○
小林参考人 私は
医者でございまして、元
東京都の
衛生行政をおあずかりしたものでございますが、私がこの
沖繩問題に関与いたしました理由から申し上げます。
御
案内のように、
昭和四十年総理が
沖繩に参られたときに
現地の
状況をごらんになって、この
医療を何とかしてやるために琉球大学に医学部をつくって
医者を定着させる、ひいて
沖繩の
医療水準を向上させてやろうという御意向を漏らされたと承っております。それを受けて
総理府では、四十一年六月に文部、
厚生両省の
協力のもとに
琉大医学部設置問題懇談会を長官の
諮問機関としておつくりになりました。
委員といたしましては、
民間側から
武見日本医師会長、それから遠
城寺九大総長、
吉川東大医学部長と私、
役所側からは、きょうも御列席になっている
特連局長、
大学学術局長、
医務局長と計七人から構成せられて、その後の活動に伴って小
委員会あるいは
専門委員会等ができております。私はこの
関係で
沖繩側と接触をいたしました。ただいま
琉球政府の
顧問とか
特連局の
顧問とかいうような辞令もちょうだいしておりますが、現在まで
沖繩に渡ること三十七回に及んでおります。おかげさまで諸
先生方のお力添えをいただきまして、
現地では
保健学部校舎、新
那覇病院建築とも工事が進められておりますし、学生も二期生まで
募集済みでございます。
あとは
本土から
教授陣を派遣するのが次の段階でございますが、しかし、ただいまもいろいろな情勢でこれはなかなか問題が山積しておりまして、
ただ人を送ればいいというような
程度ではございません。この打開の
意見等についても
総理府にも申し上げておる次第でございます。
さて、この
沖繩の
医療事情と申しますと、その完成には、御存じのようにたくさんの島がございますので、
離島の問題がすこぶる重要でございます。私
自身、六十余の島のうち、お手元に差し上げてございます第一図のうち、島の名に
ワクを付しておる島は私
自身が直接渡った、あるいは軽飛行機で低空をぐるぐる回ったとかして調べた島でございます。これらの島の
一つ一つがそれぞれ
事情を異にしている点もございますが、一々は申し上げません。
中間報告として
途中京でのものをまとめまして
総理府に御報告して、
沖繩における
離島僻地医療対策として
総理府からお
出しになっておりますので、これも省略いたします。
沖繩の
医療状況、
病院の数、あるいは
医者の数、こういう
資料も
関係官庁からお
出しになっておると思います。ただ、先週の水曜日に
沖繩からこちらへ引き揚げてまいりますときに、新しい
資料を
琉球政府からちょうだいしてまいりましたので、概略触れておきます。
簡単にいうと、
病院の数、
一般診療所の数、
歯科診療所の数とも
類似県の四分の一ないし二分の一でございます。しかも
病床数六千八百三十五のうち千三百二十、すなわち二〇%は
らい病床でございまして、
伝染病のような、内地では
市町村負担のものは非常に少ないのであります。
離島方面ではもっと格差があるのでございます。
御
案内のように、厚生省が御配慮になって
本土派遣医師を
離島にお送りになっておる。また
沖繩では
医師の免許を持たない方に、いわば軍隊の
衛生兵というような意味で
医介補という名称で
一定の
ワク内での
治療行為を認めております。この二つを除きますと、現実には
沖繩六十余島のうち、
本島、石垣島、
宮古島を除きますと、一、二の島以外ではいわゆる正式の
医師はほとんど定着していないといっても差しつかえないと存じます。
宮古島のわきに伊良部島という島がございます。人口一万余の大きな島でございます。御
案内の日航の
練習場として有名になりました下地島と一衣帯水の島でございます。ここには
本土派遣の
医者が一人きりおりません。このお
医者さんが引き揚げるとか引き揚げないとかいうこともあって、昨年参りましたときに
村長たちから強い要請を受けました。こんなことはしかしざらでございます。この島にはもちろん助産婦さんもおりません。この
医者が引き揚げれば全然何も
医療関係者のおらぬ島になってしまいます。大体
医師、
歯科医師、
看護婦とも
類似県の二分の一ないし三分の一という数であり、しかもほとんど大部分は
本島、それも
那覇付近に集中いたしております。
私は、先週
琉球政府当局に、いまの時点で
医療施設を
本土並みとするにはどのくらい必要かと尋ねましたところが、
病院六十、
診療所五百、
病床一万余という膨大もない数字の御返答がございました。こんなことができるわけはありませんが、これが
本土並みだというので
現状をお察しいただきたいと思います。
沖繩には現在
本土派遣医師が十一、
僻地派遣の
医師が七人という先週の
資料がございます。私はこのうち
僻地医療にわたりまして多くの
方々に
現地で面会してその
状況を調べました。中にはよわい七十にも及んで僻地中の僻地に一人で住んでいる
方々もございます。これらの
方々に
希望の第一は何と生活苦でございます。野菜がない。はなはだしいところでは魚が手に入らない。島でまわりが海に囲まれておるのに北海道産の冷凍魚を食っておるというような方もございます。こんな状態ですから、内地に家族を置いてひとり住まいをしている
方々が大部分で、もっときめのこまかい配慮をしてやらなければ定着をしないと思います。
さきに申しました
医介補は現在五十五名、またそのほか戦後
琉球政府で
医師免許証を
出した人が九人ございます。これらは
復帰の時点で問題となりましょうが、少なくとも
離島僻地では十年、二十年と
住民の生活に密着しておりまするから、この問題はなかなか容易に解決せぬと思います。また
琉球政府はかねてから医学生の国費留学
制度を設けて
沖繩への
医師の増加をはかっておりますが、なかなか思うようにまいりません。最近の数字では、内地へ二百三十四人
出した者のうち、
沖繩に帰った者は二分の一以下の九十七人ということでございます。
以上が大体の
状況でございます。
ここで
復帰を控えまして、いままでの
沖繩での公衆衛生及び
医療のやり方で観念上
本土と違いますところが多少ございますので、それを申し述べます。
その
一つは、
病院の運営についてであります。これは御
案内のとおり、
沖繩は戦後はいわゆるオープンシステムをとってございます。最近はだんだん
本土の形式をとってきましたけれども、これがどうも観念上尾を引いておるのでございます。
第二は、
医療費の徴収の方法であります。これも戦後は大体公費で病気はなおしてやるのだというような
考え方でいたしておりました。したがってこれが
本土のように、
病院経営を
特別会計にするというような
考え方はいまのところはあまりございません。
それから第三は、たとえば保健所法そのものは
本土法と同じでございますけれども、内容がかなり違います。
沖繩の保健所の
努力の半ば以上は、結核患者を公費で管理しこれを治療しておるのでございます。これは
復帰になれば相当大きな変革をしなければなりません。
第四は、御
案内の保険
制度でございます。この保険
制度は御存じのとおり生活保護法による
医療扶助と、公務員及び事業所を対象にいたしまして、一部保険を現金給付でやっておるのであります。現政権は皆保険を政策としておりますが、多くの市町村、ことに
離島などでは財政上のこともあり、
医者のいないこともございまして容易ではないと私は思っております。ただ私は、この際この席上、特に
沖繩の若い公衆衛生
看護婦、内地でいいます保健婦、この諸君が文字どおり、時によっては身の危険をおかして職務につとめておることを私は御紹介申し上げたいと思います。
これらの実情をもって、総理のお考えの、
沖繩住民のために、その公衆衛生なりあるいは
医療なりをどう向上させるか、これは御
案内のとおり祖先崇拝の念の強い
土地でございますので、昔は解剖などということをすること
自身が非常にむずかしかったのでございます。したがって、いきなり医学部をつくるということは非常にむずかしい着想でございます。またかりに医学部をつくって
医者をつくりましても、これを助けるいい
看護婦、いい衛生検査技師、いい衛生統計官がなければ、このパラメディカルコースがなければ
医者は定着いたしません。そこで、
医者を定着させるためには、給与、待遇をよくするとかあるいはいい
医療補助者を置くとかいうことともに、日進月歩の医学におくれないように、医学の研究、研修の
機関が存在することが必要でございます。これらの点を含めまして、さっき申し上げました
委員会で論議の結果、四十二年八月十一日に、
総理府文書にございますように四つの法則を立てました。
その
一つは、将来琉大に医学部をつくるということの必要性は認められるけれども、当面の問題として、第一が
琉球政府立の中部
病院を医事実地修練の実習
病院とする。これはアメリカの資金で運営されて
琉球政府に寄贈されたコザ市外の
病院でございます。現実にその後インターン指定
病院の指定を受け、アメリカ資金でハワイ大学医学部からの派遣教授団が教育を担当しています。
第二は、琉球大学にパラメディカルの保健学部をつくる。これも現在建築中でございます。
それから第三は、
琉球政府立那覇
病院を改築し、医学部卒後教育並びに保健学部学生の実習
病院とする。これも現在建築中でございます。
第四は、公衆衛生施策の強化のために検討するということでございます。
これはお手元に差し上げましたたいへん粗末な表ですが、その表二に書いてございます。その二重
ワクになっているところが、将来医学部をつくればほんとうの広義の医学部になるという意味でございます。
これらのいろいろな諸点は、四十一年十一月八日、九日に
現地でアメリカ側とも協議決定いたしまして、今日までアメリカ側はその約束をずっと守ってございます。
以上が
沖繩での
医療状況と、私どもの
委員会の活動
状況でございます。
ところが、
復帰を控えましてアメリカ側が、ことに軍事予算の打ち切りに伴いまして、諸般の情勢に非常に変化を来たしました。それを中心にここにつけ加えたいと思います。
まず第一に、中部
病院での
医師の卒後教育研修
制度への軍予算の打ち切りでございます。私どもが見たところでは、この
制度は非常にユニークなものでございます。ある意味では、わが国の研修
制度に示唆を与えているといってもよろしいと思います。この
病院は
政府立ですから、もちろん定員の琉政職員の
医者が診療を行なっています。それにハワイ大学
顧問団の資格で十三名ほどの
医師団が送り込まれ、研修生の指導教育だけにつとめております。アメリカ側は一流のメディカル・カリキュラム・プランナーを送ってきて、実にきめこまかい合理的な教育計画を立てております。朝八時から夜五時までびっしり一人一人に組み込んでございます。私は十三名の指導者で
一体何人ぐらい教育ができるかと聞いたことがありますが、せいぜい十五名ぐらいだということでございます。もちろんこれは研修生なりインターンなりの
日本とアメリカでの
考え方また扱い方に非常に差があることでございますが、研修生は一人一人
病院内にハス、トイレつきの一人部屋をあてがわれて、そのほか月五万円ぐらいの給与も与えられております。私はかつて研修生に、いま
本土ではだいぶ騒いでおりまするが、何か不平はあるかと聞いたことがございますが、休むひまがないということと、語学がかなわぬということの二つの不平でございます。もちろん全部英語でやられますので、ことばに困るということでございます。もっとも語学の点は、本人には私は役に立っていると思います。現にこの研修生の中で、アメリカの大学へ推薦された者もございます。私は、こういうのがほんとうの卒後研修の
一つのモデルである、こういうように思っております。現にこの四年ばかりを経てこの
制度は
沖繩の
医師の定着に役立ちまして、約三十名ほどの
医者がプールできてございます。現在
沖繩での基幹
病院の
一つである宮古
病院、これは定員二名の
病院でございますが、この
医療陣が壊滅しております。そこでこの中部
病院から
医者が派遣されてやっと補っておるということでございます。
希望者も去年度八名でございましたが、ことしはもうすでに三十名ほど申し込みがございまして、そのうちから十六名をきめたということでございます。そのうちの三名はしかも
本土籍の学生だそうでございます。ただ指導
医師についても、
医師は月俸二千ドル、約七十三万円でございます。住居、旅費を支給しておりますが、これもアメリカの医学教育の一端だと思います。ところがこのユニークな
制度がアメリカ側の予算打ち切りで来年七月以降は中絶いたす運命にございます。私ども
委員会も
琉球政府もこれの継続方を
希望しておるのでございますが、どうも予算的にはむずかしいようでございます。実はアメリカ側もこの
制度を一挙に崩壊させたくなくて、そして何とか
民間資金でも心配するから、
日本側も援助してほしい、そして四、五年の間にだんだんと
日本側の手に移すような
制度にいたしたいという申し込みもございます。いま交渉中でございますが、その経過によってはまた
先生方の御助力も得たいと思っております。
もっともこういう際に、技術的には
日本側、アメリカ側の資金を
両方運営するというためには、どうも何らかの受けざらが必要かと私は思います。アメリカの大学であるハワイ大学、これと契約をしなくてはならぬ。あるいはアメリカ側と
日本側との教官の給与の差、あるいは住宅問題、これも同等にうまく扱わねばなりません。とすると、直接
政府や府県の
衛生行政事務としては、非常に扱い方がむずかしいのじゃないか。何らかの受けざらでこなさねばならないと思うのでございます。
ただここでお断わりを申し上げておきますが、実はこの受けざら案をこれからお手元に差し上げてございます
医療開発事業団という案でお
出しをして、お手元に概略だけ書いてございますが、これは実は私が今月の十四日にちょうど
沖繩に行く前の日に、
総理府にございます三省連絡
会議で課長レベルの諸君に私案を一度御研究いただきたいということで、御披露申し上げたのですが、
沖繩で実は新聞にどういうわけか知りませんが、
東京発の電報としてスクープされてしまいました。でかでかと書かれてしまいました。そこで
琉球政府自身が研究を始めましたので、ここで実は御披露申し上げるほうがよろしいと思いまして、これは私の独断で御披露申し上げます。
その受けざらとしていま
一つは、
離島僻地の
医療対策でございます。これにも来年度ヘリコプター二機の御心配をいただいたのでございますが、これも御
案内のように
琉球政府の財政硬直化の現況もございますし、また諸国のフライング・ドクター・サービスのいろいろな例を考えてみまするときには、やはり何らかの受けざらで扱ったほうが無難だという
考え方でございます。
最後に、いま
一つ差し迫っての問題は、
沖繩での
医者たちの住宅
事情でございます。御
案内のような
土地柄でございますから、内地での住宅基準そのままでは内地から行き手はございません。先日名護の
病院長から訴えを受けました。名護は御
案内のとおり中部で最も大きな町でございますが、この基幹
病院の院長から訴えを受けたのでございます。給与は相当もらっても貸してもらえる貸し家がない。貸し家があっても、そういう宅には洗面所も便所もない。便所は離して建ててある。
医者が家族の手を引いてふろ屋に通うというようではいい
医者は定着してくれない、こう申されました。これはもっともでございます。
医者たち、ことに
本土から渡った
人たちには、レンタル方式でもいいから何らかの住まいを与えてやらなければならぬ。こういう点もやはり受けざらが必要ではないか。
そのほか先ほど申し上げました
離島におられるお
医者さんたち、これも定着させるためには、きめこまかな配慮が必要でございます。これらはちょっと行政事務から離れておりますもので、
一つの受けざら、すなわち事業体の組織が必要かと思います。
私はここに私案といたしまして、
一つの
沖繩医療開発事業団構想を立てました。その内容は先ほど申し上げたとおり、実は参考として三省に御研究いただいておると思っておるのですが、第一が中部
病院での
医師卒後の研修
制度を現在のカリキュラムの形式で続ける。第二が保健学部、新那覇
病院その他基幹
病院につとめる
医者の住宅を建ててレンタルにする。それから将来海外留学生でも来れば、その寄宿舎の
制度を扱う。あるいはフライング・ドクター・サービス事業を経営する。あるいは
本土から派遣された主として
離島僻地の
医者たちが定着できるようにきめこまかい福祉事業を行なう、というようなものでございます。
現在の一般情勢として、アメリカ側のいわゆる引き潮が非常に早いのでございます。これを追いかけて補てんすべき
琉球政府の現在のいろいろな財政部面につきましては私はここでは申し述べません。しかし、この二年間、
復帰に至る時点の間に
医療事業のようなその日その日の仕事に空白状態ができてはたいへんだと思いますので、その埋めくさの
一つとして試案を御披露申し上げました。ただし、これは緊急かつ切迫したもののみを取り上げてございます。なお、
沖繩の
医療全般の将来の進め方などについても見解もございますが、今日は時間がないようでございまするから、以上で差し控えたいと思います。
沖繩のことにつきましてはいろいろ御心配いただいておりましたが、私どもの
医療の仕事につきましても御助力をいただきたいと思いまして、ここに御清聴を感謝いたしまして私の陳述を終わりたいと思います。(拍手)