○堀委員 実はいまの
お話の点は、私、ちょっと必ずしも設例が適切でないような気がするのです。それは、いまおっしゃるいなかの村の学校の話のようですが、都市はなかなかそうはいかないのです。いま幾らでも学校を次々に必要としているわけでしてね。ですから、地方とか国とかいう問題じゃなくて、そこは何が問題になっているかといいますと、成長しておるところと成長していないところの問題だろうと思うのですね。国全体としては成長している、しかしその中には、いまの地方全体の問題を
考えますと、国の
水準よりもはるかに成長している地域と、逆に全然成長しないところがあって、成長しないところの
一つの設例の中で、一ぺん学校を建てたらという話では、ちょっと私はその話では必ずしも論理的な設例のような気がしないのですよ。私がいま申し上げておることは、要するに、たとえば鉄の使用量の問題を取り上げましても、大体
国民一人当たり五百キログラムですか、くらいになると、
年間消費量がそこへくると、大体少しカーブになる、こういわれているわけですね。何によるかといえば、結局すでにいろいろな都市がかなり完備してきて、再投資というものが当然あるにしても、それはだんだん減ってこなければならぬ。
私は、道路の問題
一つを取り上げましても、いまのようなかっこうの政策がそのままに放置されておればどういうことになるかといいますと、幾ら道路をつくっても私は実は追っつかないと思うのですよ。だからそこらには政策の転換が当然必要になってくる。この前もある大学の先生から聞いたのですけれども、ニューヨークの都市学の皆さんがいろいろ検討して、ニューヨークで一体どれだけの道路面積ができればニューヨークの自動車事情というものが問題がなくなるかといったら、ニューヨークの八〇%くらいを道路にしたら問題はなくなるというのですが、それじゃ道路ばかりになってニューヨークはなくなってしまう。そういうようなことが今後、いまの発想のままでは残ってくるのじゃないか。やはり全体としての効率化の問題というのを財政の上でも
考えなければなりませんから、いま大臣がおっしゃるように、そう無限に私は社会資本の投資が続くとも思っていないのです。やはり下水道なら下水道がある
程度完備すれば、その先はやはり非常にスローになる。
ですから、地方自治体の問題を例に引いてたいへん恐縮ですけれども、たとえばいま私が住んでおります尼崎という町では、いま人口がどんどんふえるために非常に投資財源を必要とするわけですね。しかしその人口というのは、ある
一定の面積に一ぱいになる時期というのは必ずあるわけですね。ちょうど私どもの周辺では芦屋市というのがすでに一ぱいになっているわけですね。人口はふえない。しかしいま少しずつふえているのはどうしてかというと、高層化によってふえているのです。使用できる面積は全部人間が住んでおるとなると、そこにおける、市における社会投資というのは大体それで満度になってくる。こうなってくるわけですから、そういう
意味では、現在
日本の成長問題というようなものも、ある段階までになってくれば、いろいろな社会資本というものが、その範囲に見合ったかっこうで安定してくる時期は必ず来る。いま大臣がおっしゃるように無限にそういうものがふえてくるとは私は思わないのです。
そうすると、いまの成長が非常に高い時期、この非常に成長が高い時期に−私は七〇年代一〇%、大臣もおっしゃっていますけれども、七〇年代一〇%ではとてもいけないと思う。先はだんだんスローになるだろうと思います。だんだんスローになるにつれて、要するにいまのその他の問題もスローにならざるを得ないという時期が来るわけですから、そのときに、いまうんと成長している、要するにその成長している時期の者だけが負担するということじゃなくて、前後の
関係の問題として
考えるということが、いまおっしゃった国と地方とは違うという点の設例では、必ずしも私は論理的でないという感じがいたします。第一点。
第二点は、渡辺さんが参議院でおっしゃったことも、日銀引き受け国債になっているところに問題があるわけでございまして、これはもう私も全く同感なんです。
日本銀行が一年たったら国債を引き受けるという発想は、これは一年前も、昨年の予算
委員会で
佐藤経企庁長官の発言を引いて議論したわけですけれども、
佐藤さんがここにいらっしゃる坊先生がやっていらっしゃる財経詳報に、
経済企画庁長官になってさっそく記者対談をしておられるわけで、日銀引き受け国債だと、はっきり経企画庁長官は言っておられるのです。これはよくないわけです。そこで
佐藤さんも言っておられるように、やはり金利が適正な
基準になるべきだと言われる点は私も同感なんで、金利がもし
国民の納得して買える金利になっておれば
国民が買うのであって、長期国債というものは本来やはり
国民が買うべきではないか、買えるような金利にすべきだ、こう私は
考えておるわけです。そうすれば、いまおっしゃるような通貨対策上の問題というようなものはなくなるわけで、
国民の貯蓄で国債が買われる、こうなってくると思いますね。
国民の貯蓄で国債を
国民が多数に持ってきたときに、その次の状態がどういうことになるかというと、今度は
国民が、しかしそうだからといって長期国債をじっと持っておられないと思います。必要があれば売りたいと思います。そこで売り買いの行なわれることが、新しい
一つの国債の市場というものが
日本にできる道になってくるのじゃないだろうか。そのことは、いま電電債、御承知のように非常に広い範囲に持っておりますから、
日本の債券の中でほんとうにオープンマーケットを持っておるのは電電債だけです。そうすれば国債が
国民に適正に買われるわけで
——めちゃくちゃに発行しろということを言っておるわけではありません。適正な限度が必要でありますが、少しそういうものをも併用しながら問題の処理をしていくことが、私は今後の財政
需要を
考える場合に、これは今日の世代の
国民の理解、納得を得ることになるのじゃないだろうか、こういうふうに思っておるわけです。
ですからそのことは、いま申し上げたような金融サイドの問題として、マーケットオペレーションの中から
日本銀行がそれを買ったり売ったりするというなら、これは私は非常にフェアな問題だと思うのですが、いまのような相対のかっこうで都市銀行から国債を引き取っておるというかっこうというのは、これは私は金融政策上必ずしもフェアな道とは思っていないわけであります。ですからそういう
意味では、後段でおっしゃった国債の引き受けの形が物価、通貨問題にかかわるという問題は国債の金利のきめ方によってきまるのであって、それは単純に現在のようなシンジケートに押しつけるような国債の発行のあり方、そういう発想に立つ限り、これは大臣、問題があると思うのですね。やはり
国民が喜んで買う国債を発行ずるという前提に立つならば、私はいまの物価、通貨対策の問題は解消できるのだ、こうなると思うのですが、二点とも私、大臣とたいへん
考えが違うのですが、私の
考えと大臣の
考えの中に、どこに問題があるのか、ちょっともう一ぺん
お答えをいただきたいと思います。