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福田参考人
東京教育大学の
福田でございます。
きのう夜、突然この
委員会の参考人に出るようにと学長から依頼されましていろいろ
考えたのでございますが、ぜひということでございますので私出てまいったわけでございます。そこでどういう御質問があるのか、私かいもく見当もつかないで参ったことを最初にお断わり申し上げておきます。
それから第二に、大学というところは、御存じでございましょうけれ
ども、学問の自由の府でございますから、学問的なこと、あるいはそれに付随するようなことについては、各人各様の御意見がございます。そこで私は大学側の意見を代表するなんという立場にもございませんし、おそらくいかなる人もそういうことはできないと思うのでございます。私のほうでは、大学側で評議会とか教授会とかできまったことについての御
報告は正確に私はお伝えできると思います。
それから第二点についての
先生の御質問、いろいろ私の個人的な感想なんかもある
程度御要求されているようでございますので、その点について私の全く個人的な意見として述べることは差しつかえないかと思いますから、その点ひとつ御混同になりませんようよろしくお願いいたします。
私、有島
先生の御質問を正確に受けているかどうかわかりませんけれ
ども、私の理解した範囲内で
お答え申し上げます。
新聞等の報道にもございましたが、
東京教育大学では
昭和四十六年の六月十日に、筑波新大学の資本
計画案という大学側の基本
計画につきまして評議会の決定をいたしました。その前に学部の了承も取りつけてございます。ただし文学部に関しましては一切関知しないというあれでございますので、有志の教官にはかったという以外にこの点に関しては申し上げるわけにはいかないのでございますが、一応評議会の規程に従いまして評議会で決定いたしました。その序文の中で、大半の教官が出席し、千回以上にわたった
委員会を開いたというふうな点がございます。この点につきまして、普通の大学の統合、移転と違いまして、新しい構想の大学をつくろうということでございますので、大学内部の知恵はできるだけ動員したいということで、その中心はマスタープラン
委員会
——私は
委員長をずっとやっているわけでございますが、その下に各種専門
委員会あるいは特別専門
委員会あるいは小さな研究グループ等たくさんつくりまして、ほとんど連日数年間にわたって検討したわけでございます。その参加される教授団は、大学のルールと申しますか、やり方に従いまして、各教授会の推薦を受けるという形態が大部分でございます。それから小さなワーキンググループ的なものでございますと、たとえば電子計算機の導入についてどうするかということになりますと、これは全然
関係のない方だとわかりにくいものでございますから、そういう計算機
関係に
関係ある
先生方に参加していただきたいというようなこともございましたけれ
ども、基本的には各教授会の推薦または選挙等を通じまして
委員を選ぶということをやってまいりました。
それで、大半と申しましたのは、何といいますか、ある一部の教官で加わらない人もいたかというと、それはございます。それはちょっと学部によって
事情が違うかと思いますから、私のほうでこまかく説明することはちょっと適切ではないかもしれませんけれ
ども、各教授会とも
——文学部の場合は過半数というわけにはいきませんけれ
ども、各教授会とも過半数の教授あるいは助教授の
先生方がこういう
委員会または何らかの
意味でこの移転
計画に積極的に参加したという事実は確実でございます。その場合に、これは有島
先生の御質問にあったかどうかわかりませんけれ
ども、どういう人が参加したかというのは、学部ごとによっていろいろ違うわけでございますけれ
ども、私がマスタープラン
委員会の
委員長という立場でお願いしたのは、そういう移転そのものに対してどういう見解を持っているかというよりも、できるだけ専門の知識を傾けてくださるような形で選び出すようにしていただきたいということは各学部とも申してございますから、移転に関する御意見の違う方で参加した方も中にいらっしゃいます。
それから第二点の、内外の大学の諸欠陥を徹底的に分析して、そして学部・学科の壁を越えた討議を重ねたということについてということでございますが、この
東京教育大学のマスタープラン
委員会の案並びに評議会でアプルーブされた案と申しますのは、そういう真の
意味の総合大学を建設しよう、学部とか学科とか、あるいは講座制とか、かたい壁の中での大学の構造を改めて、そういうのを越えた大学にしなくちゃいかぬということが基本的なものでございますので、したがって、そういうものを議論する際には、各学部に戻してとか各学科に戻してという問題は事実上できない問題でございます。ですからすべての問題が、まあ多い少ないは別といたしまして、各学部の人たちが加わるとか、あるいは各専門家が共同の場で参加するという形態をとってございます。ですから、この千回以上の九九%までは、各学部あるいは学科、専門を越えた人たちが加わって討議したということでございます。
それからなお、これは御質問の中にあったかどうかわかりませんが、日本の大学
——ヨーロッパの大学等にもそういう点は見られるのでございますけれ
ども、われわれの日本の大学の諸欠陥並びに諸大学における新しい大学改革の方向ということを探ったときに、われわれが一番気がついた点は、いま総合大学といい、実際各種専門家が量質ともに非常に整っている集団がおるのでございますけれ
ども、大学の中の横の
情報は非常に薄い。講座制による縦の、教授から助教授へ、あるいは助手へ、学生へという縦の
情報はいいのでございますけれ
ども、横の
情報は非常に薄いというのがマイナスであります。これは日本の大学で特に強いのですが、ヨーロッパでもかなりそういう面がございまして、新しい大学を打ち出す際にどうするかというのが問題になる。これは非常に比喩的なことでございますけれ
ども、明治維新に廃藩置県をやった。それまでは各藩というものが、文化も政治も経済も、各種
情報が藩の中に限られていて、そして明治維新によってその廃藩置県で横の壁を取っ払ったということは、県には確かになりましたけれ
ども、政治も経済も文化も
情報が流れるようになった、さらにそこに新しい通信網、新しい輸送網によって日本全体が
一つの社会、
一つの国家としての近代性を持った、そういうふうにわれわれ
考えているわけなんです。大学に対しても、現在明治百年、明治以来百年を経た今日、こういう廃藩置県的な思想が必要じゃないか。つまり壁を越えて、各種
情報あるいは学内の運営上の諸問題とか、研究上の問題とか、
教育上の問題とか、そういうところに横の
情報社会をつくるべきだ、こういうのがわれわれの基本構想の一番重要な点でございます。そういうことで、そういう社会をつくるためには、新しい大学をつくるためには、そういう各種専門家の共同作業が必然的に必要になったということでございます。
あといろいろな問題がございますけれ
ども、われわれが一番重視しているのは、学生も含めて横社会、横の
情報社会を大学に確立したいという点が最も基本的な問題でございます。これをいかに確立するかという点でも、われわれは長い間時間をかけたわけでございます。
それから、御質問の
意味はそこが一番大きいのではないかと思いますが、われわれのほうでも、この最後の点で国民各層の御支援をお願いしたいと申しますのは、こういう大改革になりますと、
教育大学だけでなく、各大学の御協力だけでなくて、政界も、あるいは国民の各層にわたって、新しい大学をつくってくれという御要求があるわけでございますので、それにこたえるためには、われわれにも独善におちいっているところがないかとか、いろいろ御
指摘もすでに受けておりますけれ
ども、広くそういう層から意見を受けて、そうしてこの点はさらに改めるべきだとか、そういうことをやる必要があると思います。どういう組織でございましても、初めはこういう組織はりっぱであるということでやるのでございますけれ
ども、社会的な変化とか、あるいは人間意識の変遷とか、そういうようないろいろなもろもろの影響を受けまして、その組織がだんだん老朽化するということがございますので、われわれいま自信をもって新しい大学構想ということを打ち出したのでございますけれ
ども、やはり今後の社会的な変動に対しても、また国内的、国際的環境の変化とか、国民意識の変化とか、こういうことに短期間で左右されるということはやはり問題でございますから、学問という長期的な構想の上に、あるいは日本民族の将来ということで、そういう国家百年の観点から柔軟に対処していかなければいけないということは当然でございますけれ
ども、同時に、大学の性質上、ややもすると非常に閉鎖的になりがちだということをいかに破るかということで、われわれは「開かれた大学」という構想を出しております。つまり学部・学科の壁を取っ払うのを最も可能にする基本的な条件は開かれた大学であるということで「開かれた大学」という構想を出しているわけでございます。ですから、国民にも親しんでいただきたいような、つまり自由に大学を利用していただけるような「開かれた大学」にしたい。また、管理運営面でも、国民各層がいろいろ大学に対して文句も言えるような大学にしようということで、「開かれた大学」、またいまの大学は社会的な、あるいは国民の
要望に対して総合的な力を発揮
——元来そういう力を持っているのでございますけれ
ども、現実はなかなかそういう力を発揮しにくいので、そういう力を発揮できるようにしたい、そういう幾つかのアングルがわれわれの基本
計画の中に盛られておりますので、ひとつぜひ十分御検討の上御批判をお願いしたいと思います。
それからもう
一つ、御質問の大きな問題は、筑波新大学は
東京教育大学の移転を契機として新大学を建設するということの
意味に関してのことではないかと思います。これに関しましては、
東京教育大学が筑波学園都市への関心を示し出したのは実は非常に古くて、
昭和三十八年の夏ごろだったと思います。五月何日かだったのではないかと思います。
東京教育大学は、それよりもっと昔から日本一のタコ足大学でございまして、各種付属学校を九つも携えているたいへんなタコ足で、しかも狭いということで、学問的なニードにも社会的なニードにもこたえられないという状況がございました。
そこで、非常に早くから
東京教育大学では各教授会の了承を得まして評議会でこれは全学一致で、どこか適当な土地があれば移転しようじゃないか、そうして同一キャンパスになりたいという申し合わせが非常に古くから、これは私いつの時期かわかりませんが、
昭和三十年のころではないかと思われます、非常に古くからそういうものがございました。そして学内でもそういう移転地をいろいろ検討したのでございますが、どうしても適当なところがない。御存じのように年ごとに土地の入手もむずかしくなるということで、そこへたまたま
昭和三十八年に筑波の学園都市に
教育大学を移転する気持ちはないかということで、それを受けまして、実は
昭和四十二年の六月まで実に四年間にわたって、筑波には一体どういう大学をつくったらいいか、是か非かという大議論が学内で巻き起こりまして、四年間にわたって検討したのでございます。そして
昭和四十二年の六月に、とにかく筑波の土地は確保して、どういう大学ができるか、また政府もそれにどれだけ呼応するかを十分検討しようではないか。つまり新しく筑波へわれわれの移転先としての土地を確保してこれから検討を進めようではないかという案が四年かかっております。それから
東京教育大学の、よくいわれる紛争がそれを契機に部分的に発生し出すのでございますが、これについては、私はいまとやかく言う立場にございません。移転
計画の専門
委員会も、文学部も加わって何十回となく開かれました。私も
委員でございましたが、初期の段階では、もっと具体的に申し上げますと、
昭和四十二年にマスタープラン
委員会をつくりまして、四十三年中期ごろまでは、現在ございます大学の設置基準のワク内で、つまり現在の法律のワク内で学部・単科のワクを取っ払ったような運営をできるだけ可能にするという案、つまり法律改正を伴わない、国立大学のワクということを限定しまして、現存する法律の中でこの移転を実現しようではないかというのが
昭和四十三年の中ごろでございました。すでに四十三年三月には
東京教育大学の移転
計画に関する基本
計画案を学内で作成してございます。不幸にしまして、御存じのようにそれから日本じゅう大学紛争が勃発いたします。そのころから大学の内部では、あるいは外部でも、大学改革が必要ではないかという空気が非常に大きな形でクローズアップされてまいりました。実際中央
教育審議会のほうでも、たしか
昭和四十二年ごろから大学改革の案を検討を始めたようでございます。われわれその案の方向も全然見当がつきませんでした。
昭和四十三年ごろから国民の大学改革への世論、あるいは諸外国の大学改革への趨勢というものから、せっかくこの際移転をするなら、新大学として、新構想の大学としてその中に移転をはめ込むという形式がよくはないか、こういう空気が大学内外に持ち上がりました。大学内部でも、そういう方向は非常によろしいということで、評議会のほうでもマスタープラン
委員会に対して、ひとつ現在ある法律のワクにとらわれないような、国際的な視野から見てりっぱな大学をつくることを
考えてはどうか、そういうことを言われまして、
文部省のほうでもそういう姿勢を持っておるということも聞いておりましたので、マスタープラン
委員会は、いままでの審議を踏まえた上でさらに新構想の大学をつくろう、そういうふうに変わったわけでございます。これは、正確な日にちは記憶しておりませんが、
昭和四十三年の夏ごろでございました。そのころから各大学の紛争が非常に大きくなっていくわけでございます。
そこで、マスタープラン
委員会では、いろいろそういう観点で世界の文献、あるいは私自身も視察に行ったりしまして、どういうところが問題かということで検討をいたしました。現行の中でとらえられないような部会もずいぶんございますけれ
ども、それはそれといたしまして、それからそういう集中的な審議に入りました。残念ながら
昭和四十三年秋には
東京教育大学の本館その他が封鎖されるという事態が起こりまして、非公式な討議、つまり大学でそういう
委員会を開くことは困難でありましたので、非公式な討議があちこちのグループでなされました。そして
昭和四十四年には大体いろいろな試案がまとまりまして、そしてマスタープラン
委員会も四十四年の春から再開されるということで、さらに集中審議いたします。それから二年ぐらいかかりまして、つまりことしの六月十日までに、さらに二年を経まして案が作成されたのでございます。御質問の、
東京教育大学の移転を契機として新大学をつくるという
教育大学の
方針は、そういう歴史的な
背景を見ませんと、ちょっと奇妙なのでございます。
しかし、大学側から申しますと、初めは、移転しよう、しかし移転したときにいまのように非常に封建的な大学をつくってもしかたがない、だから、やはり思い切って国民の期待にこたえられるような新大学をつくろうじゃないか、こういうのが
教育大学の発想だったわけであります。
文部省のほうでも、中央
教育審議会その他のこともあるし、また、国民の世論もございまして、
教育大学がそういうことをおっしゃるのなら、ひとつこの機会に、いろいろな表現はありますけれ
ども、
東京教育大学を核として新しい新構想大学をつくってはどうかと、こういうようなことで、
文部省側と大学との間に意思の疎通ができているんではないかと信じておる次第でございます。
ですから、もともとは純粋な移転で発足したのでございますけれ
ども、
東京教育大学のマジョリティーは、その機会に新構想の大学として脱皮して移転しようではないか、その移転を契機として新大学をつくろうというような表現になったり、あるいは、
東京教育大学を核として新構想大学をつくるとか、いろいろな表現がされておりますけれ
ども、大学のマジョリティーの意見は、古い型の大学ではしかたがない、法令の解釈の許す限り、あるいはできれば法律の一部の改正を含めて、できるだけ新しい大学を表現していっていただきたい、こういう気持ちでございます。
最後に、これと関連しまして、有島
先生の御質問の中にあるいはそういう問題が含まれているのかもしれませんが、現在でもまだ反対の人がいるのかどうかという問題につきまして、これは私見でございます、私的な接触は、大学でございますからたくさんございますが、少なくともここ何カ月にわたって、おそらく昨年の夏以来、ほぼ一カ年にわたって、部分的にはあるかもしれませんけれ
ども、
東京教育大学の内部で大きな抗議運動とか、あるいは自分に移転に反対だというような意見はほとんど聞いてないのでございます。いままでも、実は
教育大学としては、移転をして新大学をつくるという、移転を契機とする新大学をつくるという決定をしたのは四十五年の七月二十四日でございます。そのころいろいろ抗議運動もございましたけれ
ども、これは個人的な見解で恐縮でございますけれ
ども、移転そのものに反対だという空気はあまりないのでございまして、いろいろ手続上気に入らぬ点があるとか、やり方がどうも気に食わぬ、こういう御意見はあるようでございますが、移転そのものに反対であるとか、あるいは自分たちの学問上、
教育上の
利益が非常にそこなわれるというような式の攻撃はあまり受けたように思いません。ですから、世の中でいわれているほど、現実に新しい大学構想そのものに対する反対がどこまで強いか、これはなかなかっかみどころがないのでございますけれ
ども、われわれが正式にわかることは、各教授会の審議の結果とか、それから大学評議会の審議の結果ということでございまして、それに対して個々の人たちが全部にわたってどうであるということは、ちょっと個人的にも申しかねるのではないかという気がいたします。