○
議長(
船田中君) 本日
表彰を受けられました他の
議員諸君の
あいさつにつきましては、これを
会議録に掲載することといたします。(
拍手)
…………………………………
佐々木更三君の
あいさつ
不肖私が、本院に
在職すること二十五年のゆえにより、ただいま
院議をもって御丁重なる
表彰の御
決議を賜わりましたことは、望外の
喜びと
感謝の念にたえないところであります。
顧みれば、大正九年
農民運動に投じて以来、各
社会主義運動を続け、特に戦前の苦難に満ちた
社会主義政党活動の継続として、
昭和二十二年四月の新
憲法下第一回の総
選挙で当選して以来、早くも二十五年を経過したということは、まことに
感慨深いものがあります。
しかしながら、五十年間戦い続けてきた私の、働く者の
大衆政治確立には、いまだ道遠しであります。この上は、さらに、本
表彰の御意向に沿うためにも、また本来の目的とする
政治使命達成のためにも、一そう
努力をいたしたいと思いますので、今日まで私を支え援けてくださいました
皆さん、特に
選挙民の
皆さんに、深甚なる
感謝の意を重ねて表します。
…………………………………
倉石忠雄君の
あいさつ
ただいま私
どもが永年
勤続議員として
院議をもって
表彰されましたことは、身に余る
光栄と存じ、終生忘れることのできない
感激でございます。
議会制民主主義の完成を
理想として本院に
議席を占めて以来、そのための
努力を傾倒してまいりましたが、いまだその実をあげるには遙かに道遠しの感がございます。しかしながら、その困難に対して失望することなく、さらに一そう奮闘してまいる
所存でございます。
今日、顧みて功なき私が、
憲政に尽くしたるのゆえをもって
表彰せられましたることは、ひとえに、
先輩、
同僚各位の御
指導と、
選挙民各位の御援助によるものでありまして、深く
感謝申し上げる次第であります。何とぞ
従前に変わりませぬ御
支援を賜わりまするよう切にお願い申し上げまして、
謝辞といたします。
…………………………………
勝間田清一君の
あいさつ
このたび、本院の
院議をもって、二十五年の永年
勤続に対し、丁重な
表彰を賜わりましたことは、身に余る
光栄であります。
これひとえに、
先輩、
同僚の御
指導と
郷里有権者の
皆さまの多年にわたる御
支援の結果でありまして、身にしみてありがたく、心から
感謝申し上げる次第であります。
私が初当選いたしましたのは、
昭和二十二年四月でありましたが、新
憲法下の最初の
国会でもあり、
議会制民主主義と
社会主義に対する
国民の期待と
支持はきわめて高く、
新生日本の息吹きが、全国にわたって、村から町に充ち満ちておりました。そして、私もまた、
微力を尽くして、この道の前進のために
努力を続けてまいりましたが、二十五年の過去を振り返るとき、みずからの力の至らざることを嘆かざるを得ません。
しかし、七〇年代の
日本は、再び
重大転換期を迎えているかに見えます。そして、いまこそ、
議会制民主主義を、
人類が選んだ
最高の
政治制度であるとの
信念に基づき、その改革に勇気が要求されているときはないと思います。また、
人間が
人間を搾取し、
民族が
民族を搾取する
敵対社会を永久に終わらせ、
連帯と平和の中で幸福に共存できる
社会を創り出すことが、切実に求められているときはないと思います。
初心に返って今後とも
微力を尽くす
覚悟でありますので、
皆さまの御理解と御
指導を切に願って、私の
謝辞といたします。
…………………………………
小平久雄君の
あいさつ
このたび、私が本
院在職二十五年に達しましたことに対し、
院議をもって丁重な
表彰の御
決議をいただきましたことは、身に余る
光栄でありまして、心から
感謝申し上げます。
顧みますと、
昭和二十二年四月初めて本院に
議席を得ました私が、新しく
国権の
最高機関として発足した
国会へと勇躍上京いたしましたときは、東京はいまだ
焦土と化し
たままの姿であり、この白亜の塔も黒色に染めあげられ、あたかも世を忍ぶ仮の姿の観を呈していたのであります。私は、初めて登院した日、このくすんだ議事堂を眺めながら
わが国の前途を考え、まことに暗たんたる気持ちであったことを思い出すのであります。
以来二十五年、
わが国の
復興、
発展は実に目ざましく、今日では、
経済大国ともいわれるほどの国力の
充実を遂げ、
国際社会におきましても確固たる地位を占めるに至ったのであります。まことに欣快にたえないところでありまして、往時を回顧するとき、
感慨無量なるものがあります。
特に本年は、長い
間米国の
施政権下に置かれていた沖繩が
祖国日本に復帰する記念すべき年であります。この意義ある年にこのたびの栄誉に浴しましたことは、ひとえに、私を
国会へ送り出していただいた
選挙区の
皆さま方の御
支援と、
先輩、
同僚諸君の御
指導、御
鞭撻の
たまものでありまして、ここに
衷心より厚く御礼申し上げるとともに、この長期にわたる
民族的宿願の達成にいささかなりとも力を尽くすことができましたことは、
国政に携わる者として
喜びを禁じ得ないところであります。
現下、
わが国をめぐる
国際情勢は、いよいよ厳しさを加え、国内においては、
解決を迫られる多くの諸問題が山積し、
わが国の
進路はきわめて重大なときを迎えております。発足以来すでに二十五年を経た
国会は、いまこそ
国権の
最高機関としての
使命に省み、
国民諸君の求めるところをはかって、その
役割りと責務を完全に果たさねばなりません。
私は、この際、
四半世紀にわたる
議員生活の体験を
もとに、決意を新たに、
国家の隆盛と
国民福祉の
向上に一そうの
努力をいたすとともに、
人類多年の経験と
英知に基づく
議会制民主政治のより健全な
発展を目ざし、
議会人、
政党人とて全力を傾注する
所存であります。幸い健康にはたいへん恵まれております。
浅学非才の身ではありますが、
初心に返り、今後もひたすら
国政に尽くしてまいりたいと存じます。
各位のますますの御
指導と御協力をお願いする次第であります。
ありがとうございました。
…………………………………
受田新吉君の
あいさつ
私が本
院議員として
在職二十五年に達しましたことについて、他の十二名の
議員各位の驥尾に付して、ただいま
院議をもって御丁重なる
表彰を賜わりましたこと、まことに
感激かつ
光栄の至りに存じます。
顧みますれば、私が初めて本院に
議席を与えられましたころは、新
憲法公布ほどないときでありまして、世はなお
敗戦の病苦の中にあって、引き揚げ者、
復員者たちが
焦土の中に
リュックサック一つで帰り来る姿が引きも切らないという悲惨な
時代でありました。廃墟の
祖国に平和で明るい
復興の夢を託して、新
議員として初めて登院した当時、私自身、古ぼけた洋服にびょうを打った軍靴をはいて赤いじゅうたんを踏んでいたのであります。
星移り様変わってここに二十五年、
国民一人一人の営々の
努力実を結んで、国土の
復興、
経済の
発展ぶりは目をみはらせるものがあります。しかし一方、
敗戦当時すべての
国民が乏しきを同じ
ゅうした時代と比較して、今日の世相はあまりにも貧富の差はなはだしく、
人間尊重の大切な一面の陥没を見のがすことができません。
この間、
国会も新
憲法とともに歩んでまいりまして、第一回
国会から現存の第六十八回
国会まで多くの回を重ねたのでありますが、ことに
自主性を抑えられた
占領時代、希望にわいた
独立時代など、来し方を回顧するとき、まさに
感慨無量の一語に尽きるものがあります。私はこの二十五年の大半を
野党議員として
国民の負託にこたうべく
微力を尽くしてまいりましたが、ことに戦争の痛手を直接受けた
方々の援護こそ
祖国復興の
前提であるとして、第一回
国会以来十三年間本院に設置せられていた海外同
胞引揚特別委員会(後に
遺家族援護を含む)に終始一貫
委員として参加し、
党派を超えて問題の
解決に当たらせていただいたことなど、各党の
協力一致による
人間愛の
政治は、ことのほか私の脳裏に深く刻まれておるのであります。
こうして大過なく今日の
栄光をいただくことになりましたのは、ひとえに
先輩、
同僚各位のあたたかいお導きと、
微力な私を支えてくださった
選挙区の
皆さま、
国民各位のおかげであると
衷心感謝申し上げる次第であります。
私は、この
栄光にこたうべく、
国民大衆のよき
奉仕者としての
初志一貫、
議会制民主主義の
もと、
国民のためのよい
政治実現を期して、ますます奮励
努力いたしたいと誓うものであります。
どうぞ一そうの御高導をお願いする次第であります。
…………………………………
鈴木善幸君の
あいさつ
このたび、本
院在職二十五年になりましたことに対し、
院議をもって御丁重な
表彰を賜わりましたことは、まことに
感激のきわみでございます。
顧みまするに、私は、永年
勤続議員として
表彰に値する何らの功績も有しておりません。ただ、
先輩、
同僚各位の御懇情と
選挙区の
方々の変わらざる御
支援によって、この
光栄をになうことができたものであります。
今後は、本日のこの
感激を肝に銘じ、
議会人として
初心に返り、
微力ながら
国家の
繁栄と
国民の
福祉のため、一身をなげうって
最善を尽くす
所存でございます。
いささか所懐を申し述べて、
謝辞といたします。
…………………………………
成田知巳君の
あいさつ
私は、このたび
院議をもって、他の
同僚議員とともに、ここに二十五年永年
勤続議員の
表彰を受けましたが、身に余る
光栄と存じ、
感謝申し上げます。
思えば、私が本院に初めて
議席を得ましたのは、いまだ
敗戦の傷あとが
日本全土になまなましい
昭和二十二年の春でありますが、この年は、新
憲法が施行され、
新生日本のとびらが開かれた年でもあります。私はいま、胸にわき出る
感激をもって登院した記憶を新たにするものであります。
自来私は、
日本国憲法の
基本精神たる非武装、
戦争放棄の絶対
平和主義、
国民主権の
民主主義、
基本的人権を最大限に尊重する
人権主義の原則に基づいて、みずからの
政治流動を貫徹すると同時に、
議会の
一員として、この新
憲法の
基本に基づいた
日本政治を確立し、
発展させるために
微力を尽くしていこうと決意し、今日に至った次第であります。
連続十回当選させていただき、二十五年間の
政治生活の中で個人的にも数多くの波乱と紆余曲折がありましたが、顧みてじくじたるものがあります。
いま、新たな展開を見せようとしいている内外の諸情勢に対処して、
議会人としての
立場からも、今後一そう平和と
民主主義、
国民生活向上のために
努力と精進を続け、
国会が
名実ともに
国権の
最高機関としての機能を発揮し、その
権威を回復し、
代議制民主政治が真に
国民の
信頼を得て
発展するよう
微力を尽くしたいと念願するものであります.
あらためて、
同僚及び
有権者各位に心から
感謝申し上げる次第であります。
…………………………………
園田直君の
あいさつ
本日、私が二十五年
在職したことに対し、
院議をもって永年
勤続議員として
表彰していただきまして、身に余る
光栄と存じ、
感謝にたえません。これひとえに、
同僚各位と郷党の
皆さまの御
支援、御
鞭撻の
たまものでありまして、重ねて御礼申し上げます。
二十五年はたちましたが、引き続き
国家の
繁栄と
国民の幸福のため身を挺する
覚悟でございますので、変わらざる御
指導、御
鞭撻をお願い申し上げます。
復員服に身を包んで
敗戦の
焦土を踏みわけて初登院して以来の二十五年は、
文字どおり敗戦処理と
占領政策の哀歓の歴史であり、一瞬のうちに過ぎ去ったように思います。GHQとの折衝はもちろん、
講和会議後に立案、制定した
政策のほとんどが、
敗戦という色彩に濃く色どられ、それらをいかに払拭し、新しい
国家と
民族の将来を切り開くかが、二十五年間だったと思います。
このため、私の歩んできた二十五年の道程は、坦々たるものでは決してなく、むしろ茨の道と呼ぶにふさわしいものになりましたが、それは、
皆さまの御
支持の
もと、
信念を貫いた結果だと深く信じております。
とはいいましても、私
どもは、戦後というものにすべて訣別したとはいいきれません。
外交、
内政ともに、いわゆる曲がりかどに来ているように思います。それが
たまたま七〇年代に差しかかったのが、七〇年代の激動と呼ばれるものでありましょう。これらに敢然と挑戦し、切り開き
解決することが、いま私に与えられた課題であると考えます。
いたずらに過去にとらわれることなく、日々新たな闘志を燃やして、
国家、
民族のいしずえとなるべく
努力を続けてまいります。
何とぞ一そうの御
指導、御
鞭撻を重ねてお願い申し上げます。
所信の一端を添えて
感謝のことばといたします。
…………………………………
石田博英君の
あいさつ
二十五年は、顧みればまたたく間であったようにも思いますが、また数多い起伏と事件の
連続でもありました。やはり第一に思うことは、
敗戦日本がよくここまでになったという感懐であります。
日本民族の能力に対する
信頼がわき上がります。
だが、
日本の内政、
外交が今日まで歩んできた道、すなわち内にあっては生産第一、
産業優先、外に対しては
東西対立を
前提とし、
自由国家群の
一員として、力の均衡によって平和を保つという
わが国の
基本政策は、近年までの路線としては正しかったと思いますが、いまやすみやかに大転換をしなければならなくなった。そのとき
在職二十五年目を迎えたという
使命感が次に強くわき上がってまいります。
内に対しては
国民生活の
充実、外に対してはイデオロギーや体制の違いを乗り越えた
相互理解の推進、すなわち
冷戦意識をかなぐり捨てて共存の道を進むということであります。
海洋国家である
日本の
生命は
海上交通の安全でありますが、これは武力では断じて守れません。今後私はこの道を強く推し進みたいと思います。
議会政治ないし
議会の
連帯という点で二十五年を回顧すると、残念ながらほとんど進歩のあとを見ることができません。不合理と非能率、
混乱の原因とその処理の経過は、体質的に同じものの繰り返しであります。
この問題について、
超党派的合意による
権威の創設が必要であると思うのであります。すなわち、
議長は第一党から出すが必ず第二党以下の
合意を要し、副
議長は第二党から出すが第一党の
合意を要することとし、ともに党籍を離脱するが将来の
議席を保証する。そして
議会はこの
正副議長の決定に必ず従う。私はこの機会にこのことを提議したいと思います。
私の
郷里秋田県において永年
表彰を受けるのは、故
町田忠治先生に次いで二人目だそうであります。この
光栄に
感慨ひとしおのものがありますが、
町田先生でさえこの間一度落選しておられます。長い
間支持を続けてくれた
選挙区の
各位に、いまさらのようでありますが、深い
感激を覚えるのであります。
…………………………………
松野頼三君の
あいさつ
光陰矢の如し――とか申しますが、まさに戦後は茫々たる時の流れのうちに、早くも
四半世紀を経ました。
この間、
衆議院議員として
微力を傾けてまいりましたが、このたびあらためて本院の
院議をもって永年
在職二十五年の
表彰を受け、まことに
感激にたえません。
この
光栄も、ひとえに
選挙民の変わらざる御声援と
同僚各位の御交誼によって、はじめてにない得たものと存じます。
失意と
混乱の中から、戦後の
日本は、平和に徹するとともに、絶えざる勤勉さとあふれるエネルギーを活用することによって、確かにわれわれは
経済大国の夢を達成することができました。
だが今日、急速な
経済の
発展を遂げながら、他面、索莫たる日々を迎えていることも否めない現実であります。
われわれは一体何のために生きるのか。
政治は何を目標に進めていくのか。われわれはいまこそ世界の新しい歩みに沿った「
価値観」を生み出さねばならない――そんな時に直面していると思います。
価値観とは、結論すれば「愛」と「
英知」、そして「
創造」である――と
碩学トインビー博士は、こう言われております。
生きとし生けるものの
価値を認め、愛することが「愛」の本質であり、すぐれた理性を働かして的確な選択を行なうことが「
英知」でありましょう。さらに、
人間の
生命を守り、現代の科学、芸術などの各面で、より望ましいものを
発展させること、それこそ「
創造」が意味するものにほかなりません。
この三要素の調和によって、はじめて
人間としての
価値観が生まれるもの、と信じます。
そして、普遍的な生きがいを生み出すことができるのが、
政治であります。
新しき
時代の新しき生きがいを生み出し、少なくとも“平和な
日本像”が
国際社会の中に定着するよう、私は、今後とも渾身の勇をふるって、
政治に
最善の
努力を続ける決意であります。
いささかの所信を述べて、
謝辞にかえたいと存じます。
…………………………………
田中角榮君の
あいさつ
永年
勤続議員として、特に
院議をもって
表彰をいただき、
感激にたえません。
初めて本
院議員に当選した
昭和二十二年の四月は、
敗戦の直後であり、
混乱のさなかでありました。また、この年は新しい
憲法が施行された年でもあります。
焼け果てた町の
復興に寧日ない人々。一片のパンの配給に長蛇の列。外地から引き揚げてき数多くの家なき人たち。職を求める人の群。
社会不安からくる思想の
混乱など、
国会が
解決しなければならないことは山ほどありました。しかし、占領軍治下にあった
国会の活動には、おのずから制約があり、自由で濶達な
政治活動ができなかったこともまた事実でありました。
当時、メモランダム・ケースといわれた幾つかの法律が制定されましたし、
わが国の法律条文としてはなじまない直訳条文も数多く見られました。私は、これらの法律が施行されたときの
混乱を考え、幾たびか抵抗を繰り返したことをあざやかに記憶しております。
戦いに敗れた国の多くが、血で血を洗い、兄弟牆に攻めあう、暗く陰惨な歴史をつづってきたのが世界の現実であります。二千年余の長い歴史の中で生き続けてきた
日本人だけは、この轍を踏んではならない。これこそ私たち、新たに
議席を得た者の責務でなければならない。この誓いは、二十五年の歳月を経たいまも心の底に抱き続けておるのであります。
戦後
四半世紀余にわたる新しい
日本の歴史は、みごとに書きつづられてきました。
日本と
日本人になじまない多くの諸法規、諸制度も、これを消化し、定着せしめた
日本人の
英知は、高くこれを評価すべきであります。私は、
議員としてのみずからの非力を恥じながらも、
日本国民の書いた戦後の歴史は、
人類の歴史に新しく光彩ある一ページを飾ったものと信じています。
永年
勤続議員、それは私にとって夢のようなものでありました。私は、今日まで私を理解し、
支援くださった多くの有権者の
皆さまに、心からお礼を申し上げます。そして私は、私なりに懸命な
努力を続けてまいるつもりでありますが、これからも
皆さまの期待にこたえ、永年
勤続議員の名に恥じない治績を積むべく、全力投球を続ける
覚悟であります。
真に
議会政治の
発展を信じ、
国民皆さまの御理解を願って、私のご
あいさつを終わります。
…………………………………
中曽根康弘君の
あいさつ
このたび、私が本
院在職二十五年になりましたことに対し、
院議をもって御丁重な
表彰を賜わり、身に余る
光栄と厚く御礼申し上げます。この
光栄は、私を育てていただきました美しい
日本の国土や、郷里の敦睦な人情、祖先及び父母の大恩のしからしむるところでありまして、深く
感謝申し上げます。
私は、
昭和二十二年、新
憲法下の第一回
国会に、二十八歳をもって、大東亜戦争後の
復員服のまま登院いたしました。当時の私の念願は、
日本の
復興と独立、民生の回復と
日本の
国際社会への復帰促進でありました。
サンラランシスコ平和条約成立後は、
占領政策の行き過ぎを是正するとともに、
外交、安全保障、教育、民生、科学技術、芸術文化等の分野において
日本を正常な姿に建設し、戦後の新しい
日本の
国家目標を探し求めて
政治活動をいたしました。
いま、顧みますと、
占領政策の行き過ぎに対する反感などから、当時の行動は多分に衝動的な、直進的な動念に動かされた反省なきにしもあらずであります。
この間に、
日本の
経済成長と相まって、
日本社会に市
民意識とその生活の岩盤が雄々しく逞しく築かれ、平和と自由を守ろうとする
国民の意志が広く、強く、堅く形成されていることに非常な驚異と
喜びを感じた次第であります。
そして、いままで治める者の
立場から
政治や
国民生活を見てきたことに対し、治められる者の
立場から深く長く
政治や
国民生活を考えることにつき蒙を開かれた感があります。
そして、いまこの
感慨の
もとに過去二十五年間のあやまち多き足跡を反省しますと、はたして私が今日この栄誉を受けるに価するや面はゆき思いで一ぱいであります。
私は、明治初年以来、
先輩たちが血と汗と涙の犠牲によって建設してきた
憲政確立の苦闘の歴史を思い、民主
政治とは、一言でいえば、
英知ある
国民が望む政府と
政治をつくることであると信じ、これが実現と、また、
日本が
国際社会において品格ある国として名誉ある地位を占めるよう、
議会政治家として今後一そう
努力精進いたす決心であります。
この世界史の偉大な転換期の関頭に立って、
国家の目標を正しい
国民合意の上に確立し、
日本的個性のある戦後文明の一大金字搭を築くことは、私たちの重大な責任であると痛感いたします。それは、
国民とともにわれわれの
努力により、この国土の中より湧然とわき出てくるものと信じます。私は
国民の
一員としてその
理想の
もとに
努力いたす
所存であります。
終わりにあたり、不徳不敏な私を今日まで育ててくださった
議長、
同僚並びに郷里の
有権者各位に重ねて深甚なる謝意を表します。
――――◇―――――
議員請暇の件