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門司委員 私は、同僚各位の了承を得まして、忙しい時期でもございますし、あとの
会議の都合もあろうかと思いますので、ごく簡単に質問を終わりたいと思いますが、ひとつ当局も、あまり
発言を私のほうからしないで済むように、ごく簡単に、明確に御答弁を願いたいと思います。
お尋ねをいたしますことは、すでに再三のいままでの話し合いの中で十分御了承のことと思いますので、私、くどくは申し上げませんが、昭和三十九年の事故でございまして、これは厳格にいえば非常にむずかしいこともいろいろあろうかと思います。昭和三十九年の九月八日に米海軍のジェット機が神奈川県の大和市上草柳二百十七番地の四の館野正盛所有の鉄工所に墜落して、そして館野君の子供が三人と従業員が二人なくなりまして、工場がめちゃめちゃにされた事件のあったことは御
承知のとおりであります。この事件に関連して、その後の処置の問題についていろいろいきさつがございまして、今日までこの事件が完全に片づいておらない。きわめて遺憾な問題でございまして、単に個人の問題とはいいながら、発生後すでに六、七年にもなっていまだに事件が解決しないということは、私どもだけじゃなくて、
政府もやはり遺憾なことだとお
考えになっておると思いますが、そのことについてのごく簡単な御質問を申し上げたいと思います。
それで、質問をします要旨は、御
承知のように、その当時の損害の賠償についてでございます。損害の賠償についてここに当時の書類がございますが、この書類をずっと見てみましても、損害の賠償についてのいろいろないきさつがあるようでございます。工場がこわされてほとんど全壊いたしておりますので、営業のできないことは当然であります。ところが、賠償の対象としては、この営業補償というような
ものがほとんど賠償の対象になっておらない。そういう営業補償というような不確定
要素については、協議の際にほとんど問題にしていないというようなことが大体数字の上であらわれておるかと思いますし、また当時の状態がそうであったように聞いております。
それからもう
一つ大きな問題は、遺族補償につきましても、ホフマン方式につきましては、御
承知のように最高裁の判決等を見ましても、第三項を適用するようになっておるかと思いますが、これが当時は第二項の非常に価格の低い
もので算定されておることも事実であります。
こういう問題をずっと総合いたしてまいりますと、本人の当時の損害の請求額と賠償の決定額との間には、非常に大きな開きがございます。これらの問題をいまここで私は多かったとか少なかったとかいう議論をしようとは
考えておりません。この問題はとにかく曲がりなりにも一応解決を見た形を示しておりますので、これをいまさら追及しようとは
考えておりませんが、問題は実はここから発生しておるのでございまして、したがって経過を申し述べないわけにはまいらないのであります。
これから発生した問題としてはどういうことかといいますと、当時この土地は御
承知のように厚木の米海軍の飛行場に非常に近い距離でありました
関係から、工場の再建をしようと
考えましても、その距離の
関係においてここは不適当な土地であるという
政府側の断定で、この敷き地は全部国が買収をいたしております。そこで問題になってまいりますのは、鉄工所を続けていこうとすれば、おまえのここは不適格だからということで国が土地を買収してしまわれる。そうするとどうしても代替の土地を求めないわけにはまいりません。そこで当時の施設庁といたしましては、その代替の土地を見つけてあげるということが、一応口約束であったとかなかったとかいうような議論はあったようでございますが、しかし、されたことは私は事実だと思うのです。それを
裏づける証拠は、ここに神奈川県庁から出てまいりました書類が二、三ございます。これによっても私は明らかだと思います。
そこで問題になってまいりますのは、それならその土地をどこにするかということで、ここにその当時の日誌がございます。この土地をあっせんするいろいろ施設庁の役人、あるいは県庁渉外課の役人と一緒に方々見て歩いたという日誌がございますが、かなり多方面の敷地を物色された
努力が払われたあとは明らかになっております。そこでたまたまここならよろしいのではないかということの行なわれた土地がございます。その土地の所在地は、相模原市の麻溝台の佐野原千五百九十五番地、こう書いてありますが、ここは大体大蔵省の所管で普通財産である、そうして現在宅地ではあるが、しかし空地になっているということになっておりまして、ここならどうかということで一応話が進められたようでございます。これはそのときの書類の証拠づけでありまして、昭和四十二年十月十六日付で神奈川県渉外部の渉外課長から館野正盛氏あてに「さきに依頼のありました事項について横浜
防衛施設局に照会したところ、次のとおりでありましたので回答いたします。」と書いて、所在地は相模原市麻溝台佐野原千五百九十五番地、公簿地目は雑種地で三千三十坪八五、現況は宅地であるが空地である、現在は大蔵省所管の普通財産ということで、これは明確に県庁からこの土地の
裏づけをする書類が実は参っております。それと同じように、同じ日付で当時のこれらの問題を担当いたしておりました神奈川県の道佛という課長からやはり同じような書類が来ております。「当時の担当課長としての記憶によれば、上記回答文書の経緯は次のとおりである。1 事故発生後、館野正盛氏と横浜
防衛施設局との間には、米軍飛行機墜落事故による損害賠償の問題と工場再建のための用地問題とが関連して進められていたと記憶している。2 工場再建問題について館野正盛氏は、当初、従来の場所に再建することを計画していたが、横浜
防衛施設局は、その場所に再建しないよう要望し、館野正盛氏所有の当該土地買収の交渉を行なった
ものと記憶している。」ここで買収がされているわけであります。「これに対し、館野正盛氏は、当時の県内土地価格の
状況から国による買収価格と相当の価格で国有地を売却してもらいたい旨の主張をしていた模様である。3 このような交渉の過程において、館野正盛氏は横浜
防衛施設局職員の連絡または、案内により工場再建の候補地として、県内数か所の国有地を実地に調査した事実があったと記憶している。4 標記の回答文書は、館野正盛氏の依頼により、上記工場再建のための代替地払い下げあつ旋の件に関して、その地番、地目、面積等を横浜
防衛施設局に照会して、その結果を連絡した
ものである。」ということで、これがさっき申し上げました公文書の
裏づけとなっておるのであります。したがって、これらの問題を
考えてまいりますと、当然施設庁が解決の当時に賠償の低かったこともさることながら、工場敷地を全部国が不適当だといって買い上げたその代償としてあっせんするということは、明確な約束された事実だといっても私は差しつかえがないと思う。単なる口約束ではなかったと申し上げても差しつかえがないかと思います。ところがこれがいまだに実行されておらない。時間がございませんので全部一ぺんに申し上げて、一ぺんに回答を求めたいと思いますが、その後のこの土地の
状況を調べてまいりますると、きわめて最近において、この土地は大蔵省に他の事業団体から払い下げの申請の出ておる事実が明らかになってまいったのであります。そうなってまいりますと、周囲の事情からずっと
考えてまいりますと、この土地はおそらくいま申請されております事業団体に払い下げられることが順当ではないかと私は思う。そういう地理的条件を備えておるわけであります。そうなってまいりますと、三十九年以来ずっといろいろいきさつはあっても、とにかくあっせんしようということでやられたことが、また全部御破算になってしまう。そうすると、これが一体いつ実行されるかということになってしまう。工場を再建しようとしても、不適格だといって、土地は国が、これは非常に安い価格であります。当時あの辺は坪一万二千円くらいで買い上げておりますので、当時の価格としてもかなり安い価格であったと思われる。そしてその代替地をあっせんしようといったが、いつの間にかその土地がなくなってしまったということになると、一体本人はどこへいけばいいかということにならざるを得ないのでありまして、この種の事件の事後処理としてはきわめて遺憾な問題であろうかと私は
考えております。
長官も
部長も御存じのように、中曽根大臣に、きょうは大臣は参議院の
関係でこちらに見えないという
ものですから、先ほど
委員会の前に、皆さんの前で大臣ともお話ししてこの由を伝えまして、大臣も本人に対しては非常に気の毒だということで何とかしてやれという御答弁があったことは、
長官もお聞きになったと思います。この種の問題でありますから、くどく申し上げますと非常にたくさんな書類がございます。ございますけれども、これを
一つ一つ拾い上げると、
安保条約の第六条から来る問題まで引きずり出して話をしていると非常に長くなりますから、これは賠償済みだということで一応施設庁も
考えておるようでございますので、そこまで私は追及いたしません。そのときの価格が安かったか高かったかというようなことまでここで議論しようとは
考えませんが、そういう問題のよって来たる原因から現状を
考えて、できるだけ早くこの問題の処置をして片づけてしまいませんと、一個人の問題であるとはいいながら、
日米間の今日の
事態の中では
一つの非常に大きな問題ではないかと
考えますので、どう対処されるか、ひとつ率直に御返答願いたいと思います。