○森(喜)
委員 そこで私は、一番大事なことは、先ほど
大臣は、たしか
安里先生の御質問だったと思いましたが、明治の
日本の
教育は
国家を
中心に、家を
中心にという、戦後は
個人の尊厳と平和の希求というものを柱にして、そういう
教育に変わったんだ、こういう御
発言だった。私は、いまの
大学というのは、そういう
意味では確かに
個人の尊厳、平和への希求、これは大事でありますけれども、
国家ということがかつての
日本の忌まわしい思い出につながるということで、これを打ち消そう打ち消そうとしたところに、かえって
人間形成というものを、愛情というものをなくしてしまった、私はそういう
感じがするのです。
ですから、いろいろな方々のお話を聞いておっても、特にきょうの朝日新聞に加藤きょうだいのおとうさんの談話がずっと出ておるわけですが、これを読んでみると、私も人の親として何ともいえない
気持ちになってきます。
教育に一生懸命努力しておられたおとうさんが、努力や根性という
ことばを口にした
教育はだめで、やはり人生の喜びや人生の明るさを教えるべきであったということを、おとうさんが言っておられる。そして、
子供たちのラジオから中国語放送が聞こえておる、あるいは毛沢東語録を読んでいる
子供をおこっても、おやじが
子供たちから激しくおこられた。意見の対立を見た。そして今度は、その理論を読んで
自分も
子供に共鳴しようとしたけれどもついていけなかった。そこにもう父と子の断絶という、こんなことになったということを非常に切々と訴えておられる。
私はこれを見ても、
大臣がさっきおっしゃった、
日本の
教育の柱というのは間違ってしまっておるのではないか、焦点がぼやけてきてしまったのではないか。そして私は、新聞ばかり出して恐縮でありますが、武器を捨ててと浅間山荘に呼びかけた親たちの談話がずっと出ております。読んでみると、こっけいなところもありますけれども、母親、父親の
子供に対する愛情というものはたいへんなものだ。そこまで親が
考えておられて、一番よかれと思った
大学に預けてきた。私は、
大学だけではなくて、
人間を預けてきたいまの
社会環境、あるいは
小学校からずっと来ておる
大学までの
教育機関、ここにあやまちがあった。そして、岩間
局長がおっしゃったように、だれでもなり得る要素がある。私は、いまの学生たちは、いつでもこういう形になる要素をだれでも持っておると思っております。
まして今日まで昔の
価値観の中に
教育というものがあった。ところがいまは、テレビがあり、あるいは電話もプッシュホンになり、間もなくテレビ電話になる。あるいはインテルサットが来る。こういう時代の中で、
子供たちの求めている
価値観は全く違ってしまった。
人間が全然違うものになっている。しかし
教育は昔と同じだ。いま河野
委員長から御指摘があったのですが、私は関連質問だと思っておるのですが、そういうことから根本的に再検討しておく必要がある。特に中教審の答申の中に「今後の
社会における
人間形成の根本問題」というところにA、B、Cとある。Aは自然の中に生きる
人間、Bは
社会生活を営む
人間、Cは文化的な価値を追求する
人間、この三つの異なった側面から
考える必要がある、こういうふうに出ております。このB、Cはいままでやってきた戦後の
日本の
教育だと思っておる。しかし、Aの自然の中に生きる
人間というものに対しては、私がさっきからいろいろ申し上げている愛情、
人間愛、家庭愛、そういうことの教えがいまの
教育の中になされない。
谷川先生がおっしゃったのでありますが、ドイツのトムセンという学者が発達加速現象という理論を出されたということを教えていただいて、
人間は生物だ、
環境によってどうにでもなっていくのだ、その理論の行きつく最後のところは、
人間は集団自殺に追い込まれていくのだということであります。私は今度の事件を見ておって、新聞や座談会、いろいろ学者の意見を見ていると集団自殺という
ことばが出てくる。
人間というのは集団自殺ができないものだ。それが集団自殺ができるという心理状態に追い込まれていくことは、この
子供たちをつくり上げる
環境、
教育環境、
社会環境、家庭
環境というものに問題がある。根本的にはその中に愛情がなくなっていく。家庭というものがなくなっていく。
国家が、忌まわしい軍国主義に結びつくということで変にアレルギーになっていく。しかし、
考えてみると、この大事なことが
日本の
教育の中で一番忘れておったことではないか。いろいろな
教育改革が制度上のいろいろなことを取り上げても、私はむしろ心を失った
教育をもう一ぺん根本的に
考え改めてもらわなければならぬ。そういうことをひとつ文部省はやっていただきたい。
もっとあと続けたいのでありますが、時間がございません。私がいま申し上げておることを、
大臣どうぞよくおくみ取りをいただいて、これからの
教育はこういうふうにしなければならぬ。ですから、私は極言すれば、
大学というものがいまの形でマスプロ化していったらどうにもならない。
大臣もおっしゃるように、願わくはそう善処してもらわなければならないけれども、意欲がなければ
考えてもらわなければならないということを
文部大臣がおっしゃった。それならばいまの
大学というものは根本的に改めて、ただ単に第三の
教育改革の中で織り込まれていることを制度上どうこうするということではなくて、
大学そのものは、専門的な
人間を選ぶのか、
社会的な
人間をつくり上げるところなのか、その辺のけじめをはっきりする時期が来ているのではないか。それでなかったら私は、
国立大学なんというものは要らぬと思います。高等
学校までに、充実した
社会的に間違いのない
人間をつくり上げる、
大学教育というものはほんとうに専門知識だけを植えつける、りっぱな専門
人間をつくり上げるところであって、一般
社会的な
人間が必要ならば
大学なんか要らぬ。むしろ高等
学校で十分世の中に働き得る、世の中に役に立つ
人間教育をしておくことのほうが大事だと私は思っております。
そういう
意味で、単に中教審の第三の改革、こんなものにとらわれないで、根本的に
日本の
大学教育を検討していただきたい。そうでなかったら、私ははっきり申し上げて、文部省なんというのは
学校を建てるところだけのものだ。建設省文部係、そういうことをいわれておる、酷評がある。どうぞひとつ、不評な佐藤
内閣の中で、いまいいのは廣瀬
大臣と大石長官だ、私はそうは思わない。私はどうぞ
高見先生が、ここでひとつ、
高見先生が佐藤
内閣の
日本の魂を譲らない、
日本の魂を私が守るんだというお
気持ちで、中教審のこんなことじゃなくて、もっと根本的な、
大学教育のあり方をこうするんだということをひとつ大きく打ち上げていただきたい。私はまたくしき御縁といいますか、私が高等
学校でお教えをいただいた先生が、実は
大臣にかつて師範で習った、私は
大臣の孫弟子でございます。そういう
意味で、
教育にきわめて御見識があり、皆さんから期待を受けておられる。また、
大臣がおつくりになった先生方が、高等
学校なんかにいま全国にたくさんおられるそうであります。どうぞそういうことから、えらく質問が長くなって恐縮でありますが、いま私が申し上げたことについて、
大臣から率直な御意見と
考え方をちょうだいいたしまして、私は質問を終わりたいと思います。