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愛知国務大臣 まず第一に、中共の体制について毛沢東語録をお引きになっていろいろお話を承りましたけれども、向こうはたとえば平和五原則というようなことを掲げておられるわけですし、
日本はもちろん
内政不干渉という大原則を掲げているわけでございます。そういう点から申しましても、今朝来、当
委員会におきましての
中国問題につきまして、
内政不干渉という原則からいって
二つの
中国ということを言うべきではない、願わくはこれは御自分たちの手でもって平和的に
解決してもらうことを望んでいるというのがわれわれの
態度であるということを申したのも、そこにあるわけでございますが、向こうのほうも他国の
内政には干渉しないという大原則を明らかにされている限りにおいては、私は率直にいって、
中国人には
中国人の
考え方というものがあるわけであって、御自分で最善と考える行き方をし、あるいは最善と思われる主義によって国づくりをされるということは、
中国人の自由であって、われわれがとやかく言うべきことではない。しかしそういった哲学が違い、国づくりの基本
方針が違ってはいても、体制は異にしても、できるだけ
友好親善の
関係になっていくように望むというのがやはり基本的な
考え方で、しかるべきではないだろうかと考えます。
それから交流の問題については、いまお話がありましたような点は
現実にずいぶん心配の問題でありますけれども、私は一番基本的には、
日本人の気持ちがしつかりしておるならば、そしてまた
双方の事情をいろいろの人が見られるということが役に立つことではないだろうか、そこで
日本人の主体的な気持ちがはっきりさえしておれば、たとえば向こうさんの
内政上の主義に軽々しく乗って、米帝反対とかあるいは日中共同の敵だとかなんとかいう
考え方は出てこないはずではないだろうかと考えるわけでございます。もう少しお互いに自信を持って対処していきたいものだと考えます。しかし同時に、
現実の
事態としては御心配のようなこともございますし、それから
政府としても、先ほど
松本さんにお答えいたしましたように、
松本さんの御
意見に遺憾ながら反対の点もあることは御承知のとおりで、
旅券法の問題にしてみれば、やはり
承認国との間には
ほんとうに自由濶達に往来をすることはけっこうだと思いますけれども、未
承認共産圏の国との間のことなどについてはこれを留保しておいて、そして
国際情勢の動きやあるいはそのほかの考えるべきいろいろの条件を十分考えて、個別審査でシングル旅券を出すことが、やはりこの際としては穏健な、着実な行き方ではないか、こういうように考えているわけでございます。したがいまして、基本的には旅券というものは、よく人権宣言が引かれるのですけれども、人権宣言的にいうような身分証明書とはちょっと性格が違う、要するに自
国民に対して旅行先の国において保護もしてもらいたい、便宜も供与してもらいたい、そういう性格を持っているものが旅券であると思いますから、野放しに自由放任というわけにはいかないけれども、将来の理想としては、
日本人はどこの国にも自由に往来ができるようにするのが理想である。この理想からいえば私は
松本さんと
意見を同じゅうするわけです。
現実の
事態においてとるべき措置は、ただいまお述べになりましたような御心配や御
意見が相当多く国内にもあるということを踏まえ、かつ先ほど申しましたような国益の
立場で、やはり未
承認共産圏に対する旅券の扱いというものはしばらく一線を画しておかなければいけないというところに、
現実のなかなか微妙な、また警戒しなければならない事情があるという
考え方でございますことを御理解いただきたいと思います。
それからもう
一つ、第二の朝鮮人といいますか、韓国の方々の問題でありますが、たとえば北朝鮮の墓参りに行きたいという希望の方が相当あるわけでございます。
政府としては人道的な
立場に立って純粋な墓参、高齢者でありますとか、北朝鮮に墓所があることが確認され、そしてきわめて穏健な思想の持ち主であるということがわかります場合、数を限定してその往来を認めていこうということは、私は適切な措置ではないかと考えます。
それから北鮮帰還の問題については、これもしばしば
予算委員会で問題になっておるわけですが、
政府といたしましては、現在希望され、かつ
協定がエクスパイアしてから後に申請が残りました一万数千人の方については赤十字にお願いをして、
話し合いがずいぶん進んできているわけで、この点については、もちろん異議はございません。ただ同時にその後どうするかということは、もう将来の問題ですから、こういう点もひとつ日赤、それから向こうの赤十字との間のお
話し合いの成り行きを見ているわけですが、当面
政府として関心を重くしておりますのは、一万数千人の方方で、すでに話がいいところまできているように思うのですが、そのほうを
処理といいますか、結末をつけることが、まず当面の第一義ではなかろうか、こういうふうに考えております。