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久保等君 申し込めばすぐつく電話というキャッチフレーズで、かねがね四次五カ年
計画を進めておられたのが、なかなかそこまでいかないということで、
先ほど来言われておりますような数字になってまいっておるようですが、今度、申し込めばすぐつく電話にかわって、三世帯に対して一世帯少なくとも加入電話を設置したいという目標を立てておられるようですが、このこと
自体も、やはり私は非常な
計画であり、たいへんな努力をしておられると思うのですが、なおかつ
国民の
要望なり需要からすると、これまた規模小さきに失するのではないかというように
考えます。というのは、なるほどいま
お話しがありましたように、四十七年度末には、いま
お話しのあったように八百九十万、約九百万の住宅電話を設置するというのですが、確かにいままでの過去を振り返って見ると、これは驚くべき
計画なんですけれ
ども、しかし、一般の世間の情勢等をあれこれ比較して見ると、これではどうも
計画としては小さいのじゃないかというふうに
考えます。というのは、よく、最近非常に爆発的に普及してまいっておりますテレビなんかとの比較を
考えてみましても、テレビは、これはもちろん電話と違って官庁、会社などにはほとんど数としてはないと思うんですが、電話の場合には全体の数字で非常に大きなウエートを従来占めておったのは、何といっても営業用といいますか、官庁、会社等はもちろんのこと、それからまあだんだんに住宅の方面に移ってまいっているという傾向だろうと思うのですが、しかし住宅電話が八百九十万
程度四十七年度末についたといたしましても、
考えてみれば三分の一ちょっと、大体三分の一ですが、なるほど三世帯に対して一世帯という目標に対しては一応達成したことになろうと思うんですけれ
ども、しかし三軒に一軒という
程度では、これまたやはり時代の伸展に沿いかねるのじゃないかと私は思います。
これはちょっとよけいな話なんですが、最近電話というものの利用について、ちょっと教えられるところがあって、ここで御披露したいと思っているんですが、実は新川和江さんという、これは詩人ですけれ
ども、「PHP」という小さな雑誌が出ておりますが、それの昨年の七月号に「熱い声たち」、ホットですね、「熱い声たち」という題名で小さな論文が——論文というか、小文が載っておるのですが、これをちょっと読んでみたいと思うんですけれ
ども「——今日は、電話が鳴らなかった。——今日も、だれからも電話かかからなかった。——今日は、間違い電話がふたつ。——今日は、電話なし。——今日も、人の声が聞けない。−まちがいでんわさえ、かかってこなかった。」これがちょっと詩らしいんですが、「立原えりかさんの『風の中のめんどり』という小説を読んでいたら、こんな数行があった。どこかの国の、ひとり暮らしの老婆が挿話ふうに語られていて、小説の本筋とはかかわりがないのだが、私は読みながら血の気のひく思いがした。話し相手もなく、電話をかけてくれる友だちもみんな死んでしまって、一日、猫としゃべっていたという年とった女。コンクリートの壁に仕切られたアパートの一室で、だれも知らぬ間につめたくなっていたという老婆のかたわらにあった日記帳のさいごに記されていたことばが、それなのだった。「おばあさんになって足腰が立たなくなっても、枕許に電話器をそなえつけといて、日に一度、あなたからチリチリンとくればね」「だいじょうぶ、だいじょうぶ、まかしといて。朝から晩までチリチリンやってあげるから」気のおけない同性の友だちと、そんなことを言ってはよく笑い合うが、老後のイメージを、そこまで追いつめて思い描いたことはなかった。ないというよりも、避けよう避けようとしていたイメージを、その数行にいきなりつきつけられた、と言ったほうがあるいは
ほんとうかもしれない。いまでも、親しい友だちからの電話のない日が一週間も続けば、たちまち、さきの老婆が書きのこしたような日記を、つけかねない心境に陥ってしまう私なのだ。家族がいるのにと、ひと様はおっしゃるけれど、家族はタテの
関係である。私のように、ヨコとのつながりがなければ、ひろびろと生きた心地になれない人間は、友人は時として夫や子供よりも大事に思える存在だ。」中略をしまして、最後のほうですが、「時おり電話口で、小一時間もギターを弾いて聞かせてくれる友がいる。優しい雨のように、それは私の乾いた心をしめらせてくれる。できたてのホットな詩を、即刻とどけてくれる友。ベトナム問題について、大熱弁をふるう友がいるかと思えば、「星占いによるとね、あなたの持ち花は、薔薇とすみれですって。今日はブルーの着物を着てらっしゃい。いいことがあるそうよ」朝早く、女友だちの、はなやいだ声がひびいてきたりする。いずれにせよ、それらの声たちが、私の一日を、いきいきと息づかせてくれる。この声たちの、訪れがなかったら、タテの
関係だけの中で、私はとうの昔に窒息し、ひからびていたにちがいない。」という小文なんですが、私の言いたいのは、要するに電話の効用がこういう面にもあるかということで、実は思いを新たにしたような
意味でちょっと読み上げたのですが、こういうところにまでいきますと、電話も何か肉体の一部である、それからまた人と人との
ほんとうのかすかな命のつながりという形で電話がもう離れられない存在になってしまって、いまにも死にそうなおばあさんが電話を枕元に置いて、その電話
一つがこの世との連絡電話みたいなことになっておる。それに対してこの新川和江さんが非常に感激をし、自分も電話のお陰でその日その日が非常に張り合いを感じて生きておる、こういうようなことを言っておられると思うのですが、電話の長話も必ずしもあまりやかましく言えないような気がするのですが、もちろん公衆電話については、こういうことがないだろうから問題ないと思うのですが、いずれにしろ、とにかく、ギターを聞かしてもらったり、あるいは朝起きたらちょっと
あいさつを遠く離れておっても電話で聞けば、何か面と向かって話をしている気持ちになる。電話の利用は、こういう面があるかということを再認識したのですが、そういう点からいうと、言いたいことは、住宅電話というものも度数の多い少ないにかかわらず、われわれの
考える以上にたいへんな
一つの
役割りを持っている。われわれの
考えるのは、そば屋に電話をかけるというようなドライなものの
考え方で電話の利用価値を
考えるのですが、何分詩人でありますから、こういうことに敏感なのかもしれないけれ
ども、こういう形で、電話も一面お役に立っておるようです。したがって、住宅電話の問題も、テレビが今日すでに二千万を突破いたしておりますし、四十七年度末にはどのくらいになりますか、おそらく二千四、五百万ぐらいになるのじゃないかと思うのですが、そうだとするとやっと九百万足らずの加入電話ということでは、これまた時代の要請にこたえられないのじゃないかという感じがいたします。したがって、三分の一世帯電話設置が非常に
一つの大きな目標のようになっておるわけですし、もちろんきめた
計画はやらなければなりませんけれ
ども、やはりこの面でもさっき申し上げたようになかなか積滞が予想以上に四十七年度末には私に出てくるのじゃないかと思うのです。したがって、その点は
先ほど来御
答弁がありましたから、押し問答みたいな形で繰り返して申し上げませんけれ
ども、九百四十万個という問題も、弾力的に、積極的に私は
考えるべきだと思うのです。それと切っても切れない
関係は資金の
計画、したがって、九百四十万個を前提とした資金
計画ということでは当然そこが出ると思いますし、それから四十八年以降どうするという問題もありますから、そういう長期
計画を一体のものとして、ぜひ、私はとらえて 検討願いたいと思うのです。そのために若干の時間がかかっても私はやむを得ないと思いますが、
先ほど佐藤調査会の経緯を伺いますと、とにかく三十九年に
総裁のほうから諮問をして、答申が出されたのは翌年の九月ですから、まるまる一年かかっております。まるまる一年かかっているんだから、いまから
考えてみると、若干計数の面で甘かったり辛かったり、とにかく相当の誤差が出ているようです。したがって一年かかって検討しても、そういう結果が出ることを
考えると、
総裁の言われるように、ここ一カ月、二カ月で、いまのところは、われわれにここで
説明できない状態の中で、七月前後に出すといわれても、私は別に
総裁を疑うわけではありませんが、物理的に不可能ですよ。だから、この際は、率直に、とにかくじっくり時間をかけて最低一年くらいはかかるでしょうが、その間にひとつしっかりした資料を集めて検討して四十七年度末に限らず、第五次五カ年
計画を含めて、せめてそこのところをコンクリートしたものを検討したい、こう言ったほうが現実的だし、なるほどそうなれば、今度こそ説得力ある資料でもって、私
どもも
計画を伺えるという期待を持つが、七月ごろに早々とおつくりになって結論を出されるということは、物理的に不可能だと私は思うのですが、そこらのところをもう少しひとつ虚心たんかいに御
所見を伺いたいのですがね。それこそ
総裁、副
総裁再選をされた直後ですから、少し思いを新たにして、
決意を新たにされると同時に思いをひとつあらたにして私は取り組まれることのほうが賢明だと思うのですが、いかがなものでしょう、ひとつゆっくり御
答弁ください。