○戒能
参考人 私のところに渡された
法律案が
二つございます。
一つは、
環境庁の作成した
大気汚染防止法及び
水質汚濁防止法の一部を改正する
法律案と、それからもう
一つは、議員提案の
公害に係る
事業者の無
過失損害賠償責任等に関する
法律案の
二つあるわけでございます。そして当然
国会において
審議の主要な対象になるのは
環境庁作成の
法律案であるというふうに考えるわけでございます。
環境庁作成の
法律案によりますると、
二つの点、つまり
大気汚染並びに水質汚濁防止に関する点についての
無過失責任を認めるという点が主要な内容のように思うのでございます。けれども、大体におきまして、
公害についてある
被害が起こる、人命に関する、あるいは健康に関するある
被害が起こるというふうな場合におきまして、現在の状態において、はたして無
過失という
現象があるであろうかという問題が出てまいります。
公害というのは、少なくとも
相当広範な
地域にかかる
現象でございます。したがって、汚染質も
相当大量に出ているということが前提になると考えていいのであろうと思うのでございます。こういう場合におきまして、大量の汚染質を発生させる
排出源というものについて、はたして無
過失といえるであろうか、この点が問題になるわけでございます。
どの企業も、実際裁判なんかになりますと無
過失だということを主張いたします。一番ひどい例はチッソの場合でございます。チッソは、水銀をどんなに少なく見積もりましても百トン以上海中に流しているわけでございます。
昭和七年から
昭和四十三年までの間におきまして百トン以上の水銀を海に流しているわけでございます。しかし、それにもかかわらず、自分
たちは、流した当時の状態においては無機水銀が有機水銀に変わるという知識を持っていなかったし、持つことについて
過失はなかったから、したがって無
過失であるというふうな主張をするわけでございます。しかし、常識的に考えましても、百トンの水銀を流したというふうな場合には、これは百トンの水銀を流すについて
相当の
注意をしなければならないというのは常識であろうと感じているのでございます。百トンと申しますと、現在世界全部で使っている水銀が年に大体一万トンでございますので、その一万トンの百分の一を水俣湾という非常に狭い
地域に流す行為でございます。しかし、百トンというふうに限定していいかどうかとなると、これははっきりわかりません。チッソの言い分によって大体百トンということになるのでございます。チッソの言い分以外に、客観的に見たらどれくらいになるかということはわかりかねます。むしろ六百トンであり八百トンであると考えてもいいのではないかと思えるのでございます。
そういう大量の水銀を流すときに、はたしてほんとうに無
過失だったといえるかどうかということがまず第一の問題であると考えていいと思うのでございます。現にチッソ自身が、無機水銀は有機水銀に変わらないと思っていたと言っておりますけれども、チッソ自身でも、無機水銀が有機水銀に変わることを知っておりました。五十嵐さんというチッソの非常に優秀な技師がいらっしゃいます。その方が、有機水銀に変わる、変わった量を測定する方法を考案されまして、それを学位論文として
提出されまして、しかも学位を受けていらっしゃいます。したがって、チッソ自身も、無機水銀が有機水銀に変わるということを知っていたわけでございます。それから先、その有機水銀がどんな作用をするであろうかということは、大量に流す人間が当然みずから調査してみなければならないことだと思うのであります。それが魚に蓄積する、水のモに吸収されてやがて魚に蓄積するというふうなことは、当然みずからやってみなければならないことだと思うのでございます。また事実チッソにはその分析をする機械もございますし、それから分析能力という点から申しますと、熊本大学などよりもはるかに高かった。お医者さんと科学技術者と
二つ比べまして、医師の分析能力のほうが科学技術者の分析能力よりも高いというふうに考えることは不可能でございます。むしろ分析の専門家のほうがはるかに優秀な技術を持っていたと考えるのが妥当であると見ていいわけでございます。
その
意味におきまして、
公害についてはたして無
過失ということがあり得るだろうか、
過失責任がむしろ当然ではないか、言いかえてみますると、この
環境庁の
法案が出なくても、この
法案程度のことならば裁判で確定できるということが言えるのではないかと思うのでございます。また裁判で確定できるわけでございますが、四日市の事件などにおきましても、
被告になった各社は、いずれも自分
たちの
責任は千分の十六だとか千分の三十だとかいうことを盛んに申しているわけでございます。そうしますと、その全部足しましても千分の二百くらいにしかなりません。そうすると、一体なぜ現実に亜硫酸ガス、粉じんというふうなものが四日市に降ってきたのだろうかというこは解けないわけでございます。大規模な発生源というものを全部足して、彼らの主張を全部認めますと、実際に答えが出ない。だれかがうそを言っている、あるいは統計が間違っている、調査が間違っているということにしかならないのでございまして、この程度のことでございましたら、
法律案が成立しなくても現実にはそのまま通ると考えていいと思うのでございます。
どちらにせよ、この
法律案が成立いたしましても、裁判が必要であることは間違いございません。ただ裁判が名目的に簡易化されるというだけのことでございまして、裁判が必要であるということは間違いないわけでございます。いま
我妻先生は、この程度の
法律案でもあったほうがましだとおっしゃいました。しかし、あったほうがましだとおっしゃいましたけれども、裁判の手続が要らないというわけにはいかないわけでございます。裁判手続が行なわれれば、どんな場合におきましても、必ず自分の
責任は非常に少ないとか、自分は無
過失だとかいう主張あるいはまた自分には
因果関係がないとかいう主張が出てくるに違いないのでございます。
ただ、しいて申しますと、現在では、
公害裁判につきましては、多くの
弁護士たちが無料奉仕をしているわけでございます。無料だけではございません、手弁当で経費自分持ちで奉仕をしております。しかし、第二次、第三次あるいは第五次、第十次という
公害訴訟になりますと、手弁当奉仕の
弁護士はほとんどいなくなるだろう、最初の問題でございますとみな張り切りますけれども、十回目、十二回目となりますとそう張り切るわけにはいかない、できるだけ簡易な手続で結論をとらなければならないという必要が出てくる、これが起こるのではないかと思うのでございます。それくらいならば、この
法律案に弁護経費、
訴訟経費の貸し付け案というふうなものを含ませていただいたほうがより実際的ではないかと思うのでございます。大規模な
公害訴訟については、
訴訟経費を貸し付けるという制度を入れられたほうがはるかに実際的ではないかと思うのでございます。
現在、
水俣病訴訟などにおきましては
相当の経費が必要でございまして、
新潟の弁護団に聞いたところによりますと、やはり経費として使ったのは二千万円をこしていたということでございます。数千万円になりますと、もちろん
被害者が自弁できるわけではございません。多くの支持者がそれに対して寄付をする、カンパをするということでお金を集めていくわけでございます。初めのうちは
弁護士だけでやっていきますが、しかし、やがてそれではまかないきれないという金額が出てまいりまして、大衆の支持を受けなければならないという面がございます。大衆の支持も最初の事件ならば
相当集まりますが、二回目、三回目の事件についてはなかなか集まりにくいということになってまいります。その
意味におきまして、もしこうした
法律案をつくるならば、
訴訟経費の貸し付け案、最低限度の経費は貸し付けるという制度をはっきり盛り込んだほうがはるかに有効ではないかという印象を持つわけでございます。
どちらにしても、私としては、この
法律案が出たとしても
訴訟が簡単になるという理由はない。
弁護士でございますから、
被告側の
弁護士は、いろいろなことを考えます。ありとあらゆることを考え、また、それに対して理屈をつけるということは当然でございます。大企業の
弁護士になればなるほどいろんな理屈を考えますし、
訴訟引き延ばしをはかります。失礼でございますけれども、
我妻先生のいま仰せになったことは、若干
訴訟の実際とは離れているのではないか。結論を得るためには、どのみち数年間かかるということは間違いないわけでございます。それを断ち切るにはそれをやってもかまわないのだ、むしろ加害者の第一
責任者を
法廷に呼び出してきて、その
責任者の言うことが偽りである、うそであるということをはっきりさせることによって
被害者に満足感を与えることがむしろ重要ではないかと思うのでございます。
現在の
公害訴訟の
進行ぐあいから申しまして、
被害者にとって一番大きな満足と申しますと、これは損害賠償を取れたということではございません。むしろそれよりも、いままで傲慢にかまえ、尊大にかまえた企業、あるいはまた
学者づらしていた大学
教授というものの面皮がむかれたというところに一番大きな満足感があるわけでございます。
新潟の
水俣病訴訟などの記録を読みますと、一番満足感を感じておるのはそれである。また、熊本の
水俣病訴訟の記録を読みましても、チッソがいままでずっとうそをついてきたということが
法廷でだんだん暴露していく。それが一番大きな満足感をもたらしております。したがって、当然心からあやまらなければならないはずである。心からあやまるということになったらどうすればいいかということを
被害者のところに聞きにこなくちゃいけない。どのみち、チッソなんかの場合をとってみますと、今後何千人
被害者が出るかわかりません。おそらく数千人から数万人の単位に上がっていくだろうと思われるのでございます。そうすればチッソは賠償の資力がないということになっていくんじゃないか。資力がないものからどうして取るか、これはむずかしゅうございます。したがって、チッソに対してほんとうの要求をするということはどうすればいいのか、自分
たちのほうに聞きにこいということが一番重要な点じゃないかと思うのでございます。
日本の
公害被害者というのはひどく寛大でございます。場合によりますと寛大に失するほど寛大でございます。いままでほんとうに賠償金額の全額を払えと要求した人はございません。むしろ金額はどちらでもいい、それよりもあやまれ、わびろ、謝罪せよということが主要な目的でございました。謝罪すらしないというところに一番大きな問題があったわけでございまして、金額がどうであるということではなかったように思うのでございます。
また事実、一企業では
公害の損害賠償を全部引き受けるということはほとんど不可能でございます。どんな事件でありましても、
被害というのはだんだん拡大してきまして、おそらく健康そのもの、あるいは財産的
被害なんかにいたしましても、だんだん拡大して、企業自身では支払いの範囲を越していると感じているのでございます。四日市なんかについて申しましても、
被害者の数というのは今後ますますふえるにきまっております。数千人になったときに、はたして一体企業が賠償能力を持つだろうか、これは持たないというのが普通だと思うのでございます。中部電力にいたしましても、あるいは三菱系統の会社にいたしましても、大協石油なんかにいたしましても、損害賠償の金額が数千人あるいは数万人を単位にしてまいりますと、とても経済的には払い切れないということになっていくんじゃないか。それよりも、むしろ裁判によって彼らがうそをついてはならない、裁判の場において彼らがうそをついている、その
責任を糾弾するほうがより大きな役目をしているということは事実だと思うのでございます。
その
意味におきまして、現在の
裁判所では当然認めそうなこと、現に認めていること、それを確認するために新しい
法律をつくってもそれほどの
意味がないというのが私の受ける印象でございます。したがって、もちろんこの
環境庁のこの
法律案を通してくだすって別に困るという趣旨ではございませんけれども、通していただいても別にたいしたことはないという点が、私の受ける
一つの印象でございます。
公害問題を研究している宇井純君なんかの話によりますと、
公害に関する
法律というのは事件をごまかすために出すものらしい、
一つの
法律を出しておくと三年間は持つ、だから
公害に関する
法律は三年ごとに新しくなるというふうに言っておりました。最近ではそれが二年ぐらいに変わっております。つまり
公害というのはそれだけひどくなってきまして、だんだん
一つの
法律の持っている時間的な
生命が短くなっておる。だから二年ごとになり、やがて一年ごとということになってくるだろうと思います。しかし現在では、この
法律案では、裁判で確定できる程度のものである、それ以上のものにはならないということがまず出てくる印象であると申していいと思うのでございます。
もう
一つの議員
提出法律案は、現状におきましては、この程度のことをやはり最低限度のものとして求めていいのではないかと感じているわけでございます。ただ、ここで
一つ落ちていることは、これは自動車排気ガスの問題でございます。自動車の排気ガスというのは、個々の自動車所有者の面から申しますときわめて小さな寄与しかしておりません。しかし、自動車製造業者の
立場から申しますと、年間何百万台も車を売ればどんなことになるか、ほぼ予測がつくはずでございます。したがって、自動車製造業者、自動車産業に対しましては、マスキー法並みのもっと厳格な
法律が要るのではないか。それがないと自動車
公害というやつは防ぐ道がないと思うのでございます。議員
提出案によりましても、自動車の場合については抜けているという印象を持つわけでございます。
確かに
東京なんかにおきましても、亜硫酸ガスと浮遊粉じんにつきましては、かなり
努力をして少なくしたつもりでございます。亜硫酸ガス、浮遊粉じんは、二、三年前に比べまして
相当減っているという面がございましょう。そして植物
学者から私が
注意を受けましたのは、ことしの緑は去年に比べるとはるかにきれいだ、なぜか
原因を調べるべきであるという御
注意を受けました。そう言われてみますと、確かにことしは緑が非常にきれいになっております。しかし反面におきまして、光化学スモッグ類が非常にふえているわけでございます。ふえたというのは量的にふえたのか、それとも測定器がふえたものですから測定できる量がふえたのか、その辺のところが正確にわかっておりません。しかし、光化学スモッグが、
相当ふえている、測定できるスモッグが
相当ふえていることだけは間違いないと言っていいだろうと思います。
しかも、光化学スモッグというのは、いまの計器で申しますと、汚染の非常にひどいところにおきましてははかる道がございません。現在では、そこにスモッグがあっても、汚染がひどいところでは計器にかかってまいりません。汚染が比較的に少ないところで計器にかかる仕組みになっているわけでございます。オゾンがどうしても中心でございますが、オゾンは不安定物質でございますので、汚染がひどいというとほかの物質にまぎれ込んでいきまして、計器にはかかってこないわけでございます。
それじゃ汚染のひどいところが汚染していないかというと、そうではございません。やはり汚染の源泉になる第一次汚染質を
相当大量に供給しておるということは間違いないと考えていいと思うのでございます。汚染の少ないところが光化学スモッグが強くあらわれてまいりますけれども、そこで自分で汚染質を製造し
排出しているわけではないと考えていいと思います。しかも、光化学スモッグを防ぐということになってまいりますと、個別的に何を押えたらいいか、個別的に、窒素酸化物を押えたらいいとか、それから炭化水素のどの部分を押えたらいいとかというわけにはまいりません。要するに、空気そのものを清浄にする以外にどうにもならないわけだと思うのでございます。亜硫酸ガス類は、光化学
現象の中で硫酸ミスト化してまいりましょうし、窒素酸化物は硝酸ミスト化してまいりましょうし、炭化水素類はアルデヒドとかPANとかいうふうな物質に変わってまいりましょうし、個々のものを押えるというわけにはいかない。全体として空気をきれいにする以外にないわけでございます。きれいにするためには、固定燃焼炉と同時に移動燃焼炉としての自動車の内燃機関の改善を求める以外にないのではないかと思うのでございます。その
意味では、自動車の問題につきましても、製造業者に
責任があるというような、そういう
法律が望ましいのではないかと思うのでございます。
アメリカのミシガン州で一昨年の七月にできた
法律によりますというと、だれでも
公害源に対しては差止命令を請求する
訴訟ができる。
訴訟上の利害
関係はなくても
訴訟ができるということにしているわけであります。その
原案を書いたのはサックスというミシガン大学の
教授でございますが、一昨年の三月に
東京で社会科
学者の
公害問題に関する国際シンポジウムをやったときに彼が来ておりました。そして
水俣病の映画を見まして非常に強く感銘を受けたようでございました。万一こんなことがあったらどうしようかという点が、彼の関心の対象だったようでございます。彼は、帰国の後、ミシガン大学の学生を使いまして、ミシガン湖の川底のどろなどをずいぶん調査いたしました。そうしたら意想外に水銀があったということを発見しております。そのことが前提になってミシガン州法ができているようでございます。
ともかく
水俣病みたいな病人が出たら、これは
被害者としてもたいへんに困ります。終わりでございます。と同時に、加害者としても、やがてその企業の
生命がなくなってしまうわけでございます。だから、
水俣病にせよ、あるいは四日市
ぜんそくのたぐいにせよ、ああいう病気を出しちゃったら、困るのは
被害者だけではなくて加害者も非常に困るんだということ、それをやはり
法律によって徹底的に理解してもらうようにしていただくことが一番重要じゃないかと思うのでございます。
どうも失礼いたしました。(拍手)