○上田哲君 どうもよくわからないのですけれ
どもね。私はかなり協力的にといいましょうか、好意的にといいましょうか、これじゃなかなか意気込んでやったがあがらぬ法制でもあるだろう、その上に乗った
行政の苦しさもあるだろうということを申し上げたわけですよ。その辺を、時間がありませんから、もうはしょって結論に入るのですが、やはり私は
現行法規を若干少しずついじっていくことが、同じことを何べんも言うようですが、港則法のような思いもかけないような
法律が出てきて、まあわれわれからすればですよ。何か決して無理じいに法適用をはかったなどとは言いませんけれ
ども、やはりまっこうみじんな法規制を主張するのじゃありませんけれ
ども、まっこうみじんな法理論といいましょうか、
行政基本理論といいましょうか、そういうものを踏まえた新しい
公害対策理論といいますか、そういうものがもう少し先取りする部分がなければならぬのじゃないかということを言いたいわけですよ。それはやはりもし法のジャンルに限るならば無過失
責任というところですね、
考えていかなければならないのじゃないか。これはひとつぜひ
大臣から、そういうカテゴリーでのひとつ展望というものを伺いたいと思っておるのですけれ
ども、たとえば
大臣が、先ほどの
足鹿委員の質問に対しても、
企業に
責任を持たせつつ、国が財政金融上の
努力もあわせていく、また
住民が一緒になって
努力することも必要であるというような御
答弁がありました。そうだろうと思うのです。そうして、
責任は
責任、
救済は
救済と分けて、とにかく
救済論に入っていくのだというふうな御
答弁もございました。ただ、私はこれはやはりだめだと思うのです。もう一歩進めていかなければいかぬのじゃないか。つまりそうなりますと、
公害というものをどれくらいまっこうからかまえて取り上げていくかという
姿勢になるのですけれ
ども、
公害ということばもはなはだ
考えてみればおかしなものになってくるのじゃないか。たとえば
公害なんという、たいへん公なんという名前がついたのは、
一つには、これは何かどっかで
企業、特に大
企業の
社会性というようなものがある種の害毒を流すことについての免責感覚というものをひとつかかえ込んでしまっているのじゃないか。あるいはやはり大
企業から流れ出るものであるために、あるいはそのために非常に大きな、個人なり一町内くらいでは手のつかないような大きな規模の、何というのでしょうか、
大気汚染なり
水質汚染なんという害毒であるために、そういうスケールの大きさなり、そうした要素から、何となくプライベートの感覚でなく、あるいは
企業というようなところにすぐ返っていくような感覚ではなくて、公というような、きわめて全
社会的な、みんなが
責任を少しずつ
負担しなければならないみたいな
感じの
公害ということばにもなってきたし、それがカッコに包まれて先に進んでいくようではいけないんではないか。まあ、たとえばその
救済は
救済、
責任は
責任ということは、それは当面の問題としては認めるんです。そしてまた、
厚生省がいままで
公害を担当していたというのは、せきが出たら何とかしようと、水が濁ったら何とかしようといういわばあと追い
行政ですから。そうじゃなくて、とにかく
発生源をつかんでいるところに重点を置いていこうという
行政の
姿勢というのは、その半分だけ前進であることを認めるのにやぶさかではない。しかし、やはり将来起こるべきといいましょうか、将来の都市設計とかあるいはその
産業未来図の構築というようなものの中で必然的に起こってくる
公害に対する
公害対策論というような、この場合
公害ということばは正しくないかもしれないけれ
ども、そういう問題としてはまだあと半歩足りないのじゃないか。そういうことで言うんならば、煙突であるか排気口であるか何だかわかりませんけれ
ども、たとえば組織の動くところ必ず税金がつくというような、そういう論理と同じように、何らかの害毒がどっかから出てくるならば、必ずそれについては
責任が出てくる。それが故意か過失かという刑法上の通常概念ではなくて、明らかに無過失
責任というところまでさかのぼるような、そういう体系というものがいま
考えられるべきときに来ているんじゃないか。だから、そういうことを
一つ踏まえていえば、
一つには、やはり
企業責任というのはこれは当然あるはずです。この
企業責任というのがやっぱり全部しょい切れるならば、
公害ということばが出ちゃったんでこれはどうしようもないだろうという
社会通念はあるんでしょうけれ
ども、他面
企業というものが全部しょい切れるならば、無過失
責任も
企業に持っていけばいい。事実それはできないということだろうということが、くどくどとは私も言いませんけれ
ども、
一つの実態
認識だろう。そうなってみれば、それが不可能な場合には、もはや国や地方公共団体というものが——たとえば四日市でいま五十億国へ入っている。これが四日市に返ってくるのは五億ですか、その程度だと、数字はちょっと違っているかもしれませんが、大体そういう大きさなんですが、そういうところを抜本的に一方では
考えながら、国なり地方公共団体というものが、
企業では負い切れない部分があるとすれば、その部分の無過失
責任も負っていくと、こういう実態的な
行政論、対策原理、そしてそれに基づく法体系というようなもの、これを、その故意、過失がはっきりすれば民法で賠償
責任をとるけれ
ども、それがなければだめだと、刑法ではそこまではいえないんだということでいくんじゃなくて、その辺のはっきりした法体系というものもそういうところから
考えられていいんじゃないか。
もう
一つの問題は、やっぱり
住民参加といいますかね、この部分をどれぐらい取り入れていくかということがやっぱり——大体大きな
公害が出るところはコンビナートみたいなところなんだから、大工業地帯なんだから、当然労働力の問題から
考えたって、それはいわば必須条件の
一つでもあるので、まさに
企業の側から
考えたって、
産業立地論のほうから
考えたって、
住民の意思というのはそういう意味でもっと積極的にくみ上げていくという
体制を、いまの二つのものと三つの問題として三本柱の原理というようなものの構築ができないかと、私はそういうふうに思うんです。
時間がないからゆっくり言っていられないが、ちょっとおもしろい例があるのですね。たまたまですけれ
ども、ことしの二月の九日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューンに出ているのでありますけれ
ども、キャンペーンGMというのがあるのですね。ゼネラル・モーターズに、ラルフ・ネーダー弁護士という人が
中心になって、GMの役員会に市民代表を送り込もうと。二十四人重役がいるそうですけれ
ども、そこにあと三人ふやせと、二十七人にして、そのうち三人は市民代表でどうだと。これは
日本とは全然違うので、各大学なんかがGMなんかにも大きな力を持っているわけだから、その辺へ市民的な要求、
世論をぶっつけながらその要求を
一つ一つ通していこうと。で、ネーダー氏なんかはGMのことをプライベート・ガバメントとあえて称しながら、そのプライベート・ガバメントに対して市民の参加、
公害というものを黙視し得ない市民がそういう意味で中に入っていく、こういう運動を起こしているわけですね。この辺のところは、先がどうなるかということは今後の問題としても、
公害についても悩んでいるアメリカでこういう運動が起きている。この辺をたとえば
一つの参考としながら、いまや
企業なりあるいは国や地方公共団体などだけの問題ではない。
住民参加というのはその場合どういうふうに
考えられていいかということは、
一つのパターンになると思うので、その辺かまえて、一体確かに
責任は
責任、
救済は
救済でもけっこうですから、そういう点では先ほど来
大臣がお答えになったような、
責任は
責任、
救済は
救済として
考えるという柱と、それから
企業と国と
住民の参加も求めていくんだという柱と、この二つが、こっちも大事だと思うけれ
ども、この問題として言うならば、いま原則をどうするかという、
救済の問題ちょっとしばらく話の外に置くとすれば、ほっとくことはできないけれ
ども、置くとすれば、いま申し上げたような三つの、私の私見ですけれ
ども、そうした方向をどういうふうにかなりロングレインジの立場でお
考えになるかをひと
つ伺いたいと思います。