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岩動道行君 三島君を指導したノーベル賞受賞者である川端康成氏は、最初は、事件の直後には、何とむだなことをと、こういうことを申しておられましたが、最近に至って、三島さんは多くの人々の心と歴史の中に生きていると、こういうことを語っておるわけであります。
防衛庁長官がお話しになったように、三島事件はきわめて多面性を持った事件であったと、私も理解いたしております。この中でとるべからざるもの、とるべきもの、これは私も私なりに考えておるわけでありまするが、特に軍国主義的な方向への
一つの面が多分にあったのではないか。これは当然否定さるべきでありまするし、あの市ケ谷事件それ
自体が完全に否定し去られなければならないものとは思っております。しかし、彼の死の波紋、それは深く静かに広がりつつあるやに私は見受けるのであります。それは、
日本の歴史と伝統の美しさが破壊されつつあるという風潮というものに対しては、三島の死というものは何らかの大きな影響を与えているのではないだろうかと、かように思うのでございます。これは私所見でありまするから、これ以上は申し上げません。
さて、今日は情報化社会、脱工業化社会へと急激な変化を遂げつつあるのがわが
日本であると申しても差しつかえないでありましょう。
アメリカの未来学者でありますトフラーによりますれば、
アメリカよりももっと速いスピードで未来に向かって疾走している国、それが
日本だと、こう申しております。変化に対する人間の適応の実際を知るには、
日本は生きた実験室と見られている。私
どもの現実の生活の場では、変化の波が大きな音を立てて押し寄せてきていると言わざるを得ません。七〇年代の変化の流れは強烈であります。社会構造をくつがえし、価値観をかえ、生活の信条まで破壊していくようなおそろしさであります。変化とは未来がわれわれの生活に入り込んでくる過程のことでありましょう。あまりにも短い
期間に、あまりにも多くの変化を受けて、どうしてよいかわからなくなった人間の状態、トフラーはこれを未来の衝撃
——フューチャーショックという表現をいたしたのでありまするが、われわれ政治家は、この加速度的に推進される未来の衝撃に挑戦し、適応し、国家
国民のため新たな秩序を創造していく責務を負うものと確信をいたすのであります。
以上のような意味におきまして、私は国家の基本法である
日本国憲法についても新たな角度から、二十一世紀的なあり方を検討することを提案したいと思うのであります。憲法改正はいまや第二ラウンドに入ったのではないだろうかと思うのであります。憲法調査会の報告書が出されてからすでに六年余に相なるわけであります。この間、
政府はほとんど何ら憲法の改正問題については触れておられません。また、
総理も、憲法については改正をしないということをたびたび明言しておることも、私は十分に承知をいたしております。先般の
総理の施政方針演説の中に、
日本は壮年期に入ったと言われました。マッカサーは、占領時代に、
日本は十二歳の少年であるということを申しました。これはたとえではありまするが、そのような表現でとらえられる
日本というものは、少年期から壮年期に入ったとすれば、少年のときに着た洋服が壮年のおとなになったからだに、はたして合っておるだろうか、これは検討を要する必要があるのではないでしょうか。
そこで、検討すべき
事項については後ほど申し上げますが、わが党におきましても、政務調査会に所属する正式の機関である憲法調査会におきまして、先日、会長副会長
会議を開きまして、この際、四十六年の十二月末、つまり本年末を
一つの目途として憲法改正要綱案をまとめてみたいという申し合わせをいたしたのであります。
さて、このような動きがわが党にありまするが、私は、憲法改正の問題を検討する場合の基本的な姿勢をまず述べまして、後ほど
総理から御所見を承りたいと思います。私は、現行憲法は、先ほど申したように、
国民によく定着しつつある、不十分ながらもそのような方向に向かいつつあると、天皇制のもとに議会制民主主議、平和主義、基本的人権の尊重など、重要な原則はさらに堅持されていくべきものであると思います。
第二に、現行憲法は、占領下の押しつけられた翻訳憲法であるという評価もありまするが、一がいにそれでこの憲法はいけないということは、いささか感情に過ぎるのではないかと思うのでありまするが、また、憲法改正にあたって、検討をするにあたって、明治憲法の郷愁を持ち、明治憲法に復帰すると、そのような考え方を基本に持つことは、絶対に持つべきではないと思うのであります。もっとも、この憲法が、私も当時内閣の法制局におったのでありまするが、いまの
佐藤人事院総裁が第一
部長で、マッカーサーの英文憲法原案、草案というものを松本国務相、そして吉田茂外務
大臣に手交をされました。そして直ちにその後、それが二十一年の二月十三日でございました。それが三月四日には、
日本政府の憲法改正草案としてGHQの係官のところで、当時の
佐藤第一
部長は徹夜で英文からこれをまた
日本語に翻釈するというような作業をいたし、翌五日には早くも閣議決定になり、天皇の裁可を得て、六日には憲法改正草案要綱として発表をされている。このように、きわめて短時日の間に作文され、ほとんど
日本側の要望が入っていなかった。これは法律技術的にも非常に問題が今日まで残されておるわけでありまするが、そうして同年の十一月には公布されたというような、きわめてあわただしい中にこの憲法が制定されたということも、われわれは事実として認めざるを得ないわけでございます。
以上の経緯から見ましても、条文上条理を欠いたり、あるいは不合理であったり、不備の点も少なくありません。しかし、われわれ与党、
政府、あるいは国会の立場におきまして、問題が起こりまするならば、そのつどこれを弾力的に解釈し、あるいは運用を行なって、幅のある憲法として運用される。それがある
程度の評価をされておるというふうにも思われるわけであります。しかし、憲法調査会の報告をもととして現行憲法の基本的な諸原則を取り入れつつ新たな発想で新憲法を検討することは、必要ではないかと思うのであります。
そこで、具体的に二、三の問題について申し上げてみたいと思うのでありまするが、まず憲法調査会が三十一年に設けられた経緯については、本来ならば国会の中に設けたいということでありましたが、それができなくて内閣に置かれました。しかし私は、今日あらためて国会の中に与野党一体となって、超党派的に
日本国憲法の新しい姿はいかにあるべきかを検討する、そのような正式の機関を国会の中に設けることはどうであろうか、このことをまた提案をしてみたいと思うのであります。憲法は一党のみによって改正されるべきものではないと私は確信をいたすのであります。好ましいことではございません。したがいまして、そのような与野党が一体となってお互いに意見をかわす土俵、場所というものが必要ではないか。その中から生まれてきた、憲法改正を必要とするならばその改正を必要とする点について提案があれば、
総理はこれをどう受けとめられるか、この点をまず伺いたいと思います。