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石川委員 いまのお話でしたら別に
説明を聞かなくてもわかっておるのでございまして、
損害賠償をどういうふうにするかということはきわめて深刻で、また非常に複雑でむずかしい問題になっております。その原則をどう
考えておるかということを伺いたかったわけであります。具体的に例をあげて申しますと、宮崎県の
土呂久の問題、これは
中島飛行機が戦時中やっておったわけですが、それがつぶれてしまっておる。そこで今度は住友
金属鉱山が貸した金のかたのような
かっこうにして、
鉱業権を持っているわけです。持っているけれども、
住友金属鉱業は全然
採掘はやっておらぬわけです。しかしながら、
鉱業権をもっているということだけで、
鉱業法にのっとってこれに対する
保安、あるいはまたこれに対する
損害賠償の
責任を負わなければならぬというようなことになっておるわけです。われわれのほうとしては、もちろん
公害問題はたいへんな問題で、
日本は
公害列島になって、二十一
世紀はまず絶滅すれば
日本がまっ先であろう、こういうことがいわれておるおりからでありますから、企業
責任はきびしく追及しなければならぬ。したがって無過失賠償
責任制度というのが確立しなければならぬ、こう
考えておるのですけれども、この
鉱山の
休廃山の問題に関して言えば、一体
責任の所在がどこにあるのだということが非常に不分明なことが多いわけです。
土呂久の問題にいたしますと、斉藤先生という方が非常に熱心にこの問題についての亜砒酸によるところの
被害というものをお調べになって、第三次検診に至りまして大体八人くらいはそうじゃなかろうかというのが
現状でありますが、なかなか認定すること自体も困難でありますが、しかし、そのよってきたるところの原因が一体どこから来ているのだ、一体そのときの
鉱業権者はだれなんだということを調べるということがなかなか容易ではない仕事でございます。それからさらにむずかしいのは笹ケ谷の問題でありまして、たくさん例があるのですけれども、例をとってまいりますときりがありませんから、代表的なものだけを取り上げてみたのですが、この島根県の笹ケ谷なんか問題にいたしますと、これは弘安年間から掘っておるわけです。
政府の
方針としてやらされておったわけです。実に西歴一三五〇年ごろですね。このころからずっと掘っておる。明治二十六年には豪族の堀さんという方がやって、それから
日本鉱業がやって、それから廃山になって、昭和二十五年ごろから個人の手を転々として六人ぐらいに渡っている。それからさらにまた二人か三人移り変わりまして、最後には吉岡
鉱業というところが持っておりますけれども、吉岡
鉱業も
鉱業権というものを放棄しておるわけです。しかし、五年間の
保安規定がございますから、
鉱業権を放棄しても五年間は
責任を持たなければならぬという規定がありますから、それはさかのぼるわけでございますけれども、そこにまた資力があるかないかという問題が出てくるというように、一体だれに
責任を負わしたらいいのかわからぬということになると、非常に不幸なのは
被害を受けた当事者である。
環境被害、
身体被害を受けた人が、いつまでたっても因果
関係が証明されないということによって、受ける
被害補償というものがいつまでたっても確立をされないという問題が出るわけです。この両方の場合も最近での端的な実例なんでありますけれども、この因果
関係の証明ということはほとんど不可能に近いのではないかという
感じすらするわけです。そのことによって
被害者がいつまでたっても
損害賠償の問題についてもたついて、
被害を受けっぱなしになっているというようなことになったんでは、
被害者自体も不幸ではないかという
感じがします。そういう場合に一体どうしたらいいのだということは、われわれとしては、はっきりしたものはたとえば
鉱山保安法でもって、
鉱業権を捨てても五年間以内なら全部やれ。しかしこれも、本格的にやるとなると一カ所でもって二億、三億というのはざらのようです。たいへんなことになるようです。しかし、将来に向けての
鉱害問題の大きさということを
考えると、
責任上やってもらわなければならぬということになりますけれども、
損害賠償の
責任というものは、
鉱山法によれば二十年間さかのぼるということになるわけですが、その因果
関係というものは証明されない。その中で無資力のものも有資力のものもあるというような複雑怪奇な経路をたどっておりますだけに、これに対するすっきりとした
対策を立てるということは非常に困難ではなかろうか、こういう
感じがしてならぬわけでありますが、これは
保安局長のほうから、どうお
考えになっておりますか、伺いたいと思います。