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1971-05-19 第65回国会 衆議院 法務委員会 第21号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十六年五月十九日(水曜日)     午前十時七分開議  出席委員    委員長 高橋 英吉君    理事 小澤 太郎君 理事 小島 徹三君    理事 田中伊三次君 理事 羽田野忠文君    理事 福永 健司君 理事 畑   和君    理事 沖本 泰幸君 理事 岡沢 完治君       石井  桂君    鍛冶 良作君       松本 十郎君    赤松  勇君       勝澤 芳雄君    黒田 寿男君       田中 武夫君    中谷 鉄也君       三宅 正一君    林  孝矩君       青柳 盛雄君  出席政府委員         法務大臣官房長 安原 美穂君         法務大臣官房司         法法制調査部長 貞家 克巳君  委員外出席者         参  考  人         (明治学院大学         法学部教授)  田上 穣治君         参  考  人         (東京大学社会         科学研究所教         授)      高柳 信一君         参  考  人         (法政大学法学         部教授)    永田 一郎君         参  考  人         (明治大学法学         部教授)    和田 英夫君         法務委員会調査         室長      福山 忠義君     ――――――――――――― 委員の異動 五月十九日  辞任         補欠選任   勝澤 芳雄君     田中 武夫君   日野 吉夫君     中谷 鉄也君 同日  辞任         補欠選任   田中 武夫君     勝澤 芳雄君   中谷 鉄也君     日野 吉夫君     ――――――――――――― 五月十八日  出入国管理法案反対に関する請願(青柳盛雄君  紹介)(第六八二七号) は本委員会に付託された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  裁判所司法行政に関する件      ――――◇―――――
  2. 小澤太郎

    小澤(太)委員 長代理これより会議を開きます。  委員長所用のため、指名により私が委員長職務を行ないます。  裁判所司法行政に関する件について調査を進めます。  本日は、参考人として明治学院大学教授田上穣治君、東京大学社会科学研究所教授高柳信一君、法政大学教授永田一郎君、明治大学教授和田英夫君が御出席になっております。  参考人一言ごあいさつ申し上げます。  本日は、御多用中のところ御出席くださいまして、まことにありがとうございます。当法務委員会におきましては、当面の司法行政の諸問題について熱心なる討議を行なってまいったのでありますが、本件について各参考人の御意見を承りますことは、当委員会調査に多大の参考になるものと存じます。各参考人におかれましては、何とぞ忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。  それでは、まず各参考人から、裁判官任期と再任の問題及び司法権、特に司法行政国会国政調査権の問題について、お一人二十分程度意見をお述べいただき、その後委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、田上参考人からお願いいたします。田上参考人。   〔小澤(太)委員長代理退席委員長着席
  3. 田上穣治

    田上参考人 立法権司法権関係あるいは国会裁判所関係につきましては、二通りの見方憲法学においてございます。  第一は、憲法四十一条の国会は国権の最高機関であるという立場でありまして、これは大体イギリス国会フランス国会、従来の国会などを頭に置いた考えでございます。これに対して憲法八十一条の違憲立法審査権最高裁判所に認めた、これは司法権優越の、優位の原則でありますが、この立場から見た場合とでかなり結論を異にするのであります。実は、両方とも日本憲法規定でありますから、一方その見方が分裂するというのははなはだ困ることでありまして、こういうことはできるだけ学問的にも条文の上でも一本になるようにすべきであったと思うのであります。  この点につきまして、ちょっと時間がございませんが一言申しますと、昭和二十一年のマッカーサー総司令部の当時、最初に御承知のように、総司令部からわが憲法のモデルとされた案がわがほうに提出されたのでございますが、このいわゆるマッカーサー草案においては、現行憲法八十一条に相当する規定のところでは、かなりこの点の配慮がございました。つまり、国会最高機関であるから、国会がつくった法律最高裁判所憲法違反だとしても、それに対して、さらに国会に対して再審の申し立てをすることができる。最高機関判断をくつがえすということは容易ならぬことでありますから、最終的には国会合憲違憲答えを出す。ただし、人権保障についての憲法規定法律が反する、こういうことになりますと、これは最高裁判所判断終審であり、最終的な権威を持つ、こういうことになっておりました。  ところが、わが政府の案、すなわち現行憲法の八十一条では、このある意味において相当くふうをしてあった原案を簡単にアメリカ式規定――アメリカにはもちろん憲法規定はございませんが、アメリカで行なわれている制度を頭に置いて書きかえてしまったのでございます。つまり、あらゆる場合に憲法規定法律が反するかどうかは、もっぱら最高裁判所終審としてきめる。マッカーサーの案では、人権保障規定に反するかどうかというときに限って最高裁判所終審としての判断権威を与えるという限定したものであったのが、これはすべてそれが原則に変わってしまったのであります。その結果、四十一条で国会最高機関であるといっても、必ずしもそれは額面どおり受け取れない。八十一条で最高裁判所違憲とすれば、せっかく国会のつくった法律であってもこれを握りつぶすことができるということになったのであります。  もう一つは、蛇足になりますが、憲法の第三章の人権保障でございます。この御承知人権保障は、国会の多数決による法律をもっても破ることができないということでございまして、結局、それは国会最高機関としてつくった法律に対しても、人民の側で人権を主張すれば十分に抵抗ができるという考えであります。  このいわゆる人権保障というのは、実はイギリス国会最高機関とする憲法には考えられないものであります。イギリス憲法では、男を女にし、女を男にする以外は何でもできるといわれておる国会でございますから、そこでつくられた法律に対して裁判所憲法違反としてくつがえすことはできない。すべて裁判所合憲判断をして、その国会法律を適用するほかはないのであります。  ところが、わが憲法人権規定は、その国会がつくった法律からもなお侵すことのできないものとして高く評価され、憲法保障されているのであります。憲法規定を見ますと、永久に侵されない人権とか、あるいは立法権においても最大の尊重を要する、こういうふうな形になっておりまして、思想的にいえば、むしろこれはイギリス学者のロックの学説などにもありますが、イギリスにはほとんど実行されていない思想日本憲法アメリカ立場をその意味においては日本憲法が採用しているのでございます。  そうなりますと、結論は簡単で、国会最高機関であるという四十一条の規定がかなり制限を受けることになる。その制限一つは、いまの永久に侵されない人権国会権威をもってもなお侵すことのできない個人の基本的人権であります。そして、それを保障するものとして裁判所権威が認められておる。だから、主として今日においても人権規定が問題でありますが、この人権保障法律によって破られると認められる場合には、裁判所が絶対絶大の権威をもって答えを出すのであります。そういうのが八十一条で、もし司法権のその意味において高度の独立保障されなければ、結論的に申しますと、国民人権保障がはなはだ怪しいものになってしまう、ほとんど空文に終わる、こういうのが一応の見方であります。  さて、前置きが長くなりましたが、この二つ原理がある意味で対立しており、しかも、その調和の上に憲法を解釈しなければならないということにつきましては、ひとり日本のみならず、外国においても多くの学者の認めるところであります。イギリス学者によりますと、一方では国会が絶対である、パーラメンタリーソベレンティ、国会主権というふうに申します。イギリス国民主権者ではなくて、国会主権者であるというふうな見方であります。しかし、他方でルール・オブ・ロー、法の支配という、これも近ごろよくいろいろな書物なりで使われておりますが、法の支配、その場合の法というのは、国会がつくる法ではなくて、むしろそれを超越した法であります。判例法とか自然法とか、イギリス慣習法というふうに見る人もありますが、いずれにしても、国会が左右することのできない法が政治支配するのである。いわば国会もまたその意味ロー、正確にいえば普通法と言ったほうがよいかもわかりませんが、コモンローを破ることはできない、そういう思想が一方でございます。  また、フランス学者は、この国会がオールマイティであるということにつきまして、たとえば憲法学者のバルテルミーを見ますと、民主制論理、ロジック・ド・ラ・デモクラシーというふうに申しますが、これは国民総意がすべてを決するのである。総意は、それは国会によって完全に代表されている。これはドゴール憲法以前の思想でありますが、フランス国会は何をきめてもフランス国民総意のあらわれであるというふうな見方で、だから、これは主権的な、国会最高機関という結論になるのでありますが、このデモクラシーのロジックに対して、憲法論理がある。口ジック・ド・ラ・コンスチチューシオン、これは永久に変わらない人権保障とか、あるいは憲法こそは国会の上にあって国会を拘束するものであるという思想で、それを受けて、フランスの場合には、司法権日本のような保障は強いものではありませんが、そこに二つの違った憲法原理がある。ドイツの学者はやや違いますが、国会主権を持ち、あるいは国民総意によって政治をきめるというのは、言うまでもなくデモクラシー民主制原理であり、これに対して、憲法優越司法権優越を認める立場がレヒッシュタート、法治国原理というふうに申しております。  私も、蛇足でございますが、一九六六年に、西ドイツの憲法裁判所裁判官ライプホルツ教授の六十五歳の誕生の記念特集論文集で「日本における法治国民主制」という表題で簡単な論文を書いたのであります。  さて、本論に戻りまして、このような前置きを申し上げたのは、当面国会憲法六十二条で一種の国政調査権を持っている。その国政調査によって、裁判所の、特に委員長からもおっしゃいましたが、司法行政あるいは裁判官の特に人事について調査をするという問題になりますと、そこで説が分かれてくるのでございます。先ほどから申しておるように、国会は絶対であり、最高機関であるというイギリス流原理を貫きますと、むろん六十二条の国政調査権限界がない。すべて広い意味政治に関することは何でも調査できるということになるのであります。この考えは、御承知昭和二十三年の浦和充子事件のときに参議院の法務委員会のほうでもその趣旨の声明をされております。しかし、これに対しましてはまた反面、そうではない、やはり人権保障、そしてまた人権を保護する立場にある裁判所司法権独立憲法の明文の規定があるのであって、特に中心憲法七十六条第三項の、裁判官は自己の良心に従って独立して職権を行なう、憲法及び法律にのみ拘束されるという規定であります。これは何でもない規定のようでありますが、実は憲法法律にのみということは、それ以外の政府の命令あるいは国会政治的な要求に従わないあるいは独立であるという含みがございます。国会政治的な要求という、もっと広い意味考えますと国民の世論あるいはマスコミにいろいろあらわれてくる国民の多数の声、そういういわゆる民の声から独立して職権を行なう。良心に従ってということは、それはだから外の声に耳をかさないで、もっぱらいわば内なる心といいますか、良心のひらめき、自分のいわゆる信念によって判断をすべきである。その判断の基準はもっぱらこの憲法憲法に従った法律によって判決をする、裁判をする、こういう趣旨憲法七十六条第三項であります。いろいろ規定憲法にありますけれども、これを中心として司法権独立というものが保障されているのであります。  このほうから見ますと、国会国政調査もかなりの制限を受けるのでありまして、一般政治のほうは、国会調査をする相手方あるいは国会批判監督するのは内閣である。内閣一般政治と、これを行政権憲法はいっておりますが、行政権行使について国会に連帯して責任を負うという、これも民主政治基本原則責任政治原則が認められるのであります。しかし、司法権については、国会一般的な監督権を持っていない。反対にいま申しました独立原則憲法に明記されている。ということになりますと、これは特別な憲法規定国会権限が明記されている場合に限って裁判所に対しては口出しができる、監督を加える。その一番はっきりとしたものは、国会裁判官弾劾裁判訴追権能でございます。これも厳密に申しますと、国会通常権能であるかどうかは議論があるところでありまして、会期に拘束されない。閉会中であっても弾劾裁判所衆参両院独立職権を行なうことができるわけでありますから、そういう意味では通常国会権能とはいわれないのですけれども、憲法六十四条によって弾劾裁判所裁判官訴追制度、これは当然の権能であります。  そのほかいわれますのは、立法権国会憲法行使するわけでございますから、裁判制度についても法律をつくる、あるいは法律を改正するような場合には、国会は当然その立法権行使するに必要な限度において、必要な資料を集め、関係者を呼んでその判断材料を得なければならない。こういう意味立法調査立法のための調査ということならば、当然衆参両院権能に属するわけでございます。しかしながら、行政府と違って、責任を追及するという、あるいは国会に対する裁判所責任ということが憲法に出ていないのでありまして、責任を追及する意味でこの調査をすることはできない。これが、もう一度申しますると、国会憲法上の権能として明記されておる仕事の補助的な手段として、それを行使するに必要な限度においては国政調査は当然である。しかしながら、そういう他の権能行使する目的がなくて、ただ調査のための調査一般的な批判国民にかわってある意味においては真実というか事実を明白にし、そして国民批判材料を提供するというふうな意味調査、これは従来の解釈によりますと、司法権独立原則に反するというのが一般見方でございます。  しかし、これについてはむろん今日学会でも必ずしも説は一致しておりませんが、従来のところを一応そういうわれわれの分析によりますと、民主制立場ではなくて、国会主権を持つ立場ではなくて、憲法論理法治国原理、法の支配という立場から見ると、裁判官の自由な判断影響を与える、相当強い影響を与えるような調査は好ましくない、少なくとも憲法原理に、論理に反するというのが通説でございます。  このこと、つまり民主政治に対して司法権というものは独立であるということと、もう一つが、先ほど申しました人権保障であります。これも国会国政調査権限界としてあげられるのでありまして、国会調査のために人を呼ばれる場合にも、それは憲法の六十二条には直接書いてありませんが、憲法三十五条の所持品の押収あるいは強制的にこれを提出させるとか、あるいは逮捕して身柄を拘束して国会に連れてくるとかいうようなこと、あるいは黙否権規定、いろいろございますが、そういった憲法三十五条、三十三条あるいは三十八条その他人権規定国政調査においても守らなければならない、こういう結論になるのであります。  さて、要点はそういうところでございますが、もう少し具体的に入って申し上げたいと思います。  そこで、一言にしていえば調査権限度、ワクは何かということになりますと、いまの民主制に対する憲法なりあるいは人権の優位と申しますか保障、そういう立場から見ますと、司法権独立に基づいて外部からの、裁判所以外の外からの批判が許されないということであります。裁判官責任を追及するとまでまいりませんでも、裁判所当局が自主的な判断憲法上の権能行使することができないような意味影響を持つ調査は、司法権独立趣旨に、原則に反するというのが一つ考えでございます。それは七十六条第三項の規定で、先ほど申しました独立して良心に従って職権を行なう、憲法法律にのみ従って、それ以外のものには裁判官は従わなくてよろしいという保障でございます。これをことばをかえますと、裁判所の具体的な権限憲法上の権限行使することに対して影響を与えないという意味でありますが、あるいは学者によりますと、裁判官の内面的な確信を自由に形成することが保障されなければならない。人からいろいろ言われますと自分結論が頭の中でふらふらいたします。そうではなくて、自主独立立場自分が自信を持ってある結論が出せるような、そういう心境を妨げてはならないという趣旨でございます。これは簡単に申し上げました。  そこで、もう一つ、時間をとって恐縮でありますが、裁判官人事司法行政については、いま申しました意味で私はいろいろあると思いますが、裁判官の少なくとも人事の決定が独立で行なわれなければならないということは、裁判官職務を行なう職権行使独立の当然の前提でありまして、両者を切り離すことはできないと考えるものであります。何か司法権独立といって、裁判官裁判所裁判する、判決をするときに、その結論判断の自由を妨げてはならないというふうにとれますが、むろんそれが中心でありますけれども、それにはその判決をする裁判官地位、身分というか、それが、あるいはその人事が、独立に決定されなければ、結局不適当な裁判官判決をどんなに自主的に書きましても、それは人権保障に役に立たないという考えでございます。これは外国学説でも、日本学説でも、ほぼ一致しているところでありまして、司法権独立原則は、司法権裁判所行使するときの独立と、同時にその裁判官地位保障ということが含まれているということでございます。  司法行政と申しましても必ずしも私はそのすべてが厳格に独立である、保障されているとは思わないのでありまして、法律の中にはかなり広く、裁判所法などには認めているようでありますが、これはいろいろ御議論のあるところでありますが、私どもはそれは裁判所法の改正によって、必ずしも裁判所に一任する必要のないものも若干あるのではないかと思いますから、この諮問事項司法行政全般について独立保障されているかといわれますと、私はそれは法律によって保障される程度のものもあるし、あるものは、裁判官人事などは憲法保障されているものと思うのであります。それは要するに憲法八十条に御承知下級審裁判官については名簿を最高裁判所が調製する権限、これが書いてありまして、これを制限するようなことは、たとえ法律をもっても憲法趣旨に反する、かように考えるのであります。たとえば任命についての諮問委員会なるものをいろいろつくるというお考え国会方面にあるようでありますが、しかし、それがただ単に憲法権限行使する参考意見であって、当面の権限を持っている最高裁判所判断を拘束しないというのであれば、私はしいて許されないとは思わないのでありますが、もし拘束する力を持つような場合でありますと、憲法上の八十条による最高裁判所権限憲法規定によらないで制限するということになって、その法律憲法違反の疑いがある、かように見るのであります。  時間が参りましたが、最後に、いま私が申しましたのは、何か非常にあいまいであって、最高裁判所の自主的な判断影響を与えることがいけないなんてことになると、国会としては何も言えなくなるのじゃないかという、そういう点では議論が非常にばく然としているではないかという御懸念があると思います。確かに私も別に法律的に国政調査の結果が最高裁判所を押えてしまうというわけではないので、ただ政治的に国民の代表の声として謙虚に裁判所は聞くべきであるという御趣旨ならばよろしいようにも思うのでございます。しかし、この点は従来もいろいろございまして、先ほどの浦和充子事件においてもそういう反論がございましたが、もう一つ大学の自治につきまして、われわれも関係がございますが、警察官大学教授思想学説調査する、あるいはポポロ事件で東大の構内に警察官が立ち入って、その警察手帳を見るといろいろ教授考えなどについてのメモがあったということでございますが、こういうことは学問の自由を侵すというのが従来の比較的多数の学説、見解でございます。われわれからいえば、少しひねくれた立場でありますと警察手帳に書いてあってもそんなことは学者が気にしなければよいではないか、警察官に書かれたって別に逮捕されるわけでもないし、刑罰を受けるわけでもないのだから聞き流しにすれば何でもないではないか、かような見方もございます。また、そういう学説もございます。要するに学者が心臓が強ければ何らその学者学問の自由を警察が侵したことにならないという見方でございます。気の持ちようである。しかし、一般見方は、それは例外であって、学者の中にも気の弱い人が相当いるだろう。それが何かわからないが、警察官がいつの間にか自分調査して、思想はこういうものであるなんてことを手帳に書きとめられるのははなはだ不愉快であるのみならず、それならば書きたいことも書けない、言いたいことも遠慮しようというふうになって、かなり無言の圧力がかかってきて学問研究を妨げ、また大学の講義も制限されることになる。だからそういう警察のやり方は行き過ぎであるという、行き過ぎということは憲法の精神に反する、学問の自由に反するというのが一般見方でございます。  そういうことを考えると、裁判官にも気の強い人があるし、またそうでない人もありますが、気の強い人ならば、それは国会でいろいろおしかりを受けても、あるいはおしかりまでこなくても、いろいろ御質問があってもそれは何でもなくて、普通の気持ちで応対ができるかと思いますが、そういうことを標準にしないで、やはり裁判官の中にもかなり気の弱い人もある。だから平均いたしましてやはり国会国政調査は、いまのたとえば具体的な問題についての調査になりますと、裁判官憲法上の権限を自主的に行使することを妨げることになるのではないか。憲法趣旨からいうと、それはむしろ控えるべきではないかという意味でございます。学問の自由とかなり比較していただければ大体私の気持ちを御理解いただけると思います。  こまかい点、時間もございませんからあとで御質問のときに気づきましたらお答え申し上げたいと思います。(拍手)
  4. 高橋英吉

    高橋委員長 次に、東京大学社会科学研究所教授高柳信一君にお願いいたします。
  5. 高柳信一

    高柳参考人 高柳でございます。  裁判官の十年の任期制度についてまず考えを述べたいと思います。  この憲法下級裁判所裁判官についての十年の任期についての定めは、かなり特異なものでございます。これは制定の由来、それから法は一般に妥協の産物だといわれますが、いろいろなファクターが重なり合いまして、その結果こういうところに落ちついたということを注意する必要があると思います。まず、この憲法のもとでの司法権の任務といいますか、明治憲法のもとにおけるのと非常な違いでありますが、これは申すまでもなく、裁判所政府政治部門の行為の憲法適合性、法適合性を判断できるということであります。この点は非常に重要なところでありまして、例のマッカーサー司令部が本国へ出した報告書「日本政治的再編成」というのでも強調しております。最初の原案には、強力で独立の司法府は国民の権利の防塁であるから、日本司法権はすべて最高裁判所及びこれこれの下級裁判所に属せしめられる、こういう規定になっておりました。つまり国会のつくった法律憲法適合性、行政府の行為の法適合性並びに憲法適合性を判断する、これはこの憲法一つの眼目であります基本的人権保障の中核をなします。そしてその基本的人権の中核をプラクチカルに見れば、司法権がになうのである。そういうことになりますから、ここで強力で独立の司法府は国民の権利の防塁であるからということになるわけでございます。このことばは現行憲法からは取り除かれておりますが、先ほど申しました「日本政治的再編成」においては同じく強調しております。旧制度のもとでは、日本裁判所は執行府に追従し、法的にはそのもとにあった。ところが、ほんとうの司法権というものは真に独立でなければならない。そしてこの憲法のもとでの司法権には政府の一切の処分の効力を争う権利が与えられた。つまり、そしてさらにこの点はきわめて重要である。それは権利章典に生命を与える、こういうふうにいっております。  この見地から司法権考えますと、一方において非常に民主的な裁判官制度というものが考えられます。そして「日本政治的再編成」においては裁判官の選挙制度とリコール制が提案されております。そして当時の過程を伝える文書によりますと、一方においてそういう徹底した司法の民主化の考え方を持つグループがあり、他方において、裁判所違憲審査権を与えると司法の寡頭制を来たすおそれがある、そういうことを考えるもう一つのグループがある。そして、この二つ考え方の妥協として、十年の任期制という現行の規定になったというふうに考えられます。  ところで、この点はかなり内容的に吟味を要するわけですが、それは先ほど申しましたように、日本憲法のもとで司法部、司法権がになう重大な役割り、つまり権利章典に生命を吹き込む、国民の権利の防塁としての役割りを果たす。これは司法権独立ということで他方説明されておりますが、司法権独立は司法官の身分保障制度的中核とするわけです。この憲法のもとで司法権は、明治憲法のもとにおけるのと比べて、飛躍的に独立が強化されなければならない。そのためには、裁判官の身分保障が飛躍的に強化されなければならない。ところが、この十年の任期制をとるというのは一見矛盾であります。その矛盾の一つは、先ほど申しましたような二つ考え方の妥協の結果であるということになります。  しかし、その妥協はなぜこういう形で結実したかといいますと、法曹一元というものを前提にしなければ、おそらくこういう十年任期制というのは妥協の産物としてでも出てこないだろうと思われます。つまり、選挙制度であれば、任期制というのはきわめて当然になります。終身官を選挙で選ぶということはあり得ませんから、必ず任期制になります。したがって、アメリカの各州、これは半分以上、裁判官の選挙制度をとっておりますが、六年、八年というような任期制がとられております。ところが、選挙制度をとらないで、そして任期制というのは比較法的にそういう制度があるのかということがいわれますが、一つはっきりしていることは、職業裁判官制度、つまりキャリアシステムの裁判官制度のもとでの任期制というのは論理的にも考えられないし、実際、制度としてもないのではないか。もちろん世界に百幾つ国があるわけで、全部調べたわけではございませんが、主要国においては、キャリアシステムの裁判官制度での任期制というのはちょっと考えられない。  ところが、選挙制度でなくても、法曹一元のもとでは、任期制というものが論理的に当然には考えとして引き出されないにしても、制度としてはあるのであります。デラウェアの州憲法でありますが、ここでは十二年の任期裁判官が、州の最高裁から高等裁判所等、州知事によって任命されます。ここでおもしろいことは、裁判官の選挙でもないのに、政党員である、政党に所属するということが当然の前提にされているということであります。それを示す規定として、過半数に満たない偶数の者が同一の政党に属することは可能である、それ以上同一政党に属することになったら、それはいけないという規定があるわけであります。ですから、五人であれば過半数に満たない最大の偶数ということになりますと二名でありますが、二名までは同一の政党に属していい。しかし、三名同一の政党に属するということは許されない、こういうことでありまして、裁判官が政党に所属することは当然の前提とされ、そして州知事は上院の同意を得て裁判官を任命する、その任期は十二年ということになっております。それからミズーリ州憲法も同様に十二年の任期裁判官の任命を定めております。ただし、これは超党派的な司法委員会が推薦をしまして、それについて州知事が任命するということになっております。  そういう意味で、現行憲法考えますと、キャリアシステムの裁判官制度司法権独立を旧制度とは比較にならないほど強化し、その司法権独立の内容をなすところの裁判官の身分保障を比較にならないほど強化しようという場合に、当然に任期制ということは考えられない。つまり法曹一元というものをある程度前提にすれば、そこに任期制度というものも憲法との関係である程度考え得るわけであります。  さて、現行憲法のもとでは、そういうふうには事態は進行しませんで、キャリアシステムになっている。これは憲法のもとでの制度のつくられ方の過程で明らかでありますけれども、日本政治的民主化の一環としての司法の民主化にあたって提案された主題は、一つは、裁判官――これは検察官も含めますが、裁判官、検察官の公選性であります。しかし、わが国の対応は、それに対してそれを拒否するといいますか、それに対して最高裁判所裁判官国民審査ということでこたえたことになります。それから第二の司法の民主化の提案は、賠審制、参審制でありますけれども、これもわが国は採用いたしませんで、検察審査官制度でこたえたわけであります。第三が法曹一元でありますが、これに対しては、やはり完全には実現しませんで、法曹三者の養成の司法研修所制度で対応したわけであります。  こういうふうに、裁判官の選挙制度が一段いいとか、法曹一元が一段いいとかいうのではありませんけれども、当時司法の民主化として問題にななった事柄が一つずつ段を下げて、こちら側で対応し、実現していったということが考えられなければなりません。  そういうもとで、十年任期制度ということを考えますと、先ほど申しましたように、裁判所は、政府政治部門の立法行為、行政行為の法適合性、憲法適合性を審査、判断するということになりますから、これはかつてとは違った意味での身分保障を必要とするわけであります。しかも憲法中心としております議会制民主主義は国民基本的人権――先ほどのお話にも強調がありましたが、国民思想の自由、思想の表現の自由というものを完全に保障しなければ、議会制民主主義というものは機能しない。つまり一部の人々の思想及び思想の表現が制限されていたのでは、そこで多数決を行なってもほんとうのの国民意思に基づく決定は出てこないわけであります。ところが、政党政治のもとでは、自己の政党の掲げる綱領の実現、これは政党としては、全国民のために正しいと思っているわけですから、それに邁進するのは当然でありまして、少数者の思想あるいは思想の表現がそのために制限されるということは、多くの国の憲法政治の現実からいって、しばしばあることであります。それに対して、裁判所が真に議会制民主主義の機能し得る基礎的条件である国民思想の自由、思想の表現の自由というものを守らなければ、議会制民主主義そのものが機能しなくなるという大問題があるわけであります。  ところが、この国民思想の自由、思想の表現の自由を保障するということは、そう簡単なことではない。なぜならば、それは多数者の意見、多数者の思想、多数者の思想の表現が多数決によって制限されるということはあり得ませんから、どこでも起こることは、少数者の思想、少数者の思想の表現が制限されるということであるわけであります。裁判所がそういう事態を事件として取り扱って、先ほど申しましたような意味で、議会制民主主義の基礎条件である国民のあらゆる思想の自由が保障されなければならないという判断をしますれば、これはしばしばそういう少数者の思想そのものにその裁判官は賛成であるかのごとく非難を受けるからであります。この例は各国で枚挙にいとまがないわけでありますが、しかるにかかわらず、裁判官憲法で与えられた機能を十分に真に忠実に果たし得るためには、やはり身分保障というのが非常に重要になる。ところが、先ほどのような事情で十年任期制ということがとられておりますと、法曹一元を前提にしないところでこの制度合憲的に、憲法適合的に実現するためには、自動承認ということしか考えられないというふうに思われます。つまり、憲法も定め、また国民に真に公正な裁判保障するという見地からいって、身分保障には限界があります。つまり弾劾、罷免に当たるような場合、あるいは心身の故障のために裁判の機能を営めない、こういう場合には任期のかわり目において、つまり任期中であれば弾劾によってやめさせられたような場合、こういう場合には任期のかわり目においてそれを再任しないということはあるでしょうけれども、そうでなければ、真に自動的にといいますか、実質的に自動的に近い運用をしなければおそらく違憲ということになってくると思われます。  そういう点から非常に大事なことは、その点についての運用を誤りますと、一方において議会制民主主義の機能が危うくなるということと同時に、他方において司法部部内のモラルといいますか、裁判官の意識というものに非常に大きな衝撃を与えるということであります。つまり、どういう裁判をすると十年たつとやめさせられるのではないか、あるいは十年の途中であればあと六、七年やると裁判官としての地位を失うのではないかということになりますと、司法部部内のモラル、士気といいますか、意識といいますか、これが非常に侵害されるということがあるわけでございます。  それから最後に、国政調査権司法権との関係でありますが、時間がありませんのでごく簡単に申しますと、裁判そのものについていかに国会といえども国政調査権によって調査し得ないということは、これは学界においてほぼ定説だろうと思われます。そして司法行政権能、これは裁判そのものではありませんが、最初に申しましたような意味日本憲法のもとでの司法権の新しい重大な役割り、つまり、より強力な独立性を必要とするということから、明治憲法のもとでは司法省が行なっていたような司法行政権を裁判所自体に与えたわけであります。したがって、この司法行政権能は、ただ性質的に行政であるからといって国政調査権の対象になるというふうに考えるべきではなかろうと思われます。そして、なかんずく裁判官人事が問題になっている、そういう意味での司法行政権の行使にあたっては裁判官あるいは裁判所といえども、そう国政調査権に基づいて呼び出されてあれこれとっちめられるべきではないというふうに私は思います。  ただ、先ほど申しましたように、十年任期によって最高裁判所は再任さるべき裁判官の名簿づくりの権能を与えられているわけですが、この際、私はすべての権能国民のために行使さるべきであるということを強調すると同時に、そういう意味憲法上の権能法律上の権能考えますと、それは常に手続的公正の原則に従って行使されなければならないということを特に注意を喚起したいと思うのであります。この点はいろいろな法理論、判例理論によって述べられ強調されておりますけれども、アメリカの最高裁の、すでにやめましたがフランクファーターという裁判官、これはむしろ進歩派からは非常に保守的だと非難されている裁判官でありますが、このフランクファーター裁判官は、人が人である限り他人から権利を奪うにあたって対外的に無責任であるということはあり得ない、少なくともそれが権利章典の基礎にある核心であるというふうに言っております。そして、判断の有効性と道義的権威、モラルオーソリティーは主として判断が得られるモード、しかたといいますか形態といいますか形式といいますかに依存する、秘密ということは真実発見と両立しない、独善性、セルフライチャスネスはほとんど正しさの保障にはならない、真実に達するために重大な権利利益の喪失の危険にある人に、彼に対する事案を知らせ、それに対して自分の言い分を言う機会を与えるということが判断の正しさを獲得する最大の道である、それこそが国民の意思に基礎を置く政府、ポピュラーガバーメントにとって最も重要であるところの正義は行なわれたという人々の意識を醸成する最もよい道なのだということを述べております。  私は、国会国政調査権によって最高裁の司法行政を当然に調査するとは思いません。しかし最高裁判所は、憲法によって与えられた権限国民の正義はなされたという意識を呼び起こすような形で行使さるべきであるというふうに思うわけであります。  多少超過しましたが、以上で私の話を終わります。(拍手)
  6. 高橋英吉

    高橋委員長 次に、法政大学法学部教授永田一郎君にお願いいたします。
  7. 永田一郎

    永田参考人 時間が制限がありまして、かつ学会における報告ではございませんので、きわめて現実的な問題に限定しましてお話を進めていきたいと思っております。  最初に、まず裁判独立という問題から考えていきたいと思いますが、結局こまかい条文は省略しますが、憲法法律に従い、それから独立して自己の良心という、その両面的な裁判についての独立の内容が出ておりまして、ただ、この独立良心というのも決して自分思想のみにとらわれるのではなくて、やはり憲法法律に従う、その憲法法律という問題について、私は一大前提を述べたいと思います。  それは、自由体制を擁護する、そういう根本的な解釈というものが日本憲法のどこにも出ていないようでありますが、前文その他の全体の構成から見るとそういうことが予想される。ただし、ボン基本法のようにそういう反自由体制を十分考えないというような規定はございませんですが、そういうことは考えられます関係上、極端な軍国主義であるとかいろいろの破壊主義、そういうような議会主義をぶちこわすような自由というものは日本憲法では保障され得ないと私は考えておるわけでございます。  それから、田中耕太郎長官がもと言ったように、裁判官立法、行政に介入しないほうがいいというのは適言でありまして、そうするとたとえば国会内閣司法権というものが三者相互干渉し合って、そしてその間無用の混乱というものを引き起こすおそれがある、名言であろうと思います。  それから、有名な浦和充子事件というようなものは、つまり判決内容に対して国会批判した、つまり学界としての理知的批判でないような、あれは人権の不十分な点を批判した事件ですから、やはりあれは六十二条の調査権では行き過ぎであろうと思われます。当時の新聞を見ますと、なくなられた金森先生の批判を見ますと、裁判所判決と六十二条の調査権とを批判して、これを国民に提示して国民の比較検討を待つのがいいであろう、ああいう解釈は、ややおかしいのではないかと思います。もしも反対に、四十一条の国権の最高機関たる地位を無視して、司法権がやたらに国会に干渉したらどうなるか、そういうことは妥当でない。そういうことから見て、もっともであろうと考えております。  それから第二に、司法行政というのが司法権独立の裏づけだろうと思います。  まず、裁判官の任命方法について、皆さん十分御承知だと思うのでございますが、裁判独立のためにきわめて必要であって、現在大体最高裁は内閣、それから下級裁は簡単に言うと最高裁の人事権によっているという制度でございますが、必ずしも十分なりっぱな、これ以上ないという制度ではございませんかもしれませんが、責任内閣制のたてまえとすれば、これよりベターな方法はないと私は思っております。したがって、有名な大阪地裁吹田黙祷事件などについて、その不注意を戒めた最高裁の指示なんかは、きわめて適切な措置であろうと思います。つまり、司法行政上やはり法廷の規律を保つ法律が現在もありますし、その自律として最高裁が指示することは適当であろうと思われます。  それから、最高裁の従来の司法行政上の自律、公正のあり方として、私は普通の一般のジャーナリズムに反して、きわめて公正で厳格で信頼に足るものと信じております。と申しますのは、有名な平賀さんの左遷事件、それから飯守さんの辞任事件もきわめてきびしい態度でございまして、りっぱなものだと思います。それに対して、たとえば福島裁判官などの問題について、辞任をされて辞表を出されて撤回されたような始末でございますが、普通の一般職の公務員の場合の撤回についても日本の最高裁の判決はきわめて――アメリカ判決などと比べて、辞表撤回については甘い最高裁の考えのようです。裁判官の場合なども、福島さんの場合や、それから阪口さんや宮本裁判官などが、御承知のいろいろな問題について相当新聞紙上などに、あるいは新聞の報道等に十分な点があるかないか、私詳しいことは存じませんが、私など読んだところによると、最高裁の司法行政をやや批判しているような口吻などが見られるわけでございますが、そういうものをほとんど不問に付しておるような点などから見ても、何と申しますか、最高裁はきわめて公正なる態度を維持することに努力されている点は確かだろうと思います。  それから、司法制度を自民党の司法制度改革特別委員会調査されたということは、これはきわめてけっこうなことであろうと思います。これもジャーナリズムなどでは若干批判している面もあるようでございますが、与党として制度を検討するために、医療制度であろうと、裁判制度であろうと、個々の裁判干渉でなしに、司法権の干渉でもないし、侵害でもない、そういう意味制度を検討する上において、法案立案のために検討されることは、きわめて適切なる措置であると思います。  それに対して、四十四年四月二十四日、岸事務総長の発言において、そういうことに対して反対の意向を述べられておりますが、これは国会の干渉がオーバーラップすることを懸念する最高裁の立場の反論でございまして、これまたきわめて最高裁としての正しい態度で、したがって国会の――国会と申すよりも、与党としての制度の設置並びに最高裁としてのそれに対する反論ともども、それぞれの立場でりっぱなものだと考えております。  それから、宮本判事補の再任要求ということが最近きわめて問題になっておりますが、これはやはり私は消極的なものと思います。と申しますのは、裁判官地位というのは、一般公務員のような労働者たる地位ではありませんで、アメリカなどでいうプリビリッジ、アメリカでは一般の公務員の地位もプリビリッジ的な、特権的な地位考えられておりますが、日本の公務員法はそうではございませんが、裁判官はやはり特権的な地位であろうと思います。そして再任の要求というのは、いわゆる法学上でいうところの反射的利益と申しまして、権利、利益として裁判所に擁護さるべき利益ではないのではないかと思います。やはり裁判官というのは、特殊の公正な役割りを果たす、そういう特別の地位のあるものであろうと思います。そして再任されない事由として、何というのですか、よく理由を示さないという批判があるようですが、事務総長の談話によると、青法協に加入していることのゆえだけではないという程度のことが語られておりまして、事由を公表とは申しませんが、談話の形で述べておりますし、それ以上の公表の必要がないということは、いわゆる人事の慣例並びに法的根拠もないということで、最高裁の態度は間違っていないと思います。ですから、宮本さんの立場とすれば、これは出訴する、そういう場合に、これが反射的利益として全然はねられることは今日あまりないのではないか。というのは、行政事件訴訟法九条カッコ書きにおきまして、いわゆる再任を求める判決は給付判決といって、これはいまの訴訟法上無理かと思うのですが、ただ慣例的に再任ということがある程度考えられるから、再任が慣例的な一種の裁判所に擁護されるべき権利、利益、そういうふうに裁判官考えられたならば、これが本案審理に入り得る可能性がある。そうすると、最高裁も再任しない事由というものをパブリック的に言う形になろうと思います。  それから阪口修習生事件も、修習生の地位というものが期限的な一種の公務員の特別なものでございまして、たしか退職手当についての請求訴訟について消極的な判決があったと思うのですが、ただ問題は、修習生の終了とは、単なる学科課程の終了ではなく、終了式の終わるまで、その公的活動までもやはり品位というものが考えられまして、これも法律というよりも、その施行規則によって修習生の罷免の、つまり裁量的な事由の中に、やはり品位とか、そういう面が入っておりますから、そういう面を裁量の逸脱があれば、いわゆる踰越というものがあれば、これが裁判所の訴訟の対象になって救われる可能性がありますが、マイクを公式の席上で奪取するようなことは非礼、原則にも反しないで、裁量の踰越が私はないと考えております。  それから最高裁長官の国会出席拒否も、これもきわめてりっぱな態度であろうと思われます。というのは、こういう個々的事件でございまして、司法行政全体の、裁判制度全体の大原則の問題に触れるようなことならば最高裁長官も出席するというようなこともあり得るかもしれませんが、こういう程度の問題では出席する必要がない。逆に最高裁がむやみやたらに衆議院議長や、それから総理大臣を最高裁に呼び出すなんということは、法的に根拠もなし、三権分立のたてまえ上そういうことは無理であろうと思います。  それから裁判官のあり方として、石田発言ということが非常に問題になっておりまして、四十五年五月二日の極端な軍国主義、共産主義は好ましくないというような考え方、それから四十五年六月二十九日の表現の自由ということよりも職業倫理を尊重せよということも私は賛成をしたいと思います。というのは、よく思想判決とは別々に観念的に分けられるという考え方もありますが、こういうことは実際上不可能であり、かつ、こういうことをする裁判官があったら、あまりりっぱな裁判官ではないのではないかと言いたいと思います。と申しますのは、青法協というものについて、たとえば研究団体説を唱える渡辺洋三教授などは、そういうようなことを言われておりますが、しかし、何と申しますか、やはり自由主義体制ということについて十分賛成する思想学問や自由、そういう形のどうも団体ではないし、また学者も弁護士も裁判官も、そういうことを憲法上禁止されることは絶対にないと思うので、それで一応それなりに存在的な意義というものはあろうと思います。ただ問題は、佐々木議長の新聞記事かなんかによって――これも私、新聞で読んだだけでございますが、学者や弁護士の方はデモのような具体的運動に参加するが、判事の方は具体的な運動に参加しない、ただ研究だけをなさるのだというようなことを申されていますが、これはちょっとおかしいと思うのです。つまり、思想については青法協的な思想を持たれて、それで研究会に参加されて、事判決に至るや、思想を一てきして、憲法法律に従って中立、公正な立場判決するということは、これは非常に不可能なことで、そこに意思の分裂があって、私はそういう考え方にはとうてい賛成できない。もしも青法協の一員としての主張を貫くならば、そのイデオロギーにおいて徹底的に貫いて、イデオロギー本位の判決をなさったほうが態度が一貫してよろしいと思うのです。ですから、そういう問題について、またそれがいろいろの問題が起きてきたならば、それはそれで解決したほうがいい。ですから、そういうふうに思想がこれで、研究がこれで、判決はまた別の角度だ、そういうような考え方がやや見られるようですが、これは私はおかしいのではないかと思われます。  それから、青木英五郎さんという弁護士の方が、石田発言について、これをマッカーシズムだというようなことが毎日夕刊の四十五年六月十二日に出ておりますが、最近のマスコミの傾向が、平賀判事や飯守判事について極端な攻撃に出ているようなことが、むしろ逆マッカーシズムというと変ですが、そういうような傾向すらあろうかと私は思います。つまり、アメリカなんかでも、加入団体の規律が憲法法律より優先する団体に入会することは、警察官などは失格するというような判決例も、たしかあったように考えられます。それから、特に忠誠については、アメリカなんかは、一九五八年の忠誠法なんかについて、相当強く、いわゆる民主主義政府を転覆する団体加入の公務員の失格などをいっておりますが、そういうことは日本はもちろんございません。ただ、条文だけが公務員法や教育職員免許法にあるだけでございます。条文に、裁判所法にないからといっても、裁判官の場合などは、そういうことがより以上要求されることもあろうと考えられますが、これは別に法的根拠のあるものではございません。  それから、六十二条の問題でございますが、訴追委員会委員長中村梅吉代議士の委員長の名前で、青法協傘下の裁判官を四十五年十月二十七日に調査されたということについてジャーナリズムなどの相当の批判がありますが、私は、この調査は違法な点はないと思うわけでございます。と申しますのは、青法協の裁判官個々のメンバーを批判したり非難したりする問題ではないので、青法協というものが注目される団体であるから、それを研究するための審議の必要上の六十二条の目的に全くかなう調査であろうと考えられるのでありまして、浦和充子事件のような個別的な判決――あのとき、やや子供の殺し方がむごいとか、それから人権侵害があるといったような問題とは全然違いまして、ただ、むしろ青法協の問題についてそれを秘密裏に調査するような、そういういいかげんなものよりも、正々堂々と訴追委員会調査された態度はりっぱなものであろうと敬服しております。  それから、訴追委員会の結果として、平賀さんに対して不訴追であって、福島さんに訴追猶予をしたということは、司法行政立場で、これは逆に平賀さんに重く福島さんに軽かったわけなんでございますが、それが逆だから云々というような記事が若干私見受けられるのですが、私は、この司法行政立場訴追委員会立場が別々であるからこそむしろりっぱなものだと思うのです。つまり、何と申しますか、結局福島さんのいわゆる平賀書簡というものの――まあ、あれは私信といえば私信でございますが、職務上の問題の私信で、いろいろなむずかしい問題があります。ここでは深く入りませんが、ああいうものの価値判断のいかんで、六十二条の国会訴追委員会考えと、司法行政としての最高裁の考え方の評価の相違がございまして、これこそ立法権司法権独立の証拠であろうと思う次第でございます。  それに対して、潮見教授が、裁判官の問題について、これは全裁判官について学術的な意味において調査をされたことがございますが、こういうことは、いわゆる学問上、先生の研究上ぜひ必要なことかもわかりませんが、私は、これから申し上げるように、松川事件的なああいう集団大衆運動の批判にあまり賛成しませんが、潮見先生のような、学問的といえども裁判官についてこういう調査をするということはちょっと賛成しかねると思います。まして、松川事件のような集団的な大衆運動の裁判批判というものは、よく裁判司法行政批判だといいますが、むしろ検察官や警察に対する一つの牽制になるようなことでございまして、ああいうような反対は法的意義もありませんし、田中耕太郎長官が雑音視せよと言いましたけれども、雑音以上の弊害があろうと考えられます。  それから石田さんの訴追事件について四十五年七月四日にございますが、そのうちの訴追委員会訴追名簿のメンバーに法律家がわずか、大体五人ぐらいしかいないのでありまして、こういうようなことは、何も法律家だけが訴追要求という――これは全くプライベートなことでございますが、そういうような外部からの批判に対して、六十二条としての国会制度批判というものはきわめて適切であろうと思います。  それから最後に、相当数の学者裁判官に対して、ある政治的、積極的役割りを望む、そういう現象が今日見られている次第でございまして、たとえば、「法学セミナー」の「司法の危機」とか、その他の「世界」などにそういう論文が出ております。たとえば、小林直樹教授が、裁判官というものの中立の欺瞞性というようなことを述べられております。たとえば、「中立は上からの司法行政上の圧迫を伴う特殊政治化、恣意要求そのものとし、政治的中立とは、政治的イデオロギー的に使用され、欺瞞的な政治的中立を裁判官は押しつけられる。」たとえば、高柳信一教授は、「人民の現在を乗り越え、よりよき社会創造的の動態こそ、憲法の期待するデモクラシーであり、憲法訴訟の裁判は、価値の選択を避けることができない。憲法訴訟の政治的中立は神話である。」というような発表をされております。それから、芦部東大教授は、最高裁は純司法機能に閉じ込まずに一定の政策決定の形成者としての役割りを果たすべき積極的な姿勢が必要である。それから、阿部照哉京大教授も同じような趣旨を述べられております。  と申しますのは、やはり裁判官は、むしろ従来の伝統的な考えとして、パッスィブな立場に立って訴訟要件を具備したものを憲法法律その他に照らして裁判をする、そういう域にとどまって、それ以上のある種の要求司法権のにない手である裁判官に期待することがきわめて無理であるということが第一と、それから日本というのは、いわゆる英米独仏と極端に違うことは、政治的イデオロギーがきわめて激烈な対立の激しい社会でありまして、こういうことは、もう日本の場合、よそと比較のできないくらいむずかしい問題があります。ですから、よく偏向裁判というようなことは、両陣営とも――両陣営というように日本の場合ははっきり言えるくらい思想的対立が激しいと思うのですが、あまり言いたくはないのですけれども、たとえば、羽田空港ロビー事件の東京地裁の判決などは、無届け集会について同志が激励し合う会合だといい、それから、デモをやったかやらないか私もよく存じませんが、たとえば場所の移動であるというような判決があるのでございますが、こういうようなことまでがちょっと問題だろうと思うのです。ですから、そういうような点は、やはり中立な裁判ということについて日本ではなかなかむずかしくて、そして再任問題などもなかなかむずかしい問題があろうと思います。  ちょうど時間でございますから、これでやめたいと思います。(拍手)
  8. 高橋英吉

    高橋委員長 次に、明治大学法学部教授和田英夫先生にお願いいたします。
  9. 和田英夫

    和田参考人 和田であります。  先ほど来諸先生のお話がありましたので、私、重複する部分は時間の関係上できるだけ割愛して、幾つかの問題点を拾って申し上げたいと思います。  最初に、再任制度に関する司法行政一般的問題であります。これは高柳教授が先ほど述べられたことに関連するのですが、私は、この問題については大体四つの観点から考えるべきではないかというふうに思います。  第一の検討の視点は、憲法七十六条三項の職権独立、七十八条の身分保障、これを基本的な視座、基軸としまして八十条の再任制度を検討する、そういうアプローチが大事だということであります。これに関連しまして、裁判所法の八十条、これは御存じのとおり、上級裁判所からする下級裁判所に対する監督権規定でございますが、この裁判所法の八十条と、その監督権行使について制約をいたしております八十一条の関係、つまり裁判権には影響を及ぼしてはいかぬ、制約をしてはいかぬというのがございます。これを考える必要があると思うのです。しかし同時に、この再任制度の問題については、学界での若干の説がいまありますけれども、必ずしも裁判官の分限法あるいは裁判官弾劾法というものの場合の要件と同じ要件でなければ再任は拒否すべきである、つまり再任拒否の理由を裁判官分限法、裁判官弾劾法そのものというふうにその事由をしぼることには、私は若干賛成できないのであります。これがいわば再任に関する法構造的な視点であります。  第二の視点は、旧憲法下における裁判官の身分保障、これとの比較ということを、先ほど申し上げた裁判官の身分保障並びに司法の優位という観点から考え直す必要があるということであります。つまり明治憲法下の場合の裁判官は、これは天皇大権のもとでの天皇の名においてなすところの裁判官裁判であったわけであります。そうして同時に、それは行政権優位のもとでの、つまり司法大臣の監督のもとに置かれた裁判官だったわけであります。これを完全に転回しまして、司法権の優位、あるいはルール・オブ・ローといってもよろしいと思いますが、司法部の自主性、司法の優位というものを基準にして、現在の国家、つまり司法国家といわれていることもありますが、そういう国家の仕組みができたわけでありまして、この点で旧憲法下における裁判官の任務といまの憲法下における裁判官の任務とは、格段の任務の上での相違あるいは強化があるわけであります。この点は身分保障考える場合の私たちの注意すべき問題だと思います。  第三は、国家公務員法の中には一般職公務員、特別職公務員があるわけですが、一般職公務員の場合よりも、司法権独立あるいは司法の優位という憲法原則によってより高かるべき裁判官の身分が、一般職公務員よりもより弱体化するということは、憲法の司法に関する基本原則からいたしまして、私は納得できないのであります。ただこの点は、先ほど高柳教授が言われたアメリカの比較法の問題もありますので、この点、第四として私は、憲法八十条の再任制の立法趣旨がどうであったのか、その場合に比較法的な研究として、アメリカ制度がどのように導入されたのか、あるいは導入された結果それがいかにして定着しなかったのかということを考える必要があろうと思うのです。  このような観点から、私は、先般本委員会最高裁判所の吉田事務総長、それから矢口人事局長が質疑の中で答弁されたことを材料としまして、私の再任制度に関する考え方を申し上げたいと思います。  この点については、きわめて要領よく我妻先生が取りまとめてあります。私もそれは非常に要領いいまとめだと思っておりますが、我妻先生はこういうことを言われているわけであります。四つの論点があるように思います。まず一つは、事務総長の本席における質疑応答の中で、憲法八十条は、再任については新任と同じであるということ。それから二番目は、再任をどのような基準でするかは裁判官会議の自由裁量であるということ。三番目は、ただし本件の宮本判事補の場合には青法協の会員であるということはわかっている。それから四番目は、したがって再任しないといっても、それは免職したわけではないので、採用しないまでのことだというふうなこと。そういう点から理由を開陳することを拒んだわけであります。この点に対して私は幾つかの疑問を持っております。我妻教授はこれに対して、筋は通っているけれども、納得はとうていできないというふうなコメントをされております。  つまり、最高裁判所の事務総局の見解によりますと、再任と新任は同一であり、かつそれは自由裁量であるということであります。私はこの点について次の点から疑問を持っております。私は結論から言いますと、再任は原則である、しかし全く例外がないわけではないのであって、それはあるけれども、それは極限的にその例外を少なくすべきである、ゼロとまでは申し上げませんが、少なくすべきであるというのが私の考えであります。  言うまでもないわけですが、この再任制度趣旨は、司法部の化石化を防止する、司法権の名においてその独善がなされるということでは困るという憲法上の原則だと思います。私どもその点は同感であります。  この点については、実は憲法改正の審議において、佐々木博士が次のような質問をされております。再任ができるかできないかは内閣のほうで言うまで待っていなければならぬのですが、十年たったならば再任を要求する、再任をひとつ出願してみることはどうかというふうな発言をしております。これに対して金森大臣は、日本人らしく、ゆえなく再任を拒むということはなかろうと思う、しかし、こういう点についてこまかに再任要求権とか何かということを言うことはないのじゃないか、そういうことで日本人的な感覚でしょうか、もっと日本人らしい方法でその調節をはかりたいと思うというふうなことを言っております。ここではつまり、佐々木博士は、再任要求権というようなことを言外にほのめかされて十年間の任期についての質問をされたわけであります。これが第一点であります。したがって私は、憲法制定会議の段階では、再任ということはやはり新任と同じだという考え方で審議されたとは思わないわけで、再任そのものの前提には、いま言ったような再任要求もできるのではないかという発言が佐々木博士から出されているということは、重大な問題だと思うのであります。  それから、この点については、再任の条文を見てまいりますと、再任されることは差しつかえないというふうに読めるのですが、この点について、私は実定法上の条文の解釈と比較制度もしくはその前提となった立法趣旨、当時の事情とが非常にズレているという感じがいたすわけです。実は、私も若干最高裁判所の問題について研究してまいったのですが、たまたま憲法調査会の報告書の中で、兼子一博士がやはりこの十年の任期について、一応これは法曹一元ということを前提としているというふうな趣旨のことを述べられております。私はこの点、先ほど高柳教授が言われたことに関連するのですが、おそらくは日本のこの再任制度の十年というものは、アメリカの連邦の裁判官ではなくて、州の裁判官のことが念頭にあったのだと思います。その場合には、プロモーションシステムじゃないので、エレクションもしくはノミネート、選挙あるいは任命ですので、そもそも再任の請求とかなんかという考え方は出てこないわけであります。しかし、他方でキャリアシステムを日本でとっておった旧憲法と比べますと、十年間で首切られるということになりますと、あと一年もしくは半年後に再任の時点に立たれた裁判官が、安んじて訴訟事務、裁判事務をやれるかどうか、はなはだこれは疑問だと思うのです。そういうことになりますと、やはり結論としては、法曹一元の定着化があの時点において必要だった、それが十分なされてないままに、つまり判事補という制度を設けて、プロモーションシステムあるいはキャリアシステムをとってしまったわけで、だとすると、従来の法曹一元の定着を今後願うと同時に、他方では、戦前の裁判官地位よりも身分を安泰ならしめるような憲法上の一つの慣行をつくるべきではないかというふうに感ずるわけであります。  そのように考えた場合に、ちょうど行政法などでいいますと、免許を新しく交付する場合と、交付された免許の更新をする場合と、それにやや似ているようなものが私は再任の問題だと思います。すでに十年間の実績があるわけですから、十年間の再任にどういう基準でやるかは、十年間の実績を見て、その人のやった判決その他の行動を科学的に見た上で再任するかどうかをきめられるわけですので、私は、この点については全く新しい任命をするということとは違うと思うのであります。その点が条文上はどうもはっきりしてない。確かに最高裁事務総長がおっしゃるように、あたかも十年でばっさりとやり直すというふうに条文上なっておりますが、その条文上の根底にある思想は、先ほど申し上げた法曹一元の思想、これが実は定着しなかったということ、したがって、裁判官の身分保障という大原則から考えますと、慣行として再任の原則をはっきり確認するということ。その再任されない極端な場合としては、弾劾裁判に当たる場合、その他これに準ずる場合だと思います。そのものではない。そのものの場合もありますが、そのほかのプラスアルファとしてそのものに準ずる場合があろうと思うのです。  そういう点から考えますと、最高裁判所の事務総局でおっしゃられている再任制度趣旨は、文言解釈としてはきわめて筋が通っているように見えますが、しかし、その前提において、先ほど申し上げたこの条文の制定された過程あるいは比較法的な検討と、さらに戦後二十五年間における再任制度の慣行というものを、私は無視しているのではないかというような感じがいたすわけであります。  この点については、この慣行を今後もつくり上げるという姿勢が大事だと思いますが、もし望むらくは、立法論として、最高裁の規則などによって再任の拒否の基準をはっきりすること、あるいはどういう事実かということの本人に対する通知もしくは理由の告知、ないしは再任についてどうもそれがなされないとする場合には、事前の弁明の機会を与える、さらに何らかの救済措置を設けるというようなことも、立法論として私は考えられると思いますが、現行の規定でそこまで解釈論としてやれるかどうかは疑問に思っております。したがって、私は、再任の過去における慣行について、もう一回憲法の制定された時点に立ち返って、司法権独立という大原則に立ち返って、法曹一元の方向も踏まえながら検討していただきたいというのが私の考えであります。  最後に、理由の開示についてであります。この点は、人事の秘密だということで事由をおっしゃらないのは、本来ならばといいますか、あるいは通常の場合ならばそれはけっこうだと思うのです。しかし、現在のような司法部の動揺が出ておる場合には、その鉄則といいますか、いままでの原則がなおかつかたくなに固守さるべきかどうかについては、やはり疑問に思います。この点については、我妻教授もおっしゃられておりますけれども、肝心の司法部内における裁判官が、一体どういう理由で宮本裁判官が再任されなかったのかということを考えて、憂慮のあまり、大体四百五十名ぐらいでしょうか、要望書を出しております。理由を示してもらいたい。実はこの問題については、二年前だったでしょうか、広島地方裁判所の長谷川判事の再任拒否問題というのがございました。この場合、理由がきわめて明瞭になっているわけです。つまり、長谷川判事があのときに福岡高裁に転出を勧告されたわけですが、それをけったということ、つまり転任とからめての再任拒否ということだったわけです。しかし、宮本判事補の場合には、そういう問題との関係はないということで、一体何が理由なのかということが宮本判事補自身もおそらく納得いかない。納得いかないのみならず、合点もいかないだろうと思うのです。そうしますと、司法部内における下級審裁判官が、再任されない理由が全くわからない、納得するかどうかは別として、どういうものが問題になっているか争点すらわからないという形で日夜裁判事務をとっておるとすれば、特に再任をあと数年に控えた下級審裁判官あるいはあと半年後に控えた裁判官が、自分の訴訟の上で、たとえば期日の指定とか証人調べというようなことを考えて、四月になったら自分はだめなのかなと思ったら、それこそ濶達な空気がなくなってしまうのではないか。そういう司法部内における萎靡沈滞した空気、これは今後私ははなはだ望ましくないと思うわけで、そういう政策的な点からしますと、再任拒否について何ら理由を示さないということは、この際、納得するかどうかは別として、再任拒否の理由を示すことが司法の独善を救い、あるいは国民の司法に対する信頼を回復する、もしくは下級審裁判官の動揺あるいは憂慮の念を解除することになるのではないかというふうに考えるわけであります。  私は、裁判所その他の最近の問題を見まして一つ気にかかるのは、司法の自治の名のもとで実は司法の独善という問題が来るおそれはないかということであります。言うまでもないわけですが、司法権、とりわけ国民主権下の現在の憲法のもとにおける司法権は、国民の信頼があって初めて全うされると思うのです。昭和二十二年の三淵初代長官が、こういう国民諸君へのあいさつということばを使われております。三淵長官は、ハーバード大学のロスコー・パウンド先生のことばを引用しております。裁判所が正義と公平とを実現することは肝要なことである。しかしもっと肝要なのは、国民が、裁判所は正義と公平とを実現するところだと信ずることである。ここで正義と公平が裁判所として重要な点はわかるけれども、同時に国民が、裁判所は正義と公平とを実現するということを信ずることだと言われております。この点について、特に三淵長官は、国民各自が裁判所国民裁判所であると信じて、裁判所を信用し信頼するのでなければ、裁判所の使命の達成はとうてい望み得ないのであります、こういうことをおっしゃっております。これは私は、現在もなお当然妥当すべき考えだと思います。ラートブルフ教授が、司法に対する国民の信頼こそ司法の最終的なポイントだということをその「法学入門」でおっしゃられております。私は、国民裁判所がどうあるかという観点からしますと、最近の最高裁判所の姿勢が、司法の自治といいながら司法の独善のほうにいささか傾斜しているのではないかという点で憂慮の念を感ずるわけであります。  なお、国政調査権司法権、特に司法行政権との問題については、すでに学界その他でおおよその学説上の定着がございます。先ほど田上教授が言われたことが大体学界の通説でありまして、昭和二十四年の参議院の法務委員会でもこの点については尽くされていることでありますので、私は、これに基本的にはつけ加えることはございません。ただ、司法行政というものは、ある意味でいうと国政調査一般的な調査の目標にはなるわけだということ。しかし、具体的な判決批判、具体的なケースについての突っ込んだその調査ということは、これはやはり司法権独立という点で一つ限界があるということだけ申し上げて、私の陳述を終わりたいと思います。(拍手)
  10. 高橋英吉

    高橋委員長 これにて参考人意見の開陳は終わりました。     ―――――――――――――
  11. 高橋英吉

    高橋委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。  なお、田上参考人は所用のため十二時に退席したい旨の申し出がありますので、田上参考人に対する質疑を先に願いたいと存じます。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。小澤太郎君。
  12. 小澤太郎

    小澤(太)委員 田上教授が時間の関係で御退席になるそうでございますので、まず田上教授だけに一応御質問申し上げます。  時間の関係上、田上先生は、司法行政国会国政調査権との関係について詳しくお述べいただきましたが、裁判官任期の点について十分なお話をいただけなかったのでございますので、その点について伺いたいと思います。  これについては、御承知のように、最高裁判所のほうでは自由裁量と、それから先ほど高柳先生は自動承認であるべきである、あるいはあとでよく伺いたいと思いますが、再任請求権があるかのごとき御意見でございました。また和田教授は、現在の憲法法律の構造上は再任請求権は認められないけれども、この再任を認めない場合はきわめて例外的であって、それはきわめて少なくすべきであって、かりに裁量権があるにしてもそれはきわめて限られたものにすべきである、こういう御意見のようでございました。あとでこれが間違っておったらまた伺いたいと思います。  そこで、田上教授はこの点についてどのようにお考えでありますか、お聞かせいただきたいと思います。
  13. 田上穣治

    田上参考人 御質問をいただきまして、ありがとうございます。私の先ほど時間の使い方が悪くて、肝心の点につきまして意見を申し上げなかったのは、たいへん失礼でございました。おわびをいたします。  再任につきましては、御承知憲法八十条で、任期を十年として、十年たったときに再任することができるという趣旨のことがございます。私は、先ほど和田教授の御意見高柳教授の御意見を伺っていたのでございますが、確かに任期をきめてあるのは外国立法例でも比較的少ないと思うのでございます。たしかソ連憲法などにかつてあったかと思いますが、比較的少ない。まあ非常に少ないといったほうがよろしいかもしれません。それならば、どうしてわが憲法任期をきめたのか。考えてみますると、これは旧憲法時代の裁判官は終身官でございました。ところが、終身官という考え方は、確かに司法権独立からいうと好ましい。あるいは先ほどの和田教授のおっしゃったことも大体そういうようなものでありますが、実質的には終身官に近いお考えのようでありまして、原則として任期が切れましても再任をすべきであるというふうに伺ったのでありますが、ただ明治憲法にはっきりあったこの終身制というのは、国民主権から見ますと、非常に強い反対が起こるのでございます。これは国会についても同じ議論がございまして、選挙をできるだけ短期間に繰り返すということが国民国会を離れないようにするために必要である。昔のイギリス学者でありますが、有名なベンタムの話では、笹年選挙を繰り返すようにというふうな意見も述べております。任期が参議院のように六年となりますと、六年前には確かに国民の手によって選んだ方でありますから、議員は当然われわれを代表するというふうに考えていたといたしましても、六年たった後に、はたしてその当選された方とそして現在の選挙権者とがほんとうに結びついているかどうか、あるいはこの次の選挙にぜひ同じ方を議員として出したいと考えているかどうか、これは必ずしもはっきりと言えないのであります。政治情勢は急激に変化しておりますから、そういう意味において、また当選された議員の方の国会における活動を見まして、あるいは一部有権者は期待はずれの感じを持つこともあるでありましょう。したがって、かつては適当と考えた方であっても、二年、三年あるいは六年たってみると、あるいは考えが変わるかもしれない。そこで、すべてを決定する政治的な根源は主権者国民であるという立場をとりますと、確かにいま申し上げたベンタムのように、毎年選挙をやる、そうすれば選挙と選挙の間の期間が短いのですから、その間に選挙権者の考えがそう変わるわけでもありませんし、またそのときどきの変化する事情に応じて、絶えず、何というか深い血の通った関係が成立するのでございます。しかし、これはわれわれも、やはり憲法規定といたしまして、毎年の選挙なんというのはおよそ非現実的であり、選挙にたいへん金がかかる。また少し脱線いたしましたが、そういう意味で、私はそんなことを考えておるわけではございませんが、わが憲法十五条第一項をごらんになりますと、すべて公務員は国民が選定、罷免する固有の権利を持つということが書いてございます。これはまさに国民主権の大原則でありまして、全体の奉任者として国民のために政治を行なうものだ、それを選定、罷免することは国民が行なわなければ全く主権者は浮き上がってしまいます。そういう点から考えますと、私は、現在の任期制度が間違いである、憲法違反と思いませんけれども、任期があまり長くなることは好ましくない。主権者から選ばれた者が離れてしまうので、これは突き詰めていけば、公務員の場合には憲法十五条第一項の趣旨に反すると思うのでございます。  もちろん、裁判官憲法の八十条、憲法規定任期が十年となっておりますから、これを憲法違反、長過ぎるというふうには言えないのでありまして、憲法規定が、八十条が十五条違反ということは言えないのでありますが、しかし、もし任期十年という規定法律の根拠のみであって、憲法八十条になかったとしたら、私は、違憲論も出てくる可能性がある、十年では長過ぎるではないか、国民と離れてしまう、そういう感じがするのでございます。同じことが参議院についてもちょっと考えられないことはないと思いますが、普通の公務員の場合でありますと、御承知のように、三年とか四年とか長くても五年というとまりであって、三年がかなり多いと思います。あるいは一年の場合もございますが、なるべく任期は短くするということが民主政治原則でございます。これは先ほど申し上げました意味でありまして、民主制に対する今度は司法権独立憲法論理のほうから、法の支配のほうから言うと、むしろ和田教授などが言われるように、任期は長いほうがいい、あるいは場合によっては終身官というふうな考えのほうが沿うことになります。  さて、そうなりますと、現実には、立法論は憲法改正論になりますから控えまして、十年ということが一応きまっておるといたしますと、私は、和田教授のおっしゃったことと幾ぶん違うかと思いますが、これは正真正銘任期であって、だから十年たちましたら裁判官の身分は自然に当然に消滅するというふうに考えております。これが私の前提でございます。あるいは先ほどの最高の事務総長の意見と一致するかもわかりませんが、私の立場から言いますと、十年はかなり長いと思うので、そこで憲法十五条一項の立場から見ると、もうこれ以上はとてもしんぼうできない。だから、正真正銘十年たちましたら、裁判官地位を失ってしまう。これは特に罷免ではなくて、自然に地位を失うというふうに考えるのでございます。  そうなりますと、あとは結論はもう御想像にまかせますが、再任ということは、先ほどの和田教授とはちょっと違うのですが、やはり裁判官でなくなった者を新しく任命するということである。それならば自由裁量ということばがしばしば誤解されますが、でたらめな、何でもできるというふうに、任命してもしなくてもいいのだというふうにおとりになりますと、これは許されないことになりますが、普通行政法学で自由裁量という場合には、むろんそれはある合理的な判断でございます。ただしかし、その任命するかしないか、どちらをきめましても、裁判所法律的な司法的なコントロールを受けない。自由裁量と普通に使っておりますから、おそらく最高裁判所の場合にもそういう意味で、かりに任命しないということが一部国民から強く反対されてもそれは違法とはならない。あくまでもそれは不適当ということにとどまるのであって、違法ではないという趣旨で事務総長は言ったというふうに私は憶測するのでございますが、そういう意味で自由裁量。逆に、もっとことばをかえますと、先ほども和田教授、この点私と同じだと思いますが、法的に任期が切れた裁判官であった方が再任を要求する権利はないという意味において、そのことを裁判所の任命するか再任するかどうかは自由裁量だと言ったのではないかというのが私の解釈でございます。  そういう意味で私の意見も、いま申し上げたように、この任期が切れればこれは裁判官でなくなるのであって、そのかつての裁判官に対して再任をしなかったから裁判官地位保障に反するという問題は起きない。普通の市民に返った人に対して、あらためて裁判官にしなくても、それは採用しない新任しないということと同じように考えますると、ある程度の広い選択の自由が事務当局あるいは権限のある最高裁判所のほうに認められなければならない。憲法八十条で指名された者の名簿を調製するということがございます。これは最高裁判所が自主的な判断、先ほどの裁判官良心に従って、独立して結論を出すことができる、かような措置でございますから、その意味において私は、最高裁判所結論に対しまして、権利違反として争うこと、権利を侵害したものとして争うことはできない、かように思うのでございます。  もう一つ蛇足でございますが、その場合に、和田教授が述べられましたが、なぜ自分を再任しなかった、理由を示せということでございます。これも、いま申し上げたように、不利益処分ではないとすると、理由を述べる必要はない。むろん現在の規定はございませんが、公務員法などでは、公務員の不利益処分、たとえば不当な首切りであるとか、あるいは俸給を減らすというふうな措置に対しては、これはやはり権利侵害でありますから、本人に理由を示すことがフェアな態度であり、これはある意味憲法三十一条の法定手続、この中に行政についてのデュープロセスの保障があるという解釈、私はそう思いますが、そうだとするとやはり本人の弁明を聞く必要もあるいは出てくるし、また当局としては理由を示すのが望ましいというふうに思うのでございます。一歩進めば、むしろそれが法律的に義務があるというふうな見方も出てくるかと思いますが、私は、根本が再任しないということは罷免とは違うので、そういう意味において公務員法の不利益処分の規定を類推するつもりはないのでございます。そういう意味において、理由を示すことが親切だとは思いますが、理由を示さなければ違法であるというふうには考えないのであります。理由を示すかどうかはやはり当局の裁量による、自主的な判断によって理由を示すほうがよろしいと考えれば示す。理由を示さなかったからといって争うことはできない。  最後に、法曹一元化ということを和田教授はお述べになりました。確かに任期という制度が、法曹一元化を考えますと非常によくできると思います。これはいろいろな意味があると思いますが、まず司法試験を合格した者は弁護士となって、そして弁護士からその次に今度は裁判官に採用される。そういたしますと、任期十年たって、そして今度はまた裁判官地位を失っても弁護士に戻ればよいのであって、別に生活の不安はない。それならば任期が終わって、もう裁判官でなくなるということがわかっておりましても、格別非常な圧迫感を受けまして、判決を書くときに何とか再任してもらわないと困るというふうな、そういう牽制をされる心配もないのでございます。しかし、これはどうも現行の制度としてどこまで法律できめられるか。むろん立法論であって、現在は、事実は不幸にしてそういってないわけでございますが、そのことから法曹一元化ということについて望ましいかどうかということでありますと、私は反対する理由はないのでありますが、これはいろいろな別の理由で、つまり裁判官の報酬とそして弁護士の方の収入とを比較した上で、まあいろいろうわさを伺いますととても比較にならないということでありますから、そういう意味で金銭的なことを考えると、なかなか優秀な方が弁護士から裁判官になっていただくことはむずかしいのじゃないか。別のいろいろな違った意味もございますが、そういう意味で交流は非常にむずかしい。しかし、そのことが直ちに再任をしない、法曹一元化を認めない現状において、事実上行なってない現状において、再任を拒否するということは許されないのだという結論にはならないようでございます。  そういう意味で、法律論としては大体最高裁判所の事務総長の言っていることに賛成でございまして、この点も和田教授結論は大体似ておると思います。和田さんも、反対ではないが、しかしどうも納得しがたい節がある。我妻先生のこともそうのようでございます。私は、一応法律的に割り切りますと、理由を示さなければならないとは思わない、また再任をしなければならないという制度ではない、かように考えております。
  14. 小澤太郎

    小澤(太)委員 ありがとうございました。  終わります。
  15. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 関連してちょっと。  いまおっしゃったことで重複するのですが、大事なことですから念のために申し上げてお聞きしたいのですが、先ほど来のおことばを聞いておりますると、司法の独立ということから司法官に対する行政上のことについても特別の法律が必要だ、こういうことを仰せになりました。その結果、司法行政に対して司法官は特別の行政をやっております。したがってまた、その行政に対して秘密を守っております。この点もほかの点と違っておりますが、これが第一でございます。いま言われましたが、そういう意味から、司法官が秘密を守る必要あるとして守っても、これを不法とは私は言われない、また必要のあるものと思うが、この点はいかがでございますか。これを明瞭にしてもらいたい。  いままた、このたびの官本問題その他についてこれを公表しないということが、いかにもどうも司法官が悪いものに無理にふたをしているような世論がございまするが、これは私は間違いであろうと思いますが、あなたはこの点をどうお思いになりますか。  この二つだけを簡単にお答えを願いたいと思います。
  16. 田上穣治

    田上参考人 簡単に申し上げます。  先ほどお話ししたように、憲法上の裁判所権限に属することについては、司法権独立ということから自主的な裁判官の決定を尊重すべきであり、そういたしますと、たとえば理由を明らかにするというふうなことで、今度は理由についてまた異議を述べるというようなことになりますと、結局批判によって、いわば一種の民主政治的な方式に乗るわけであって、そうすると先ほどの憲法司法権独立からいって好ましくない、かような結論でございます。  ただしかし、ちょっと補足させていただきますと、司法行政の中に、これは大体詳しくは裁判所法に主として出ておりますが、必ずしも憲法と結びつかない、裏づけのない部分もございます。そういうところは、いまの独立が害されましても、法律で認めた独立保障に反するというだけであって、必ずしも憲法違反とはならない。そういたしますと、国会がなさることは、法律をまた変える余地もございますから、法律違反だからといって全然これはもう手出しができないということにはならないかと思います。しかし、憲法に根拠のある権限でありますと、これは憲法独立保障されることになるから、たとえ国会権威をもってしてもそれに対して牽制を加えることはできないのじゃないか。  その意味一つだけ例を申し上げますと、司法行政の中では裁判所の職員の人事裁判官のみならず事務官、書記官の人事も入るわけでございます。これは現在裁判官会議できめている。これにつきまして、昭和三十年のときに、私どもが公務員制度調査会というものをやっておりまして、そのとき一つの答申をつくる途中で、書記官、事務官は、先ほども和田教授がちょっと言われましたが、裁判官と同じように特別職になっておりますが、これは一般職にすべきではないかという意見を出したことがございます。これは現在最高裁判所の判事になっておられます田中二郎さんも委員であって、私と全く同じでございました。ところが、これに対しては裁判所の中から強い反撃を受けたのでありまして、最高裁判所人事局長あたりから、それは困る、書記官というのは裁判と結びついておる法廷事務を扱うのだから、書記官の人事がもし行政府のほうに握られることになると、間接に裁判官裁判を行なうことに影響するから、そういう意味裁判官人事に準じて、やはりこれは裁判所のほうの特別職にしてもらわなければ困るということでございます。当時のこの人事局長などの意見に従えば、書記官の人事についての司法行政もまた憲法上の司法権独立の範囲に属するということになります。私どもの考えであれば、どうもそこまで広げる必要はあるまいということで、現実には裁判所法でそういうふうに特別職にしておりますから、人事院の一般職とは別でありまして、内閣なり人事院の統制を受けないことになっておりますが、もしこれを一般職にしてしまうと、司法行政の中でも、いまの書記官の人事についてはある程度一般の行政のほうに移されて、これはむろん国政調査もできるということになるわけでございます。  そういう点でかなり部分的には弾力性がございますが、中心裁判官が法廷で審理をし、判決をする、その独立を守るために必要な限度においては人事司法行政もやはり独立が認められなければならない、かような意味でございます。
  17. 高橋英吉

    高橋委員長 この際、委員並びに参考人の方々にお願いいたします。本日は質問者も多数あり、答弁者側の参考人の方も多数いらっしゃいますので、御発言はなるべく簡潔にお願いいたしたいと存じます。  畑和君。
  18. 畑和

    ○畑委員 きわめて簡単に質問いたします。  観点を変えまして、田上先生にお伺いしたい点が一点ございます。それというのは、いまの裁判官の任命制度のうちで、最高裁の裁判官の任命制度は、御承知のように内閣がこれを任命することになっております。そして任命されたその最高裁の裁判官十五名によって構成される機関が、三審制度の最終の裁判の機関であると同時に、下級裁判所のすべての指揮監督をする司法行政の最頂点である。こういう点で最高裁判所裁判官の任命制度が非常に私は重要だと思います。  そこで、憲法におきましては、御承知のように内閣が任命することになっておりますが、それをチェックする機会といたしましては、日本の現行の制度といたしましては、ただ国民審査制度があるだけです。国民審査制度は、任命されてから後の最初に行なわれる衆議院の選挙の際にあわせて行なうものでありまして、不信任の場合にはバッテンをつける。それ以外、何ともつけない場合には信任されたものとみなす、こういうことに規定がなっておる。そうしてしかも、どの裁判官がどをいう裁判をしたかということについては、最高裁の判決については少数意見、多数意見ということで、そのためにこそそういう規定になっておるのでありますが、国民にはほとんどこれがわからぬ。専門家でもおそらくなかなかわからぬ、こういう状態です。したがって、この国民審査によるチェックというのは、ほとんど形骸にしかすぎないということになっております。それですべてが内閣の任命であります。任命された以上は独立権限でやるべきでありますけれども、しかし、これ人間でありますから、したがって、やはり内閣自分の気に入ったような裁判官を最高裁の裁判官にする傾向がどうしてもあると思います。それをもう一つチェックする方法はないか。そのためにはアメリカ等におきましては上院の承認を縁るという制度になっておるようでありますが、日本ではそうなってない。  そこで、最初の裁判所法では、御承知のように三十九条で裁判官任命諮問委員会という制度がありまして、最初の昭和二十二年の裁判所法のときにはこれがあったのです。ところが、それによって一番最初の最高裁判所裁判官が任命され、あるいは下級裁判官が任命されたら、その直後これはもう要らないのだということで裁判所法から削除になった。それは内閣責任制度を明確にする必要がある、よけいなものは要らぬという立場から、これは削除になった。これが少しでも公正らしさを担保する、若干でも保障になり得たと私は思うのでありますが、これがいまはない。そこで、いつか最高裁の機構改革の裁判所法の一部改正の法案が出たときに、これが一緒にまた出たことがございます。ところが、機構改革のときの余波でそれが廃案になった関係で、その諮問委員会の復活というものも同じく廃案になったというようないきさつがあるのでありますけれども、少なくとも公正さあるいは公正らしさを担保する、しかも最高裁の裁判官の任命というものは非常に重大です。いま政治的に見まして、内閣総理大臣が統帥権も司法権立法権も全部握っているといっても差しつかえない、こういうような現状だと思います。そういう際に諮問委員会制度を復活させることが必要だと私は思いますが、田上先生はどうお考えになりますか、簡単にひとつお伺いしたいと思います。
  19. 田上穣治

    田上参考人 御質問に対しまして簡単にお答え申し上げます。  格別意見はございませんが、問題は、先ほどもちょっと触れたかと思いますが、憲法七十九条では、内閣最高裁判所の長以外の裁判官を任命すると書いてあります。内閣が任命すると書いてありますと、一応内閣権限ということになって、これも憲法上の権限でございますから、法的に諮問委員会の議決によらなければ任命できないということになる、つまり内閣判断を拘束することになると、憲法七十九条一項に反する疑いがあると思います。したがいまして、法的には拘束力がない、参考意見として諮問委員会の答申を尊重するという程度ならば私は違憲とは思わないのでありますが、これは先ほどの国政調査一般的な議論と同じでございまして、ちょうど国政調査国会委員のほうから強く非難されて責任を問われても、別に法的には何の痛痒も感じない。しかし、これはやはり最高機関としての国会がおきめになると、これは相手方、関係裁判官なり国会調査を受ける人にとっては非常な影響があることはもうおわかりでございまして、そういう意味で事実上の影響力から調査権もある程度制限を受ける。かように考えてくると、諮問委員会権威が高いものであれば、これは一つ国会との関係もございましょうし、またその委員の顔ぶれにもよると思いますが、それだけやはり内閣の決定に相当強い影響を与えるという意味で若干の問題はあるのではないか。しかし、しいていますぐにはっきり言えとおっしゃれば、私は拘束力のないものならば内閣権限を侵すことにならないから合憲、そういう考え一つ尊重すべきだと考えております。  それからあと国民審査の御質問はあまり受けなかったようでございますので、またありましたら……。
  20. 高橋英吉

  21. 田中武夫

    田中(武)委員 田上先生に一問だけお願いいたします。  憲法八十条第一項の内閣の任命行為の性格についてであります。と申しますのは、最高裁が提出した名簿によって任命するわけなんですが、その場合に、内閣は拒否権があるのかないのか。もし拒否権があるとするならば、それは一括してかあるいは個々の人についてできるかどうか。もしそうであるとするなら逆に、当然入るべきであると予定せられている者が入っていない場合、なぜ入れなかったかというようなことを聞く、こういうことはできるかどうか。簡単でけっこうですから……。
  22. 田上穣治

    田上参考人 お答え申し上げます。  私も実は、拒否権ありというふうな考えを持っておりました。現在でも、必ずしもそれが間違っていると思わないのでありますが、御承知のように、事実上は拒否権がないというような慣行のようでございます。つまり、任命をしてもらいたいという数だけ、それだけを名簿につくって出す。拒否権ということでありますと、少し余分に、十名任命を求める場合には十数名当然出さなければ拒否権行使する余地はなくなるわけでございますが、事実を聞きますと、何か初めにはプラス一名ぐらいを考えたこともあった――まだそういう事実があったかどうか確かめておりませんが、何かそういうことでないと拒否権は事実無理になりますが、しかし、御質問に対しまして、私は拒否権なしという明確な答え憲法から出てこない。しかし、名簿に入っていないあるいは名簿に載っていない人を入れろ、載せろというふうな要求は、内閣のほうから、ちょっと憲法の解釈として、できないと考えております。あるものを落とすほうはなお考慮の余地がある。  しかし、これも蛇足でありますが、大学人事につきまして、文部当局と大学とが、多年私どもも主張してまいりましたが、学内で選出した学長候補者を文部大臣が任命しなければならないか、文部省が明らかに不適当と考える場合には拒否権があるのではないかという問題につきましては、明確な答えが出せないのであります。大学の側として拒否権行使してもらいたくないとすることは不適当であるというところまでは言えますけれども、拒否権なしという答えはちょっと出しにくいのでございまして、これは前に私どもも関係しておりますが、国立大学協会、七十五の国立大学の学長を中心とする会で、そこでも一般に声明を出しておりますが、そこでは拒否権なしという法理論はとっていないのでございます。そんなことを言うとおしかりを受けますが、大学としては拒否権行使されては困るという強い立場でありますけれども、法的に拒否権行使した場合にそれが違法であるかというと、それは申すまでもなく、公務員の人事憲法十五条一項で、国民を背景として国会内閣という線で当局が決定権を持っているわけでございますから、そういう意味で、拒否権はない、ところがあるということを言わざるを得ない。  そういたしますと、裁判官につきましても、法理上は私は拒否権を否認するわけにいかないと思います。けれども、名簿にないものを載せろということは現行憲法として無理である、こういうことでございます。
  23. 田中武夫

    田中(武)委員 名簿にないものを任命する、そう言っているのじゃないのです。当然常識では入るべき人が入っていない場合、なぜこれが入っていないのかというようなことをただすということはできるかどうか。
  24. 田上穣治

    田上参考人 答えが非常にことばが不適当でございまして申しわけありませんが、私の申し上げたのは、名簿を調製するということが最高裁判所憲法上の権限でございますから、調製したものを、それを踏まえて、それをどう扱うかということは内閣のほうの権限でございますけれども、調製のときにさかのぼって、それにある特定の者を入れるという、そういうものである。なぜ落ちているか。落ちているかということは、つまり、入れなければ内閣としては任命できないわけでございますから、当然まず名簿に入れることを内閣のほうで要求するということになるのではないか。もしそうだとすると、内閣最高裁判所の名簿調製の権能制限することになるからという意味で申し上げたのでございます。
  25. 高橋英吉

    高橋委員長 岡沢完治君。
  26. 岡沢完治

    ○岡沢委員 田上先生にお尋ねいたします。  先ほど鍛冶委員質問にお答えになった点で大体わかったのでございますが、確認の意味で、七十六条三項の職務の中に、いわゆる裁判官独立保障された職務の中に、裁判以外に、いわゆる憲法に根拠を有する司法権行使についてはやはり独立保障されると解していいのかどうか。そういたしますと、人事権の中でも、たとえば裁判官に対する人事については、司法の、いわゆる具体的には最高裁の独立が厳重に確保される。書記官あるいは事務官、調査官等については若干のニュアンスが違うと解していいのかどうか。いわゆる七十六条三項の職務の範囲についてお尋ねいたしたいと思います。
  27. 田上穣治

    田上参考人 職務と申しましても、純粋な司法権裁判を行なう場合は当然といたしまして、いわゆる司法行政の中には、かなり幅が広い概念でございますから、憲法の直接の規定としましては、いまの下級裁判所裁判官の任命、補職、これが八十条、そのほか七十七条の、これは行政といっていいかどうか、規則制定権、これも形式的な意味においては立法ではありませんが、これもまた当然憲法上の権能でありますから、外部から制限を受けることはない。あと残りますのは、裁判所法規定がございます営繕とか財産管理というようなものは、これはそれほど司法権独立というふうなものではありませんけれども……。それからなお、いまの職員の人事については入っておりますが、私は、司法行政一つとして、先ほど申し上げたのは、事務官、書記官の人事につきましては、法律では裁判所権限になっておりますから、その限度国会あるいは行政府のほうから批判を加える余地がないと思うのでありますが、法律を変えることによって、つまり、憲法で必ずしも保障されていないとすると、なお民主政治の土俵に乗せることができるのではないかと思っております。しかし、この点は説が分かれておりまして、私どもの結論は、先ほど申し上げたところでは、最高裁判所の事務当局と折衝した結果、譲歩しておりますが、要するに、実際に裁判官裁判にどのような間接の影響を与えるかということによって意見が分かれるわけでございまして、それ以外に明確な基準はございませんが、書記官が法廷事務において、いろいろ間接に人事の面から政府のほうから牽制されることになると、裁判官職権行使独立影響するのではないかというのが一方のほうの主張でございました。
  28. 岡沢完治

    ○岡沢委員 先ほど、これも田中委員質問で若干明らかになったのでございますが、田上先生は最初の御意見をお述べになったときに、憲法八十条に関連して、裁判官の任命について諮問委員会的なものを設けるのは憲法上疑義があるとおっしゃって、七十九条の最高裁判事の任命について諮問委員会的なものを認めることは、それに拘束力を持たさぬ限りは法律上は問題がないというふうに御説明になったと思いますが、そのとおりでございますか。
  29. 田上穣治

    田上参考人 ことばが足りませんでしたが、私が最高裁判所裁判官人事について諮問委員会が直ちに憲法違反でないという意味でお答えいたしました。これはむろん、下級裁判所裁判官の任命についても同様でございます。必ずしも適当とは思いませんけれども、そういうものを国会がもし法律でおつくりになる場合には、それをあえて憲法違反というふうに申すつもりはない、きめ手がないという意味であります憲法規定に直接違反するとは思えない。しかし、それは繰り返し申し上げますが、法的拘束力を持たない単純な審議会、諮問的なものでございます。  それからなお、先ほどちょっと違ったようにお聞きいただいたかと思いますが、それは国政調査も同じような気持ちでございまして、たとえ拘束力がないとしても、事実上かなり強い影響を受けるのではないか、そういう意味裁判所のほうとしては、その諮問委員会意見、答申に事実上拘束されるとするとどうかということをちょっと申し上げましたが、これは別に深い意味はございません。それはもう法律論と一応区別いたしますと、法的には、あるいは憲法規定からいえば、諮問委員会程度ならば設けることも可能であるという意味で、これは七十九条、八十条を通じまして同じように考えております。
  30. 岡沢完治

    ○岡沢委員 再任と新任の違いについて最高裁の意見と大体同じだという御見解と承りました。御承知のとおり英国憲法、これをあまり重要視する必要はないかと思いますが、プリビリッジ・オブ・リアポイントメントということばを使っております。このプリビリッジの意味でございますね、ライトと違うのか。やはり特権と解して再任される権利があるという解釈も立法趣旨からいって、あるいは立法の経過からいって成り立ち得るのではないかという一つ意見があります。もう一つは、もし十年で完全に任期が切れるというのでございますと、いわゆる一般公務員の退職金に相当するような給与が当然配慮されるべきだと思うのでございますが、現行法ではそれがないわけでございまして、当然再任を前提にした慣習もございますし、給与関係からもそれがうかがえるという場合に、やはり新任と再任とは違うという解釈も十分に成り立つと思うわけでございますが、これについての見解を聞きます。
  31. 田上穣治

    田上参考人 それもことばが足りないで申しわけございませんが、私もその点で先ほど和田教授の言われたこととちょっと同じようなつもりでございますが、新任でありますと何を審査してどういうことを基礎にして当局が決定するかといえば、材料はないわけでございます。結局修習生の当時の実績であるとかあるいは司法試験の成績であるとか、そういうふうなものを新しく調査して判断するほかはない。ところが、再任でありますと、もうすでに過去十年間の裁判官の実績というものはかなり明瞭に出ているわけでございますから、そういうものを勘案して答えを出すことになると比較的判断は容易であり、その結果大体の場合は再任されるということになるのではないか。その意味では新任と再任とが審査の基準から申しまして、事実上非常に違っている。  しかしながら、繰り返し申し上げますが、どうもイギリスのお答えは十分にできませんけれども、やはり国民主権というほうの立場から申しますと、任期十年がもうすでに長過ぎるのであって、その十年たったときになおそれ以上当然延長――延長ということになりますか、地位保障されるということになりますと、これはかなり重大だと思うのでございます。世界史で一々申し上げることはどうかと思いますが、ナポレオンなどであっても、まず初めに任期十年のコンスルとなって、それから一七九九年憲法、一八〇二年のときに終身のコンスルとなり、次にアンプルール、皇帝になるという、そういう憲法改正をフランスではやっております。常識的に十年が延びてくるというとだんだん絶対動かしがたい地位を持つというふうな形になる、終身官と非常に近くたるわけでございまして、これは選挙による知事の再選、三選、七選というふうな問題とやや近いかと思いますが、非常に長くなりますと民主政治からかなり遠ざかる。むろん民主政治と違った憲法のほうの法の支配のほうから考えればよろしいかと思いますが、やはりものには程度がございまして、両方の原則を調和して考えるという点からいきますと、十年で一度裁判官地位を当然再任されない限りは失うと見てよろしいのではないか。しかし、これは一ぺんやめてしまって、そしてそこで中断して、さらに新しくまた裁判官として発足するというふうにはとらないのでございます。したがって、一ぺん切れますとそこにやはり退職金の問題が出ると思いますが、再任された場合には退職金は必要がないというふうに思うのでございますが、再任されない場合にはこれも法的な立法論になるかと思いますが、やはり理論的には退職金の問題が当然つくわけでございまして、それはちょっと別のことだと思いますが、時間が長くかかりますから、何か御質問がございましたら……。
  32. 岡沢完治

    ○岡沢委員 特権のプリビリッジの解釈は……。
  33. 田上穣治

    田上参考人 これは私、イギリスのその点の制度を研究しておりませんからちょっとお答えする資格がございません。
  34. 岡沢完治

    ○岡沢委員 終わります。
  35. 高橋英吉

  36. 青柳盛雄

    青柳委員 最高裁判所の長官並びに最高裁判所裁判官、これは内閣が直に任命をすることになっております。これに対して憲法六十二条の国政調査権が及ぶのか及ばないのか、すなわち内閣がある人選をおやりになります。これに対してもうタブーであってこれは司法権独立を侵すことになるんだ、司法人事に対して国会が介入することになるからそれは一切やっちゃいかぬのだというような御議論でございましょうかどうか、それをお尋ねいたしたいと思います。
  37. 田上穣治

    田上参考人 あまり私の予想しなかった御質問ですからお答えできるかわかりませんが、任命が効力を生ずる前でありましたら、そういうことは発表されないと思いますけれども、これは当然普通の内閣の行政として国会のほうの審査ができると思いますが、しかし、これは原案が示されなければ審査もできないわけで、そうして候補者が法的にきまって、さてこれを任命するまでの時間的に余裕がございましたら、もちろんこれも国政調査というか、国会のほうの御審議になれることと思います。しかし、問題は最高裁判所の判事として任命されたあとになりまして、過去に、この前任命した裁判官は任命事情がどういうことであるか、これは裁判官として不適当ではないかということになりますと、これは憲法七十九条の国民審査の事項に入ってくると思うのでございますから、そうなるとやはり裁判官の、つまり司法権独立裁判官の身分の保障影響を与えるというふうに考えております。だから、事実上はほとんど結果的には国会内閣責任を追及する余地がなくなるのではないか。つまり、任命された者が裁判官として職務を行なう地位についてしまったあとは、今度は内閣責任が同時に裁判官地位を動かすということになってまいりますから、その意味司法権独立のほうから国会としてはおできになれない、かように考えております。
  38. 青柳盛雄

    青柳委員 その論旨を貫けば当然、最高裁判所憲法八十条に基づく名簿の作成をするのは全くいわゆる専権事項のようなものであって、政府といえどもこれは介入できない、また国会国政調査の対象にはなし得ない、こういう結論になってきて、すべて裁判官の任命その他の人事というものは国家機関といたしましては政府国会も全然手がつけられない、これに対して意見を述べることあるいは調査をすることも不可能だということにならざるを得ないというふうに考えます。  そこでお尋ねするのですが、そうなると、憲法十四条で保障されておる思想、信条による差別はしてはならないという、これが任命の過程で行なわれる、あるいは任期満了によって再任を拒否するという事実上の罷免行為がそこで行なわれるときに、この憲法十四条が侵されておる、そういうことが疑われる。しかし、これに対して世論はいろいろと批判はする自由があるけれども、国家機関としては政府も何らこれについて監督が行なえない、また国会も何らこれに対して批判が加えられない、こういう結果にならざるを得ないと思うのですが、そういう論理がはたして正しいのかどうか、それをお尋ねしたいと思います。
  39. 田上穣治

    田上参考人 私は端的に申しますと、やはり国民審査にくると思います。最高裁判所裁判官、なるほど責任が重大であり、権能も大きいものですから、これをコントロールするということは憲法では十年ごとの国民審査ということで処理する、あるいはむろん最高裁判所裁判官についても弾劾裁判所という制度はございます。極端な場合には弾劾訴追ということも可能でございますが、一般にはむしろ行ないやすいのは国民審査のほうだろうと思います。それから名簿の問題になりますと、私はやはり内閣としては先ほどちょっとはっきり申し上げなかったのですけれども、調製した名簿から必ず内閣のほうで、拒否権がなく無条件にそれを機械的に任命するということについては若干疑問を持っております。つまり、そうなるというと、内閣責任がなくなるわけでありますから、内閣責任でないとすると、国会なり国民としてはどうも批判する余地がなくなってしまう。だから、内閣のほうで見て明らかに不適当という場合には、むしろ任命を拒否するということができなければ、裏返しますと、任命した以上は――最高裁判所が指名してきたから適当だということではなくて、内閣もまたそれについては消極的ではありますが、特に任命を拒否するほどの理由は見つからなかったということになるわけでございますから、内閣責任の範囲に属することになると思うのであります。そういたしますと、どうしてこういう人事を結局内閣の名において任命したかということについては、国会がこれを批判し、また審査をする可能性がある、かように考えております。  蛇足で申しわけありませんが、この点は大学人事についても同じことでありまして、事実上は文部大臣が大学のほうから選出した候補者をうのみにしている、めくら判を押している形でございますが、しかし、やはりこれは拒否権があるという理論を考えますと、任命した以上は文部大臣も任命者としての責任を負わなければならない。だから、結果が学長として不適当な人物ともし国会がお考えになれば、文部大臣の責任を問うことができる。私は、大学関係者としては拒否権をむしろ認めるということは言いたくないのですけれども、御質問に対して私はそういうふうに考えております。
  40. 高橋英吉

    高橋委員長 田上参考人には長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。  引き続き質疑を行ないます。松本十郎君。
  41. 松本十郎

    ○松本(十)委員 私は、高柳参考人に対して質問いたしたいと存じますが、時間も迫っておりますので、簡単かつ明快にお答え願いたいと思います。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  先ほどから議会民主制度が正しく機能するためには、基本的な人権というものを守るべきものが裁判官である、こういうお説を唱えられまして、基本的人権を擁護する意味におきましてはまことにそのとおりだと思うのでございます。しかしながら、私この間あるテレビで先生方の討論会を聞いておったのでございます。その討論会の内容は主として違憲審査権について出されたわけでありますが、しかし、それがだんだんとエスカレートした感じでございまして、日にちは四月十八日、チャンネルは東京12チャンネルでございますが、高柳先生がこういうことを言っておられます。多数決に侵されやすいのは少数者の思想であり、少数者の意見である。少数者の異端の自由、異端の思想を保護するのは裁判所である、こういう発言をなさっております。多数決というのは民主主義の原則でございまして、真理はいずれにありやといえば、必ずしも多数決のとおりではないと思いますが、しかし、少なくとも意見が分かれます場合には、現在の議会制民主主義のもとにおきましては、やはり多数の意見に少数の者が従う、これは大きな前提だろうと思いますが、その際に少数の異端の思想を保護するのが裁判所である、こういう発言をはっきりなさっておるわけです。さらにまた、民法協の機関誌である「法と民主主義」におきましても、そういう論旨の投稿をなさっておりますが、こういうことが先生の裁判官に対する、あるいは裁判所に対するお考え方か。あるいは少数者の意見を保護することを盛んに言われましたが、多数者の思想とか自由、これは無視してもいいのだ、こうとってもいいのでしょうか。この辺についての御見解を伺っておきたいと思います。
  42. 高柳信一

    高柳参考人 いまの点でございますが、多少ことばが足りないきらいはありますが、趣旨としてはそういうことでございます。これは先ほど申したとおりで、ことばを補って正確に申しますれば、アメリカ思想の自由の保障の過程を見てまいりますと、やはり思想あるいは思想の表現の合理的制限ならいいではないかという考え方が、常識的法律論としてはあるのですが、これに対して思想の自由、思想の表現の自由が保障されてくる過程で出てくる議論は、合理性の基準というのでは結局体制的と申しますか、アメリカの最高裁の使ったことばで言えば、オーソドクシカルな思想しか保障されない。思想の自由の保障というのは何かといえば、ちょっといまのを言いかえまして、ほかの方向から言いますと、多数決のもとで、多数者の信奉するイデオロギーあるいは思想が侵されるということはあり得ない。したがって、思想の自由を保障するということは、実質的には多数決のもとで制限されやすい少数者の思想の表現の自由を保障する、思想の保持の自由及び思想の表現の自由を保障するということだ、こういうふうに述べております。このことは、いまの御質問にもありましたが、そこのところを正確にとらえませんと――こういう例で申していいかと思いますが、ボルテールが、おまえの意見に対して自分は絶対反対だ、承服しない、しかしおまえがその意見を表明する自由は死を賭しても守る、思想の自由、思想の表現の自由はあくまでも守る、こういうことを言ったと伝えられております。裁判所のやるべきことは異端の思想そのものを自分の信条とするということではない、どういう思想であれ、思想の保持の自由、思想の表現の自由が侵されるということに対しては、裁判所としては憲法に忠実の立場から言えば絶対に認めない、こういうことであります。ですから、異端の思想の自由を保障するというところが大事で、異端の思想を保護するというふうに言い直されますと、これは問題であるわけです。なぜならば、異端の思想の保持、異端の思想の表現の自由が問題になるというのはどういう場合かといえば、多数決によって少数者の思想が保持を禁止される、あるいは表現が処罰されるということ、そういう場合に初めて裁判所思想の自由、思想の表現の自由が問題になる。そういうのはいけないということは、いかに少数者の思想であれ、それを保持し、表現することは自由であるということであるからであります。裁判所でなければこういう任務は果たせない。立法も行政も多数決原理支配のもとにあるわけです。裁判所のみがそういう思想の保持の自由、思想の表現の自由を保障し得る、そしてそれが保障されないとブルジョアデモクラシーそのものが自己崩壊する。そこに思想の自由、思想の表現の自由が裁判例で認められてきた裁判所の理論的立場の基礎があるわけです。つまり、反体制ではない、ブルジョア民主主義を否定するから少数者の思想の自由を保護しているのではなくて、少数者、つまりホームズのことばによれば、われわれの憎む思想であってもその保持と表現の自由を保障しなければ、ブルジョアデモクラシーそのものが崩壊する。だから裁判所はあくまで、自分自身はその思想反対かもしれない、ボルテールのように、おまえの意見には絶対反対だ、しかし、その保持と表現の自由はあくまでも守る、これが裁判所の任務である、こういう趣旨でございます。
  43. 松本十郎

    ○松本(十)委員 いまおっしゃいましたような異端的な思想の保持と自由を裁判所が守る、こういうお説でありますならば、われわれはそれに対してそのとおりだと申し上げたいわけでございますが、先生がたとえば昨年五月二十日付の「民主主義の危機と司法権独立」、この特集号で書いておられますことは、そういう程度よりもさらに一歩飛躍した書き方をしておられるとわれわれは受け取っておるわけでございます。  ちょっと読んでみますと、「裁判官独立と結社の自由」こういう題でございますが、「異端的な思想は、社会が平和的変革を遂げていくためには、最大限に尊重されるべきであり、そのために結集し、これを唱道する自由は最大限に保障されねばならない。その思想が異端的であればある程、それは結社内容の暴露による各種の有形無形の圧力から守らなければならない訳である。アメリカの判例をみてみると、イデオロギー的問題にかかわってくればくるほど、この保障が心もとなくなる点に気付く。たとえば人種問題に関しては九対〇で結社の自由を主張する側が勝訴しているが、共産党が問題になる場合には、二人の少数意見で結社の側が敗訴している。アメリカ最高裁も所詮、国家独占資本主義のアメリカの権力機構の一つでしかなく、口では異端の思想やそのための結社の自由を尊重すると偉そうなことをいっても、ひとたび事がほんとうに異端の結社たる共産党ということになるとたちまち馬脚をあらわしている。とみることも可能である。」こういうふうに記述しておられますね。  こう書いておられますところから見ますならば、先ほどから申されました異端の思想の保持の自由、表現の自由というものよりも、さらに飛躍しているというふうに文意からは受け取れるわけでございますが、先生のお考えはいかがでございましょう。
  44. 高柳信一

    高柳参考人 私がいま直前に申したとおりでございます。多少補うことがあるとすれば、一つは現象的なことでありますが、裁判所が少数者の思想の保持、思想の表現の自由を保障するということは、結果的にはその思想を保護するということになります。つまり、立法や行政がその思想を侵害したのに対して、思想の保持あるいは表現あるいはその思想のための結社を侵害したのに対して、裁判所がそれを違憲、無効であるとすれば、これは結果的にいってその思想の保持、表現が保護されたということになります。  そこに一つの問題は、思想自身には裁判所として賛成とか反対とかそういうことは訴訟ではあり得ないわけで、ブルジョア民主主義の基礎的な機能前提というものを保障するためにはその思想の保持、表現の自由を保障しなければならないということで、特定の思想制限する立法や行政を違憲、無効としたわけですが、これは政党政治論理考えますと、裁判所はその思想の味方だというふうに見られる。そこに裁判所違憲審査権を真に憲法に忠実に行使する場合に、身分の保障というのは絶対に必要である根拠があるということであります。  それからもう一つは、異端の思想自身、おまえの自由を保障するだけでなくて、それ自体を唱道している、大いに賛成で推進しているように言っているという点でありますが、これはこういうことであります。つまり、もし現在の価値観というものが絶対に正しいということであれば、めんどうな、各人すべて平等に一票を持つ、一億の人がいろいろな選挙区に分かれてたいへんな大がかりな選挙をする、そして大学者も凡人も全く一律に平等の一票を持って、そして国の政治的意思を形成する必要はなかろうと私は思うのであります。つまり、プラトンが言ったように、真理があるならば、真理が発見されたというのであれば、その真理を最も正確に認識し得る哲人が政治をすればいい。ところが、現在の民主主義においてそういう制度をとっていないのはなぜかといえば、現在の真理とされていること、あるいは現在の政治体制のもとで最善とされていることが、ほんとうに真理であり最善であるかという点については保障がない。つまり、人間は無限に進歩するものである。つまり、現在の多数者が当然自明と考えていることが永久に正しいか、当然自明に正しいかというとイエスとはいえないわけであります。つまり、人間の進歩は、現在の多数が当然自明と考えていることを乗り越えるそういう新しい思想を生み出すかもしれない。そういう可能性があるからあらゆる人は平等に一票を持っている。とすれば、新しい思想は常に少数意見として出てきます。つまり、現在の多数者が当然自明と考えていることを疑い、それに疑念を持って初めて科学上の真理も、政治思想上の原理も出てくる。その場合に少数、つまり極端にいえば一人の意見である、一億の国民のうちその一人以外は全部それに反対だというのでその思想を葬り去ったのでは、社会の進歩がない、人類の進歩がない。だから現在はいかにばかげて見えようと、多数者から見ればいかに異端的に見えようとも、その思想の保持、表現自体は自由である。そして思想の平和的競争にまかせて、そして思想の自由競争の場でより多数の同調者を見出していくというこの生き生きとしたプロセスが常に自由に開かれでなければならない。これがブルジョア民主主義が機能し得る基礎的条件であり、人類の進歩が達成し得る基礎的条件である。こういう信念が基本的人権保障する基礎にあると思うのであります。その自由を保障する、また裁判所がその自由を守る、あるいは私がその自由は大事だということは、あたかも裁判所あるいはおまえはその異端の思想を金科玉条としているというようにとられる、そうではないので、社会の進歩、人類の創造、新しいものをつくり出すということを考える、そういうことを可能にするためには、そういう少数者の思想の保持、表現の自由が全面的に保障されなければならないということであります。
  45. 松本十郎

    ○松本(十)委員 先生の御趣旨はよくわかりました。ただ語られたことばあるいは書かれた文字というものは、発言者あるいは書いた人の意図を離れてとられることも大いにあるわけでありますので、聡明な先生の御賢察を希望いたしまして、私の質問を終わります。
  46. 高橋英吉

    高橋委員長 先ほどの松本君の発言中、参考人の公述の価値判断参考とするため質問せられたものと思われるものがありますが、参考人に対する質問としては不相当と思われる部分がありますので、速記録を取り調べの上、委員長において善処いたします。  小澤太郎君。
  47. 小澤太郎

    小澤(太)委員 時間もだいぶ過ぎましたので、私もごく簡単に御質問申し上げますので、また簡潔な御答弁をひとつよろしくお願いいたします。  国会国政調査権とそれから司法行政、特に人事に関する権限との問題につきましては、参考人の各先生ともほぼ同じような御意見だと承っておるのでありますが、ちょっと私、時間の関係で先生がはしょられたと思うので教えていただきたいと思いますのは、高柳先生でございますが、先生が司法官、下級裁判官の再任の問題で自動承認というおことばをお使いになりました。それに関連いたしまして、この人事権についても当然自動承認であるべきものにかかわらず、これを承認しなかったというような事柄で、したがってこれは憲法の精神に反するような行政行為として、司法行政として国会においてそのことについて調査をするということが適当であるというふうに受け取ったのでありますけれども、そのようなお考えでありますかどうか、またその点の関係を詳しくわかりやすく御説明をいただきたいと思います。
  48. 高柳信一

    高柳参考人 いま御質問のようには、私、申しませんでした。ちょっとことばが足りなかったかと思いますので、私補いますと、憲法ができます際に、なぜ任期制ということになったのかという場合に、二つ考え方があったということを申しました、これは総司令部内部ですが。一方において、違憲審査権を持つ裁判所は司法寡頭制とでもいうべきそういう強い立場に立つおそれがある。他方において、司法の民主化は裁判官の選挙制をとらなければ実現しないという、こういう二つのやや相反する考え方がぶつかり合って十年任期ということになったわけですが、さて、この二つ考え方を現在の憲法現実に照らして評価してみるとどういうことになるかといいますと、当時の総司令部にはニューディーラーが多かったということを考えなければなりません。つまり、ルーズベルト大統領治下での非常に進歩的な、革新的な政策が連邦最高裁判所によって違憲、無効とされたという、こういう苦い経験を持つニューディーラーは、違憲審査権を持つ裁判所のあまりに強くなることに危惧を持ったのだと思われます。ところが、その後の日本憲法現実に照らしますと、政府がどんどん革新的な立法行政をやっていく、最高裁は違憲審査権を大いに行使して違憲判決を出す、こういうことは起こらなかったわけであります。つまり、そういうことを考えた人のおそれは全く杞憂に終わったわけであります。  ところが、他方において司法の民主化といいますか、あるいは先ほど来たびたびの機会を与えられて申し述べましたような、議会制民主主義のもとにおける多数決原理がひとり歩きをして、そうしてその機能の基本的前提であるあらゆる国民思想の保持の自由と、思想の表現の無限定の自由というものを保障しなければならないという要素は、実は戦後二十六年の憲法現実に照らしてますます多くなってきたわけであります。としますと、司法がそういう権利章典に生命を吹き込むという重大な任務を果たす上において、司法を真に民主化しなければならないという意味での必要は実は予想されたとおりであったということができるわけであります。それが可能になるためには法曹一元ということが前提であったわけですが、先ほど来和田教授田上教授もおっしゃいましたように、ある程度それが前提であるのに、その前提条件が成就しなかった。その場合には、この十年任期制度というのは、和田さんの表現によれば、再任を原則とする、私の言い方によれば、原則として自動承認、自動的に再任というふうに考えなければ違憲になる、私はそう思うわけであります。そして、国政調査権の対象としてそれをこの場に、つまり最高裁長官を呼び出して、その間、国会調査権に基づいて質問を浴びせ、明らかにする、これは私は問題だという意味で消極であります。ですから、いまの御質問とそこのところは全然違います。  そうではなくて、しかしそういうふうにこの憲法の成り立ちというものを考え、もう一つ手続的公正の原則、これもまた非常に重要な原則であります。国民人権が真に全うするためにきわめて重要な原則でありますが、その原則、これはアメリカの連邦最高裁が連邦の下級裁判所あるいは州の裁判所判決をくつがえしながら徐々に確立させていったわけですが、この手続的公正の原則という大事な憲法原理を、日本では最高裁判所自身が無視するということは、いかにも日本のために残念であります。やはりアメリカでは一般政府あるいは下級裁判所は無視しやすくても、連邦最高裁はどんな毀誉褒賄をも気にせず、これを樹立していったわけであります。これがアメリカ憲法の重要な原則になっているわけですが、日本国でもこれは最高裁判所の高い見識によってこれを形成していくべきだろう。わが国にはこの法理の伝統がないわけです。裁判例によって、ことに最高裁がリーダーシップをとって形成、確立していくべきであろう。その見地から考えると、いかなる権限国民の利益のために与えられているのであって、国民に対しては権限の保持者は常に責任がある。かりに最高裁判所が十年任期の来た裁判官で再任を希望する者を再任拒否し得るとすれば、それは国民に公正な裁判保障せんがためであり、それ以外であってはならないわけであります。ところが国民は、なぜある裁判官が再任を希望するのに、しかも国民の納得もいかないままに再任されないのか、非常に疑問を持っているわけです。そして司法部内でも、先ほど和田教授が御指摘になりましたように四百五十人、現在は五百人をこえているのではないかと思いますが、五百人以上の裁判官がこれでは、何といいますか、自信を持って裁判ができないということで、不信や猜疑を最高裁の措置に対して抱いているわけであります。裁判官に対しても国民に対しても、公正な裁判保障するということが至上命令であるならば、最高裁はその再任せざる理由というものを明らかにして国民の信頼をかちうるように努力すべきであろう。国会国政調査権に基づいて当然になし得ると考えるについては、私は司法行政権並びになかんずく人事権が裁判そのものの独立をよりよく保障するために、日本憲法のもとで初めて裁判所自身に与えられた、かつて司法省の持っていた権限を、司法権独立をよりよく保障するがために、最高裁に与えた。その司法権独立にとって重要な裁判官人事というものを、国政調査権に基づいてここに引き出してきて摘発するというのは、どうも非常に問題を感ずるわけです。しかし、それは最高裁の措置が合憲だからというのではなくて、むしろそこに国民の信頼をかちうる点において根本的に問題がある。これは権限ではどうにもできない。アメリカでは、アメリカの最高裁はアメリカ良心であるということばがあります。これはアメリカの最高裁を批判する人も、常にそのことに立ち返って言うわけです。つまり、日本でも最高裁自身の道義、良心に訴えてそれを実現するほかない。権限に基づいてここに引きずり出して、とっちめるということでは、やはり司法の独立の点から問題を後に残すことになる。しかし、それはいまの最高裁の再任拒否が合憲だというのでは毛頭ない、こういう趣旨で私申しました。
  49. 小澤太郎

    小澤(太)委員 ただいまの御説明で、司法行政国会国政調査権との限界関係、そこで最高裁の人事について国会においてこれを調査するということが適当でないという御意見については、私もかねてそのように思っておりましたし、それでよくわかりました。  そこで、十年の任期の問題に関連して、再任は当然なされなければならない、先生のお説でいえば自動承認であって、希望する者は例外なしにこれを再任しなければならない、そういう義務が最高裁判所にあるのか、またその裁判官が再任を要求する権利があるのか、こういう点につきましてはどのようなお考えでございましょうか。  なお、先ほどのお話には、かりに再任を拒否するという場合には、憲法第七十八条の心身の事故、あるいは弾劾裁判において裁判される、判決がある、その理由だけに限って、それ以外には最高裁において裁量の余地が全然ないのだ、そしてこの十年の機会にこの七十八条に書いてある事柄を実行するにすぎない、弾劾裁判を経ずして実行するにすぎないのだ、このように伺ったのでありますが、そういうお考えでありますか。先ほどからの御説明をお願いいたします。
  50. 高柳信一

    高柳参考人 いま御質問になりましたとおりに私は考えております。  その理由は、いろいろな角度からもうすでに何度か申しましたが、キャリアシステムと申しますか、職業裁判官制度任期制というのは、先ほど田上教授はソビエトの例を引かれましたが、社会主義国家というのはちょっと別に考えなければいけないわけで、自由民主主義国家においては例がないと私は思います。これは先ほど申しましたように、百数十の国全部調べればあるいは例外的にあるかもしれませんが、主要国ではない。それはやはり、単にたまたまそういう例がないというだけではなくて、司法の独立の歴史に関して、途中で、一生裁判官として国民に奉仕しようと思った者が、理由なくその道を奪われる、地位を奪われるということは、任期制の名のもとにおいても司法の独立に害があるという憲法的な経験があるからだと考えざるを得ない。田上教授は、国民に密着するという意味では十年ですら長くて、もっと短い任期裁判官を交代したほうがいいということをおっしゃいましたが、そういう憲法の例、また憲法政治の実例というのは私は絶対あり得ないと思います。過去の例あるいは外国の例に照らして、それが司法の独立を全うし得るゆえんだということは考えられない。唯一考えられるのは選挙制度であり、また選挙制度のもとで任期制を設けるということである。これは考えられるというよりもむしろ当然でありますが。  もう一つ、法曹の一元のもとでは……。
  51. 小澤太郎

    小澤(太)委員 先生、失礼でございますけれども、時間がございませんので、そういう点は先ほどよく伺っておりますから、私の伺ったことだけでひとつ御答弁いただきたいと思います。  いろいろ御説明をいただきまして、私も多少理解をいたしておるのでございますが、そこで、ただいまのお話のいわゆるキャリアシステムと法曹一元という、この二つの矛盾が現行憲法の中に取り入れられておる。その不徹底なと申しますか、何と申しますか、まあ憲法そのものに問題があるのであって、これをそういうただいま先生のおっしゃったような理論でもって解釈上補っていくのか。これはいろいろ無理があると思いますけれども、それか、あるいはこれは憲法改正という立法論にいくのか、こういう問題があると思うのですが、先生はどういうふうにお考えでございましょうか。
  52. 高柳信一

    高柳参考人 私は、この制度は運用のよろしきを得れば、ほとんど違憲の問題を起こすことなく処理可能だと思います。いままでごく少数の例外、和田教授が指摘されましたような二年前の長谷川裁判官の問題等ありますが、大体において矛盾なくと申しますか、合理的に運用されてきて、そこにある程度慣習法ができてきた。裁判所が明示しなくてもかなり理由が明らかなような場合等でありまして、別に長谷川裁判官の再任拒否は十分理由が、合理的根拠があったというのではありませんけれども、まあ比較的慣習法として原則は再任であるということが形成されてきた、そう思います。  先ほど質問されました、再任請求権というのはあるかという点ですが、私は、再任請求権というふうに呼ぶことが適当かどうかは別としまして、たびたび申しますように、憲法上与えられた権限は独善的に行使していいということはないわけで、国民の利益のために行使すべきであるという見地から与えられているわけですから、その権限行使を誤れば、そしてそれが国民の具体的な権利、利益を侵害すればこれは訴訟の対象になる。そういう意味で、宮本裁判官の再任拒否は、いままでの最高裁が出してきた訴えの利益に関する判例からいえば、取り消し訴訟の対象になるというふうに私は思っております。
  53. 小澤太郎

    小澤(太)委員 まあ議論をする場でございませんから、お話を承っておきます。  そこで今度、和田先生にお伺いしたいと思いますが、和田先生の御意見法律時報の二月号に「裁判官の身分保障人事」という論文を出しておられまして、私も拝読いたしました。非常に理解ができ得るように書いてありますので、おおむね私は先生の御意見に非常に啓発されておるわけでございます。  ただ、そこで伺いたいことは、先生はそこで書いていらっしゃるように、「そもそも下級裁判官の一〇年の任期と再任の制度趣旨は、強度な身分保障によって担保されている裁判官の化石化を防止し、裁判官として職責遂行に不適格とみられるもの(むろん弾劾事由にまで至らないものである)をこの機会に点検・排除しようとするものであり、したがって、右のような事実が認められないかぎり、裁判官はその再任の意志があれば、当然に再任されるべきものであろう。」こう書いていらっしゃる。したがって、必ずしも弾劾の理由によらない、少しは幅がある。そのことは、結局は裁判官として裁判官の職責を遂行するに適格であるかどうかのその判断、その裁量は、ごく狭い範囲ではあるけれどもやはり最高裁当局にあるべきものであって、全部というわけではない。結局先生は、自由裁量は否認されておられる。けれども、裁量権があるということは、それはごくわずかの例外であるけれども、ある、こういうことでございますから、もちろん再任請求権は否定されておりましょうし、というようなことに思うのでありますが、その裁量権が法文の解釈上あるということになるのでございましょうか、ないというのでございましょうか、その点だけひとつはっきりお答えいただきたいと思います。
  54. 和田英夫

    和田参考人 私先ほど申し上げたことを、具体的な問題点だと思いますが、私は実は悩みを持っておりまして、おっしゃるとおり、文言上は十年の再任ということ、「再任されることができる。」とあります。これは文言上消すことができないわけです。しかし、先ほど申し上げたように、慣行の上で、いままでの過去二十五年にわたる最高裁の人事、それによって、少なくとも国民的な視野でこれほど司法部の異常状態が惹起されたことはないわけです。だとすると、いままでの慣行を前提として考えた場合に、私はやはり再任請求権というふうなことまでは言えない。そこに若干の裁量の余地はある。これは八十条の文言解釈からくるわけです。しかし、裁量があるとしても、任命における裁量のしかた、それはあくまでも従来の慣行を踏まえて、とりわけ立法当時に金森大臣と佐々木博士との間にかわされたようなそういう問答を踏まえて、これはぎりぎりのところの例外、極限的例外というふうにすべきだというのが私の考えであります。  実は、そうしますと、全く七十八条の場合だけに限定されるかどうかという説もありまして、これは先ほど田上先生のお弟子の一橋大学の杉原助教授の説なんですが、もしそうだとしますと、憲法の七十八条の場合には、裁判によって罷免するとなっております。裁判によってということと、単なる最高裁判所裁判官会議、あるいは下級審の場合には高等裁判所裁判になりますね。そういうように、裁判によってとなると、裁判のあり方、裁判の手続がございます。裁判官分限法にあります。そうしますと、裁判官分限法には、裁判のしかた、手続、機構について明文がありますし、さらにもう一つは、弾劾裁判所の場合には罷免になった裁判官は回復の裁判を請求できます。こういった具体的な実定法上の文書がありますので、私は、七十八条の場合だけに限定されるという説はとらないわけです。この点については、私は先ほどちょっと申し上げたのですが、それに準ずる事由というふうに申し上げたわけです。したがって、どういう場合が準ずるか、これはかなりむずかしい問題ですが、少なくともプラスアルファのこれに準ずる事由ということはあるのではないかと思います。しかし、その準ずる場合も、先ほど申し上げたように、憲法の司法の基本原則から、さらにまた憲法の結社の自由とか思想の自由といった諾原則から、厳重に拘束されての問題であって、その点は決してそのぎりぎりのところの裁量が全く政治的な理由でやっていいということではございません。  それから、先ほど申した十年のあとの問題ですが、先ほど永田さんは反射的利益と申されたのですが、私は期待権的なものだと思うのです。まじめに十年間裁判官をやっているのですから、当然これはその後の際には期待できると思うのです。しかし、これを訴権、ドイツ語でいうとアンシュプルッフというふうなところまで構成するのはちょっとどうか。その点になると、はたしてそういう裁判官の置かれた原告適格があるかどうか、あるいはその場合の訴訟法はどうかという問題は、私はいまのところ、はっきりまだ研究いたしませんが、やや消極的でございます。
  55. 小澤太郎

    小澤(太)委員 最後に一つだけ、キャリアシステムと法曹一元、これが現実と理想との憲法の中での矛盾と申しますか、不備と申しますか、そういうことになっております。先ほど先生は、これを救済するための立法論として、裁判所法の改正と言われたと思いますが、何か憲法以外のことを言われたのですが、それで足りるものかどうか。憲法のそもそもの改正というようなところまでいかなければ、ただ慣習だけで押し切れるものかどうか。また、先生先ほどおっしゃったように、準ずると言われますと、いかなるものを準ずるとするかという判断は、やはり最高裁にあるわけであります。裁量の、限られたものでありますけれども、理由がある、こういうことでございますが、それをなくするためには、やはり憲法の改正ということも考えられなければならぬ。この点についての先生の御所見を最後に伺いまして終わります。
  56. 和田英夫

    和田参考人 お答えします。  結論から言うと、私はこれは憲法の改正でやることじゃなくて、裁判所法もしくは裁判所規則というもので良識をもってやるべきだと思います。結論だけ申し上げますとそういう点でございます。つまり、先ほどから繰り返したわけですが、慣行を良識的に守るということが前提だと思うのです。したがって、慣行が定着すれば、私たちが憂えているようなものではないというのが私の原則で、それを憲法を改正しないとだめだというところまでには私は考えておりません。
  57. 小澤太郎

    小澤(太)委員 ありがとうございました。終わります。
  58. 高橋英吉

    高橋委員長 鍛冶良作君。
  59. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 ほかのこともありますが、いま小澤君が言われたから、このことにしぼって、私は和田さんに聞くことにいたします。  第一番に、簡単明瞭に、あなたは一体法曹一元は賛成なんですか。その点からひとつ聞いてまいりましょう。それでないと議論の立て方が違ってきますから。
  60. 和田英夫

    和田参考人 私は法曹一元は賛成であります。
  61. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 あなたも御承知だろうと思うが、私も四十年間これを主張してきて、今日まで実現できないでははなはだ遺憾だと思っておる一人であります。  そこで、法曹一元とキャリアということになりますと、根本的の考え方が違ってくることになります。その一番の違い方は、法曹一元は、弁護士をやっていながら、イギリスでいえばインス・オブ・コートですが、とにかく弁護士修養所とでも申しまするか、そこで一般民衆と十分つき合って、社会のことをよく知って、また人格も十分上がって、これならば裁判官としても恥ずかしくない人間になったということを認められて、そして裁判官になる、こういうことが大前提です。そこで、十年やっておればまず間違いなかろう、こういうので、十年たった後に間違いないと認められた者から裁判官を採ろうというので、十年の後裁判官に採る、こういうので、十年たてば必ず裁判官になるというのじゃありません。これはさっきあなたもおっしゃったとおりであります。そこで、いまの制度はキャリアでそれとは違いますが、これは裁判官さえやっておれば採る、こういうのですから、これはもう全然違う。ところてんで押していくと同じことなんです。法曹一元とは違います。やはり裁判官となっておるかどうかということを見きわめた上で裁判官にする、こういうのですから、十年たったからといって裁判官になるというものじゃないので、この点が根本的な違いだ、こういうことを私は申し上げるのです。  そこで、あなたは法曹一元が賛成だと言うならば、いまの制度で、十年たってならなかったからといって、それが不都合であるという――これはキャリアの制度からいえばそれはそういうことになりますが、そういうことは出てこないと私は思うのです。しかし、キャリアの制度をとっておる以上はやったらいいのじゃないかというのならば、それは一種の便宜論とでもいうか、いまの状態からいってしかたない、こうなっておる以上はという第二次的の議論だと私思うのです。われわれは、根本論からいうならば、そういうことじゃいかないんだ、だからその意味からいいますと、十年たって採らぬのはいかぬというのじゃない。採らぬというならば、法曹一元をもとにしておるから、なぜ法曹一元を実現ぜないのか。あなたが法曹一元論に賛成だと言われるならば、私は非常に喜ばしいと思うのだが、それを言いながら、今度はキャリアの議論をもってきてなぜ採らないんだ、こう言われるように聞こえるから、どうもそこにあなた方学者としてそこに一致せないものがあると思うが、その点はあなたどうお思いですか。
  62. 和田英夫

    和田参考人 法曹一元の問題は、私よりも弁護士の長い経験をお持ちの鍛冶先生その他の方のほうが御承知だと思うのです。私は基本的には、兼子一博士が憲法調査会の公述人としてでしょうか、こういうことを書かれておるわけです。十年間は弁護士、検察官、調査官等として修業する構想があった。しかし、このような最初の構想の線がくずれてしまった。同じように元最高裁判事の小林俊三さんも法曹一元のことをここで――ここでというのは憲法調査会の席で力説しています。私はアメリカのバーアソシエーションのことを考えますとおわかりだと思うのですが、何ぴとから見ても、つまり裁判官から見ても、同輩の弁護士から見ても、非常に優秀だと思われている人が結局アポイントされて、バーアソシエーションからジャッジになるわけです、州では。その場合に、かりに十人しかポストがない場合に、三十人の志願者がおったとすれば、これはどうしたって弁護士会、裁判、検察その他法学者、そういうもろもろの各界からの良識ある合意が達せられて、そして上から必要な所要の数をピックアップする、これは当然だと思うのです。私はその点は、法曹一元の前提としてアメリカのバーアソシエーションその他を考えますと、優秀な者がアポイントされることは当然で、したがって、優秀でない弁護士の人はアポイントされない、これは当然だと思うのです。私は、その点は法曹一元のアメリカ的な姿としては当然だと思うのです。ただ、そのような制度日本の場合には残念ながら定着しなかった。定着しなかったとしますと、これは次善の策かもしれませんが、少なくとも司法権独立という憲法基本原則からして、一般の公務員よりも弱体化するような身分保障、それから旧憲法下の裁判官よりも弱体化したようなそういう保障、そういうものでは司法権に寄せられた国民の負託に沿い得ないのではないか。そういう点で、私は法曹一元が発足すれば、先ほど申し上げたような形で優秀な弁護士から優秀な裁判官を登用する、場合によっては大学教授からもけっこうだと思うのです。しかし、それがいま定着されてないわけなんです。定着されてないからいわば次善の策として、司法権の大原則を守るという観点からして、先ほど申し上げたいわば再任を原則とするという、そうしてそれを再任拒否の場合には極限的に縮小するという、従来の憲法慣行説と私は申しておるのですが、それを維持すべきじゃないか、いわばこれは第二次的な方策になります。そういうわけであります。
  63. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 それだけ聞けば私はよろしいのです。あなたは初めからどうも、この制度でこれを採らぬのはいかぬと言われるが、それは第二次的のことであって、やはり法曹一元をとるべきものである、法曹一元をとらないならばこれはいかぬ、こう言われれば私は言わないのですが、そこまで言われるならば大いにその説でやってもらわなければならぬ。どうも頭からこれはいかぬのだとこう言われるから、しろうとはそういうことはわかりませんからね。あなた方はそこまで言ってはっきりして国民によくわからせてもらい、司法部の方々でも、われわれがこれだけ主張してもなかなかどうも言うことを聞かれぬが、それだけあなたおわかりになるならば、まず法曹一元をもとにしてこれはできておるんだから法曹一元をやれ、やらないならばこれはおもしろくない、こう言うてもらうことを希望する。これでわかったからけっこうですが、これからどうかそういうことでひとつ御主張くださることをお願いいたします。
  64. 高橋英吉

    高橋委員長 畑和君。
  65. 畑和

    ○畑委員 高柳先生と和田先生にまずお伺いいたしたい。  先ほど来、お二人の先生と同僚の小澤太郎委員との間の質疑応答で、お二人の意見がたいへんはっきりしてきたと思うのです。大体お二人の先生の御意見はほとんど一致いたしておると思うのです。司法権立法権との関係国会調査権の問題、すなわち最高裁長官を、一体われわれが一連の事件等のような場合に国会へ召喚できるかどうかという第一の問題については、両先生とも消極だと思います。私も大体、結局は法律論的に申しますと、そういうことになると思うのです。われわれ何回かその要求をひっさげて、実は自民党の理事と渡り合ったのでありますが、なかなか法律論的に考えますと、やはり結局はそういうことにならざるを得ないかというふうにも考えました。  同時にまた、もう一つの問題、裁判官の十年たってからの再任の問題、これも確かに憲法七十八条とそれから八十条との関係で、結局再任ずることができる、こういう規定になっておりますので、その立法の経過からいたしますと、確かに先ほど来ずっと両先生から詳しくお話がありましたような経過がございました。あるいは法曹一元化の問題もございますが、鍛冶さんは盛んにその点を、法曹一元化をやればいいじゃないかということだが、そうもなかなかいかぬ。実際に日本に定着をしておらぬ。最初この憲法ができた当時は、そうした期待を持っておそらくつくられたと思うのです。そしてアメリカ制度をそのまま流用しようという考えであったかもしらぬけれども、それができなかった。したがって、私は非常に憲法規定上ちぐはぐな規定になったと思う。そこに実際現在の悩みがあると私は思うのであります。そこでこの問題についても、両先生の御意見は結局再任期待権とでも申すか、権利とまでは言えないけれども、そうしたものがあるのではないか。したがって、積極的に請求権として権利としてこれがすなわち再任しなかったのは違憲であるということで、それを裁判で争ったり、再任を請求したりするということはなかなか憲法上はむずかしい。しかしながら、結局これは手続的に公正でなければならぬという点において欠けるところがあったのではないか、こういう御意見であります。憲法改正しようとするまでのことはない。いままでにあった慣行をさらにいい慣行としてこの際今度のようなことがないように最高裁の人事行政で配慮をされたいというような御意見だと私は思うのです。  私も同じ考え方を持っておるのでありますが、それが実は今度の問題につきまして、いままでいい慣行であった、長谷川裁判官というような問題などにつきましては、どうやらこうやら、これもいいとは必ずしも言えませんけれども、ああいう形でともかく再任ができないということになったわけなんで、これまでは了解できますが、今度の場合などは思想、信条の問題に関連をしてくる。青法協に加盟しておったということが少なくとも一つの理由であるには違いない。そしてまたプラスアルファがあるというような話があるんでありますけれども、しかもその理由を明らかにしない。結局は私はその問題に帰着するのではないか。結局最高裁が今度の宮本判事補の再任の問題について、拒否をした理由を宮本判事補が明らかにしてもらいたいというにもかわらず、それを明らかにしないということによって、国民の司法府に対する信頼が、最高裁に対する信頼が、薄らぎかけてきたということでは相ならぬ。いまの裁判所は御承知のように天皇の名によって裁判をする裁判所ではなくて、国民の名において裁判をする裁判所であるからには、あくまでもやはり国民裁判所でなければいかぬ。国民の期待を持たれるような裁判所でなければ、信頼を持たれるような裁判所でなければならぬという点において、いままでの慣行が破られてこうした形になったということ、それにつきまして、結局最高裁の長官も、召喚の問題になりますけれども、われわれが召喚を要求をするということを待たず、むしろこうした大問題になっておるのだから積極的に最高裁の長官が国権の最高機関である国民のかわりである国会へ出てきて、そして再任できなかった理由をはっきり私は述べるべきだったと思う。それがすなわち十年間の再任の問題の、先生方の御意見と大体同じところに帰着するというふうに思うのですが、結局最後は手続的に秘密主義であること、これがすなわち独善とも見られる、こういうことになると思うのでありまして、そういう意味で私も先生方のよい慣行ということを最高裁が気をつけて、このことをまた再び起こさぬということにすべきだと思うのです。結論的にそういうことに先生方の御意見もなるんだと思いますけれども、その点、重ねて両先生の御意見を承りたいと思います。
  66. 高柳信一

    高柳参考人 結論的にはおっしゃるとおりでございます。ただお話しになったところで、多少私の真意と反するところがございますが、それは再任請求権というようなものはないというふうに言ったのではなくて、訴訟で保護される利益が権利である、あるいは法律上保護された利益であるとすれば、自分は再任の理由があると思うのに再任を拒否された人は訴訟でそれを争うことができる、そういうふうに私は考えております。そこのところは和田教授とちょっと違います。  その理由は何かといいますと、これは手続的公正の原則が出てくる過程で問題になることでございますが、一体憲法法律がある国家機関に権限を与える、何のためかといえばそれは国民にある利益を保障するためであります。つまり再任を拒否する、これはその幅は狭いと思いますが、憲法上再任権を与えられている以上再任を拒否することは権限行使としてあり得るわけであります。それは何のために再任を拒否するかといえば、国民に公正な裁判保障するためであります。つまりこの裁判官裁判官として再任して、国民の民事、刑事の訴訟を裁判させたら国民に不公正な裁判を与えることになる、それは憲法上再任権を与えられている最高裁判所として国民のためにできない、これ以外には再任拒否の理由はないわけであります。そして、その点について国民の信頼をから得るためには、黙っていたのでは国民はますます疑うわけですから、はっきりさせざるを得ない。憲法上ある権限を与えられているものが憲法の負託、国民の国政の信託にこたえるためには、それ以外にないわけであります。それをいま御質問がありましたように、最高裁みずから自発的に明らかにすべきでありますし、また国民に公正な裁判保障すべき立場にある裁判官個人個人としても当然要求できるのではないか。  再任請求権というようなものがなければ訴訟で裁判的保護を求め得ないかというと、そういうことはないと私は思います。ほかの例でありますが、私は練馬区の一住民として区長準公選方式の条例制定請求をいたしました。ところが区長代理者が、署名を集める場合に第一の手続で定められております署名を集める代表者としての証明書を交付しない。そこで私どもは東京地方裁判所にその証明書の発給を拒否した処分に対して、取り消し訴訟を起こしたわけであります。これは署名を集める場合には区長が代表者としての証明書を交付するとだけ書いてあるわけで、住民にそういう証明書交付請求権があるというふうには書いてない。しかし、手続上そういう段階を経る必要があるわけです。法律の定めによれば、地方自治法及びその施行令の定めによれば。ということは、理由なくして交付を拒否されないということを法律は住民に保障していると考えざるを得ない。裁判をするというのは署名集めをするというよりは比較にならないほど重要なことであります。それをゆえなく退けられる、そして裁判的保護の方法がないということは、民意に基礎を置く政府、ポピュラーガバメントあるいはデモクラティックガバメントの法理の中には私は考えられない。それは再任請求権というような問題ではなくして、憲法国民に公正な裁判保障するために与えられた権限憲法の定めに反して理由なく行使されているわけですから、その憲法の精神に反する権限行使に対しては裁判で争う道はあると私は思うのです。それは再任請求権の保護というよりも国民の特定の利益――これは大事な利益ですが、を保障するために、憲法がある国家機関に与えた権限行使憲法趣旨に反している、それを裁判的に正すということであります。憲法訴訟における原告適格の問題はいろいろ問題がありますが、アメリカの判例などに即してみますと、一般の場合よりも比較的ゆるくなっております。それは憲法が曲げられず犯されずにゲルテンするということが非常に大事だから、そういう憲法訴訟については原告適格というものを憲法趣旨に即して緩和していく――緩和ということばは悪いのですが、常識的にいえば緩和していくということだろうと思われます。  その他については御質問趣旨のとおりでございます。
  67. 和田英夫

    和田参考人 二点ほどお答え申し上げたいと思います。  一つは、石田長官の出席説明という問題でありますが、いま畑さんから言われたようなことを私も考えております。ただ、国会法第七十二条を見てまいりますと、一項には「会計検査院長及び検査官の出席説明」とあって、二項に「最高裁判所長官又はその指定する代理者」とありまして、「又はその指定する代理者」と書いているところを見ますと、やはり権力分立における司法府の最高のトップにある長官を、司法権の自主性という点で、ある意味でこれを慎重に配慮したのではないかというのが私の文言解釈であります。したがって、石田長官が、かってないような異常な司法界の状況を憂慮して、みずから進んでこの点について説明するということは非常にけっこうですし、むしろ私はそれを要望したいと思います。ただ法律解釈論となりますと、そこに長官みずからが出なければどうにもならぬというふうなところを法的にまでいえるかどうか、私はやはり若干消極に解するわけです。  それから二番目は、高柳教授がいま言われた再任の問題ですが、私は実は先ほど申し上げたように、実定法の法文がいかんせん、十年たって再任されることができるとあることに非常にこだわるわけであります。したがって、私の悩みは、実定法の法文と、あるべき裁判官、あるべき司法権独立と両方かね合わせた場合にどういうふうにして国民の納得する、国民の信頼にこたえ得る裁判官司法権独立であったらいいかということになるわけであります。  ただ、十年間の実績があるわけで、どういうふうなことをやったかということは十年間の実績で完全に客観的に科学的に任用権者のほうで承知できるはずですから、それはいわば十年間の実績ということで、行政法学的に言うと、免許の更新みたいなものだと思うのです。免許を新たに付与する場合と違って、免許の更新、レニュアルだと思います。だとすると、それにはそれ相応の十年間の実績を踏まえたプリビレッジといいますか特権的なものが実質的にあると私は思うのです。そこからして、先ほど申し上げたような期待権というものは可能ではないか。それをさらに学説、判例、その他慣行で、期待権的なものが定着化しまして、その定着化がすでに法的な規範にまで定着した場合には、先ほど高柳教授が言われたような権利というものにまで成熟すると私は思いますが、現在のところそこまで私の考えはまとまっておりません。  それから司法の問題について、私も先ほど申し上げたように、司法の自治の名のもとに司法の独善が始まる、司法の独善が主張されるということには非常に賛成できません。これは冒頭に申し上げたとおりでありますが、司法の自治、司法権のあり方、司法権独立といいましても、しょせんは国民の負託にこたえるだけの司法権でなければいかぬわけであって、いわんや現在は司法部内におけるこういう再任問題に関する憂慮の面が四百名ないし五百名の下級裁判官の間で出ているわけであります。そして国民の間からもどういうことなんだろうかということの不信の念がかなり広範に出ていると思うのです。これは、どういう裁判官によってわれわれが裁判されるのかを考えますと、国民としても当然な要望だと思うのです。そういう意味最高裁判所はかたくななる人事秘密という鉄則もしくは慣行を破って、我妻教授が言われていることなんですけれども、かりに相当混乱が起きるとしても、この際、司法百年のためにあるいは民主主義の百年のために、みずから問題について解明に当たる勇気とそれだけの姿勢がほしいと私は思います。  以上です。
  68. 高橋英吉

  69. 田中武夫

    田中(武)委員 時間がおそくなってたいへん恐縮ですので、まとめてお伺いいたしたいと思います。  第一点は、先ほど田上先生にお伺いしたと同じような点なんですが、憲法八十条一項の内閣の任命行為の性格、いわゆる拒否権があるのかないのか等々について、田上先生と違った御意見のある先生がおいででしたら御意見を伺いたいと思います。  それから第二点は、再任拒否の理由を明らかにすべきであるという考え方を私は持っていますが、あらかじめこれも論議があったと思いますが、御意見を聞いていない先生にお伺いしたいのです。裁判所法あるいは最高裁規則等で再任の基準というようなものをきめておく必要があるのではないか、こういうように思いますが、その点についてどうお考えなのか。  第三点は、憲法第七十六条三項の裁判官良心、これは判例があったと思いますが、裁判官良心とは具体的に一体どのように把握したらいいのか。これは三先生の御意見を私まだ聞いておりませんので、三先生の御意見をお伺いしたい。二点につきましては特に永田先生の御意見があれば伺いたいと思います。
  70. 永田一郎

    永田参考人 私、三点、田上先生の御意見をいま一応ノートしたのですが、十分に見つかりませんが、制度論として、日本憲法は自由主義体制としての責任内閣制に徹している以上、徹底的な連帯責任ということを考えますと、内閣任命ということについての――一の問題あるいは二の問題にもなりますが、最高裁の内閣任命についての、基本的な責任内閣制でそこに拒否権というようなものは考えられない。むしろそれならば衆議院でもって内閣不信任でやるとか、そういう筋合いではないかと思います。  それから第二番目の問題の、今度は下級裁の裁判官の再任基準の問題だろうと思うのでございますが、これはやはり司法行政の自治権、先ほど参考人の皆さんも、司法行政の独善化というような懸念があるというような御意見もあるようでございまして、議員先生もそういうふうにお考えの方もあると思うのですが、制度論とすれば一応司法行政というものの、司法権独立の裏づけということを考えますと、その基準というものを文字にしたところでおのずからやや抽象的な具体性のないものに限られて、一例で申しますと裁判官の分限関係の問題で、しょっちゅう誤審ばかりしているような人は当然再任用はされないとか、そういうようなことを書く程度に――誤った裁判ばかりしているというようなことは書けないでしょうけれども、たとえば病気の問題がいま出ておりますけれども、そういうようなことしか書けないのではないかと思って、あまり基準ということも、たとえば電気事業法なんかに免許の基準などが出ていますが、やはり抽象的な域を脱しないようなものと同じようじゃないかと思います。  第三点の良心というのは、高柳参考人から非常に微妙な、デリケートなかつ深遠と申しますか――思想良心という問題は非常にむずかしい問題でして、ただ私考えられますことは、良心ということの有名なラスキンのことばで、正しいことばかどうかちょっと忘れましたが、いかなる権力をもっても身体的自由は拘束できるけれども良心は拘束できないという名言があるのでございます。そういう場合の良心、たとえば封建時代の隠れキリシタン的なああいう問題もあります。時間をまだお二人方にもおかなければなりませんので、簡単に言いますけれども、この場合の良心ということは、むしろ他から拘束されないという、つまり上命下達的な検察官の場合と違うような、そういう点の強調の程度であろうと私は考えております。やはり憲法法律に従いという、そういうところと並んでいるようでございまして、良心という意味を非常に深く考えれば切りのない話ですけれども、やはり法律解釈としたならば、他から圧迫されない、つまり独立ということのうらはらの意味に解したいと思います。
  71. 高柳信一

    高柳参考人 ちょっと確かめますが、御質問の第一点は八十条の……。
  72. 田中武夫

    田中(武)委員 いまの永田先生のはちょっと私のお伺いしたのと違うのです。最高裁判官の任命じゃなしに、八十条一項の下級裁判官です。
  73. 高柳信一

    高柳参考人 これは私は田上教授考えが違います。これは内閣に、最高裁判所のつくった下級裁判所裁判官任命名簿を拒否したり新しいものをつけ加えたりする権限を与えたものではないと思います。つまり、司法省の持っていた裁判官人事権を裁判所自身にゆだねたわけです。ただ形式的というとまずいかもしれませんが、形式的任命権を行政府に与えた。したがって、実質的には最高裁判所のつくる名簿が拘束する。ただ内閣は形式的審査権を持つということになると思います。裁判官の資格要件を満たしていないものが名簿に載っている等の場合には、形式的な任命権を憲法によって与えられたものとして、それを名簿から除くというようなことはできると思います。しかし、実質判断はすべて裁判所自身にゆだねているという趣旨考えなければならないと思います。  それから第二点は、再任基準を法律で定めるとおっしゃいましたか。
  74. 田中武夫

    田中(武)委員 法律または最高裁規則……。
  75. 高柳信一

    高柳参考人 法律よりは私は最高裁判所の規則のほうが適当と思いますが、こういう最近の事態で明らかになってきて、それが裁判官の中に巻き起こしている不安、動揺、不信ということからすれば、再任基準を何らかの形で法定してくれというのは当然の要求だろうと思います。また国民としても公正な裁判を受けるという見地から、裁判官自身が不安、動揺の中にあってはこちらこそ非常に不安になりますから、当然再任基準というものが法律または最高裁判所規則によって明らかになっていくことが好ましい方向だろうと思われます。法律がいいか最高裁判所の規則がいいか、これは問題でありますけれども、どちらでなければならないということはないと思います。しかし、事柄の性質からいって、最高裁自身が憲法上自律権、自治権を与えられているわけですから、それを正しく行使して規則ではっきりさせていくことが重要だろうと思われます。  裁判官良心というのは、特に憲法学上かくかくであるという定義みたいなものはないと思いますが、たびたび申してきたこととの関連で申せば、裁判というのはどうしても何らかの形で世俗的な意味でのリアクションを起こす。つまり一番典型的な場合には、違憲法令審査権の行使によっく政治的な反感を受ける。それからもっと低次元の問題では、どうしてもある人の行為を犯罪を認めて死刑をはじめとする刑を科するわけですし、民事ではどちらかの当事者を勝たすわけですから、人間的な意味でいろいろ迷ったり、起るべき反応というものに不安を抱いたりすることは免れないと思うのですが、裁判官はそういう一切の政治的、世俗的なインパクトというものを、人間として弱いにしても、それをあくまで強い人間として退けて、自分自身の良心を基準に憲法法律を正しく適用するというむずかしい機能を営んでいる。それを常にあらためて自覚していかなければならないわけだと思います。それを制度的にいえば、彼の良心以外には裁判の公正を担保する保障はない。保障はないと言ったら言い過ぎで、著しい場合には弾劾罷免等がありますけれども、ああやれ、こうやれと言って正しい裁判、公正な裁判保障されるゆえんではないので、だれが見ても明らかな非違の場合以外は、裁判官自身が先ほど申しましたような誘惑、おそれを一切退けて、自分良心に従って忠実に憲法上の職務行使するという以外にはないという趣旨だと思います。
  76. 和田英夫

    和田参考人 簡単に申し上げます。  第一点の下級裁判官内閣の任命の問題ですが、私はこれは高柳教授とほぼ同じであります。その理由は、一つ内閣で新たに何らかの証拠を収集する、特定の裁判官人事、任命にあたっての調査をするということは、実際問題として能力に余ると思うのです。したがって、裁判官の再任あるいは任命についてどうするかということについて最も詳細な資料を権限責任をもって収集し得るのが最高裁判所だと思うのです。その点で最高裁判所で調製した名簿に対して内閣のほうでそれはいけないということは私はできないと思います。ただし一般論としてですが、内閣としてはどのような一般的な人事行政をやっているのかというようなことで、国会でそういう人事行政の原則的な問題もしくは一般的な問題で質問をすることは、これは当然あっていいし、当然それは国政調査の対象となると思うのです。私が申し上げたのは、特定のA、Bという問題、これは資料の収集上不可能というよりも、国会議員の方が最高裁判所で握っている以上のものをかってに収集することはまず能力的に無理だという考えです。  第二点の問題は法定の問題ですね。私はこれは憲法七十七条の趣旨から見て、最高裁判所の自律権、特に最高裁判所は、裁判所の内部規律について規則できるとありますので、これは最高裁判所の規則でやったほうがよろしいと思います。しかし、その規則の前提として、かなりばく然とした規定にせよ裁判所法で書くこともむろん可能だと思います。ただその場合に、あまりにこまかいことまで裁判所法で書くよりも、こまかい問題については最高裁判所の規則にまかせるほうが立法技術的には賢明だと思います。  第三番目の問題ですが、これは非常にむずかしい問題かもしれませんけれども、簡単に申しますと、私は裁判官倫理、裁判官としての良心だと思うのです。したがって、自分としてさまざまな思想を持っておっても、法服を着て一たび法廷で裁判官としての立場で仕事をする場合には、いわば法服の論理と申しましょうか、マックス・ウェーバーのことばをかりれば、職業倫理だと思います。したがって、自分のある思想がどうであるかということはむろん非常に広い意味では下敷きになるかもしれませんけれども、具体的な訴訟事件、たとえば手形、小切手法の事件とかそういった場合に、非常に進歩的な人が、商法の手形、小切手法を無視して裁判することはあり得ないこと、考えられないことです。したがって、それはあくまでも法廷の法服を着た裁判官としての客観的な職業倫理からする良心だと私は理解しています。  私は、ついでに申し上げますけれども、日本の現在の裁判官の構成を、一つ考え方で一緒くたに塗ることは非常に問題だと思います。むしろ、たくさんの裁判官、いま二千五百人おりますが、たくさんの裁判官がさまざまな多角的な裁判官の構成でもってあったほうが、より今後の日本の司法部のあり方、弾力的な自由濶達な生き生きとした司法部を構成するためにはよろしいのじゃないか。そういう意味で、一つ思想だけで、たとえばその点で法のもとの平等に違反するような、そういう思想、表現の自由できびしく裁判官の任用を考えられるということは、毛頭これは憲法上許されませんし、むしろ、さまざまの思想裁判官がおって、多角的な裁判所の構成をしたほうが、日本の民主化のために、日本民主政治をささえる司法部のあり方として望ましいというのが、私の年来の見解であります。
  77. 田中武夫

    田中(武)委員 どうもありがとうございました。  永田先生、第一点がちょっと……。
  78. 永田一郎

    永田参考人 第一点、簡単に申しますと、両参考人結論は同じでございましたが、ただ、やはりたてまえとして最高裁を任命した責任、その最高裁が裁判官会議でもって下級裁判所の名簿を決定している。そういう意味で、すべて最高裁の任命をつまり内閣がやる、そういう責任において、制度的にいじるべきではない、そういうふうに考えております。
  79. 田中武夫

    田中(武)委員 どうもありがとうございました。
  80. 高橋英吉

  81. 中谷鉄也

    中谷委員 たいへん時間もないようですから、私は一問だけお尋ねをいたしたいと思います。  司法権独立という一番たいへん大事な問題と国政調査権限界関係について貴重な御意見を伺ったのですけれども、先ほどから高柳そうして和田両先生の御意見の中にもありましたけれども、多くの裁判官の中には、最高裁判所司法権独立を侵しているのではないかというふうな不安、動揺、そして司法権の危機というふうな意識というものが、私の友人などの裁判官の中にも非常に高まりつつあると思うのであります。私は非常に遺憾なことだと考えております。  そこで、まず私は、きょう御出席をいただいたすべての参考人の先生方の、司法界にそういう動揺があるということが共通の御意見ではなかろうかと思うのでありますが、第一点の質問は、永田先生に念のために、現在多くの裁判官の中に、宮本裁判官の再任拒否等をめぐりまして、司法権独立、司法の危機についての多くの動揺が起こっているというふうに参考人もお考えになられますかどうか。そして、それは理由のないことではない、まさに理由のあることだというふうにお考えになられるかどうか。この点をひとつ私は御意見を承っておきたいと思うのであります。  質問を続けさしていただきます。  次に、先ほど畑委員のほうから御質問がありまして、和田先生のほうからお答えをいただいたのでありますけれども、国会法七十二条の二項の問題について、高柳先生とそして永田先生の御意見を私は承っておきたいと思うのであります。要するに、再任拒否の理由が国民の前に明らかにされなければならないと私は思います。そうしてそれは単に、たとえば憲法記念日における最高裁長官の談話のような一方的なものではなしに、そこにはやはり対話、問いと答えがある場所において理由が公表されることが好ましいと私は思うのであります。そういたしますと、七十二条の二項という規定を活用されて、最高裁判所の長官が委員会の承認を得て、この委員会において再任拒否の、国民が一番不安に思い、そして多くの裁判官が不安に思っているそれらの理由について説明をされるということが私はまずあってしかるべきだと思うのであります。先ほど和田先生の明快な御意見を承りましたけれども、永田先生とそうして高柳先生のこの点についての御見解をこの機会に承りたいと思うのであります。  言うまでもなしに、裁判所法の五十三条の規定でありますけれども、この規定は、最高裁判所事務総長についての規定であります。事務総長の職責は、「最高裁判所長官の監督を受けて、最高裁判所の事務総局の事務を掌理し、事務総局の職員を指揮監督する。」とありまして、私は、御出席要求されるのは、その指定する代理人ではなしに、最高裁判所長官が出席要求をさるべきであるというふうに考えるわけであります。私は、この点についての一問だけであります。御見解を承りたい。
  82. 永田一郎

    永田参考人 第一間についてお答えします。  時間の関係で簡単に結論だけ申しますが、あるかないかと言っても、結局、宮本判事とか福島判事とかああいう問題をどのくらい大きくとらえるかとらえないかのその各人の見解の相違であります。もっと大きな司法権独立が危うくなるような大問題に比べれば、それほど大きな危機があるかどうかということは、見解の相違ですが、もっと大きな危機に比べれば、ああいう問題もある程度の危機はもちろんあるのですが、ただ、普通世間でいわれるほどの大きな危機ではなくて、むしろこういう現在非常に言論の自由と申しますか、言論機関が発達しているそういう諸要件において、そういうものが危機感をややかり立てるきらいがある。さりとて危機でないというのでは絶対にございませんが、そういう感がいたします。  それから理由というのは、私は、やはり根本的にたとえばドイツに比べると――東ドイツとか西ドイツというように分かれておる。ところが、日本は自由主義の体制下にあって非常に思想の自由というものがおおらかにありまして、しかも相当イデオロギー的に基本的に相いれない立場というものがありますので、その間妥協とか融和とかそういうものがある場面場面にはあるかもわかりませんけれども、根本的にはないと思いますから、そういう意味で、日本特有の、司法問題に限らず二つのイデオロギーと申しますか、そういうものの対立という危機感は随所に見られると考えられます。  それから第二問について、あまりこまかい問題の、いまの質問の先生がおっしゃったように、事務総長の職責の内容なども御指示くださいましたが、私こまかい点ちょっといまとっさの場合ですからよく考えなければお答えできませんが、私として申し上げる限りでお許しいただきたいと思うのですが、やはりこういう裁判所制度であるとか、国会裁判所関係とかという根本的な重要問題について、制度を改正するとか、具体的なドラフト、要綱などについての議論司法権立法権の対立がある、そういうときには長官が進んで出るとか、あるいは出席を六十二条で要求できると思いますが、やはり究極突き詰めるところによりますと、たとえ思想の自由、表現の自由の問題とかにからめましても、個々のX、Yという裁判官の進退問題というような問題では、やはり長官でなくて事務総長のああいう形式の答え方は、決して国会を軽視するというわけではなくて、やはり個々の個人的問題というところにウエートが置かれると思いますから、六十二条として、制度としていまのやり方の問題を根本的に検討するという意味でならとにかく、個々の問題の進退という意味ではやはり消極であってもやむを得ないと思います。
  83. 高柳信一

    高柳参考人 国会法七十二条の問題ですが、最高裁長官が今度の問題についてであれ何であれ、みずから欲し、またその代理人を指定して、国会委員会に出てきて、大事なことであれば大いにしゃべるべきであるというふうに私は思います。つまり、この規定がすでにそのことを認めておりますし、最高裁長官は新聞記者には語るという以上、国会に出てきて語ることは当然できますし、できると思います。ただ私が申しましたのは、最高裁長官が出てきたくないという場合に、権限に基づいて引きずり出すということは、国会法では、あるいは憲法の精神からいっても、認められていないと考えるべきだということです。それは三権分立というよりも司法権独立の見地からだと私は思います。そして国会法七十二条が適用になるのは、事柄の性質上裁判自体についてということはあり得ないと思います。最高裁が現在の裁判所制度をこういうふうに法律で変えてもらいたい、あるいは裁判所の一致した意見としてはこういうことか考えられていると考え、それが国会権限関係すれば、この条文によってここに出てきて大いにそれを説明するということが可能で、それを考えていると思います。  しかし、その他のことであっても、憲法運用上重要な疑義が国民の間に起きているという場合に、最高裁長官は国会法七十二条二項によってできるだけでなくて、むしろ積極的にすべきではなかろうか。つまりいま永田教授の御意見では、司法権独立について見解の相違があるということを申されましたが、最高裁としても、筋としては司法の独立国民に公正な裁判保障する見地から、一連の行為をしたのだろうと思われます。もしそうであるとすれば、何もひるむ必要はないのであって、積極的に国民のために必要であるのだと言って、国民の信頼をかちうるように努力すべきであります。事柄が司法行政関係していても、事柄は憲法にかかわりますから、そしてまた民主政治あるいは法の支配あるいは裁判権威関係いたしますから、それを得べく最高裁として国会に出てきて大いに国民の納得を得る、信頼をかちうるということは、国会法七十二条二項によってできるだけではなくて、むしろ大いにやるべきではなかろうか、そういうふうに思います。
  84. 中谷鉄也

    中谷委員 終わります。
  85. 高橋英吉

    高橋委員長 林孝矩君。
  86. 林孝矩

    ○林(孝)委員 和田先生にお伺いいたします。質問を最初にずっとまとめて行ないます。  まず第一点は、いまの同僚委員から質問のあった国政調査権と司法の独立という点に関してでありますが、国政調査権憲法上認められる理論的根拠について、これに関連して憲法第四十一条の国会最高機関性という問題でありますけれども、絶対的な最高性というものではなしに、相対的最高性といいますか、相対的優越性というか、そういうものを他の機関すなわち行政部門、司法部門に対するものとして、憲法は少なくとも認めているのではないか、そういう点をまずお伺いいたします。  それから第二点は、そうした意味において裁判所といえども、司法行政の面で裁判所が誠実にかつ正しく法律を執行しているかどうかということに対して、相対的優越性を有する国会国政調査権の対象となるのではないか。したがって、裁判所法第四十条第一項の規定による指名行為、それが憲法または裁判所法の精神にかなっているかどうかという調査、これが国会において行なわれるということについて、別に問題ではないのではないか、そのように思うわけですけれども、その点はいかがでしょうか。  それからその次に、裁判所法の第八十条、第六編のところです。裁判所法の中にはここのところだけが司法行政についての規定になっておるわけですけれども、司法行政監督権という問題があります。裁判権すなわち司法権独立を侵したり、またはその司法の独立影響を及ぼすようなことはできない。そこの条文は、司法行政監督は「最高裁判所は、最高裁判所の職員並びに下級裁判所及びその職員を監督する。」という八十条の規定、それから八十一条に、「前条の監督権は、裁判官裁判権に影響を及ぼし、又はこれを制限することはない。」そのように定められているわけですけれども、この監督権によって裁判権が影響を受けるような事態が出現したとき、司法行政監督権が適法に行使されなかったことになるのではないか。したがって、国会はそうした国政調査権行使によって、この司法行政監督権行使の内容というものを論議するということについては、問題ではないのではないか、その点が一つです。  それから、司法権独立とは、では一体何なのか。基本的な問題になりますけれども、そういう問題から、最高裁自体によって再任拒否等によって下級裁判所における司法権独立が侵された、または影響を受けている、そうしたときに、この司法権独立を侵し、または影響を及ぼしているという最高裁の行為自体を国政調査するのが、なぜ司法権独立を侵すということになるのか。これらのいま申し上げました裁判所法第八十一条違反の司法行政を調べるという、そういう立場からの問題です。  それから先ほどから論議されておりました人事の秘密ということでありますけれども、それが憲法司法権独立裁判官独立保障規定の精神に反しておる、また裁判所法のいま申し上げました八十一条に違反しておる、こういう事実があるとき、これを調査することと人事の秘密を守るということと、法的にどちらが優先するのか、その点です。  それから、ある最高裁判所の判事が、裁判官は体制的でなければならない、体制的でない人、すなわち体制的思想でない裁判官裁判官をやめてもらわなければならないという発言があったという新聞の報道があります。こうした事実は明らかに思想、信条の自由を否定した、逆にいえば特定の思想を強要するものではないか、そのように思うわけですけれども、こうした事実を調査する場合――もし行政権立法権憲法違反の行為があればそれを是正するのは当然でありますし、体制的であれ、すなわち行政権に忠実であれ、さもなければ裁判官をやめてもらわなければならないというような発言をすることは、裁判官の使命、職権独立裁判官独立を無視した最高裁判事の事実上の司法行政による司法権独立の侵害である、そういうことも考えられるわけなんです。こうしたことに対して、国会国政調査権によってこのような発言の真否をただしていく、また是正を求めるためにそうした最高裁判事に対して国会において質問するということがはたして司法権独立を侵すことになるかどうか、私は司法権独立の擁護のためにも当然考えなければならないことではないか、そのように思うわけです。  以上申し上げました点について、先生の御見解をお伺いしたいと思います。
  87. 高橋英吉

    高橋委員長 たいへん時間がおそくなってお疲れでしょうから、なるべく簡単で差しつかえないと思いますから、ひとつ……。
  88. 和田英夫

    和田参考人 非常にこまかい論点にわたっておりますので、第一点、第二点という形でなくて、基本的な問題をまず申し上げて、それに関連して個別的な問題というふうに申し上げたいと思います。  基本的な問題は、憲法六十二条の国政調査権、これが司法権、とりわけ司法行政権にどのような形でかかわり合うか、あるいはどの程度までいくと司法権独立を害するかという基本問題であると思います。これはわれわれの学会でもきわめて論議された問題ですが、私は基本的に言うとこのように思います。  一つは、国政調査権六十二条の背景には、国民主権、したがって、それを踏まえた国会優越主義があるわけですね。同時に、憲法司法権独立というもう一つの柱を持っているわけであります。これは本来的にいうとかなり矛盾するような場面も惹起しますが、私はこの点については両方の調整を結局ケース・バイ・ケースに検討していくよりほかないだろうと思います。  その場合に、まず明確にする必要があるのは、具体的な形で裁判官の個々の法的確信の形式の自由に影響するような形での国政調査権調査のしかた、これは私はできないと思います。具体的な特定な事件における裁判官の法的確信の形成、これに影響するような場合は無理だということは言えると思うのです。この点で二十四年の浦和充子事件一つの先例になっております。   〔委員長退席、羽田野委員長代理着席〕 しかし逆に、司法行政といえどもあるいは司法権一般といえども、あくまでも司法の独善を許容するわけではございませんから、したがいまして、司法行政のあり方を基本的な問題、一般論的な問題として調査することは差しつかえないという関係であります。したがって、いま質問された具体的な問題は、私のいま言った二つ国政調査権の前提にある国会優越主義、それと司法権独立とのかかわり合いをどうするかという形で検討するほかないと思いますが、学会の学説としては、ほぼ立法調査のためのいわば補助的権能というのが公法学会での六十二条の国政調査権に関する多数説と申してもよろしいと思います。若干の異なった説もございますけれども、私も大体そのように解しております。ただその点については見解の相違も若干ありますので……。  それから、こまかい問題たくさんございますが、司法行政監督裁判権に対する監督権の制約、つまり裁判所法の八十条と八十一条の関係ですが、これはあくまでもやはり司法権監督というのは行政作用における、行政機構内部における監督と違いまして、司法の特殊性の形での監督、つまり合議制でありかつ司法権独立を担保されている個々の裁判官の主体性を尊重する形での監督でなければならぬと思います。したがって、その問題でかりに最高裁判所裁判所法八十条に基づいて下級裁判所裁判官に対して裁判権に影響しあるいはこれに制約するような形での司法行政が行なわれたとするならば、あるいは行なわれたというふうにお考えになるならば、私はそれは当然調査の対象となってしかるべきだと思います。あくまでも個別的な事件について、個別的な人間についてでございませんから、この点は先ほども私も申し上げたし、高柳教授もおっしゃられたことですけれども、最終的な司法行政責任者、これは最高裁長官ですから、みずから進んで司法行政のあり方に対する自己の信念あるいは見解を表明してしかるべきだろうと思います。  それから人事の秘密の問題ですが、これは私先ほど申し上げたことなんですけれども、人事の秘密はあくまでも司法の独善のために利用されてはいけないと思うのです。今度の問題は宮本裁判官一人の問題でなくて、宮本裁判官に対する何らかの理由の開示すらなされておりません。のみならず、そうじゃなくて、宮本裁判官と同期の人あるいは監督者である川井福岡高裁長官あるいは熊本地裁所長も非常にりっぱな裁判官だと申されておるわけです。同僚もその点については、むしろわれわれの非常に範とするに足る裁判官だということを申し上げておるわけです。にもかかわらず、人事の秘密で、これが何ら理由が開示されないとなりますと、事は宮本裁判官一人の問題ではないので、下級審裁判官の、しかも十年の再任期を待っている多くの裁判官のすべての問題になるわけで、つまり個々の裁判官の問題じゃなくて、司法行政一般の問題となるわけですね。そういうぐあいに私は人事の機密というものは、むしろ司法権独立司法権の内部の民主化のためにもあるいは国民の疑惑にこたえるためにも、人事の秘密というふうなものはいわば評価をもっと下にして、バランスをかければ、人事の秘密を固執するというほうをむしろ下げたほうがいいという考えです。  必ずしも一つ一つに対するお答えになりませんが、最後におそらく最近のある裁判官の発言だと思います。私は実は朝日新聞にちょっと感想を書いておりますので、それを繰り返すことになりますけれども、やはり裁判官の任務は現内閣を支持するかどうかということじゃないので、憲法法律に従って自己の良心のみに拘束されるのが裁判官ですから、裁判官裁判官たるゆえんのものは、裁判官職務執行の原点となるのは申すまでもなく憲法のあるいは法律の、かつ裁判官としての良心でありまして、いまの政府にロイアルティーをつくかどうか、これは別問題であります。もしそういうふうな裁判官が本気で言うたとしますと――冗談かしれませんが、本気で言うたとしますと、私はきわめて残念であります。   〔羽田野委員長代理退席委員長着席〕 しかし、それをこういう国会の場に呼んできてするかどうかとなると、一般論としてそのようなことをどう思うかということは、これは最高裁判所のほうで、司法部のほうで十分説明すべきだと思うし、一般論としてそういうふうなことの言動をどう思うかについては私は法務委員会などで質疑されることはけっこうだと思うのですが、その裁判官を呼んできてやるということは、どうでしょうか、やはりいささか先ほど言った司法権独立ということのために、個々の問題、個々の裁判官の法的確信の形成の自由ということにかかわりますので、私はその点はいまのところは消極に解釈しております。  以上、不十分かもしれませんが……。
  89. 林孝矩

    ○林(孝)委員 はい、けっこうです。
  90. 高橋英吉

    高橋委員長 岡沢完治君。
  91. 岡沢完治

    ○岡沢委員 基本的人権の尊重を中核とする憲法の問題を中心にして論議するこの委員会で、憲法学者の先生方を前にして、国権の最高機関が昼めしも食べてもらわないで質疑を続行するということにはいささかじくじたるものがございますけれども、これも国民のためにお互いに奉仕をするという立場から、しばらくの間質問することを許していただきたいと思います。  田上参考人には聞いたことでございますが、私は、きょうの論議の基本になると思いますので、主として高柳先生と和田先生にお尋ねしたいのですが、いわゆる憲法七十六条の三項「すべて裁判官は、その良心に從ひ獨立してその職権を行ひ、」この「職権」の中身につきまして、裁判がそれに当たることは言うまでもありませんが、裁判所司法行政、わけてその人事行政がもしそれに当たるとするならば、田上教授の御見解のように、裁判官人事行政が最高裁判所裁判官個々の良心に従い独立してその職権が行なわれるという中身に当たるとするならば、われわれがこういう論議をすること自体、新任、再任の適否を論議すること自体、ある意味では憲法の精神に反するかもしれませんし、無意味になってくるおそれがあるわけでございます。そういう観点からいたしまして、この七十六条三項の職権行使の中にいわゆる裁判以外の裁判所司法行政、わけて裁判官人事行政が入るとお考えになるかどうか、まずその点をお尋ねいたします。
  92. 高柳信一

    高柳参考人 この七十六条三項の規定はちょっと妙なところがあるのですが、英文では「職権」はどの単語に当たるかを見ましても、それに該当するものはございません。つまり、すべての裁判官は彼らの良心のエクササイズにおいて独立でなければならないというふうにいっているわけでございます。別に英文がどうだこうだというわけではございませんが、日本憲法のこの条文を見る場合に多少そのことを考慮に置いて見ますと、ここでの重要なことは、裁判官自分良心以外、あるいは憲法法律及び自分良心以外の何ものにも拘束されないで裁判官としての職務を行なうということだと思います。したがって、いま御質問がありましたとおり、裁判を主に考えているということは疑いないわけです。  司法行政が入るかということですが、憲法規定の仕組みとしては、何よりも裁判官裁判をするにあたって憲法法律自分良心以外何ものにも拘束されない、これを第一に掲げ、それがその他の点においてもくずされないように七十七条で最高裁判所に規則制定権を与えるし、七十八条で裁判官の身分保証、それから八十条では下級裁判所裁判官の実質的な任命権、つまり名簿登載権等、いわゆる実質的な意味における行政に当たるものも司法の独立保障するためにさらに裁判所に与えているということだろうと思います。したがって、純粋な意味での裁判以外の職責も、裁判所及び裁判官としては憲法趣旨、つまり司法の独立をよりよく保障するという見地から行使すべきものだということになると思います。
  93. 和田英夫

    和田参考人 お答え申し上げます。  ただいまの岡沢さんの質問ですが、従来の憲法学ではおそらく職権独立という場合は普通具体的な訴訟案件その他を審理、判決する、いわば法廷の場における裁判官の姿を頭に置いて司法権独立というものをそういう意味職権独立という形で理解されているんじゃないかと思うのです。ただ、これが司法行政に入るかというと、文字解釈からしますと、司法行政の場合に良心に従ってということはどうでしょうかと私は思うのです。これはそういう意味でいうと、あくまでも判決を形成する場におけるあるいは判決を形成するに関連する限りにおいての裁判官職務活動だというふうに私は思います。で、司法行政そのものになりますと、むしろその点については憲法よりも先ほど申し上げた裁判所法八十条あるいは八十一条があるわけで、この八十条あるいは八十一条の解釈そのものの前提にはむろん司法権独立という憲法の基本的原則を踏まえていると思うのです。したがって、いまの七十六条第三項の中から直ちに「職権」の中に司法行政がすっぱりとはまるとは私は考えておりません。
  94. 岡沢完治

    ○岡沢委員 もう少し議論をしたいところですが、この点は時間の関係で省かしていただきまして、いわゆる再任につきまして高柳参考人のほうは自動承認が原則であるべきだし、それに近い運営でなければならない、そうでなければ違憲のおそれすらあるという御発言がございました。和田参考人のほうは、大体いまの最高裁判所の処置、考え方を筋論としては認めざるを得ないという御発言でございました。かなり大きな食い違いがあるわけでございます。先ほど再任の問題につきましてプリビリッジの解釈を私、田上参考人にお聞きいたしました。このとき御答弁がなかったわけでございますが、いわゆる特権、再任の権利と解すべきか、いわゆる定年の場合には再任はあり得ないけれども、十年の任期の場合は新しく再任もあり得るという程度のものなのか。これは英文をそう重要視する必要はありませんが、文字解釈からすれば和田教授のような御見解も出てくると思いますし、この憲法制定の過程、特に法曹一元が現実に日本においては実現化されてないキャリアシステムの現状からした場合、高柳参考人のような意見も十分考えられると思います。先ほど私ちょっと指摘いたしました、十年の任期の場合の退職金のそれに相当するような手当がない実情等も参考に入れながら、この点についての両先生の見解が違うわけなんで、特に高柳先生の見解を聞きたいと思います。
  95. 高柳信一

    高柳参考人 ライトと区別して特にプリビリッジという場合には、権利にまでは至らぬものをさす場合が多いのですが、しかし、アメリカ憲法裁判所違憲審査権の対象として、国民のライト、プリビリッジが害された場合にはそれに対して違憲審査を求める。ちょっと補いますと、政府違憲な行為によって国民のライト、プリビリッジその他が害された場合には国民違憲判断を求め得る、こういう場合にはライトとプリビリッジというのはそう区別されないで用いられる場合も多いと思います。再任に関する規定に関して、英文のところではウィズ・ア・プリビリッジ・オブ・アポイントメントとなっているということは、したがって、どういう状況で何が問題なのかということと離れてはプリビリッジの内容を確定することはできないと思います。英米法でもライトとプリビリッジを区別した場合、初めのころのアメリカ憲法判例では、ライトを奪うにはデュープロセス、つまり適正な法の手続が必要である。しかし、プリビリッジを奪う場合には公正手続は必要がないという判決があったことがあります。しかし、その後こういう考え方は判例自身が改められまして、プリビリッジを奪う場合にもデュープロセスが必要であるというふうに判例は固まってきております。ですから、ライトと区別されたプリビリッジというだけで再任を拒否して、何ら法的救済がないということにはならない。つまり、そういう見地から考えると、ライトとプリビリッジはそれほど違いがないというふうに考えられます。  しかし、私が強調したいのは、かりにライトと区別して再任のプリビリッジということでこの憲法が定めたとすれば、それは前提がある。つまり、法曹一元ということを前提にしたからそうなるのであって、その前提自身が実現されないという場合、一つ考え方は前提である法曹一元を実現すべきだという方向に持っていくことでありますが、もう一つのといいますか、それと並びますが、もう一つ考え方は、そういう法曹一元を前提にしてできた規定がキャリアシステムのもとで文字どおりに運用されたら違憲の結果が生ずるということであります。多少補いますと、和田教授も再任というのは許可の更新に近いということを申されましたが、現在最高裁におられます田中裁判官も、行政法の講義ではそういうふうに講義をしておられまして、これは行政法の問題ですが、かりに初めの許可が自由裁量であるとしても、更新しないということは当然に自由裁量とはいえない。つまり権利、利益を与える行為は自由裁量行為だということで、積極的に与えるべき理由がなければノーということはあり得ても、一度与えた許可に基づいて資本が投下され事業が行なわれていて許可の更新が申請された場合、最初の許可が自由裁量だから許可の更新も自由裁量だということにはならない。今度は逆に、許可を更新しない積極的理由がなければ許可の更新を拒否できないのだ、こういうふうに当時の田中教授は講義をしておられました。裁判官の再任についても同様になると思います。実際の扱い方としても、最高裁事務当局がこの国会で答弁しておられるように扱っていない。つまり新任も再任も全く同じである、自由裁量だというのですが、実際問題としてそうは扱われていないわけで、再任の申請があれば、裁判官会議にかけないということはできない、また答えないということもできない。その再任を請求した人について、再任するかどうかを最高裁の裁判官会議で審議して、そうして理由があって初めて再任を拒否できるというのが実際のやり方でありますし、憲法法律上当然そうなると思います。理由はない、しかしいま一ばいだから採らない、こういうことはできないので、再任の請求があれば、積極的な理由がなければ再任するというのが、再任権の行使の正しいあり方であり、実際にもそう行なわれていると思います。そして現に再任を申請して再任しなかった裁判官に対しては一応の答えがいっているわけです。どういう文面かよく知りませんけれども、要するに内容的にいえば、残念だけれどもあなたは再任しないということを伝えているわけです。これはやはり普通の行政行為を求める場合と同じであって、申請して法の要件に合わないからお断わりするということですから、一つの処分であります。その処分が間違っていれば裁判的保護を受けるということは当然だと私は思うのであります。単に訴訟手続上そうであるだけでなくて、実体論からいっても、かりに十年ごとに全く自由裁量で再任の拒否がきめられる。イエスかノーかがきめられるということになれば、そしてキャリアシステムのもとでは、ほんとうに公正な裁判というものは保障されない。これは歴史的に見てまた比較法的に見て、各国の憲法現実の経験からいってだれでもそう考えざるを得ないのではないか。そういう意味で、一定の前提のもとで初めてこの規定があるので、その法曹一元という前提を実現しないで、キャリアシステムのもとで法と違う単純なプリビリッジということで、自由裁量的に再任を拒否すれば、それは裁判官独立も公正な裁判もあり得ないという意味で、違憲であるといわざるを得ないと思います。
  96. 岡沢完治

    ○岡沢委員 まだ質問したい点もございますが、時間の関係で打ち切らしていただきます。
  97. 高橋英吉

  98. 青柳盛雄

    青柳委員 憲法十四条の問題で、先ほど田上先生にもちょっとお尋ねしたのですが、思想、信条によって差別をされないというのは、これは国民基本的人権、だれも疑うところはないわけです。これは裁判官には例外であるということをだれも認めない。そこで実は、裁判官が青法協であるとかあるいは偏向判決をするとかいうようないろいろな理由によって差別をされる、また現実にそういうことが起こってきた、これがいま世論で非常に重大視されているわけです。そこへもってきて、司法権独立とかあるいは裁判独立とかいう概念がからんでくる。そうすると、司法の独立があるから、どのような差別待遇が行なわれても、これは国政の上では審議しちゃいかぬ。世論がこれを取り上げることは、これまで防ぐことはできない。だから、集会を持って決議をして、そしていろいろに意思表示をする、あるいはマスコミがこれを報道する、評論をする、学者その他がいろいろの議論をする、これは禁止できないわけですね。当然のことだと思う。ところが、国会はこれについてはタブーである、それは司法権独立を侵すことになる、こういう議論が俗論として横行をいたしております。これでは最高の国家機関であるところの国会が、こういう重大な問題、憲法十四条違反が国の政治の中で――最高裁の人事行政といえどもこれは政治であることは間違いない、国政であることは間違いない。国政の中で横行している、それが全然調査対象になり得ないんだという、こういうもっともらしい議論司法権独立の名において行なわれる。何のことはない、司法権独立を守るんだといえば、いや、それを守るためであっても司法権独立を侵すことにつながるからやめておけと、こういう議論になる。だから、司法権独立というようなあいまいな概念ですね、私はむしろこれは裁判行使独立、要するに裁判はいかなるものからも権力によって干渉を受けないで、良心法律に従って行なわれる、これが憲法保障するところであり、民主主義の原則である。それに尽きるのであって、それにつながるから司法人事については最高裁判所にまかせておけ、あるいは、内閣にまかせておけ、こういう議論ですね。先ほど田上教授のお話では、新しく最高裁判所裁判官をきめるにあたって、あらかじめ事前に国会調査するというんなら干渉にならぬかもしらぬけれども、一たん発令してしまってから何かそれについて言うこと自体も問題なんだ。だから、もしそういう人事の選択に誤りがあるんなら、国民がこれを審査するであろう。政府責任や何かは選挙で問われると思います、それから最高裁の裁判官がやったことについては、十年ごとあるいは次の総選挙の際に審査を受けます。しかしながら、人事については少数意見も多数意見もないんですよ。人事は秘密ですから、公開されてないんです。裁判行為ならば、憲法違反のような少数意見を出した、これは国民としては、ふさわしい最高裁の裁判官と思わないからバッテンをつけるというようなことはあり得ても、今度の宮本裁判官を首にする、リストからはずすということで、一体バッテンをつけた男、それからマルをつけた男、これはだれだれであるかということは永久に秘密になっております。世の中ががらっと変わって権力形態でも変わってきたときには、極東裁判みたいになってわかってくるかもわかりませんけれども、それ以外にはわからない。それは審査のしようがないわけです。  だから、こういう審査のしようがないものに淡い期待を持つのではなくて、われわれは国民から選ばれた最高の国家機関にあるわけですから、国会でこういう問題が十分に審議される、これが六十二条によって保障されているんだ、こういうふうに理解をするわけでありますが、これについて、時間がありませんから、高柳教授和田教授にお尋ねをしたいと思います。
  99. 高柳信一

    高柳参考人 この問題は、少し外国の例などを見てみようと思うのですが、それがない。ということは本来こういう制度自体かなり特殊であるわけです。そして選挙制度であれば、これは国民が選ぶわけですから、国会調査権に基づいてその人事権を行使した者を呼び出して調査するということも起きない。そういうことで、国会調査権が大いに使われるアメリカの例でも、この裁判官に対する人事を含むところの司法行政権が国会調査権とどういう関係にあるのか、これはちょっと調べようがないわけであります。したがって、この問題をどう考えていくかということは、新しい問題としてお互いに意見を出し合って考えていくということで、将来の国会調査権の運用を形成していくよりほかないと思うのであります。  いまお話がありました点も、なるほどと思うこともあるのですが、他方、国会というのは多数支配の府でありまして、司法の独立との関係でいえば、裁判官に対する訴追、弾劾ということで、裁判官が独善であれば、国民の代表者、最高機関である国会の中の訴追委員会訴追をする。これはたてまえとしては全くそのとおりなのですが、実際にはどうかといいますと、どうも書簡等で司法権独立をゆるがした人は全く何でもない。被害者で、司法権独立を守ろうとした人が罷免事由に当たる、しかし訴追はかんべんしてやるという、こういう結果になる。これを考えますと、最高機関である国会が多数決原理で行なう権限行使に対して、裁判所の行為といえども司法行政であって、裁判そのものでなければ当然にその調査権の対象になるというふうに、なかなかそういうふうに考えていこうという気に私はなれないわけであります。つまり、違憲判断を何度かして比較的有名になっている裁判官が再任されたというので、それを名簿に載せた最高裁当局がここに呼び出されて、その理由を言えというようなことになると、これは相当問題ではないか。  それで私は、最高裁判所国民によって負託された、あるいは国民の公正裁判保障するために負託された権限行使を正しく行使しない場合、国民として大いにその点を批判し、憲法の正しい姿に戻るように道義的な影響力を最大限に使うべきであると思います。しかし、権限によってそれをなされるという場合には、やはり多数決原理というものを常に考えなければならない。国会調査するという場合、やはり絶大な国会調査権によって行なうわけでありますから、裁判独立、公正あるいは司法権独立の重要な内容をなす裁判官の身分保障、つまり、身分にかかわる司法行政権の行使をそう簡単に国政調査権の対象にしてしまっていいのであろうかということに危惧を感ずるわけであります。  先ほど申しましたとおり、この点は憲法学上あるいは比較憲法学上きまった答えのあることではありませんで、諸外国ではほとんど起こり得ない問題がわが国の憲法の特殊性から問題になるわけでございますから、いろいろな考えることを慎重に考えながら、国会調査権の対象を考えていく必要があろうかと思います。
  100. 和田英夫

    和田参考人 先ほど来申し上げたことにかなり関係しますので、簡単に申し上げます。  私も若干の比較憲法を見たんですが、アメリカでは御承知のとおり、上院の二分の一の承認で連邦最高裁判所裁判官がきまるわけです。したがって、そこでそれこそ徹底的に聴聞するわけです。現にヘインズワースとカーズウイルが何票かの差で承認を得られないで結局最高裁判所裁判官に任命されなかったわけです。かように上院の場でアメリカで徹底的にやるということで、国民民主政治意味がそこで司法人事についてははっきり貫かれているわけなんです。日本の場合には事情が違いますので、その点の比較、憲法的な事例は参考にならぬわけです。  したがって、私はやはり司法権の問題というのは、これは決して聖域だとは申し上げませんが、国民のもとにあるべき司法権ということを前提にして、そうしてやはり個々的な事案について個々的な人間について個々的なケースについてはできないのではないか。しかし、一般的に近時における司法行政のあり方はどうかということについては、これはとことんまで論議していただきたいと思うわけであります。その点が私の申し上げる点であります。  なお、司法の独善については、私先ほどから申し上げたとおりであって、ラートブルフにしろパウンド教授にしろ、国民の信頼を得られないような裁判所国民主権下の裁判所としてはもはや失格である――失格であるとはラートブルフは言っておりませんが、きわめて憂うべき問題である。したがって、その点からして最高裁判所が従来固持しておるかたくなな姿勢を、国民裁判所にならんがために私はこの際大いに胸襟を開いてもらいたい。その点からしますと、われわれは裁判所についていろいろなことを議論して、また若干専門の雑誌に私は書いておりますけれども、それは最高裁判所を粉砕せんがためじゃございません。むしろ最高裁判所国民の負託に真にこたえ得るようなよりよき裁判所になってもらいたいということで、私なんかは書いているわけです。それを単に誹謗とかあるいはためにする中傷というふうに思われては私はなはだ心外でありまして、しっかりやってもらいたい、国民裁判所になってもらいたいというそういう観点から裁判所に対して助言と忠告をしているつもりであります。
  101. 高橋英吉

    高橋委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人にはほんとうに申しわけのないほど長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。たいへん参考になりました。厚くお礼を申し上げます。  申すまでもなく、現日本憲法は、明治憲法より生じた軍国主義、軍閥の横暴の弊害除去に力を入れたものであり、それが第九条となり、また国務大臣は文民でなければならないとか、統帥権的なものを除去したと同様、裁判官の独善、化石を排するために十年制がたいした抵抗なしに受け入れられたものであり、当時は必ずしも法曹一元論のためではなかったということは、憲法制定委員の一人であった私のよく承知しておるところであります。各先生方ももちろんよく御承知のことと思いますが、なお一そう御検討、御究明くださいまして、今後もわれわれに対して有益なアドバイスをお願いいたします。重ねて厚くお礼申し上げます。  次回は来たる二十一日午前十時理事会、理事会散会後委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。    午後三時五分散会