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西宮委員 そういうふうにお答えになるならやむを得ないところであります。当時の新聞等で見ると、たとえば朝日新聞の十月二十日の社説でありますが、この中には、この明治百年というのは自民党のための祝典ではないかといっており、あるいはある雑誌でありますが、これは恩赦のための明治百年だ、明治百年を記念するための恩赦じゃなしに、恩赦のための明治百年だ、これは明治大学の
法律雑誌「
法律論叢」でありますが、その中にはそういうふうに書いてあるわけです。つまり、そういう
一般のマスコミもあるいははまた学者陣等もそういうふうに見ている。局長はそれぞれの
理由があったのだ、したがって行なわれた恩赦だと言いますけれ
ども、私は、いま指摘したように、むしろ恩赦を行なうために明治百年の祝典が行なわれたのだというような感じさえもするほど、政治的な臭気ふんぷんとしたものを感ずるわけであります。
まあ、同じことをお尋ねしても同じような答弁しか得られないと思いますので、私はここに、少し古いのでありますが、中川善之助さんのことばをひとつ引用しておきたいと思います。あの方は高名な法学者でありますけれ
ども、いわゆる革新的な
立場とかそういう人でないと私は思います。学者ですから、別にどっちがどうでもかまいませんけれ
ども、つい最近もイタイイタイ病の問題について、だいぶ私
どもとは違った
立場で企業を擁護しておられるというようなことで、つい最近だいぶ新聞をにぎわした人であります。したがって、そういう
立場の人だと思いますけれ
ども、この人はこういうふうに言っております。「恩赦という
制度は、昔の専制君主が何かの慶事を利用して君主の仁慈を誇示して人民日頃の不満をごまかそうとした手段に外ならない。」「昔は恩赦をうけた者が皇恩に感泣したといった。今は何に感泣するのか。赤い舌を出して儲けた儲けたといって喜ぶくらいが関の山だろう。それほが恩赦というものは時代錯誤になっている。うまく恩赦にぶつかれば宝くじに当ったようなものである。だから恩赦があると判れば
犯罪が急に増えるのである。窃盗や傷人も増えるが、最も悪いのは恩赦を予想した選挙事犯である。何よりも神聖であり公正でなければならない選挙が、恩赦があるだろうと予想されるとすぐ腐敗してしまう。今年などは参院選挙や知事選挙など三つも四つも選挙の重なる年である。その
関係者がしきりに恩赦を口にしているのだから嫌になる。」こういうふうに中川善之助さんは言っておられるわけであります。
私はこの中川教授が言っている恩赦の沿革はこのとおりであったし、さらにその沿革を今日利用して、いわば主権在民の今日これを利用して、そういう政治的な恩赦が行なわれるということは断じて許せない、こういう気持ちが非常に強くするわけであります。
この辺で、ひとつ法務大臣の御見解を伺っておきたいと思うのですが、私、法務大臣がおいでになる前にるる申し上げてまいりましたのは、戦後六回、あるいは七回と言ったほうがいいですか、恩赦が行なわれているわけですけれ
ども、まず第一に、これがずいぶん回数が多過ぎたということが言えるのではないかということであります。それからしかも、戦後はいわゆる主権在民の時代になったのだ。にもかかわらず依然として恩恵的な要素を持った恩赦という
制度が行なわれる。しかも、それのほとんど大
部分が選挙違反の救済に利用されている、こういう点に重大な問題があると私は思うのであります。
したがって、いままで法務省の局長なりあるいはまた最高裁の局長に見解を伺ってきたのでありますが、法務大臣のお
立場になりますると、たとえば検察官の
立場も十分考えなければならないのは当然であります。私は、できるならばここに検察官の代表者に来てもらって意見を聞きたいぐらいに思ったのでありますが、それはもちろんできませんけれ
ども、さっき私は、国連恩赦の際に、裁判所の裁判官のこれについての気持ちというのが新聞に報道されている点を御紹介をいたしましたが、検察庁に至っては、この問題はさらにさらに深刻なわけです。
当時の新聞によると、検察庁はたいへんな憤激をしておって、ある最高検の検事は、「我々のこれまでの努力が水のアワだ。なんのため憎まれ役を引受けてきたのか」と言って嘆いている、こういうことが長々と書いてあります。私は、検察官の
立場になると、さらにさっき申し上げた点は深刻だと思うのです。そういう検察官の
立場も当然に踏まえておられる法務大臣として、一体いままでの恩赦がほんとうに刑事政策的な
立場から行なわれたかどうか。私は、刑事政策的な
立場というよりは、むしろいわゆる政略的な
立場が強く影響を与えてきたのではないか、そういうふうに考ええて、したがって、その点をいままで指摘をしてきたわけですが、大臣の御所見を伺いたいと思います。