう
一つですが、われわれは、そういう理由から、国民的な
運賃値上げ
反対の感情の裏にはそういう論理があるということを明らかにしておきますが、大体、つい先日も東京瓦斯の問題で、公聴会というのが、一方的に聞き流してあとは何かきめればいいという手続の
一つに終わっているではないかという問題が出されたはずでありますけれ
ども、今度のこの
国鉄運賃の場合にも、ガスと同じ問題を感ずる。で、私の希望としては、以上申し上げました点を国会で
政府は答えてもらいたい。われわれがせっかくここに来て
意見を言ったわけでありますから、イコールフッティングをどう考えるかと、社会開発の利益還元は私
企業ベースで可能であるのかと、国はナショナルミニマムとして交通を考えているのか
——考えているならば、十年計画を出すのであれば、その計画を出せ、出した上でその社会資本の性格を明らかにして、基準を明確にした上で
運賃を位置づけてもらいたい。その結論として何%かの値上げ案が出るならば、国民的に
意見を聞いたらよかろうというのが私の
意見であります。
以上。