○上田哲君
国民年金法の一部改正案につきまして、
日本社会党を代表して、
佐藤総理をはじめ
政府の
見解をただしたいと思います。
国民年金の願うところは、零細な企業に働く人たち、自営業者、農民、つまり、比較的恵まれない立場に働く人々も、老人となって後は、区別なく、豊かな生活を保障されるという姿であります。この立場に立ってこの改正案を見て、総括的に
指摘をしたいことは、どうしてもこの改正案の中には、その理想を目ざす
政府の意気込みが感じられません。この改正案の骨組みの中には、どうしても老人が豊かに安らかにいこうていく姿が見出すことができないのであります。それは単に、現実と未来とのはなはだしい遊離を意味するだけではなくて、いま、
国民年金制度は、ようやく保障に向かって出発をするというのではなくて、
社会保障制度としてはすでに破綻のきざしを明らかにしているということを
指摘し、強調しなければなりません。
国民年金制を破綻に追い込むものは、第一に、慢性的物価騰貴に歯どめのないことであり、第二に、国の財政に熱意のないことであり、第三に、この制度に対する
国民の不信であります。
そこで、
政府は、この改正案に二万円年金といううたい文句を掲げて誇大にバラ色の幻影をひけらかし、実は大幅な大衆負担の増額をはかろうとしております。それは、
政府にとっては大増収でありましょうけれど、
国民にとってみれば、潤いのない砂漠に浮かぶ蜃気楼への払い込みでしかありません。まさにまぼろしの年金と言うべきでありましょう。諸外国に比べてはなはだしく立ちおくれたわが国の
社会保障制度、なかんずくこの
国民年金制度には、その根底に未来を見通す政治の哲学がなく、老人に対する為政者の愛情が欠除しているのであります。
そこで、まず第一にただしたいことは、今回鳴りもの入りでうたわれている二万円年金の、その二万円という内容についてであります。
これまで一万円であったんだから、一挙に倍額になったではないかと
政府は言われると思います。私の信ずるところでは、この二万円には、もともと生活ビジョンとしての何の根拠もないはずであります。それはまた後に譲るとしても、ここで最も大切な問題は、この二万円によって、はたして老後の安らかな暮らしが保障されるかどうかということであります。念のためですが、二万円とは、六十五歳の夫婦二人で合計で二万円であります。さらに、念のために、実際
東京で暮らしている六十五歳の老夫婦を例にとれば、二万円とは、この二人が生活保護を受ける場合より実に五千六百九十五円も低い額なのであります。生活保護よりも低いのであります。
政府は、ものにはバランスがあるとか、一ぺんに理想に到達することはできないなどと言われるでありましょう。もとより、私も、老人の生活だけを一切の
条件を別にしてユートピアの中に置けなどと主張するつもりはありません。しかし、今日、世界の例からしても、国が
確保しようとする老後保障のレベルを生活保護の水準より低く定めようとしていることは、一体どういう政治姿勢でありましょうか。特に、常々
国民総
生産第二位を呼号する
政府の姿勢としては、どう御
説明になるのでありましょうか。そんなことなら、
国民はいまから堂々として月々千二百五十円を払い込んで三十年もしてから二万円をもらうよりは、拠出などは全くしないで、生活保護で六十五歳を迎えるほうがはるかに得だという皮肉な計算が出てきてしまうのであります。これをバラ色と言うことができるでありましょうか。これを
社会保障と言うことができるでありましょうか。これを政治の貧困と言わずして、はたして何でありましょうか。(
拍手)
生活保護家庭のうち、六十五歳以上の老人の占める比率はほとんど二割近くに達しようとしております。その生活はきわめて深刻であります。これに対して、この二万円年金は、過渡的
措置として、七十歳以上の年間所得二十八万円以下という御老人に夫婦で三千六百円を支給しております。三千六百円であります。このような老人の数は、しかし、三百五十万人にも達するのであります。この三百五十万人の老人たちに、
佐藤総理、ほぼ同世代のあなた御自身の実感として、この三千六百円——つまり、この
国民年金でいう二十年後の二万円は、まさにいまの三千六百円の姿に相応するものでありましょうから、このいまの三千六百円、あるいは二十年後の二万円を、はたして十分だとお考えになるかどうか。もしまた十分でないとお考えになるのであるならば、それにもかかわらず思い切った大改定をなされない理由は何かということを、いま三千六百円を受けている三百五十万の老人に向かって、この壇上から語りかける立場で、じっくりとひとつお話を賜わりたいと思います。
あわせて
厚生大臣からは、この二万円がどこからはじき出されてきたかという根拠についてお伺いをしたいと思います。単に厚生年金とのつり合いから出てきたとか、
国民の平均収入の月割りの端数切り捨てによるというような数字合わせにすぎないのか。それとも、標準生計費等の積算といえるほどの根拠があるならば、その根拠を明確にお示しいただきたいと思います。もし二万円の内容に根拠がないとなれば、それはこの
国民年金制が本質的に
国民に対して説得力を持たないものであり、
国民はここに未来をゆだねることはできません。
第二に、この二万円も、実際にはほとんどの加入者には手に入らないということであります。
つまり、二万円年金は、実際には一万六千円年金でしかないということであります。標準年齢の夫婦を例にとって実際に計算してみます。この改正案に従って月々四百五十円拠出していくと、二十年後に夫婦で受け取る金が二万円ということにはならないのであります。四百五十円自身も、実は四十七年七月からはさらに百円上がりまして五百五十円になるのでありますが、しかも、これで積み上げていっても二十年後にやっと一人八千円、夫婦で一万六千円にしかならないのであります。これでは、二万円年金ではなくて、「二八年金」であります。この
政府による誇大宣伝の
責任は重大であります。前に述べたように、かりに二万円の給付を受けるとしても、
東京では生活保護の水準にすら達しないのに、一万六千円では一体老人の生活はどうなるのでありましょうか。
そこで、
政府は、二万円につじつまを合わせるために、この上さらに一人三百五十円を自発的に拠出してもらいたいと言っているのであります。これならば計算が成り立つのはきわめて当然なことであります。しかし、こうしたつじつま合わせよりも、ここでの実際問題は、合計月々千二百五十円も納められるような人は実は
国民年金の加入者の中にはほとんどいないという現実であります。
国民年金の加入者は、零細な自営業者、五人未満の企業で働く
労働者、農民なのであります。そうでない比較的楽な企業を中心にできている厚生年金とは、加入者の暮らしの事情が違います。厚生年金では、これに加入している
労働者の平均所得は年七十万円になりますけれ
ども、この
国民年金のほうでは、加入者の場合は、年収がそれと同じ七十万円に達する人は、わずかに全体の一割しかないのであります。このため厚生省は、この改正案を立案をする過程において、千二百五十円までの強制拠出制をみずから見送らざるを得なかった経緯があるはずであります。つまり、
国民年金加入者二千二百万人のうち九割の二千万人が、とても千二百五十円までは払い込めないことを
政府自身がよく知っているはずなのであります。二万円をもらえるはずの加入者の九割が二万円をもらえないというこの二万円年金は、まさにまぼろしの年金と言わなければなりません。
ところで、二万円年金の破綻については、もっと重要な事情があります。私がここに入手した厚生省自身の資料によれば、今回の改正に基づいて引き上げが行なわれたとして、実はこれから老人の数もどんどんふえていきますから、積み立て資金は一方でどんどん払い出されていくことになりまして、ついに
昭和六十年代の初めには、資金収支が出超になり、七十年代の終わりには、せっかくいまからこうして積み立てていく拠出金は、そこで、からになってしまうという計算が出ております。これこそ蜃気楼年金ではありませんか。そこで重要な問題が出てまいります。このような事情に対して、
政府は、積み立て金がからになるのを防ぐため、遠からず、さらに拠出額を引き上げるための法改正を必ず提案してくるに違いないということであります。しかも、その場合の引き上げ額が八百四十円となることも、すでに計算済みであるはずであります。とするならば、遠からざる時点に、もう一つの改正案が予定されている今回の改正案は、いかなる位置づけになるのでありましょうか。
厚生大臣から、この見通しと背景について明快に御
説明をいただきたいと思います。年金数理上の分析をしばらくおくとしても、このように、さらにさらに引き上げがなされる場合、いまでも五百五十円以上を払い込める人が二千二百万人のうち一割しかないと考えられる
国民年金であるのに、その加入者たちにどうしてこれ以上の拠出を求めることができましょうか。二万円年金の破綻はここに明らかというべきであります。さて、この場合の財源手当は、国庫負担金の増額によって穴を埋めるか、あるいはさらに大衆の負担増をはかるかのいずれかにかかってきます。前者について大蔵
大臣の財政
展望を、大衆負担増の歯どめについては
厚生大臣から御
見解を承りたいと存じます。
第三に、物価変動との
関係についてであります。
いままで述べてまいりましたように、まことにたよりない二万円年金ではありますが、五年後、十年後の生活設計を成り立たせない物価の不安定の中で、
政府は、たとえば、いまからかけ始める二十歳の青年に四十五年後でなければ手にすることのできないまぼろしの果実のために、月々の拠出をすすめる自負がおありになるでありましょうか。もし
政府にその自負がありとするならば、長期にわたる拠出金が物価変動の波の中でその価値を変えないだけの十分な裏打ちを行なうべきであります。現に今日まで繰り返されてきた
国民年金法の再三再四にわたる改正は、実は将来の保障を手厚くするためではなくて、打ち続く物価騰貴にその足もとを掘りくずされてしまったからにほかなりません。かつて
昭和三十六年、一人百円ずつの拠出で発足したこの制度は、今回の改正案では二人で千四百五十円に達します。今日、わが国
労働者の平均賃金三万八千円のうち千四百五十円は四%に当たります。定期預金の利率をもしのぐインフレーションの中で、このように眼前の苦痛のみ多く、未来に保障を託せない制度に賃金の四%を吸い上げていく政策は、
労働政策上からも黙過できないはずのものであります。この際、
労働大臣の御
所見を伺っておきたいと思います。
国民皆年金は、
社会党もかねて主張するところではありますが、二十年後、このままでは小判が木の葉になろうかと疑われる不安の時期に、この保険料の大幅引き上げは、形を変えた増税というべきであります。しかも、
政府があえて二十年後の老齢保障のため資金の増額をいまにしてはかろうとするのであるならば、それを加入者の
機械的な拠出増に求めるのではなく、
政府の国庫負担金の増をもってこれに充てるべきであり、そのことは激しい物価高を押える力のない
政府の、
国民に対するせめてもの消極的
責任論というべきでありましょう。
政府が老齢保障を口にされる限り、この精神を否定することはできないところでありましょうが、しかし、財政事情がこれを許さぬとでもいわれるなら、一歩譲って、少なくとも、この引き上げに際しては、物価変動に対応するスライド制を導入することは、きわめて当然の理論といわなければなりません。それでも
政府が、このことをあえて避けて通るとなれば、老齢保障制度充実への熱意のことばとは、はなはだうらはらなものといわなければなりませんが、それでは最低限、たとえば西ドイツの六七年の大改正のときのような強力な特別
委員会等を設けて、スライド制の検討に取りかかる考えはないかどうか。これらの点について、大蔵
大臣、
厚生大臣の御
見解を承りたいと思います。
第四に、この改正案に伏在している
政府の財政上のねらいについて、ただしたいと思います。
このように実り少なく、不安のみ多く、しかも加入者には当面まるで税金の引き上げそのものでしかない改正案をあえて提案する
政府のねらいは、老齢保障の目的とは別にあります。激しい物価変動の中、二十年後の二万円に信頼を置く
国民はありますまい。この点は、率直に言って
政府も同様であろうと思います。しかし、
政府にとって公然のメリットは、この
国民年金制度こそ、きわめて低利確実な大衆的資金調達の道だということでありましょう。今回の改正によっては、わずかに九カ月間で三百億円をこえる資金が
政府にころがり込むことになります。
政府は、これを資金運用部から財政投融資の原資に繰り入れ、このうち二五%のみを、いわゆる還元融資に充てることにしています。しかし根本的には、この資金こそは、保険料の拠出者である零細な企業の
労働者、農民、自営業者たちに直接役立つように運用すべきであるというのは、きわめて当然な主張であります。ところが、今日のようなあり方では、
国民年金の美名のもと、二千二百万の零細な拠出者大衆は、あやふやな二万円年金の蜃気楼にいざなわれつつ、
政府の資本蓄積の手段としてのみ奉仕させられることになってしまいます。今回の改正案は、このことにさらに拍車をかける結果しか生じません。このような事情をしょって立つならば、本改正案の
趣旨説明も、実は
厚生大臣によってではなく、むしろ大蔵
大臣によってなさるべきが適当であったのではないかと言いたくもなるところであります。
政府が、このような批判に正当にこたえるためには、
国民年金資金会計を直ちに独立せしめ、広く拠出者の代表を加えた年金積立金資金運用
委員会のごとき機関を設けて、拠出者に納得のいく形をとるよう
措置すべきだと考えますが、この点について、大蔵
大臣、
厚生大臣から御
見解を承りたいと存じます。また、直ちにそのような
措置がとり得ないというのであれば、当面、年金資金の特別勘定制を設けるべきだと考えますが、この点について、あわせて御答弁をいただきたく思います。
最後に、第五、今後の
国民年金のあり方についてであります。
当初に述べたごとく、諸外国に比べて決定的に立ちおくれたわが国の
国民年金制度には、わが国の
社会保障の未来を見通す政治哲学が欠除しています。いまや国際的に評価を高めようとするわが国にとって、
社会保障の充実こそ国の基であり、軍備の強化などとは断じて同列に論ずべきものではありません。一生を働き終えて、老後の保障に力を尽くしてくれないような政治の中では、どうして国を守る気概などが生まれましょうか。西ドイツでは、人口の一五%をこえる九百万人が年金を受給しており、国の財政に大きくかかわってきております。また、イギリスでも、年金論争が重大な政変を予定するといわれております。世界で七番目の人口を持つわが国においても、老齢人口の増加は急速に進む
傾向にあり、現在は六十五歳以上の老人は百人に七人の割合でありますが、二十年後には十人に一人となります。これに対して、現在のような没理念のびぼう策に終始する年金制度は、間もなくあの医療保険制度のたどった道と同じ危機の道を歩むことになるのは、もはや必至の形勢であることを強調しなければなりません。わが国も、これまで保険
主義にこだわってのみ進めてきた年金制度の考え方を、いわゆる保障
主義のあり方に大きく転換させることにするのかどうか、また、これまでどおり積み立て方式で進むか、あるいは西ドイツのように、賦課方式をとるかなど、長期方針を策定すべきときが訪れています。いまや、あすの政治に求められているものは、
社会保障のあり方、特に年金をもってする所得保障のあり方へ向けて、いかなるビジョンを提案するかにかかっております。おくればせながら、わが国の
国民年金も、今年法制定十周年を迎えました。もはや、今後の新たな十年、いや三十年、五十年の未来の年金像を明示すべきときでありましょう。しきりにハーマンカーンを引いて日本の未来を明るく占う
佐藤総理、ここで
国民年金に対する
国民の不安を解かんがためならば、長期の方針に立つ年金ビジョン白書を一日も早くつくり上げて世論に問い、未来の設計を世論とともにすべきだと思いますが、いかがでございましょうか。それは今後二十年ないし三十年、一方的に拠出者であり続ける
国民に対する政権の統帥者としてのあなたの公約ともなると思います。本日はまたこの機会に、日本の政治の未来像としての老齢保障のビジョンについて、この制度の成熟期となる二十年後の国会に向けて、当時の
総理大臣はこのような抱負を語ったといわれるほどの確固たる所信を明らかにしていただきたいと思います。次の世代への証言としての誠意ある御答弁を期待して、
質問を終わります。(
拍手)
〔
国務大臣佐藤榮作君
登壇、
拍手〕