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石川委員 私の
質問に
答えてないですね。五百キロまではソー・デルタは可能だけれども、一トンの衛星を上げるというときになると、アトラス・セントールの
技術をまた入れるというふうな
状態にならざるを得ないというのが現状ではないかと思うのです。だから、そういうふうに単発的に
技術導入をしても、
技術の波及効果というものは、ソフトウエアといいますか、
システムエンジニアリングが確立されないで導入された
技術というものは、何ら意味をなさないのではないかということを私はおそれておるわけです。
それと
あと一つは、ソー・デルタの
関係になりますと、おそらく硫酸ケロシンを使うということになって、相当危険度が高い、推力も弱いというのが定説ですね。私はどうも固体
燃料というものに非常にこだわるのです。これは誘導性が非常に困難でしょうけれども、しかしながら、危険度は少ない。液体
燃料になりますと、非常にコントロールはしやすいけれども、たとえば、やるのは種子島ですか、あそこには相当の人口があるのですけれども、万が一の
事故が起こったら一体どうなるんだという不安が液体
燃料の場合には非常に強いわけですね。そういうことを
考えると、私は、ソー・デルタを導入したということは非常に軽率だったのではないかという気がしてしかたがない、私個人はそう思っております。
そういう点で
宇宙開発について一番問題になりますのは、ソフトウェア、
システムエンジニアリングというものはもうすでに
宇宙開発の
技術から離れてひとり歩きしているわけですから、
宇宙開発をやる意義は一体どこにあるのかということを
考えると、
宇宙開発の中における工学
システムというものが確立をされて、
技術を導入されれば、どんどんそれからのぼっていけるというふうな体制がなければならぬけれども、その体制なしに単発的に次々と
技術を導入していくという
かっこうだったら、私はナンセンスだという気持ちを持っているのです。そういう点で、その確立というものについて、よほど
宇宙開発関係の方は責任をもって、これを反省をし、それを確立することに
努力してもらわなければならぬ。相当膨大な国費を使うわけですから、その点は十分
考えてもらわなければならぬという気がするわけです。
ソー・デルタの
関係については、実用衛星はほとんど上げていないのですね。それからソー・デルタの
関係では一九六八年から三回ほど
事故も起こしているわけです。種子島でやって
事故を起こしたら一体どうなるのだという不安感がどうしてもつきまとうのです。電気系統の
事故なんかはまだいいのでありますけれども、油圧系統なんかの
事故も起こっています。それから三段目のエンジンの
事故も起こっています。何回も
事故をやっている。しかも、実用衛星を上げた経験がない。そういう
技術を導入してはたしていいのかどうか、正直のところ、私は前から非常に不安に思っております。そういうことのないような形、入れた以上はこれを生かして、しかもその上の
段階のアトラス・セントールなどの
技術を入れなくても済むような体制を確立することなくして、これだけを入れるということは非常な国費のむだ使いになるのではないかということ、その点を十分
考えてもらいたいということを強く要望いたしておきます。
それで、私は宇宙衛星の
関係ではまだまだ申し上げたいことはあるのですけれども、きょうはその
質問をするつもりではなくて、近江さんが
質問したので、たまたま関連したような
かっこうなんですけれども、
宇宙開発の
関係でロケットにあまり重点を置き過ぎているのではないかという気がしてならないのです。ロケットにほとんど費用を使っているのですね。衛星のほうはつけ足しのような
かっこうです。費用からいっても体制からいっても、そういう
かっこうになっております。私は
日本で
考えるのは、もちろんロケットの
技術というものも波及効果があるということは認めるのにやぶさかではありませんけれども、むしろ衛星の
関係で、通信衛星あるいは気象衛星というものも国民生活に密着いたします。これはわかります。私個人の好みとしては、これは
学者の中にもそういう
意見があるのでありますけれども、たとえばこれからの食糧問題の
関係で魚群探知衛星というふうなものはどうしても必要なんじゃないか、こういうふうに生活に密着したものをまずねらっていくということで、そういう遠大な
計画のもとにこれからの
宇宙開発というものはやってもらわなければならぬ。そうでないと、いたずらに国費を乱費しただけで、
技術の波及効果というものはさっぱりない。ソフトウエア、
システムエンジニアリングもさっぱり確立されておらなかったという結果になったのでは、たいへん国民に対して申しわけないことになるのではないかという気がしてならないので、私はきょうはこれを強く要望としてだけ申し上げておきます。こまかい点は
あとでまた機会があったときに伺うということにいたします。
では、いよいよ本論に入るわけでありますけれども、
科学技術政策全般についての問題で、この間科学
技術会議でもって、一応七〇年代におけるところの科学
技術政策に対する提言が行なわれておるわけであります。
そこでは、出てきた科学の成果というものと、また人類社会に対する影響というものを
考えて、ソフトサイエンス、ライフサイエンス、環境科学、こういうものを確立しなければならぬといえ提言がなされておる。私はまことにそのとおりだと思うのですけれども、時を同じくして
学術会議のほうでも、科学と人間のかかわり合いについて、まだ完成されたものではありませんが、
一つの提言がなされております。これは結果的にはやはり科学
技術会議で言ったことと同じような
結論にはなるのでありますけれども、しかし、
考え方の根本がたいへん姿勢が違っておる。私は、科学
技術会議の
結論を間違っておると一がいにきめつけるつもりはございませんけれども、
学術会議のほうの姿勢のほうがはるかに正しいと思うのです。それは人間と科学とのかかわり合いというものを根源的に洗い直していこう、こういう姿勢から出発して、
結論はたまたま同じかもしれませんけれども、科学
技術会議のほうの提言は、出てきた結果に対して科学
技術政策の
立場からどうしようという対応策を
考えていこう、こういうことになっております。
学術会議のほうはそうじゃないのです。人間と科学とのかかわり合い、科学が進歩することによって生産が増強され、合理化が進み、しかし、そのことによって公害が進み、あるいは人間疎外の現象が出てくる。あるいは情報化時代になればプライバシーの問題も出、また、人間の位置づけというものは一体どうなるんだという不安がある。こういう人間と科学とのかかわり合いの中に立って、それで科学
技術政策というものを推進していかなければいけないのではないか、こういう提言がなされておるわけですけれども、この科学
技術会議の
結論並びに
施政方針演説などを伺いましても、何か出てきた現象に対して科学
技術政策的な
立場から対応策を
考える、こういう姿勢になっておる。
私は、この委員会も
科学技術振興対策特別委員会という名前がついていること自体に前から疑問を
感じている。振興させることだけが能じゃないと思うのです。人間と科学とのかかわり合いをどうするんだという根源から洗い直して出直すべきときに来ているのではなかろうかという
感じがしてならないので、
学術会議のほうはまだはっきりしたきまった原稿にはなっておらないようでありますけれども、この提言などは十分取り入れて科学
技術政策の姿勢をあらためて問い直すときに来ているのではなかろうか、こういう気がしてならないわけです。この点は長官に十分伺いたかったのでありますが、
政務次官にひとつ所信を伺いたいと思うのです。