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小林参考人 私は岡山大学の
小林でございます。黒部川の公害についてお話ししろということでございますが、実は私はこの月の下旬にそちらへ参りまして、汚染の実態
調査をしたいと計画しておるわけでありまして、まだ私のほうでは
調査をしてないのでございます。しかしながら、去年の六月に、あそこをたまたま通りました。と申しますのは、去年の六月に山形で日本陸水学会、海水に対しまして陸水、陸水学会というのがありまして、その帰りがけに
萩野博士のところに研究の打ち合わせに参りました。それは
かなりむずかしい
患者を扱いまして骨がほんとうに溶けているかどうかを、その人が食べているカルシウムと、排せつ物から出しているカルシウムとどっちが多いか、ふん尿から出ているカルシウムのほうが、食物からとっているカルシウムよりも多ければ、骨が骨軟化症を起こしつつあるんだということがはっきりわかるのではないか。レントゲンなんかではなかなかそういうこまかいところがわかりませんが、分析によってカルシウムがたくさん出ているということが確実に数字の上で出れば、骨が一月の間にどれだけ溶け出したということまでわかりますので、そういう試験をしたいということで
萩野先生のところにおたずねして打ち合わせをしたわけであります。そのときに、私たまたまあそこの電車に乗りまして、宇奈月の温泉に夕方行って泊まったわけでありますが、ちょうど電車が右へ、富山から参りますと、カーブしておるあたりで、去年の六月ですが、水田の水口ごとに稲が黄色くなっておりました。これはちょうど私が戦時中の
昭和十八年に神通川の神岡鉱山によります稲の鉱毒、現在の婦中町でありますが、その当時は熊野村とか、神保村とかいろいろの町村に分かれておりました。
〔
委員長退席、島本
委員長代理着席〕
昭和十八年に、私が農林省の鉱毒の
調査に担当官としまして
被害地に参りましたが、当時、神岡鉱山は、戦争のために金属の大増産をやっており出した。そしてまた
排水の
処理すら現在のようなりっぱな沈でん池、向こうでは堆積場と呼んでおりますが、ああいう沈でん池が戦時中なくて、選鉱したカスをほとんど神通川に、故意かあやまちかわかりませんが、流しておりました。そういうととで戦時中に採掘のピークがありまして、
排水処理が非常にずさんでありました
関係で、私がたまたま参りました
昭和十八年には、神通川の稲の鉱毒は一番
被害の激しいときでございました。そのときにちょうど見ましたのが、あの黒部川の稲と同じように水口の稲の葉っぱがまっ黄色になっておったわけであります。ですから私は、いまは神通川流域は、神岡鉱山がりっぱな堆積場をつくりまして以降、つまり
昭和三十一年以降は鉱毒が直りまして、回復いたしまして、現在神通川流域ではイタイイタイ病の発生地ですが、稲の葉が黄色いという現象は見受けられないのであります。ところが、
昭和十八年に見たのと同じ稲の葉っぱが黄色いという現象を電車の窓から去年たまたま見ておりまして、非常に不思議に思っておったわけであります。それは神通川とはあまり距離も隔たっておらないところでありまして、私はああいう黄色の葉っぱを見て、神通川で昔やはり同じような、稲の葉っぱが黄色くなって鉱毒騒ぎを起こして、そうしてその
あとでイタイイタイ病が発生した子のごく近くにおいて、やはり稲が黄色くなっておる現象を見て、どうしてあのところの、富山県の人たちはわからなかったんだろうか、稲の葉が黄色くなっておることはもう数年前からなっていたんじゃないか。としますれば、わかっている方はおそらくぼやのうちに火を消しとめようというようなおつもりがあって、いろいろ苦心されておったんじゃないか。ところが、ぼやを消しとめるどころではなくて、昔の神通川流域のように、稲の葉はますます黄色くなって、そうして今度のように新聞に出て、初めて大きな火の手になって燃え上がっておるということがわかったんじゃないかというような感じがするのであります。
鉱山によりますカドミウムの
被害は、御承知のように、鉱石を採掘して、その採掘しました鉱石をこまかく砕きまして、そうしてそれを、浮遊選鉱と申しまして薬品を加えまして水でこねてどろどろにしまして、そうして金属の部分が水を反発して浮き上がったところをとりまして金属を濃縮していって、それでかすのどろどろの部分はこれを全部廃棄してしまうわけであります。ですから、掘りました鉱石の大部分はこのかすのほうになりまして、そのどろ水の処分に非常に困るわけでありまして、神岡鉱山の場合はこれが神通川に流れ出しまして、そうして四十キロも五十キロも下流の地点におきまして初めてそこに大きな
被害を発生したわけでありますが、製錬所のある場合、神岡鉱山はもちろん製錬所を持っておりますが、製錬所の
被害が神岡であったとしますれば、それは当然神岡町の地元の人たちがまずイタイイタイ病にかかるわけであります。ところがそうでなくて、神通川が山の間を流れ下って、四十キロも離れてそこで初めて
被害が発生したということは、これは当然煙突から出た製錬所の煙というよりはむしろ
排水、浮遊選鉱によります
排水が流れ下って、それが水田にたまって、そこに育ちました稲、葉っぱが黄色くなっておりましたが、その稲のお米を長年食べ続けて、そうして
発病する
原因になった。もちろんその地区の人たちは、そのかんがい水を、鉱毒鉱毒といって大騒ぎをしながら、自分たちの台所へ引き込んで飲んでおったのでありますから、稲がその水からカドミウムを土壌を通じてだんだん濃縮していきました上に、そういった水を——鉱毒だということは、おそらく稲だけかかって、飲むことはおそらくそれが害になるということを農家の人たちは気がつかなかったんではないかと思うのです。そういうふうに口を通しましてカドミウムが人体の中に入り、そこに長年おられた方たちの
発病の
原因になったわけであります。
ところが神岡鉱山のように、あるいは長崎県の対馬のように、あそこに対州鉱業所と申しますのがありまして、あそこも私がイタイイタイ病はカドミウムによる公害であるということを証明する一連の仕事の一つとして対馬のカドミウム汚染を三十八年に
調査いたしまして、三十九年には
萩野先生をお連れしてあそこに
患者がおるかどうかを探索して、とうとう
萩野先生が
患者を見つけ出されたわけでありますが、それはイタイイタイ病がカドミウム公害によるということを証明する一つの
意味がありますので調べに行ったわけでありますが、ああいった対馬の場合は、これは鉱石を採掘しまして、そうして選鉱しておるわけです。鉱しましたつまり金属を濃縮した部分は群馬県の安中へ運びまして、そうしてあそこで亜鉛、鉛、カドミウム、そういったものを製錬しておるわけであります。ですから、安中の場合は御承知のように鉱石を掘っておりませんし、また選鉱もしておりません。単なる製錬所であります。ですから安中の場合は、煙によってカドミウムが揮散していく。亜鉛、鉛、カドミウムという金属はわりあいに低い温度で揮散しやすい。ですから製錬所の場合は煙突から揮散していくカドミウムに重点を置いて汚染
調査をしなければいけないということを私は
最初に気づいたわけでありますが、ちょうどそれと同じことが黒部市のほうでいえるわけでありまして、今回問題の起きました黒部のカドミウム汚染は、やはり煙突に由来するものでありまして、こういった安中とか黒部の場合には、水から、カドミウムを口から飲むというよりは、鼻から
大気汚染としてカドミウムを吸うケースになるわけであります。それからもちろんそれが田畑に落ちまして農作物がそれを濃縮していく。それをとって常食として米を食べたりあるいはほかの野菜類をつくって食べる。ですから、口と鼻と
両方からカドミウムが人体に入っていきまして、そこでイタイイタイ病の初期の
症状がまずあらわれる。じん臓がおかされてたん白尿が出るといったような
症状が出てくるわけでございます。
〔島本
委員長代理退席、
委員長着席〕
私は
昭和十八年に神通川の鉱毒を農林省の担当官としまして
調査しました場合には、亜鉛と鉛の鉱毒であるというふうにだれもが当時は考えておりまして、カドミウムというものはその当時は考えられていなかったのであります。しかしながら、私は早くからカドミウム汚染ということに注目いたしまして、
昭和三十四年には、すでにこのイタイイタイ病の、週刊雑誌なんかで日本の奇病であるという記事を読みまして、そこでそこにおられます
萩野先生にお手紙を差し上げまして、水を六点ばかりびんに取っていただいて、私のほうで分析しまして、その三十四年にはカドミウムと亜鉛と鉛と砒素がその一部の水にあるということを
萩野さんにお知らせしたのであります。
それからまた同じ三十四年には全国の農業試験場からとれましたお米、白米ですが、二百点余りを採集しまして、そうしてカドミウムの分析をしております。そうしてその全国の、これは公害地を除いてのカドミウムの白米中の平均は〇・〇六六PPMであるということをすでに
発表しております。そして日本の米は外国よりもカドミウムが多い、そういう傾向があることを知っておりまして、タイとかその他の国から輸入しました外米にはカドミウムが少ない。それからまた安中なんかの製錬所によります公害地の白米には、特にカドミウムが多い、そういうことを三十四年にすでに見つけ出しております。
それから三十五年に今度はアメリカまで参りまして、人体の中の重金属をスペクトルによりまして定量分析する、そういう技術が日本でまだありませんでして、スペクトルによっては金属を定性分析ができても数字で定量的にあらわす分析が日本になかった。それを私はアメリカティフトンという世界で一番人体の分析をやっておる方ですが、そこへ行きまして、三十五年に学んで帰りまして、それからまたカドミウムのアメリカで一番有名な研究者としてシュレーダーという博士をたずねまして、その博士の家にも泊めていただいて、そうしてカドミウムの話をいろいろと話して帰りまして、その三十五年八月にアメリカから帰りましてすぐ試みましたのが、ちょうど
萩野先牛のところにイタイイタイ病
患者二体分の標本が保存してありまして、その標本をアメリカで習いました分析方法で手がけてみましたところが、その
患者のいろいろな場所の骨だけでなくて、肝臓やじん臓、ひ臓、大腸、小腸、肺臓、大脳、舌、食道、それから子宮、そういったところに至りますまで全身に、灰にしまして、その灰の中に数千PPMから一万PPMというものを三十五年に検出したのであります。そしてそのカドミウムだけでなくて、亜鉛や鉛を非常にたくさん発見いたしまして、それで私はすぐ、亜鉛、鉛が大量に出ましたことから、これは神岡鉱山による鉱害と
関係があるというふうに直感をしたのであります。
もちろん、
昭和十八年に神岡鉱山を調べた経験がございますので、同じ富山県のことでありますし、神岡鉱山の鉱毒だと直感しまして、
萩野さんにお伝えしたわけでありますが、ところが
萩野六んはすでにその数年前から鉱毒説を唱えておられたのであります。しかしながら、御承知のように
医学界は、その当時
萩野さんの鉱毒説を全然受け入れなかった。総反対を受けておられたのであります。その当時の、三十五年ころの
医学界では、
患者の小便からたん白が出る、あるいは血清の中の燐が欠乏しておる、あるいはアルカリフォスファターゼの値が高いというようなことは、臨床的にはっきりとわかっておったのでありますが、イタイイタイ病の
原因を農家の栄養の失調だとか、あるいは農家の労働過重だとか、あるいはあの地区の気象条件が悪いのではないかというような、そういうところにイタイイタイ病の
原因を求めようと、お医者さんが努力しておった。そういうことで、
萩野さんの鉱毒説は通らなかったのであります。
ところが、いま申しましたように、三十五年に私が初めてカドミウムを
患者からめつけ出しましたことによりまして、いままでの
医学界が突き当たっておりました壁を破りまして、イタイイタイ病はその
原因不明の、しかも業病だといって、その
家族たちすらその
患者を隠そうとしておった、そういった壁をぶち破りまして、カドミウム鉱害説の第一歩を踏み出したのであります。そして同じ三十五年の末には、私と
萩野さんと連名の英文のレポートを書きまして、外国の研究者に配付いたしました。それからまた、当時日本の文部省や
厚生省にそういったイタイイタイ病は天下の大鉱山による鉱害であるというようなことを申し入れても、笑われるだけで、相手にしてくれない。とても日本からこの証明のための
研究費がもらえないということで、アメリカの公衆衛生局、NIHと申しますが、公衆衛生局へ三万ドル以上の申請をしたのであります。これは岡山大学の学長名で、私が主任研究者、
萩野先生が副主任研究者、それから私の部屋の
助手たちが動物実験や化学分析、そういったものをやる
関係で、そういった人たちが協力研究者ということで、NIHへ申請したのであります。ところがその三十六年の暮れに、私が英文で書いたレポートを見ましたNIHの人たち、つまり公衆衛生局の人たちは、
小林のカドミウム汚染と地域住民の激しい骨軟化症に関する研究というのは、たいへん重要な意義がある。フランスのカドミウム
工場におきまして発生しました職業病としての骨軟化症は、すでにニコードらが
報告した。しかし、その
発病のメカニズムはその当時はわからなかったけれ
ども、その後の研究によってそれはファンコニー症候群という
病気であって、じん臓の障害が
最初に起きる
原因であって、そしてたん白尿が出たり、あるいはじん臓による燐の再吸収がそこなわれて、血清中の燐が欠乏して、そうして燐の貯蔵器官である骨が溶けて骨軟化症が起きるのだ、こういうことを三十六年の二月にすでに私のほうへ公衆衛生局から知らしてきたわけでありまして、向こうではすでにカドミウムによって当然そういうイタイイタイ病が起きるということをはっきりと向こうの審査員たちは認めたわけであります。
ところが、日本ではとてもまだそういう情勢ではなかったのでありまして、三十六年の五月に英文レポートと大体同じ内容の日本文のレポートを私と
萩野さんと二人の名前で第一報、二報として出しましたし、またそれと同じような内容を、その翌月の三十六年の六月に北海道の日本整形外科学会で
萩野さんは
報告されました。私の分析の結果、
患者から非常にたくさんのカドミウムが出た。だから、おそらく鉱山の
排水のためであろう。それからまた
萩野さんは、そのときに同時に鉱山の
排水を使って動物実験をやったところが、骨に異常が生じて骨軟化症が発生した。だから、鉱山の
排水を使ってイタイイタイ病を起こす実験は成功したということを北海道で
発表されたのでありますが、その後非常に強力な反論が出まして、それが日本衛生学会誌に堂々と載せられまして、これは岐阜大学の先生がやった仕事ですが、鉱山の
排水を使ってはイタイイタイ病らしい
症状は動物に何ら起きないというような強力な反論が出たりなんかしまして、なかなか日本ではイタイイタイ病がカドミウム鉱害あるいは鉱山の
排水による影響であるということは認められないむずかしい状況にあったのであります。
そういうわけで、単に人体から大量のカドミウムが見つかったというだけでは、まだまだ日本ではそれがイタイイタイ病の
原因であると見てくれる人はなかったのであります。ですから、どうしても幾つかの証明をやってこれに勝たなければならないということで、私はその三つのプランを立てたわけであります。そうしてそれを得ないうちに申請したわけでありまして、第一は稲の戦時中鉱害を受けましたこのひどい鉱害を受けた場所と、それからイタイイタイ病の
患者が発生した場所が完全に一致しなければ神岡鉱山による鉱毒であるということが言えないという
見解のもとに、
萩野先生に一軒一軒尋ねていただいて、地図の上に詳しい赤いスポッティングをしていただいたのであります。そうしてその結果は、ちょうど私が十八年に鉱毒
調査しまして最も
被害を受けましたその町村を、その
被害の
程度とそれから面積、そういったものが三年間の統計が出ておりましたり、あるいはまた農家がその水田の水口に小さな沈でん池をつくって、上流の鉱山から出るかすを食いとめるために沈でんさせたその沈でん池に富山県がその当時補助金を出しておりましたが、そういう数から見ましても、熊野村とか神保村、そういったところに最も稲の
被害があったわけでありまして、その熊野村に
萩野先生が終戦以後開業しておられるというようなことからして、完全に
両者が一致するということが判明いたしました。
それからまた第二番目の実験としましては、動物を使いまして、この亜鉛と鉛とカドミウムのうちのどれが骨軟化症を起こさせる
原因物質であるか、どれが一体犯人であるかということを突きとめる必要があると考えまして、化学薬品を使いまして、亜鉛、鉛、カドミウムを単独あるいは組み合わせまして動物に与えました。そうしてカルシウムを、口からとったえさのカルシウムと、出ていくカルシウムを科学的に測定しましたところ、カドミウムを与えたときだけ骨が溶け出してカルシウムがたくさん排せつされるということが判明して、カドミウムが犯人であるということがわかりました。
それからまた第三の実験としましては、同じような鉱山地区で
患者がおるかどうかということで、先ほど申しましたように長崎県の対馬を選びまして、まずカドミウムの汚染
調査を三十八年にやり、三十九年には
萩野先生と一緒に参りまして
患者を発見したわけであります。
そのようにしまして、三十九年には私
どものほうではもうイタイイタイ病は神岡鉱山によるカドミウム汚染であるということははっきりしておったわけであります。にもかかわらず、
厚生省のほうで公害病として認定されたのは、それよりはるかにおくれて、
昭和四十三年であったわけであります。
そういうようなことがありまして、この公害
関係の仕事というのは、非常な困難に遭遇いたしますし、また、ある一部の人にはわかっておっても、これがなかなか認められないで、ぼやのうちに消しとめようとして、そしてそれが失敗して、大火になって燃え上がるというようなことも起きるのだというその一例が今度の黒部の問題じゃないか、そういうふうに考える次第でございます。