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国務大臣(
坂田道太君) 今度の凶悪な犯罪は許すべからざることでございます。しかもそれが十九歳の少年、やりましたときは十八歳だったと思うのでございますが、それからまたライスシャワー大使をけがさせたのもたしか十九歳だったと思います。やはり
青少年のものの考え方というものが非常に自己コントロールというものを失ってきておる。衝動的に、
条件反射的に、このことがどう在るかというようなことを考えないままにやるということは、
一般的に今日の
青少年にいえるのではないか。これのやはり原因はいつか申し上げましたように、戦後のやはり視聴覚
教育、あるいはいろいろな映画、その他風紀に関するような問題がもう子供たちの目にあるいは耳にあるいははだに直接入ってくる。そうしてからだは大人並みになっていて欲望をかきたてられるというところにもあったと思いますが、さかのぼりますと、まず第一に、やはり家庭
教育というふうに思います。また小・中・高の
教育の段階におきまして、倫理感といいますか、道徳
教育的な問題というものがやはりある。その点について私は考えますと、今度のこの犯人の家庭環境から考えますと、おとうさんが亡くなっておるという家庭的な一つの問題があって、
一般の両親があってさえなおかついろいろの問題が起きておるのに、そういうような家庭環境に育ったということ、まあ金をほしさにとにかくああいうようなことをやったという結果におきまして、一面考えますると、また被害者的な面もある。われわれのおとなの社会というものをもう少し考え直してみなきゃならない幾多の問題を示唆しておるのじゃないだろうか。あるいは
学校教育においても、あるいは
社会教育の面においても、私たちはこの自由社会という社会は、そういうものは一応
本人の責任にゆだねるという形、なるたけ強制力をもってやらないというたてまえになっておる。ところが問題にしているのは
法律であり、制度である。しかし
法律、制度以上に、その
前提となるべきところの良識あるいはモラルというものを私はもう少し自由社会においては声をあげて、マスコミも、またわれわれ政治家も、おとなも考え直してみなきゃならないのじゃないか。われわれの一挙手一投足というものがどういうふうに
青少年に影響を与えるかということを考えなきゃならない。家庭でもそうでございます。また、われわれ政治家としても、その政治家の行動というものを考えなきゃいかぬ。同時に、今度は小・中・高の先生方も、教壇に立たれる以上は、その点について、自分の一挙手一投足というものがどういうふうな影響を与えるか。単に
法律に違反するとか違反しないとかいうことの、その
前提としての、いわゆる公民としての
教育と申しますか、あるいはモラルの問題というものをもっともっとわれわれは議論しなければならないのじゃないだろうか。その点が多少われわれには欠けておった、われわれ
文部省としても
指導、助言について、あまり
本人にまかせ過ぎておったというところは、やはり今後反省し、考えていかなきゃならない問題じゃないだろうか。その意味において、やはり
社会教育というものがもっと
充実をし、そしてその
社会教育の
指導者と申しますか、そういう人たちの養成ということがやはり今後のわれわれの目標でなければならぬ。その点について、まあ不十分ではございますけれども、着々一歩一歩進めております。しかしながら、もっともっと私はこれを強化し、そしてその
指導者と申しますか、
社会教育あるいは公民
教育の
指導者という人たちがしっかりした考え方でもって
青少年の
教育に当たってもらいたい、かように考えるわけでございます。ただ、また受け取る親や子供たちの側から見た場合には、単にそういうような
指導を待つばかりでなくて、自分自身が親は親として、子供は子供として、それぞれの発展段階に応じて自分の行動というものに対して、それがどういう社会的影響を与えるか、あるいは道徳的な心情というものをどうやって自分は養っていくかということについて、やはり
教育の一番大事な問題として取り上げてもらうということも必要かと思うのでございます。これは
大学生になったからということじゃなくて、やはり小さい子供のうちに、自分のことは自分で始末をする、あるいは自分は人に迷惑をかけないというようなことが、やはり一番自由社会において大切なことであって、基本的なことであるのじゃないか。そのことは、やはり家庭
教育の、小さい段階でも求められるべき問題である、かように思うわけでございまして、その意味において、父親や母親の責任がある。あるいはまた
小学校あるいは
中学校、
高等学校の段階、それぞれの段階において、そういうところに重点を置いたものの考え方ということが、これから日本の国の
文化国家、あるいは
教育の普及した国家として、単に経済的な水準が高まるということだけではなくて、精神面における
充実ということのほうに向かわなければ、真の意味における平和国家というものが生まれてこないのじゃないだろうか、あるいは福祉国家というものは生まれてこないのではないかというふうに、基本的には考えるわけでございます。