○青柳委員 それでは、今度
新聞などでも報道されておりますいわゆる公職
選挙法の改正の意図というものについて
お尋ねをするわけでありますが、伝えられるような改正の意図というものは、いま
大臣がおっしゃったようなものに逆行するものではないのかというふうに
考えざるを得ないのであります。
せっかく第六十一国会で、それまでの
選挙制度審議会から、また世論から要求されている
選挙運動の自由化、特に言論の自由化ということにつきまして一定の改善が見られたわけで、それからわずかに一年余り、数回の
選挙、昨年の衆議院議員
選挙と、その間の知事
選挙などが行なわれたというわずかの実験を経ただけで、たちまちこれを廃止してもとの
状態に戻ろうとしている。そればかりではなく、長年にわたって地方
選挙、都道府県
会議員あるいは政令都市の議員の
選挙などで実施されてきた政党活動の自由までをも道連れにして、さらに深く
選挙を不自由なゆがんだものにしようとしていると
考えざるを得ないのであります。
その理由とされているものは、私から言うならば、きわめて欺満的であり、反動的であり、非民主的であるといわざるを得ません。第一に、金がかかるという理由がございます。
選挙に金がかかるというのはもう常識のようになっておりますが、それが買収、
供応による結果であることはほとんどの人の認めているところでありまして、この前、この特別
委員会に参考人としてお出になられた土屋さんでさえも、そのことは、
自分はあまり
選挙をやったことがないけれども、世間でそう言われているのでそうだと思うということも述べられているくらいでございます。こういうことに金がかかるのであって、政策を宣伝する言論、出版の自由を保障する
ために一体幾らの金がかかるのかということをお調べになったことがあるかどうか。現行法で認められておりますテレビや
新聞、その他いわゆるマスコミというようなものでコマーシャルをするとか、あるいは無料のパンフレットを配布するというようなこと、これには相当の金がかかることは事実であります。しかしそれは、政党活動といたしましても、財界からばく大な献金を受けている政党ができることであって、広範な
国民のカンパや浄財によって
政治活動や
選挙運動をしている
政治団体、政党にとってはとうてい及びもつかない
状態であります。これに反しまして、政党や
政治団体の機関紙やビラなどによって政策宣伝に金を使うというのは一体どのくらい金がかかるのか、
調査したことがおありになるでしょうか。戦後の紙の不足した時代から、豊富な紙が生産され、印刷も高度に技術化された現在においては、これに要する費用は買収
供応費に比べたら比較にならない僅少なものであろうと
考えるのであります。五当三落という
ことばが依然として現実を反映するものとして使われ、それが何千万単位から何億単位までエスカレートしているというじゃございませんか。それは何に使われたか。言うまでもなく買収
供応費であります。金がかかる
選挙という口実は政策宣伝とは全く無縁であろうと
考えます。
それから第二番目に不公平であるという口実がございます。これは力のある者と力のない者とを平等に扱おうとする配慮により出てきたというふうに、一見民主的な装いをもって迫ってくるものがありますけれども、はたしてそうでしょうか。
政治活動は、本来
政治思想の相違、対立があることを前提として、その競争を基本としているのであります。民主主義というものはそういう本質を持っております。だから
政治的に力のある者が
政治的に力のない者にうちかっことが現在の
政治であり、
選挙ではないでしょうか。それを
選挙制度によって調整し、できるだけすべての
国民に機会均等を保障しようという試みは、それが合理的であるならば当然実施されなければならないことは言うまでもありません。優勝劣敗を野放しにしてならないことは当然でございます。だれも異論はございません。しかし、その野放しにするとは一体どういうことか。それは金のある者が金のない者に対して金の力で勝利することに何らの制約、規制をしないという、それを野放しというのだろうと思うのであります。単にこの買収、
供応を禁止しているというだけではなくて、これを
行政的に励行する、厳格に実施するということが重要でございます。完全に公営が行なわれるというような状況ならばいざ知らず、そうでない状況のもとにおいて政策宣伝の力の強弱を無理に公平に扱おうとするのは、いわゆる悪平等というものであり、悪貨は良貨を駆逐するという反動的なやり方ではないでしょうか。進歩ではなくて退歩であろうと思います。社会をいいほうに発展させるのではなくて、悪いほうに逆行させる、すなわち知らしむべからずという方向に持っていく結果にならざるを得ません。政策宣伝の力のある者、そういう力のある
政治団体は大いにその自由を保障され、その結果が勝利となってあらわれる、これは
国民の
政治意識を高めることであって、
政治をその本来のあるべき姿に近づける理想的なことではないでしょうか。ただ、宣伝手段の利用にばく大な金がかかる、さきに申しましたばく大な広告費のかかるコマーシャルあるいは無料パンフレット、そういうようなものは一定の規制を行なうのが当然でございますけれども、政党の機関紙あるいはビラなどを取り締まるというのは、これは全く逆行といわざるを得ません。
それから声なき声を聞くということがよく言われます。これは
政治活動、
選挙運動を金にあかしてお祭りのような
状態にしていることに対する反省から出ております。真に声なき声に聞くという
ためには、真の
政治宣伝を徹底的に自由にするとともに、まじめな政策宣伝とは認められない退廃的な宣伝、商品の誇大広告のようなコマーシャルのような、カッコづきの
政治宣伝を規制することにつとめなければならないと
考えます。こうすることによってほんとうの
意味の平等が生まれてくると
考えるのであります。
その次に、行き過ぎを是正するという口実がございます。真の政策宣伝には行き過ぎということはないと思います。デマを飛ばし、競争者を中傷し合うこと、いわゆるどろ仕合いこそ行き過ぎであって、真の政策宣伝とは全く無縁であります。京都知事
選挙はよく引き合いに出されるのでありますけれども、いわゆる反共反動連合勢力によってそれが誘発されることはまぎれもない事実でございます。裁判所によってその配布が禁止されたのは、一体だれがやったことであるか。「よど号」乗っ取りを共産党のしわざとデマ宣伝をしたのはだれだったのでしょうか。無用なビラ合戦をつくり出したのはだれでしょうか。デマ、中傷がなければ、これに反発する
行動も不必要であります。このような弊風をつくり出した勢力のやったことこそ行き過ぎではないでしょうか。このような非
政治的な、非民主的な宣伝を厳重に取り締まることによって行き過ぎを是正すべきものであります。それを、みそもくそも一緒にするという形でみそをやめさせてしまうというような試みを一体何と理解していいのか、私どもは理解することができません。反動と逆行とは、そういうことをいうのではないでしょうか。
さらに、
選挙民に迷惑をかけるという口実がございます。政策宣伝が
国民に迷惑をかけるのであるというのは一体どういうことか。それは
国民を愚民化する口実ではないでしょうか。
国民は経験を通じて賢明であり、政策のない宣伝、感性にのみ訴える騒々しい宣伝こそ迷惑でありますけれども、
文書による政策宣伝、説得による政策宣伝は、
国民の
政治意識を高め、
国民から喜ばれ、歓迎されておるのであります。政策宣伝を法制化して
一般的に規制しようとすること、迷惑だからやめてしまえというのは、いかに時代逆行であるかは言うまでもございません。
私は、今度の改正の意図は、率直に申しまして政府、与党側の党利党略であって、
政治的謀略であると断じてもよろしいのではないか。
国民は絶対にこれは容認しないだろうと思うのであります。幾つかの
新聞論調を見ても、そのことは明らかでありますし、また良心的な
選挙管理委員の人々や国会の幾つかの
調査によって、
全国各地また京都のあの知事
選挙のあとの
参議院の
調査などによりましても明白であります。そしてまた良心的な学者の
意見などを聞いても明瞭であります。
そこで私は最後に
お尋ねいたしますけれども、
新聞の報道によりますと、自治省は、与野党とこの問題で打ち合わせをして、そして
意見の一致するところで臨時国会に改正案を提出するというようなことが報道されております。三十日の閣議で自治
大臣がそういう
趣旨のことを言われているように十月三十日の東京
新聞は報道しております。「与野党間で現在、
選挙時における政党の
政治活動中、機関紙、パンフレット、シンボルマークなどの乱発などについて、ある種の自主規制をする話し合いが進められており、調整がなれば、臨時国会にこの
ための
選挙法の改正を提出することになろう」と報告されたというふうに出ております。
そこで、自治省が与野党の方々と十分打ち合わせをしたのが十月二十六日及び本日、共産党を除く与野党の方々がお集まりになって、そして政府の案などについていろいろと御相談があったように聞いております。これについて政府はどのような案を提示され、またこれに対する各党の御意向などがどのような形であらわれ、
大臣が三十日の閣議で言われたように、調整がなる
状態、すなわち臨時国会に提出することのできるような
状態がいまや現出しつつあるのかどうか、私どもは全くのつんぼさじきに置かれておりますので、この点を明らかにしていただきたいと思うのであります。