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高橋参考人 東京大学医学部の
高橋でございます。
健康を害しました人間にある種の化学物質を与えまして、それが健康の回復に役立つときに、その物質は薬と呼ばれます。薬は、その物質性によって定義されるのではなくて、それを生物に適用したときに発揮される薬理作用によって薬であり得るのであります。一方、生体に適用されました化学物質は、適用されました
目的とは異なった多面的な作用を呈するのが普通であります。ここに薬の主作用と副作用は共存することになります。副作用は一般的には害作用でありまして、特にその中で害作用の著しいものは、毒物として区別されるわけであります。したがいまして、保健薬のように、長期間にわたってだれでも飲んでもいい薬で、害がなくてしかも有効であるという、そういう薬があり得るかどうかということは、非常に疑問がございます。こういう保健薬を大量に
国民が飲むということは、世界の国々では見られない事実であります。
さて、薬の薬理作用は、適用されます生体の置かれております条件、すなわち、性とか、年齢とか、病気の型、発病後の日数、こういったことによりまして大きく規定されますので、これらを層別因子、分類因子と呼びます。このように、薬の効果を大きく左右しますところの因子を規定いたしましても、なお薬の効果というものは不確定な部分がたくさんございます。その中の一番大きな要素は個体差でございます。したがって、薬の効果は、それぞれの層別条件のもとでの統計法則という形でしかとらえられません。ところが、薬の効果は個人にとっての効果が問題でありますので、統計法則を使って個人についての薬効をどう保証するのかという非常に特殊な問題が出てまいります。これは臨床の場におきまして、科学的に管理されました条件のもとでの試行錯誤、つまり、薬をある程度使ってみて、二日目に、そのきき目によってまた薬をかえるなり量をかえるなりするということでありますので、これを私たちは管理された条件のもとでの試行錯誤と呼んでおりますが、そういうことで逐次修正することによりまして、誤りによる
損失を最小限にとどめるような努力がされなければならないわけであります。
ところで、ある薬の効果を判定します場合に、私たちを一番苦しめますのは、まず第一に、生物としての人間のからだにはいろいろな種類の自然回復の力が大なり小なり備わっている、これを物理現象にたとえていいますと、ちょうど傾斜しております坂の上で車を人間が操作しておるということにたとえられると思いますが、それが自然落下で車がすべっていっているのか、それとも人間がそれを押してさらに進めているのか、あるいは、それをブレーキをかけてすべり落ちないようにしてゆっくりおりていっているのかということは、これがなかなか外から見ていて判定がしにくいのと同じようなことであろうと思います。臨床におきましては、その病人の自然回復の力、これは、たとえでいいますと、坂道の傾斜度になりますが、こういうものがどのくらいあるのかということを一人一人の人間について見分けるということは非常にむずかしいことであります。それは個人の個体差にもよりますし、層別条件にもよりますので、非常に複雑な組み合わせになります。これを、種々雑多な状況の患者さんが次から次へとやってまいります日常の診療の場の中で、私たちの直観と経験でそれを頭の中できちんと整理いたしまして、薬の効果判定に反映させるということは、非常にむずかしいことでございます。
ところが、一九二〇年ごろになりますと、イギリスにおきましてR・A・フィッシャーという農学領域におきます統計学者が出てまいりまして、この人がこういったような生物実験の複雑さに対処する実験
計画法というものをつくりました。
それによりますと、こういう場合には、同じような、層別条件の似ているような患者さんを公平に二群に分けまして、一方にはテストされる薬物を与える、他方にはにせの治療を行なうということをすべきであるというふうに書いてあります。しかしこれは、その根底には、両方とも、現代までの医学の中で最小限これだけははずしてならないという標準治療は両方にやる、その上に新しい治療を片方には加える、もう片方にはにせ治療を加える、こういったような方法は、これは同時に両方のグループを比較していきますから、同時対照試験というようなことばで呼ばれます。こういう方法が非常に有効であるということを、フィッシャーは、農業の中での肥料の効果だとか、品種の選抜試験なんかで明らかにしてきたのでありますが、これを
最後に統計的に処理します場合には、両方のグループの
平均値を比較いたしまして、結局、テストされる薬を飲ませたほうからにせ処理をしましたほうの結果を
差し引きしました、
差し引き分としてテストされた薬の効果を評価するという方法であります。うっかりしますと、坂道の傾斜度そのものも薬の効果のように見誤ってしまいますけれども、それは、フィッシャーの同時比較試験におきましては
差し引きされて、それは除かれて、ほんとうの薬の効果によるものだけが評価されるわけであります。
こういった比較試験が同時でなければならないというのは、人間のあさはかな知恵でいかに層別条件をうまくやったつもりになりましても、なおかつわれわれの予測し得なかった片寄りが、時と所を異にするところの二つのグループの中で起こっていることがしばしばございます。これは実験データとして報告されておるものの中に幾らでも例をあげることができますが、そういうことが発生するのを私ども非常におそれるものですから、同じ条件のもとに同じ時期に、あるものを二群に分けるということを必要条件といたしております。
こういった薬の効果を判定します場合の第二の困難さは、われわれ並びに患者さんが人間であるということです。おそらく獣医学では問題にならないと思いますけれども、医療を受けます場合には、患者さんの側でも必ず期待を持って医師を訪れる、私たちも、新しい薬を使いますときは期待を持って使うということで、両方に使用する薬物に対する期待効果というものが出てまいります。そのために、きいたように思うけれども、これが医者と患者の両方の心理的な期待効果ではないかということも、われわれしょっちゅう疑ってみなければならないのです。
これに対して、実験
計画法はどういうことを教えているのかといいますと、これは病人にも医者にも、いま非常に重要な臨床試験がやられているぞということは、どちらもわかっていなければいけません。これは副作用が突然発生する危険がありますので、両方ともそのことは承知していなければなりませんけれども、しかし、実際この患者さんには、本物が飲まされているのか、にせものが飲まされているのかということは、どちらにもわからないようにしておかなければならない。これは先ほど
佐藤氏が言われましたような二重盲検でございます。二重盲検というのは、実験
計画法の中では、こういう心理的な効果を排除するための両方に目隠しをするという一つの実験の設計条件でありまして、これそのものが実験法ではないわけですね。そういう設計条件として二重盲検ということばが使われております。
したがって、これを合わせまして、人間という意識のある生物において、しかも自然治癒という傾向性の非常に強く働く場合のあり得るところの治療薬の検定の場合に、両方合わせまして、二重盲検方式のもとでの同時対照試験という実験
計画によってやりますと、私たちは薬効の評価における客観性を著しく大きなものにすることができるわけであります。これにももちろん、先ほど
佐藤参考人が言われましたように、いろいろまだそれをくずすような要素が入ってまいりますので、私どもは絶えずそれに対して警戒しなければならないのでありますけれども、しかし、これまで私たちが雑然とした外来の中で、あるいは病室の中で、直観と経験で層別条件と個体差によるところの非常に複雑な条件を頭の中で解析したつもりでおりましたのよりは、はるかに客観性がございます。これは歴史の中におきましても、そういう直観と経験できいたといわれた薬が、以後の客観的な科学の方法で検討いたしまして、無効であるといわれて消え去っていったものが無数に存在いたします。
しかしながら、これに対する抵抗はまだ非常に医学界の中に大きくございまして、なかなかこれが取り入れられない。しかしながら、もしこのような実験
計画を用いないといたしまして、なおかつ、ある薬の効果というものの評価に正しさを認めようというと、どういう条件がそこに必要であるかといいますと、私たちは判定者の経験にささえられた直観の力の正しさを前提条件としなければならない。この直観の力というものは、正しい場合もありましょうけれども、正しくない場合もあるということは、歴史的に明らかな事実でございますし、何よりも決定的な欠陥は、客観性がないということです。フィッシャーの方法ではっきりと比較いたしますと、これはだれがどこでやっても、同じ条件であれば同じに出るはずでありますけれども、経験にささえられましたところの直観による判定の場合には、客観性ということの保証がきわめて乏しくなるという問題がございます。
しかし、こういった大家の経験者の直観というものがいかにたよりないものであるかということは、戦後のわが国の例をとりますならば、強肝保健薬、肝臓を強め健康を保つ薬として、最高のときは年間五十億ぐらいも売られましたところの、これが十数年にわたって続きまして
国民に宣伝され乱用されまして、
国民に甚大な被害を与えましたグロンサンの例をあげることができると思います。
この物質は、
昭和二十六年に、毒素と結合して尿中に排せつされる抱合解毒ということをうたって発売許可されたものでありますけれども、これがどのレベルで許可されたものか、私ども現在わからない。つまり、製薬
課長レベルで許可されたものなのか、正式に薬事
審議会にかけられたものであるのか、これがわかりません。人体の中でグルクロン酸が毒素と結合するということは、ずいぶん昔からわかっていることでありますけれども、しかし、私がこれに疑問を持ちました一九六一年ごろのアメリカの医師会で出しておりますところのNND、「新薬と局方外薬品集」という本がございますが、これにはどう書いてあるかといいますと、これは関節や腱の成分であるから、ことによったら、リューマチだとかそういう病気にはきくかもしれないと書いてありますけれども、肝臓にきくとは一言も書いてない。したがって、もしこれを肝臓薬として使うならば、新しい適用でありますから、薬としてこういうものを使うならば、当然これは薬事
審議会に正式にはからなければならないものであったと思いますけれども、それがはかられているかどうかということは、現在私ども明らかにいたしておりません。
ところが、この薬につきまして、わが国の名だたる肝臓専門の臨床の大家たちの中で、この物質が臨床的に有効であるという論文を書かなかったという人はまずないだろうと思われるぐらい、これはきいた、きいたと書かれたわけであります。しかしながら、その四年あとに、アメリカのアイゼンベルグという人がこの点に疑念を持ちまして、人体内部でできるクロンサンと——クロンサンというのは商品名でございまして、グルクロン酸が学名でございますが、これと、外から飲ませたグルクロン酸と区別できるようなくふうをしましたものを飲ませまして、人間で実際に実験いたしまして、そして、全くこれは解毒抱合しないということですね。少なくとも認識される程度までは尿の中に出てくる毒素とは結合していないということをはっきりと証明しましたので、その時点におきまして、外から与えられたグロンサンというものは、毒素と結合する力がなくて、大部分は炭酸ガスと水に分解されて排除されるものであるということがわかったわけでございます。
それでは、わが国の臨床の大家たちがきいたと思ったのは何であったのかということをいま考えてみますと、これはグロンサンを使ったら病気がなおったからきいたんだという——私たちこれを「使った、治った、きいた」の三た論法と言っておりますけれども、こういう不完全な論理によって、きいたという太鼓判を押していたものと考えられます。すなわち、その中身は自然治癒と心理効果であったに違いない、そういうふうにしか考えられないわけであります。
また、こういった問題を世界の文献の中に見てみますと、第二次大戦の直後には、世界の国々にも確かに強肝保健薬というものはございました。これは私、特別講演の機会に、全世界のものを数十年にわたって医局員の協力を得て調べましたけれども、しかしながら終戦直後、一九四五年ごろからその後約十年間、一九五五年、
昭和三十年ごろまでの間に、このフィッシャーの実験
計画法が普及するにつれて、前にきいたといわれる報告は次から次へとひっくり返されまして、一九五五年ごろでほとんど世界の強肝保健薬は消えてなくなっております。ところが、ちょうどそのころからわが国では強肝保健薬がブームとなりまして大量に発売され、消費されたわけでございます。このことは、私たちが「肝臓治療剤の臨床的根拠」といたしまして、
昭和三十八年に論文として出してございます。
しかしながら、こういう科学的な薬効評価の方法を取り入れなかったわが国におきましては、ちょうど世界の学界でこうした薬が消えていきますころからこういう薬がちまたにはんらんいたしまして、今日に至っておるわけでありまして、これは皆さん御存じのとおりでございます。
ところが、こういう実験
計画法はわが国では全然やられていなかったかといいますと、そうではございませんで、すでに
昭和三十二年に結核病の領域におきましては、国立療養所東京病院長の砂原茂一氏を班長としますところの研究班の中では、実にりっぱな、きれいな結核薬の比較試験をやっております。しかしながら、これは結核という特殊領域であったためでありましょうか、一般の薬の領域には普及せずにまいったわけでございますけれども、この砂原先生は、先ほど
佐藤参考人も言われましたように、非常にりっぱな本を書いて、薬の薬効検定をいかにすべきかということを詳しく書いておられます。
いまわが国でこうした科学的な薬効判定法が普及してないということは、一つには臨床の大家というものが、自分の直観的な判定に盲
目的な自信を持ち続けてきたということが一つの問題であると思います。これは事実においてたくさんくずされておるにもかかわらず、それを明確に自覚していないということが一つあると思います。第二には、薬務行政に従事する官庁の窓口が、そうした大家の直観的判定に権威を認め続けてきたということのために、論文提出のほうが一向にそのきびしさを加えていかなかったということであろうと思いますし、第三には、医学教育の中で、こうした実験
計画法とか統計解析のような教育が著しく不十分であったということにも関連すると思います。
これは、日本の医学を育成するためにドイツから参りましたベルツ博士が、在日二十五周年記念の記念講演のときに、日本人は、われわれから科学の結果は学んだけれども、科学をつくる精神を学ばなかったというきびしい批判をしておりますけれども、これはまさしく戦後の日本の教育の中で、科学というものをでき上がったものとしてその技術をマスターするということに専念いたしまして、科学的に前向きに進んでいくために必要な科学の論理を身につけなかったということは、すでに明治の中ごろですか、終わりごろでしたか、ベルツの在日二十五周年記念のときに、一ドイツ人である彼によっても
指摘されておるわけであります。これが現在までまだ続いておるということであろうと思います。
しかし、きわめて重要なことは、このように虚構の権威、偽りの権威によってささえられて、薬とはいいがたい物質が薬として製造許可になり、それが社会保険に使用されることになりますと、私たち医師は、その日常の医療の中で、病人の自然回復力と、それから病人と私たちとの心理的な期待効果のために幻惑されてしまいまして、容易にその虚構性を見破ることができず、私たちの日常診療は非科学性に満ち満ちまして、正しい医療を行なわないことによって非倫理的な状態となり、
国民総
医療費を不当に膨張させて、医療経済を破綻に導こうとしていることになっていると思います。
国民に不当な経済的
損失を与えないためにも、また、医師といたしまして、非科学性、非倫理性におちいらないためにも、私たちはこの非科学的に製造を許可されました医薬品を、科学の論理に従って全面的に再検討しなければならない時期であると思います。
戦後いち早くこの科学的薬効評価の方法を取り入れました諸外国でも、それ以前に発売されました薬につきましては問題がないわけではございません。イギリスでは、私の知る限りにおきましては、一九六六年から二年を費やしまして、セインスバリー卿という人が十人の専門の学者を
委員にいたしまして、そして薬事制度を全面的に検討いたした記録がございます。その結果としまして、少なくとも三分の一の薬は、イギリスにおいてさえ無効、ないし好ましくないものであると報告しておりまして、薬物
委員会をつくってこれをより
徹底的に再検討すべきであるということを勧告として出しております。
また、アメリカにおきましても一九六四年にキーフォーバー・ハリス修正法案というのが通りまして、これはたしか一九三八年から一九六二年までだったと思いますが、この期間に許可されました薬につきましては、再検討を可能にするような立法
措置が行なわれていると聞いております。
しかし、このわが国のように、薬が医師の処方なしで、新聞、テレビ、ラジオなどで大々的に広告が行なわれているような状況のもとでは、ちょうど戦後の混乱の中で許可されました薬の有効性と安全性というものは、早急に再検討されなければならないものであります。
いまから二年前に私たちは東大医学部の学生たちの協力を得まして「保健薬を診断する」という小さな本を出しました。十種類ほどの有名な保健薬について個別的に検討した成績を発表いたしましたが、こういったものも、上に述べましたような科学的な薬効評価の方法に従っておりませんものですから、調べてみますと、臨床に持ち込む前の基礎医学の段階ですでに医学常識に反するような物質が堂々と薬として許可されているという事実が明らかにされております。
毒素と結合する能力をほとんど持っていないグロンサンというものが、私たちが一九六二年ごろから批判するまで、抱合解毒による強肝保健薬として売られ続けてまいりましたことは先ほど申し上げましたが、そのほかにもこれに類するものはたくさんあります。
一、二の例をあげますと、唾液腺の中から出るホルモンというのがありまして、これは老化防止剤だといわれておりますけれども、これは許可された時点におきましては、非常に不安定であるから、注射薬として使う場合でも溶液と薬とは別々のアンプルに入っていまして、使う直前にそれを溶かして使えというぐらい慎重な指示で売られたわけでありますけれども、それが数年後には、量からいいますとその二倍ぐらいの十ミリグラムぐらいですが、こういったものを錠剤として飲んできくといって売られておるわけでありますけれども、この物質はたん白質でありまして、たん白質を飲んで胃や腸で消化しないということはきわめて医学常識に反することでありまして、その医学常識に反する事実がほんとうに真実であるならば、これは世界的に重大な問題でありますけれども、私たちが調べました範囲内におきましては、これが胃や腸の中で消化されないということは、その基礎づけとして出されている実験はきわめて不完全なものでありまして、とうていこれは科学の目から見まして承認できないものでございます。
それはともかくといたしまして、三ミリや五ミリぐらいを注射する場合に、使う直前に溶かさなければならないほど慎重なものが、錠剤として固められて店頭に何十日も放置されて、われわれの消化力の強い胃、腸を通過して、どうして吸収されぬか、こういうことが真実ならばわれわれはこれを世界の学界にはっきりと報告しなければならないものでありますけれども、その点に関しましては、きわめてあいまいな実験しかなされていないのであります。
また、アミノ酸の混合物、いろいろな種類のアミノ酸をまぜましたマミアンという薬がございましたが、これの一日量というのは、たん白質にしまして一・五グラム程度のもの、ところが皆さんも御承知のとおり、私たち健康人は一日七十グラム、ないしはそれ以上のたん白質が必要でありますが、たん白質が足りないよという事実はあのころあったかもしれませんけれども、七十グラム、七十五グラム必要なものに対して一・五グラムを百円なら百円の金で飲むということは、一体これはどういうことであるのか。もしこれを肉の一つまみで食べたなら七円とか八円で済むものであっただろうと思いますが、それを百円でわれわれは飲む。これはアミノ酸でございますから、飲んでもゼロということはございませんけれども、その価格に相当する価値があったのかといいますと、実に不当な値段であった。また、たん白質が足りない場合に、百円でそれを買って飲んだほうがいいのか、肉を五十グラム買って食べたほうがいいかといいますと、当然これは栄養学的な配慮によってその
不足を補うべきであるという
指導をしなければならなかったわけでありますけれども、こういうものが薬として許可されまして、われわれはちょうど神さまのお札を飲むようにこういうものを飲まされてきたわけであります。
また、アスパラギン酸という、これはどこにでも幾らでもある、からだで幾らでもつくれる、アミノ酸とカリウムとマグネシウムとをまぜましたものが、疲労回復剤としてアスパラという名前で、アスパラでやり抜こうとか、生き抜こうということで売られましたけれども、これはイタリアでつくられまして、アメリカでも一時新薬集に載ったことがございますので、許可した時点においてこれは不当だとは言えませんけれども、アメリカ医師会はその後一、二年の間に疲労とは
関係のない、また有効でもないということを、ジョンズホプキンズ大学の人たちが囚人を使ってきれいな実験をいたしまして、もちろん二重盲検で、しかも交差試験をやって、問題のないような実験データによってこれを否定いたしまして、アメリカ医師会がそれを取り上げまして、医師会の中の無効データの発表する欄に、これははっきりと無効であるというふうに記載しておりますが、これは許可した時点においてはよかったけれども、それ以後にわれわれはこれに対して何らの処置もしてこなかったという点が問題にされるわけでございます。
こういった戦後わが国において許可されました薬の中には、世界の医学常識から見まして、まことに恥ずかしいものまでも薬として流通しておりまして、流通しておるだけではなくて、その後も、学問の進歩に伴って新しい事実が明確に出てきているにもかかわらず、何ら禁止ないし回収の
措置がとられていなかったということは、これはやはり薬務行政の一つの欠陥ではないかと私ども考えるわけでございます。しかし、これも、もとはといいますと、薬効の反対に科学性を欠いて、医者たちがきいた、きいたという、使ったらなおったからきいたという誤った論理に従って太鼓判を押したためでございますので、もちろんわれわれ学者の共同責任でございますけれども、しかし、国は国でやはり許可の窓口のところに、もう少し主体的な動きをしていただきたいものだなと私は考えるわけでございます。
なお、
昭和二十九年に発売されました研誘導体であるところのアリナミン、及びその後に発売されました同類のビオタミン、ベストン、こういったものが疲れ、神経痛などにきくということが盛んに宣伝されておりますけれども、これは私たちは一番文献の多い武田のアリナミンにつきまして、向こうで製品便覧として医家向けにりっぱな厚い本を出しておりますが、その中の資料に基づきまして分析しました結果、ないしは武田薬品から提供を受けましたところの若干の資料を追加いたしまして分析いたしました結果、そこには科学の論理に従って、あるいは、先ほども言ったような薬効検定の一般論理に従ってやられている論文はまず見当たらない1疲れ、神経痛に関するものですね。したがって、これはやはり私たちは科学の根拠なしに誇大に宣伝されているものではないかというふうに考えておりますが、しかし、これは医療薬といたしましても相当大量に使われておりまして、
健康保険に通っておりますものですから、これは概算でございますけれども、年間三百億円ぐらいこういうものが使われておると思います。ところが、神経痛に対しましては、いまから四年前、
昭和四十一年でございますが、「日本醫事新報」という非常に広く読まれております医学の週刊誌の質問欄に、最近こういB1は神経痛にきくという証拠がないというような論文があるけれども、これはほんとうかという質問が出ました。それに対しまして、早くからこのアリナミンの研究をやっておりました京都大学の栄養学の桂
助教授、現在では教授でございますが、この方が答えを書いておりますけれども、これを要約いたしますと、仰せのとおり、臨床的には確かにきくという推計学的な、実験
計画法的な観点での統計処理されたものはない、しかしながら動物実験で大体ききそうに思えるということでこれは許可になっているものである、したがって、二週間ないし四週間使ってみてきかなければやめたほうがいいだろう、こういうふうに書かれております。医薬品は個人の生命ないし民族の寿命に
関係する重大な、いわゆる生命関連商品でありまして、一方、医薬品に関する科学的知見は日々増大しつつあり、しかも、すでに発売許可されている医薬品は、日々の診療ないし
国民の保健衛生の手段として生き続けているものであり、これらの流通医薬品を時代おくれのままに放置することのないように、一度発売許可したものも数年ごとに再検討する機構を行政の中に設けることも必要ではないかと存じます。
時間を超過いたしましたことをおわび申し上げます。