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田中国務大臣 当時の大久保商工
委員長が述べておる趣旨のことは理解をいたしております。おりますから、
自主規制に踏み切ったことに賛意を表したのであります。ですから、当時の
官房長官も
政府を代表して賛意を表しておりますし、私も与党たる自由民主党の幹事長として、党を代表して
談話を出しております。でございますから……(「それなのに」と呼ぶ者あり)それはよく理解できますが、その間に事情は大きく変わっておるということだけは事実でございます。
これはひとつここでこの際ちょっと申し上げますが、これは自由民主党まで加わった
院議になったという背景をちょっと私は申し上げます。ここでもってもし取り消す必要があれば、あとから削除していただいてけっこうです。そういう前提でなければほんとうの話は申し上げられない。ちゃんと申し上げます。
それは、この
繊維交渉というものは、一九六八年の八月から始まっておるのですから、正味三年一カ月かかっております。それは
ニクソン大統領の
繊維に対する
輸入規制を行なうという宣言から始まっております。そして一番その中で大口である
日本との間にどうしても
政府間交渉を行なわなければならないということで、スタンズ商務長官が参りましたり、また大平・スタンズ会談、宮澤・愛知・スタンズ・ロジャース会談等々、何回も何回もやられた結果、
最後にはワシントンにおきまして
佐藤・
ニクソン会談において
政府間協定を始めましょうという正式な
合意が行なわれております。そしてその正式な
合意が行なわれた後、
政府間においては牛場・フラニガンという正規なルートにおいて
政府間交渉が行なわれております。ところが、その後七一年三月に突如
日本繊維産業連盟案なる
自主規制にすりかわっておるのです。この前提に
院議が行なわれておる、こういう事実でございます。それはどうしてそういうことになったのかというのは、
アメリカに指摘をされるまでもなく、私はその一点を
——いま遺憾な点があれば削除いたします、こう言ったのですが、外交
交渉において
政府間交渉を行ないましょうという
合意に達しておって、条件がそろわなかったから決裂したということは例がないわけであります。これは
日米間において
沖繩返還
交渉において
合意をした、条件が整わなかったからこれはやめた、こんなことがあり得るはずはない。そういう
合意に達しておって、条件が整わないでもってやめになった場合、起こったのは昔は戦争であります。それ以外に
方法はないのです。この問題に対しては、そういうことが行なわれたのです。そのときにはなぜ牛場・フラニガン会談という正規なルートで協議ができなかったか。足して二で割っても協議をすべきなんです。なぜしなかったのかというところに問題があるのです。そのときに、これは牛場・フラニガンという正規な
交渉では絶対にできそうもないということを
政府も自民党もみなお互いが理解をしたわけであります。それでこの
自主規制なるものを、事実の
政府間交渉だということを裏づけるために、
国会決議という強力な
決議をもって裏づけをした、私は当時の与党の幹事長としてそう理解をしておるのであります。ですから、これは
日本も引けないという
最後のところでありますから、
政府も自民党もみな賛成してこれは実際やったわけであります。そうでなければ、
政府間協定をしますと言っておって、
協定の途中でもってこういうものに変えられるわけはない。それには、私がここで申し上げるのはその
一つだけれ
ども、問題があります。それは、このままの
交渉でもって牛場・フラニガン
協定を結ぶと、いま現にある綿製品
協定と同じものになってしまう。品種間のシフト率が規定をされておりますので、伸びるものも頭を押えられる。そして伸びないものは死にワクとなる。そうすると十七年間でもって実質対米
輸出は半分になる。そういうことでは困るというので、このシフト間の
協定ができないために
政府間交渉がついにできなかったということでございます。
ですから、今度の
協定は、初めの案は非常に強い案でございますが、最終的に
協定をなしたものは、これからお互いが
日米間で
交渉していくと、いまの
日本繊維産業連盟の
自主規制をそのまま置きかえたというところまで何とか持っていけるかもしれないというものであって、これを
アメリカが一方的に
輸入規制をする案から比べると、非常に有利な案であるということは事実であります。そうでなければ、私はこんなものは結ぶはずはありません。ですから、そういうことであって、内容はどうせ
商工委員会でもって十分、こまかく数字をあげて論議する問題でございますから、私はここでは政治的な背景だけを申し述べるわけでございます。
第一回、
自主規制に変わらざるを得なかった、異例な変わり方をした。
日本はこれで済んだと思っておりますから、
政府が
官房長官談話も出し、与党の幹事長
談話も出し、みな出しておるわけであります。ところが、
アメリカは一向に済んでおらないのだ、
アメリカは
日米の
政府間交渉の糸は切れていない、
日本が途中で何か言っただけである、どうしてもこういうことを
日本が固執をするなら、
アメリカはもう一歩進めて一方
的規制案を提示いたします、その一方
的規制案というのは、今度きめた
協定よりもはるかに悪いものであって、これは一年間全
アメリカへの
輸出がストップする案であります。それは、もうこの半年間でもって一年間分くらい
輸出をしてしまったのです。それはかけ込み
輸出もあったでしょうし、いろいろなものがあるのです。一番
最後に、
調印する前の日などは、一年分の糸が一日でもって通産省に持ち込まれるというような大勢であった、そういう
状態で糸はもう三五一、三年半分出ておるのであります。それだけではなく、台湾からは二十三年分出ております。韓国からは二十四年分出ております。ですから、
アメリカはこれを食いとめるためには、
日本だけではなく、全世界に対して十月十五日付をもって画一的、一律的な規制を行ないます、こうきておりますから、このままで突っ込んだならば、対米
貿易はオールストップになる、こういう危険があったのでございます。ですから、それよりも、
国会もございますし、
決議もございますから、この背景でもって毎月毎月コンサルテーションをやって、死にワクの活用をはかってまいれば、私は
業界が行なった
自主規制に近い調整が何とか両国でできるであろうということで踏み切らざるを得なかったということでございます。
私は、この
国会の
決議というものに対しては、それは峻厳に考えておる。そういう
意味では、この
国会の議決が表面的に出たものの事情はどうあっても、これとたごうような
協定を結ばざるを得ないというときは、
行政協定のいかんにかかわらず、最終的には
国会の判断をまつべきである、私はそう公に
発言をいたしております。おりますが、事情は全く変わっており、
政府が
政府間協定を半年後に結ぶ
意思があるならば、はっきり言って自由民主党の幹事長はこの
決議に賛成をしませんでした。そうでなかった。この
自主規制は
政府間協定だと強弁するには、あの当時としてはこれ以外にないということで、自由民主党を私はまとめたのです。自由民主党をまとめて、この
繊維の
自主規制の
決議案に賛成のサインをしておって、今度は
通産大臣になったら反対の
調印をしなければならないというのですから、それはよほどの事情の変更がない限りそんなことはやるわけはありません。それはほんとうでございます。これから、数字的にどのくらいメリットがあったのか、どのくらいあぶなかったのかというならば、これはここに全部皆さんのところに数字で書類をお配りしてございますから、全部
説明できます。具体的に
説明できます。そういうことをひとつ御理解いただきたい。