○
白木参考人 白木でございます。
私の
専門は神経病理学と申しまして、脳の
病気でなくなられた方を解剖して、その
病気の
原因、それが臨床とどんなふうに
関係するかというふうなことをやっております基礎
医学をやっております者でございますけれ
ども、精神
医学の臨床にも相当携わっていた
経験がございますので、そういう
立場で少し申し上げたいと思います。
スモンの
患者さんの脳神経、それからいま
清水先生の
お話のございましたベーチェットの場合の脳神経のおかされる、そういうようなものも私は
研究しております者でございますが、先ほど
委員長から遠慮なく話せというような
お話もございましたので、
研究ということも非常に大事でございますけれ
ども、むしろ
特定疾患、あるいは私は
難病ということばを使いたいのでございますが、それ全体に対して、もう少し
研究以外の
立場で、
医学者の
立場から、こういうふうにしていただきたいということを申し上げたいと思います。
ただいままで
お話もございましたように、
特定疾患というのは、
原因がはっきりしない、あるいは
治療法が確立していない、しかも非常になおりにくい、そういうようなものが
特定疾患という
立場であるように見えるわけでございまして、しかしこの問題はそういう観点でとらえます限りにおいては、純
医学的な
立場に立った、そういう考え方のように思われるわけでございます。しかし、私は
特定疾患と申しますよりも、そういう内容を持ったものは、そもそも
難病である、あるいは
難病群である、そういうような
立場で、これは把握するのがほんとうであろうというふうに思います。
つまり、こういうような、
原因がわからない、なおらない、
治療法がないというのが
特定疾患であり、それが
難病だけではないのでありまして、
原因がはっきりしておる、あるいは
治療法というものがはっきりしておるような、そういうものでございましても、その
治療の時期を誤るとか、あるいはまたその適切性を失った場合には、その
病気がきわめて
慢性化してしまう、そうした後遺症の
程度次第によりましては、社会復帰が極度に困難であるか、あるいはそれが全くできない、そういうことになるわけでありまして、それの全体を
難病あるいは
難病群というふうに考えるべきだと思いますし、しかも日本の
現実、現在置かれております
実態から見まして、そういう意味での
難病の
患者さんというものは、
医療からも、あるいは
福祉からも疎外されているという
現実が大きい、そういうものの総体を
難病あるいは
難病群であるというふうに考えるべきだと私は思います。
そういう観点に立ちますと、
難病というものは、ただ単に純
医学的な概念ではなくて、社会学的な概念であり、それの総称をいうべきものであるというふうに考えるべきだと思います。それは、日本という
一つの特殊な風土の中において、私はその考え方が重要だと考えるわけです。
つまり
特定疾患の
一つ一つというものを各論的に拾い上げていきまして、そういうものに対しまして、そのつど、これを
難病群というものに組み入れていく、それへの行政的な、あるいは立法的な対応というものを各論的にはかっていくということになりますと、その実現にあたりましては、実質的に考えまして
患者さんとしては非常に無限の努力、忍耐そしてエネルギーの消耗、いわゆる陳情というような面を通じてしいられていくんではないか、そういうふうに思われるわけです。
一方、このようにして取り上げられました
特定疾患に対しまして、かりにこま切れ的に病院とか、あるいは
福祉施設というものがそのつど建設されてまいりましたといたしましても、そこに働きます
医療とか、あるいは
福祉関係の従業者というものは、きわめて幅の狭い
専門領域だけをしいられていくようなことになる。つまり
スモンの病院あるいはベーチェットの病院、そういうようなものだけしかできないとするならば、それに対しては、そこに有能な職員の数多くの人を得ることは困難であるというふうに考えます。
一方、
医学というものには私は五つあると思います。第一は健康増進
医学、第二は
予防医学、そうして第三に
治療医学、第四に
リハビリテーション医学、それまではよいのでありますが、第五に私は
難病あるいは重症
医学というものがあると思う。つまり、あらゆる
病気というものは、第一から第四までの
医学の対応が十分でない場合には第五の
難病に変わっていく、そういう視点があるというふうに考えるのでありまして、したがって
難病に対しては、そのような基本的な対応をしなければならない。それが真実の姿だ、そういうふうに思います。したがいまして、
医療基本法あるいは
医療の抜本改正というようなものが成立するといたしますならば、それは第一から第四の
医学だけでなくて、第五の
難病医学というものが、その中に包括されくてはならない、そういうふうに思います。
ここで問題なのは
医療基本法というようなものが今後の問題でございましょうけれ
ども、その中に第五の
難病医学というものを組入れるといたしましても、この場合にはこの種の基本法の背景にある、いわゆる
医学というものをどう考えるかという、そういう哲学というものがきわめてはっきりしてなければならない。しかもそれが日本という特殊な風土の現状から将来を見通して、その明確な哲学の上につくられた
医療基本法が強力に実践されなければならない、そういうことだと思うわけでございます。が、しかし、
医療基本法とか
医療の抜本改正というものは、たいへん時間のかかることであって、そう簡単にできるとは私自身も思わないわけであります。しかしながら、
スモンあるいはベーチェットあるいはその他の特殊な
疾患の
患者さんの現在置かれております非常な困難な
状態、これを考えたときには、それに対して、やはり速急に応急的な
措置というものがとられていくということが非常に重要だと考えます。
それは結局いろいろな面が考えられますけれ
ども、ひとまずやはり
公費負担ということがそこで出てくるというふうに思うわけでございます。この
公費負担という考え方の中には、私は二つの要素がある。つまり
医療費に対する
公費負担というものが
一つ、それからもう
一つは
難病という
患者さんが置かれております、ただいまお三方の先生から
お話がございましたように、生活上非常に困難であるということに対する
生活保障的な意味での
公費負担、この二つの面があると思う。このことは、やはり
特定疾患の中のいま緊急性を要するものから早急に実践していっていただきたい、そういうふうに思うわけでございます。
ただ、この場合の
公費負担というものの内容を今度は
特定疾患別に各論別に考えてみた場合には、私、少しずつ違う要素を持っておるというふうに思うわけでございます。たとえば
スモンの
患者さんの例をあげますと、
スモンの
ビールス説というものが出た時点で、
患者さんは病院からも社会からも疎外されている。つまり社会のほうを守るという
立場から
患者さんは疎外された、いわゆる社会防衛論的な
立場から
患者さんが疎外されたわけでありまして、その結果として、不幸なことに自殺者もかなり出ている、こういうような
現実、こういう問題についての、社会におけるそのような
患者の疎外の問題というような点を、
公費負担というようなことばで表現できるかどうかわかりませんけれ
ども、やはり考えていただかなければならない、そういうふうに思うわけです。
そしてその
研究の過程におきまして、
キノホルムというものがその
原因であるということが確定したわけでありまして、この
キノホルムということが、いろいろな
立場がございましょうけれ
ども、結果論的には
医療災害である、こういうことがはっきりしてきた。そういう時点におきましては、今度はそういう
スモンの
患者さんの
医療費の
負担というものは、今後——いま現在生きておられる
スモンの
患者さんが、将来に向かって
医療費を
公費負担していくということだけでなくて、
医療災害でありますから、さかのぼって、過去にいろいろ
医療費がかかっている、そういうものに対しても、ここで考え直さなければならない。ほかのいわゆる
医療災害というようなものでなくて起こってくる、そういう
難病というものに対する
公費負担と、いまのような
立場で申し上げましたような意味での
スモンの
患者さんの
医療の
公費負担とは、おのずから性格が少しずつ違っているということを申し上げたいわけでございます。
ともかく
難病群というものは、その
種類の別なく、結局終末像ですね、新幹線で申しますと大阪駅、最近は岡山でございますか、そういう終末像においては、ベーチェットであろうと
スモンであろうと、それは変わりはない。しかし、そういう
状態になるまでのプロセスというものは、それぞれ違っている。ですから、それは
スモンでは違う、ベーチェットでも違う、あるいは公害によるような、たとえば水俣病のような場合、それぞれその内容が違っている心そういうものに対するきめのこまかな
公費負担的な
措置というものが、緊急性として必要であるというふうに私は思うわけでございます。
その問題に関しまして、私は
スモンの協議会の一員でもございますので、ここで
一つ申し上げておきたいことは、この
キノホルム中毒説というものが決定した段階におきましては、やはり公式の認定機関というものをどうしても設けていただかなければならない、そう思います。
なぜかと申しますと、先ほど
甲野先生の
お話にもございましたように、いまチェックリストに載っております八五%の
患者さんにつきましては、
キノホルムというものが投与されていることがわかっております。しかし残りの一五%につきましては、それが不明であるというような点、こういうものもやはり公式の認定機関の中でいろいろ調べていかなければならない、あるいはチェックリストに載っておりますそういう
患者さん以外に、載っていない、漏れている
スモンの
患者さんがいるはずでございます。そういう
方々が
キノホルムによります
スモンであるということを認定していかなければならぬとするならば、そのような公式の認定機関が私は必要であろうと思います。もしこういう公式の認定機関で
キノホルムを使っているというようなことがわからなければ、そういうカルテが出されなければ、
スモン患者と判定できないというほど日本の神経病の臨床の
専門家は能力が低いとは私は思いません。かりにカルテで
キノホルムが使われているということがわからなかったとしても、その臨床像の特異性その他から考えまして、これはそういうものであるということは判定できるだけの
専門家は、私は日本全国に相当数いるというふうに考えます。
私、
最後に申し上げたいことは、こういう
難病医学というものが、
医学と
医療の限界点を越えた時点におきましては、社会復帰がおよそ困難である、あるいはそれが不可能である、そういうまたハンディゆえに社会への再適応ということがきわめて不完全である。そういう
現実から、単に
医学だけの問題じゃなくて、それは
福祉との非常な緊密な連携なしの、そういう第五のいわゆる
難病医学というものはあり得ませんし、あるいはまた、そういう
医学なしの
福祉というものもあり得ないという点を強調いたしたいと思います。
そして、遠慮なしに申さしていただきますと、この第五の、いわゆる
難病医学というものと
福祉との連携あるいはその
実態というものの
わが国の
現実というものは、そういうものをどうすべきかというものの考え方、いわば哲学的、思想的と申しますか、あるいはマンパワーの点、あるいは
施設的な点、あるいは行政的な点、あるいはその他のあらゆる側面から見まして、西欧の、あるいは欧米の先進国に比べますと、過去の蓄積はきわめて貧困であるというふうに私は考えます
一つの例をあげれば、外国では、神経病院というようなものは、もう、百年の歴史の中に、非常にたくさんの病院ができておる、
患者が収容されております。しかし日本では、まだそういう
専門の病院すら
一つないというような
現実を
一つあげれば十分だろうと思います。
そういうように、過去の蓄積も非常に貧弱であるということと、それから将来に向かっても積極的に、こういうような
難病の
医療と
福祉というものを進めていこうという積極的姿勢というものは、どうも私はないように思われます。
しかし、これは
あとで御質問があればお答えいたしますが、私の見通しといたしましては、このまま推移してまいりますと、たとえば、きのうのPCBでございますか、あれの
委員会でもございましたように、おそらく膨大な
難病群あるいは
難病予備軍、そういうようなものが今後
発生していくことが考えられるといたしますと、それに対して強力な政治とか、あるいは行政というものが、それに対応してやりませんと、結局膨大な
難病あるいは
難病予備軍というものの群れによって、
わが国の将来というのは一体どうなるだろうというようなことを、私自身としては非常に暗い気持ちにならざるを得ないわけでございます。
以上でございます。(
拍手)