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弘法参考人 本日、本
委員会に
参考人として
出席するようにとの要請によりまして出てまいったのでありますけれ
ども、何ぶんこの依頼を受けましたのは昨日でありましたので、何らの準備をするいとまもなかったのは遺憾に思う次第でございます。また私個人としましては、
公害問題についてはこれまで専門的にこれを
研究してまいったものでもございませんので、このような公式の席に出て
意見を述べることがはたして適当であるかどうかについて逡巡したのでありますけれ
ども、長年
研究生活を続けてまいったものといたしまして、このような機会に、日ごろ考えていることか申し述べることは、
土壌学を専攻する一学徒といたしましての義務であると存じまして
出席した次第であります。
そこで私は個別的なことについて述べることは避けまして、概念的な点について申し述べたいと思います。
言うまでもなく、
農耕地は
農作物の生育する立地といたしまして、
国民の
生活をささえる基盤でございます。その
意味において、
農耕地は
農民の
所有地であるとともに、国の貴重なる
土地資源でもございます。しかもこの
農耕地は、一朝一夕にできたものではなく、長い過去の年月にわたっての
農民の
労働が注ぎ込まれた結果でき上がったものでありまして、言いかえますならば、単なる
土地と区別すべき生きた具体的な
人間労働の
生産物であるというべきでございましょう。
ところで、現在われわれの目の前に存在する
土壌は、
自己同一のものではなく、ところによって千差万別でございます。もちろんこのような相違をもたらしたのは自然の
働きでありまして、決して
人間の力であるというのではありませんけれ
ども、
土壌学の書物では
土壌生成のマクロの
要因といたしまして、
土壌の材料、つまり岩石の
風化生産物ですが、それから
気候、地形、植生、つまり自然にはえている
植物へそういったものの
自然的要因のほかに、必ず
人間の関与、つまり
ヒューマンファクターというものを併記しているのであります。このことは、自然の営力を強く反映している
土壌でも、
人間の
働きが関与すれば、そうでないものに比べていつの間にか異なった
性質のものに変わっていくということを教えているのであります。したがいまして、ひとしく
植物がはえている
土地でありましても、
自然土壌と
農耕地土壌とは内容的に区別さるべきであると申せます。
わが国のような
湿潤気候条件下に推移した
土壌では、ある種の重要な
成分が失われておりまして、これを開墾して
作物を植えた場合に、初期には満足な収穫が得られないのが普通でありまして、現在の進んだ
農耕技術をもっていたしましても、熟畑として
土壌が安定するには数年を要することは、戦後の開拓に従事した
人々のひとしく経験したところでございます。ましてや
農耕技術が未発達で、
土壌改良資材のなかった昔の
農民が
農耕地を造成していった苦労はどんなであったろうかと考えますと、気が遠くなるほどでございます。
わが国の
農耕地は、古くは
荘園時代、下っては
徳川時代に著しく広げられたそうでありまして、そのことは本庄とか、新庄とかいった地名、あるいは何々新田といった
部落名として残されておりますが、一部は
弥生時代以来、二千年にも及ぶわれわれの祖先の汗の結晶ともいうべきところもあるはずであります。このように考えてまいりますと、
農耕地は単に
農民の
所有地であるばかりでなく、
農業に従事するといなとにかかわらず、ひとしく
国民の貴重な財産であるといっても過言ではないと存じます。
このような
歴史的生産物であるところの
農耕地土壌も、絶えず地力の維持に心がけていませんと、たちまちに悪変することがあります。その簡単な例は
土壌の
酸性化であります。
土壌の
酸性は
石灰を投入することによって容易に矯正できますが、
土壌の内包する諸
性質は互いに相関連しつつ調和を保っているのでありまして、
土壌が強
酸性になりますと、
土壌中で重要な
働きをしている粘土の
性質が悪変いたします。
土壌の
酸性反応そのものは
石灰によって容易に矯正できるといたしましても、一
たん悪変した粘土をもとに戻すのはきわめて困難であるというよりもむしろ不可能であるといってもよいくらいであります。
一般的に申しまして、
土壌を棄損することは容易でありますが、一
たん棄損された
土壌を完全にもとに戻すことはきわめて困難であるということになります。
もう
一つの見近な例といたしまして、老朽化
水田があります。いわゆる水稲の秋落ちはこの種の
水田に発生する現象であります。老朽化
水田には
土壌の
種類によってなりやすい
土壌となりにくい
土壌がございます。たとえば花崗岩とか石英斑岩といった珪長質の岩石に由来した
土壌は老朽化しやすく、安山岩や玄武岩のような苦鉄質の岩石に由来した
土壌は老朽化しにくいということが知られております。ところが元来老朽化しにくい
土壌でも、硫黄鉱山から流れ出す硫酸を含んだ川の水を知らず知らずにかんがいしておりますと、いつの間にか強度の老朽化
水田になっていたという例は少なくありません。これは人為的に
土壌を棄損した一例であります。
終戦直後、老朽化
水田は三十万町歩ぐらいありましたが、耕土培養法の施行に伴い、
土壌改良資材が補助されたことが契機となりまして、現在はほとんど改良され、それが水稲の増収に少なからず貢献したことは事実でありますが、そのためにはばく大な労力と
国民の税金が消費していたことを銘記すべきでありましょう。
それにしても、以上の例は、
土壌を構成している
成分が溶脱した結果、言いかえますと、溶けて失われた結果発生したもので、よしんば
土壌が破壊され、
作物の
収量が減退いたしましても、そこにできた
作物は
人間の健康を害するようなことはありませんので、またがまんはできますが、最近問題になっている
カドミウムのように
土壌の構
成分でなく、しかも
作物に吸収されて
人間の健康に悲惨な障害を与えるような物質が
土壌に混入いたすようなことになりますと、問題はおのずから別になります。
現在、経済成長が謳歌されている反面、
農耕地土壌の
汚染が進行しつつあります。その中でも特に問題とすべきは
重金属類であります。なるほど、これらの物質が多少
土壌に混入いたしましても、これまで申し述べてまいりましたような
意味での
土壌の破壊には直接結びつかないでありましょう。しかし、
重金属類が
土壌に混入いたしますと、長く
土壌中にとどまり、その間
人間の健康をそこなう
農産物の生産の原因となったり、そうでなくても、
農作物の生育を著しく阻害する原因となることによって、いわば
農耕地の
土壌を半身不随の状況に押し込むことになります。つまり、国の重要な
土地資源としての
農耕地、
農業労働の
集積物としての
農耕地をみすみす廃棄するにひとしいことになりますので、
土壌学を専攻する一学徒の立場から申しますならば、まず第一にこのような物質が
土壌に混入するようなことのないような方策を講じていただきたいということ。次に、すでに
汚染してしまっている
土壌ないしは
汚染の危険性のある
土壌は、こういう場合にはやむを得ませんから、すみやかにこれを
調査しまして、
農作物に対する
影響を把握し、
早期に復旧
対策を講ずる施策を進めていくべきであろうと存じます。
なお、一言つけ加えさせていただきたいことは、米の中の
カドミウムの量と土の中の
カドミウムの量との間には一義的な相関がないから、米だけ
分析して判断すればよいと考える
意見があるようでございますが、この点は、先ほ
ども黒川参考人が触れられたことでありますが、これは現象形態にとらわれた考え方と思われますし、
土壌には、
カドミウムが
作物に吸収されやすい形で存在する
土壌と、比較的吸収されにくい形で存在する
土壌とがあることを無視してはならないと存じます。そして、この後者の
土壌の場合、吸収されにくい形で存在するような
土壌では、これは一面
カドミウムが多量に
集積することを
意味しておりまして、それがいずれは
作物に移行する危険性があるのでありまして、その
意味からしましても
土壌の
調査は欠くべからざるものと考えます。
終わりに、最近米の収穫量が向上して、作付を制限するような
時代になってまいりますと、終戦直後のあの食糧不足の
時代と打って変わりまして、えてして
農耕地を軽く見る傾向になりがちでございますが、
国民の
生活の基盤としての
土壌を悪変させず、これを保全していくということに、この際一そうの関心を向けていただくことをお願いしたいと思います。
これで私の公述を終わります。ありがとうございました。(
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