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永田参考人 時間が
制限がありまして、かつ学会における報告ではございませんので、きわめて現実的な問題に限定しましてお話を進めていきたいと思っております。
最初に、まず
裁判の
独立という問題から
考えていきたいと思いますが、結局こまかい条文は省略しますが、
憲法、
法律に従い、それから
独立して自己の
良心という、その両面的な
裁判についての
独立の内容が出ておりまして、ただ、この
独立、
良心というのも決して
自分の
思想のみにとらわれるのではなくて、やはり
憲法、
法律に従う、その
憲法、
法律という問題について、私は一大前提を述べたいと思います。
それは、自由体制を擁護する、そういう根本的な解釈というものが
日本国
憲法のどこにも出ていないようでありますが、前文その他の全体の構成から見るとそういうことが予想される。ただし、ボン基本法のようにそういう反自由体制を十分
考えないというような
規定はございませんですが、そういうことは
考えられます
関係上、極端な軍国主義であるとかいろいろの破壊主義、そういうような議会主義をぶちこわすような自由というものは
日本の
憲法では
保障され得ないと私は
考えておるわけでございます。
それから、
田中耕太郎長官がもと言ったように、
裁判官が
立法、行政に介入しないほうがいいというのは適言でありまして、そうするとたとえば
国会、
内閣、
司法権というものが三者相互干渉し合って、そしてその間無用の混乱というものを引き起こすおそれがある、名言であろうと思います。
それから、有名な
浦和充子事件というようなものは、つまり
判決内容に対して
国会が
批判した、つまり学界としての理知的
批判でないような、あれは
人権の不十分な点を
批判した事件ですから、やはりあれは六十二条の
調査権では
行き過ぎであろうと思われます。当時の新聞を見ますと、なくなられた金森先生の
批判を見ますと、
裁判所の
判決と六十二条の
調査権とを
批判して、これを
国民に提示して
国民の比較検討を待つのがいいであろう、ああいう解釈は、ややおかしいのではないかと思います。もしも
反対に、四十一条の国権の
最高機関たる
地位を無視して、
司法権がやたらに
国会に干渉したらどうなるか、そういうことは妥当でない。そういうことから見て、もっともであろうと
考えております。
それから第二に、
司法行政というのが
司法権の
独立の裏づけだろうと思います。
まず、
裁判官の任命方法について、皆さん十分御
承知だと思うのでございますが、
裁判の
独立のためにきわめて必要であって、現在大体最高裁は
内閣、それから下級裁は簡単に言うと最高裁の
人事権によっているという
制度でございますが、必ずしも十分なりっぱな、これ以上ないという
制度ではございませんかもしれませんが、
責任内閣制のたてまえとすれば、これよりベターな方法はないと私は思っております。したがって、有名な大阪地裁吹田黙祷事件などについて、その不注意を戒めた最高裁の指示なんかは、きわめて適切な措置であろうと思います。つまり、
司法行政上やはり法廷の規律を保つ
法律が現在もありますし、その自律として最高裁が指示することは適当であろうと思われます。
それから、最高裁の従来の
司法行政上の自律、公正のあり方として、私は普通の
一般のジャーナリズムに反して、きわめて公正で厳格で信頼に足るものと信じております。と申しますのは、有名な平賀さんの左遷事件、それから飯守さんの
辞任事件もきわめてきびしい態度でございまして、りっぱなものだと思います。それに対して、たとえば福島
裁判官などの問題について、
辞任をされて辞表を出されて撤回されたような始末でございますが、普通の
一般職の公務員の場合の撤回についても
日本の最高裁の
判決はきわめて――
アメリカの
判決などと比べて、辞表撤回については甘い最高裁の
考えのようです。
裁判官の場合なども、福島さんの場合や、それから阪口さんや宮本
裁判官などが、御
承知のいろいろな問題について相当新聞紙上などに、あるいは新聞の報道等に十分な点があるかないか、私詳しいことは存じませんが、私など読んだところによると、最高裁の
司法行政をやや
批判しているような口吻などが見られるわけでございますが、そういうものをほとんど不問に付しておるような点などから見ても、何と申しますか、最高裁はきわめて公正なる態度を維持することに努力されている点は確かだろうと思います。
それから、司法
制度を自民党の司法
制度改革特別
委員会が
調査されたということは、これはきわめてけっこうなことであろうと思います。これもジャーナリズムなどでは若干
批判している面もあるようでございますが、与党として
制度を検討するために、医療
制度であろうと、
裁判制度であろうと、個々の
裁判干渉でなしに、
司法権の干渉でもないし、侵害でもない、そういう
意味で
制度を検討する上において、法案立案のために検討されることは、きわめて適切なる措置であると思います。
それに対して、四十四年四月二十四日、岸事務総長の発言において、そういうことに対して
反対の意向を述べられておりますが、これは
国会の干渉がオーバーラップすることを懸念する最高裁の
立場の反論でございまして、これまたきわめて最高裁としての正しい態度で、したがって
国会の――
国会と申すよりも、与党としての
制度の設置並びに最高裁としてのそれに対する反論ともども、それぞれの
立場でりっぱなものだと
考えております。
それから、宮本判事補の再任
要求ということが最近きわめて問題になっておりますが、これはやはり私は消極的なものと思います。と申しますのは、
裁判官の
地位というのは、
一般公務員のような労働者たる
地位ではありませんで、
アメリカなどでいうプリビリッジ、
アメリカでは
一般の公務員の
地位もプリビリッジ的な、特権的な
地位と
考えられておりますが、
日本の公務員法はそうではございませんが、
裁判官はやはり特権的な
地位であろうと思います。そして再任の
要求というのは、いわゆる法学上でいうところの反射的利益と申しまして、権利、利益として
裁判所に擁護さるべき利益ではないのではないかと思います。やはり
裁判官というのは、特殊の公正な役割りを果たす、そういう特別の
地位のあるものであろうと思います。そして再任されない事由として、何というのですか、よく理由を示さないという
批判があるようですが、事務総長の談話によると、青法協に加入していることのゆえだけではないという
程度のことが語られておりまして、事由を公表とは申しませんが、談話の形で述べておりますし、それ以上の公表の必要がないということは、いわゆる
人事の慣例並びに法的根拠もないということで、最高裁の態度は間違っていないと思います。ですから、宮本さんの
立場とすれば、これは出訴する、そういう場合に、これが反射的利益として全然はねられることは今日あまりないのではないか。というのは、行政事件訴訟法九条カッコ書きにおきまして、いわゆる再任を求める
判決は給付
判決といって、これはいまの訴訟法上無理かと思うのですが、ただ慣例的に再任ということがある
程度考えられるから、再任が慣例的な一種の
裁判所に擁護されるべき権利、利益、そういうふうに
裁判官が
考えられたならば、これが本案審理に入り得る可能性がある。そうすると、最高裁も再任しない事由というものをパブリック的に言う形になろうと思います。
それから阪口修習生事件も、修習生の
地位というものが期限的な一種の公務員の特別なものでございまして、たしか退職手当についての請求訴訟について消極的な
判決があったと思うのですが、ただ問題は、修習生の終了とは、単なる学科課程の終了ではなく、終了式の終わるまで、その公的活動までもやはり品位というものが
考えられまして、これも
法律というよりも、その施行規則によって修習生の罷免の、つまり裁量的な事由の中に、やはり品位とか、そういう面が入っておりますから、そういう面を裁量の逸脱があれば、いわゆる踰越というものがあれば、これが
裁判所の訴訟の対象になって救われる可能性がありますが、マイクを公式の席上で奪取するようなことは非礼、
原則にも反しないで、裁量の踰越が私はないと
考えております。
それから最高裁長官の
国会出席拒否も、これもきわめてりっぱな態度であろうと思われます。というのは、こういう個々的事件でございまして、
司法行政全体の、
裁判制度全体の大
原則の問題に触れるようなことならば最高裁長官も
出席するというようなこともあり得るかもしれませんが、こういう
程度の問題では
出席する必要がない。逆に最高裁がむやみやたらに衆議院議長や、それから総理大臣を最高裁に呼び出すなんということは、法的に根拠もなし、三権分立のたてまえ上そういうことは無理であろうと思います。
それから
裁判官のあり方として、石田発言ということが非常に問題になっておりまして、四十五年五月二日の極端な軍国主義、共産主義は好ましくないというような
考え方、それから四十五年六月二十九日の表現の自由ということよりも職業倫理を尊重せよということも私は賛成をしたいと思います。というのは、よく
思想と
判決とは別々に観念的に分けられるという
考え方もありますが、こういうことは実際上不可能であり、かつ、こういうことをする
裁判官があったら、あまりりっぱな
裁判官ではないのではないかと言いたいと思います。と申しますのは、青法協というものについて、たとえば研究団体説を唱える渡辺洋三
教授などは、そういうようなことを言われておりますが、しかし、何と申しますか、やはり自由主義体制ということについて十分賛成する
思想や
学問や自由、そういう形のどうも団体ではないし、また
学者も弁護士も
裁判官も、そういうことを
憲法上禁止されることは絶対にないと思うので、それで一応それなりに存在的な意義というものはあろうと思います。ただ問題は、佐々木議長の新聞記事かなんかによって――これも私、新聞で読んだだけでございますが、
学者や弁護士の方はデモのような具体的運動に参加するが、判事の方は具体的な運動に参加しない、ただ研究だけをなさるのだというようなことを申されていますが、これはちょっとおかしいと思うのです。つまり、
思想については青法協的な
思想を持たれて、それで研究会に参加されて、事
判決に至るや、
思想を一てきして、
憲法、
法律に従って中立、公正な
立場で
判決するということは、これは非常に不可能なことで、そこに意思の分裂があって、私はそういう
考え方にはとうてい賛成できない。もしも青法協の一員としての主張を貫くならば、そのイデオロギーにおいて徹底的に貫いて、イデオロギー本位の
判決をなさったほうが態度が一貫してよろしいと思うのです。ですから、そういう問題について、またそれがいろいろの問題が起きてきたならば、それはそれで解決したほうがいい。ですから、そういうふうに
思想がこれで、研究がこれで、
判決はまた別の角度だ、そういうような
考え方がやや見られるようですが、これは私はおかしいのではないかと思われます。
それから、青木英五郎さんという弁護士の方が、石田発言について、これをマッカーシズムだというようなことが毎日夕刊の四十五年六月十二日に出ておりますが、最近のマスコミの傾向が、平賀判事や飯守判事について極端な攻撃に出ているようなことが、むしろ逆マッカーシズムというと変ですが、そういうような傾向すらあろうかと私は思います。つまり、
アメリカなんかでも、加入団体の規律が
憲法や
法律より優先する団体に入会することは、
警察官などは失格するというような
判決例も、たしかあったように
考えられます。それから、特に忠誠については、
アメリカなんかは、一九五八年の忠誠法なんかについて、相当強く、いわゆる民主主義
政府を転覆する団体加入の公務員の失格などをいっておりますが、そういうことは
日本はもちろんございません。ただ、条文だけが公務員法や教育職員免許法にあるだけでございます。条文に、
裁判所法にないからといっても、
裁判官の場合などは、そういうことがより以上
要求されることもあろうと
考えられますが、これは別に法的根拠のあるものではございません。
それから、六十二条の問題でございますが、
訴追委員会委員長中村梅吉代議士の
委員長の名前で、青法協傘下の
裁判官を四十五年十月二十七日に
調査されたということについてジャーナリズムなどの相当の
批判がありますが、私は、この
調査は違法な点はないと思うわけでございます。と申しますのは、青法協の
裁判官個々のメンバーを
批判したり非難したりする問題ではないので、青法協というものが注目される団体であるから、それを研究するための審議の必要上の六十二条の目的に全くかなう
調査であろうと
考えられるのでありまして、
浦和充子事件のような個別的な
判決――あのとき、やや子供の殺し方がむごいとか、それから
人権侵害があるといったような問題とは全然違いまして、ただ、むしろ青法協の問題についてそれを秘密裏に
調査するような、そういういいかげんなものよりも、正々堂々と
訴追委員会で
調査された態度はりっぱなものであろうと敬服しております。
それから、
訴追委員会の結果として、平賀さんに対して不
訴追であって、福島さんに
訴追猶予をしたということは、
司法行政の
立場で、これは逆に平賀さんに重く福島さんに軽かったわけなんでございますが、それが逆だから云々というような記事が若干私見受けられるのですが、私は、この
司法行政の
立場と
訴追委員会の
立場が別々であるからこそむしろりっぱなものだと思うのです。つまり、何と申しますか、結局福島さんのいわゆる平賀書簡というものの――まあ、あれは私信といえば私信でございますが、
職務上の問題の私信で、いろいろなむずかしい問題があります。ここでは深く入りませんが、ああいうものの価値
判断のいかんで、六十二条の
国会の
訴追委員会の
考えと、
司法行政としての最高裁の
考え方の評価の相違がございまして、これこそ
立法権、
司法権独立の証拠であろうと思う次第でございます。
それに対して、潮見
教授が、
裁判官の問題について、これは全
裁判官について学術的な
意味において
調査をされたことがございますが、こういうことは、いわゆる
学問上、先生の研究上ぜひ必要なことかもわかりませんが、私は、これから申し上げるように、松川事件的なああいう集団大衆運動の
批判にあまり賛成しませんが、潮見先生のような、
学問的といえども
裁判官についてこういう
調査をするということはちょっと賛成しかねると思います。まして、松川事件のような集団的な大衆運動の
裁判批判というものは、よく
裁判や
司法行政の
批判だといいますが、むしろ検察官や
警察に対する
一つの牽制になるようなことでございまして、ああいうような
反対は法的意義もありませんし、
田中耕太郎長官が雑音視せよと言いましたけれども、雑音以上の弊害があろうと
考えられます。
それから石田さんの
訴追事件について四十五年七月四日にございますが、そのうちの
訴追委員会の
訴追名簿のメンバーに
法律家がわずか、大体五人ぐらいしかいないのでありまして、こういうようなことは、何も
法律家だけが
訴追要求という――これは全くプライベートなことでございますが、そういうような外部からの
批判に対して、六十二条としての
国会の
制度的
批判というものはきわめて適切であろうと思います。
それから最後に、相当数の
学者が
裁判官に対して、ある
政治的、積極的役割りを望む、そういう現象が今日見られている次第でございまして、たとえば、「法学セミナー」の「司法の危機」とか、その他の「世界」などにそういう論文が出ております。たとえば、小林直樹
教授が、
裁判官というものの中立の欺瞞性というようなことを述べられております。たとえば、「中立は上からの
司法行政上の圧迫を伴う特殊
政治化、恣意
要求そのものとし、
政治的中立とは、
政治的イデオロギー的に使用され、欺瞞的な
政治的中立を
裁判官は押しつけられる。」たとえば、
高柳信一教授は、「人民の現在を乗り越え、よりよき社会創造的の動態こそ、
憲法の期待する
デモクラシーであり、
憲法訴訟の
裁判は、価値の選択を避けることができない。
憲法訴訟の
政治的中立は神話である。」というような発表をされております。それから、芦部東大
教授は、最高裁は純司法機能に閉じ込まずに一定の政策決定の形成者としての役割りを果たすべき積極的な姿勢が必要である。それから、阿部照哉京大
教授も同じような
趣旨を述べられております。
と申しますのは、やはり
裁判官は、むしろ従来の伝統的な
考えとして、パッスィブな
立場に立って訴訟要件を具備したものを
憲法、
法律その他に照らして
裁判をする、そういう域にとどまって、それ以上のある種の
要求を
司法権のにない手である
裁判官に期待することがきわめて無理であるということが第一と、それから
日本というのは、いわゆる英米独仏と極端に違うことは、
政治的イデオロギーがきわめて激烈な対立の激しい社会でありまして、こういうことは、もう
日本の場合、よそと比較のできないくらいむずかしい問題があります。ですから、よく偏向
裁判というようなことは、両陣営とも――両陣営というように
日本の場合ははっきり言えるくらい
思想的対立が激しいと思うのですが、あまり言いたくはないのですけれども、たとえば、羽田空港ロビー事件の東京地裁の
判決などは、無届け集会について同志が激励し合う会合だといい、それから、デモをやったかやらないか私もよく存じませんが、たとえば場所の移動であるというような
判決があるのでございますが、こういうようなことまでがちょっと問題だろうと思うのです。ですから、そういうような点は、やはり中立な
裁判ということについて
日本ではなかなかむずかしくて、そして再任問題などもなかなかむずかしい問題があろうと思います。
ちょうど時間でございますから、これでやめたいと思います。(拍手)