○
参考人(好美清光君) 私は
法律学をやっている者としての立場から申し上げてみたいわけですが、私の申し上げますことのうちで、いろんな
法案に対する批判にわたるものもございますが、もしもそれが
現実の段階で、もはや修正不可能であるというようなことだと、かりにいたしましても、たとえば衆議院で佐藤総理なども、現在のところ、とりあえず当面必要、実施可能なものをまず始めてみるのだと、今後の運用状況いかんじゃ、じゃんじゃん改正していくことも考えると、こういうことも言っておりますので、もしも修正不可能というようなことでございましても、将来前向きの方向で改正をする際の
一つの考慮すべき問題性を指摘するというようなことででもお受けとめいただければありがたいと思います。
それから戒能先生のほうからは、主として、まあ私どもの尊敬するすぐれた民法学者の先輩でもございますが、主として大所高所からの御見解を御
発表なさいましたけれども、私は、なるべく重複しないように、そしてこの紛争
処理法案の諸問題点に即して私なりの
意見を申し述べたいと存じます。
まず、紛争
処理法案。第一は、紛争の対象です。この
政府案は
公害対策基本法二条を受けておりますから、相当範囲にわたる
公害でないと
紛争処理に乗っかってこないということになっております。しかし、たとえば、少なくとも四十九条、これは修正されましたが、ここに地方公共団体の苦情相談などという問題がございますが、こういう問題では、たとえば近隣者同士のクーラーの音が高過ぎるとか、あるいは日照の問題であるとか、こういうような苦情の相談に乗ることぐらいは市役所あたりでやってもよさそうです。こういうものも当然に、義務としては引き受けない、こういうような形に自民党・
政府案はなっているようなので、このあたり、たとえば社会党案のように、初めから相当範囲を削除するとか、あるいは公明党案のように、
紛争処理では相当範囲だけれども、苦情
処理では近隣の問題も扱う、さらには基本法二条にあります日照の問題も扱うというような、民生
委員的な役割りとでも申しますか、そういうようなもっときめのこまかい
法案にしていただけたらという感じがします。
第二に、中央
委員会を行政組織法の八条機関、あれでいいのか、あるいは三条機関にすべきかという問題です。純理論的に言えば、三条の行政
委員会のほうが不偏不覚、独立して職権を行使し得る観点からベターであるということはもう論議の
余地はないと存じます。ただ、実際問題として、おそらくこういうふうな案になったのは、どの
程度こういう、
紛争処理機関の利用度、それから仕事の量があるかという見込みなどとの関連であろうと思いますし、また、あるいは
政府の
公害問題と取り組む意気込みの
程度がこのあたりでうかがえるということが言えなくもないかと思いますが、実質的にさらに考えてまいりますと、三条機関にするか、八条機関にするかということは、どれだけその機関が不偏不党の立場で独立的に仕事がなし得るかどうかという問題だと思います。その点では、たとえば
政府案でも、中央
委員会の
委員長、
委員の任命のしかたであるとか、あるいは独立して職権を行使するという規定、あるいはいろんな政治団体と
関係することを禁止するとか、そういう中立性に対する配慮はある
程度はうかがえる。まあ欲を言えば、三条の行政
委員会にしまして、たとえば
委員会に規則制定権を与えるとか、それからあるいは
委員会の下に独立の事務局を置く、それから専門調査員を独立させる、こういうようなことも確保したいところなわけです。特に、独立した事務局を置くということは、私はしろうとでよくわかりませんが、かなり重要な問題ではないかという感じがいたします。と申しますのは、最近の
公害調査の結果の
発表についての各省庁の利害の
関係の対立からして、結論的には押し合いへし合いで、結局は妥協的なものになり、企業
責任というものを非常に薄めるような形のものが
発表されて、新聞からたたかれたということを考えてみれば、容易にそういう危惧の念は持てるわけです。ただ、修正がもしも不可能であるということでありますれば、現段階の問題としては、
委員にどういう人を得ることができるかという問題だと思います。これについては、国会の同意権という段階でチェックすることができるわけでございますので、このあたりで皆さんの御配慮を期待いたしたいという感じがいたします。
それから、かりに三条機関にするといたしましても、たとえば
公害防止の設備をしろということを命ずる、あるいは極端に言えば操業停止を命ずる、こういうような行政処分的な権限を付与することが妥当かどうかという問題もございます。今度修正案で、おそらく社会党あたりの案を取り入れたのだろうと思いますが、衆議院の修正
法案によりますと、科学者による専門調査員を中央
委員会には入れるということのようでございますから、私はそういうようなものをも踏まえたいろんなことがなされるとすれば、このような権限も中央
委員会に与えるという方向に持っていくほうが原則的にはいいんだというふうに考えます。ただ、現在はこういうような権限は、それぞれの実施官庁、行政庁が持っておりますので、この点の調整が問題で、これは単に
公害問題云々ということだけでいじるわけにはいかないので、もっと大きな行政機構全般の改革という問題の一環としてでなければどうもうまくいくまい、そういう
一つの問題点を指摘しておきます。
第三に、地方の
審査会でありますが、これが任意設置にまかされているということ、それから独立性が中央の
審査会に比べると非常に薄く、都道府県知事等のいわば諮問機関的なものに近い性格を持っているという点、そういうことで、特に地方の政治が、よく聞きますところによりますと、その地方にあります大企業に政治的にも経済的にも、あるいは就職の面でも大きく依存しているという、そういうような企業への癒着というものを考えますと、こういうような
審査会で一体、あるいはさらには
審査会を設置しないで、知事が適当に適当な人を選んで、候補者を選んでやらせるということで、こういうことでどれだけの独立した職種の行使ができるのかと非常に疑問を持つわけであります。
それから、これに関連いたしますが、
調停、仲裁の際に、企業に対して文書や物件の
提出要求をする、あるいは立ち入り検査権を認めるということは、これは非常に大きな前進だと思います。従来、企業側は企業機密ということを
理由にしまして立ち入り検査を認めなかったり、あるいは廃棄物をすら提供しなかったり、他方では
被害者のほうは資力がないので、そういうような科学者を使うことはできない、こういうようなことが実は
因果関係の証明等に非常に障害になっていたわけですが、こういうようなものが強制的にできるということによって、非常に適正な
公害問題の
被害者救済のあるべき適正な
処理ということが可能ならしめられる
一つの手がかりになり得る、こういうふうに思うわけです。ただ、いまさっき申し上げました地方
審査会との関連で申しますと、実は当事者の呼び出しといいますか、出頭要求権は中央
委員会も地方
審査会も持ちますけれども、文書、物件の
提出要求権及び立ち入り検査権は地方の
審査会には認められていないわけです、
政府案によりますと。これではちょっと微温的過ぎてどうであろうかという感じがますますするわけであります。
第四に、第二のところで述べました中央
委員会に行政処分をする権限を与えるべきかということとの関連で、それは行政改革というものの一環でなければまずいだろうということを申し上げたわけですが、そのこととの関連で、重要なことは、
政府法案、それからほかの政党の
法案もすべてでございますが、四十八条にあります
委員会の「
意見の申出」という制度でございます。つまり、
公害問題の紛争の
処理を通じて、
委員会のほうで考えた
公害施設の除去あるいは改善、こういうようなものについて、
委員会から、あるいは
審査会から各所轄官庁に申し出があった場合、そういうような
意見を所轄官庁に申し出られることになったわけですが、その際に、所轄官庁のほうで誠実にそれに対応して権限を行使するということが望ましいのは言うまで一もございませんが、できれば、たとえば行政管理庁の勧告のように、各実施官庁に、
一定期間内にそういう措置をしたのかしないのか、その
意見の申し出に対して、そしてその
理由はなぜか、こういうことの回答義務を負わせる、そして
一般世論がそれを監視する、こういうようなところまで詰めておいたほうがベターであろう、こういうふうに思うわけです。
第五に、
紛争処理方法であります。現在のいろんな
公害に対する特別法規にあります
和解の仲介という問題を越えまして、この
法案におきまして、
調停それから仲裁をなし得るということにして、しかもそういう諸法規にありますいろんな
紛争処理方法の諸規定を本法にある
程度統一するということは
一つの進歩であるというふうに評価できるわけです。しかしながら、
和解の仲介、それから
調停ということでありますと、これはある
程度は私動くのではないかと思います。まあ日
本人は、
裁判所というのはどうも行きにくいけれども、まずはお役所へ苦情を持ち込むということがありますので、
裁判所よりは、
和解の仲介あるいは
調停というのは動き得るのではないか。しかし、これも実は限定づきで、
あとでまた
裁定の問題と関連さして申し上げますが、とにかくそう言えますけれども、問題は仲裁であります。
明治時代に民事訴訟法ができて、そこに、すでにそれ以来仲裁制度というものが規定がございます。しかし、いろいろ
裁判実務の方の書かれたものなど見ますと、仲裁制度はほとんど利用されたことはない。民事訴訟の仲裁制度は、そこまでは
裁判官が関与しないのに、当事者二人の間である人をきめて、あの人の言うことなら何でも全面的に終局的に拘束されようという約束をしてある人にまかせる、こういうことは避けたいという配慮もありますし、いわんや今度の場合でありますと、企業の場合には申しわけないのですが、現在企業の持っておる、少なくとも現在までに企業の持っておる
公害問題に対する倫理感と申しますか、
責任感と申しますか、そういうものからして、両当事者が合意をしなければなされない仲裁などというのは、そうそう容易に乗ってくるはずはなかろうという感じもして、ただでさえ動かない民訴の仲裁制度、それを持ち込むことは、ますます単なるアクセサリーにすぎないのではないか。こういうような悲観的な、運用それから実効性を感ずるわけであります。仲裁制度にするなら、むしろ、職権でもなし得る、つまり一人の当事者が申し出れば職権でもなし得るというような職権仲裁というようなものならまだ話はわかりまするが、しかし、またそれになりますと、実は終局的には私人間の紛争解決というものは
裁判所がすべきであるというようなことの関連から、ちょっと好ましくない。そういうことで、私は、やはり
裁定制度、
裁判所に不服申し立ての道の開かれている
裁定制度というものをとったほうが、この制度は動くのではなかろうかというふうに思うわけであります。
裁定制度はかなり判決と似てまいりますけれども、実は中央
委員会のほうには――また
裁定というのは主として中央
委員会だけが仲裁にかわってするようなことになるのだと思いますが、ここには専門調査員を置くことになります。で、困果
関係の証明というような問題も、
因果関係それ自体がどの
程度でなければならないかということは、戒能先生も言われたように、いろいろと
法律学上問題がございますが、それはさておき、とにかく
因果関係の証明ということも、現在の
裁判制度よりはよほどうまくやれるであろう、
裁定の場合。つまり、
裁判の場合には、
被害者が自分の費用でもって科学者を使ってそれを証明し、それを
裁判所へ証拠として
被害者みずからが出してこなければ
裁判の土俵に乗っかってこないわけであります。それに対して、
裁定の場合には、専門調査員を職権でもって
委員会が使って、そこで
因果関係を証明させる、そういうことで、よほどうまくやれるのではなかろうかと思うわけであります。
因果関係の証明というものがいろいろ言われておりますけれども、実は、専門のことは
藤野先生などが言わなければなりませんが、おそらく大
部分の場合には、現在の自然科学のレベルでそもそも
因果関係の証明は不可能なんだということではなくて、そうではなくて、むしろそういうような現在到達している自然科学のレベルを
被害者みずからが使うことができないというような社会構造的な
一つの問題があるのではなかろうか。その点で、専門調査員というものを
委員会の下に置くということは、そういうような社会的な欠陥というものを克服し、そうして
因果関係の証明というものをより容易になし得るという方向に進むものとして、私は評価したいわけです。
さらにまた、
裁定という伝家の宝刀があればこそ、実はその前にあります
和解の仲介だとか、あるいは
調停だとかいうものにうまく当事者が乗ってきてくれるのだと思います。
裁判所ではかなり
和解をさせるわけですが、これも実は、私は
裁判官をちょっとだけやったことがございますが、これは実は、
裁判所がやってくださいます
和解に乗っからないとどういう判決がおりるかわからない、大体
和解の線の判決あるいはもっと不利な判決がおりるのではなかろうかという、こういう気もあるので
和解に乗っかるので、全然無力の人がやってみたって、そうそう乗っかってくるはずがない。こういう
意味でも、
裁定制度があるということそのこと自体が、それを行使しなくても、その前提であるところの
和解及び
調停というものをうまく動かせる
一つの作用を営み得る、こういうふうにも考えられるわけであります。
もっとも、
裁定制度を社会党案は取り入れておりますけれども、私はこれにも幾つかの問題があると存じます。つまり社会党案は
裁定制度をとれということをいっている、あるいは言いっぱなしている、
法案自体が。これではいろいろと問題があります。
第一に、現在
裁判所は三審制でやっておりますが、それでも最高裁までかなり訴訟が長引くということが
一つの問題なわけです。ところが、社会党案によりますと、御丁寧にも
裁定前置主義とでも申しますか、まず
裁定を経なければ
裁判所には訴えられない、原則として、こういうたてまえをとっているわけです。そしてそれだけを言っているわけです。それでは四審制になってしまう。そういうことが
一つです。むしろ、あり方としては、直接
裁判所へ持っていってもあるいは
裁定を経由していってもいいというふうに、メニューをたくさんつくっておきまして、そのどれを選ぶかは
被害者が弁護士と相談して一番いいものを選んでいくというふうに、自由におまかせしたほうがいいのではなかろうか。
第二に、専門の調査員の判定をも踏まえたせっかくの権威のある中央
委員会の
裁定であります以上は、たとえば独占禁止法における公正取引
委員会の審決に対する
取り消しの訴えの手続のように、むしろもう地方
裁判所は飛ばしまして、第一審として東京高裁へもっていくというふうに訴訟管轄をきめてしまう。さらには、その場合でも、
裁判所に行ってから新たな証拠を
提出する、新たな証拠を申し出る、その
裁定に不服な方から。こういうことで、たとえば独占禁止法の第八十一条のように、こまかなことは省略しますが、特別の事情のある場合に限って許す、そしてなるべく
裁定における事実
認定を尊重させるというふうなくふう、こういうような手当てを加えないと、ただ
裁定前置主義と言いっぱなしで、訴訟遅延とか、そういう中ではかえって裁害者
救済にならない、こういうふうな問題があるというふうに感ずるわけです。
それから次に、非公開の原則、これは原則としてそれでいいと思います。いろいろな他の党の案もそのとおりになっております。ただ公開問題というのは、単に訴えたその両当事者一対一の二人だけの問題ではなくて、
被害者はそのほかにもたくさんいるわけです。あるいは
一般社会も大きな関心を持って見守る、いわば社会的な性格を帯びた
争いごとなわけですから、原則は非公開だとしましても、
委員会が相当と認めるときは傍聴を許すというような可能性はやはりあけておくほうが好ましいと思います。さらに、非公開の原則を是認すると申しましても、それはあくまでも話し合いの経過、過程の話でございます。その結果につきましては、たとえば公明党案にございますように、
事件の要点とか、そしてそれに対する
和解なり
調停なり、結果はどうであるとか、そしてその
理由はなぜかとか、こういうことを公表する手段を配慮していただきたい。
裁判の判決でもそうですが、そういうようなことで、
調停だとか仲裁だとか、あるいは
裁定だとか、こういうようなものの恣意性、恣意というものを防ぐ措置を配慮する、こういうことが望ましいと思います。このことは、あらためて公明党案のように立法によらなくても、運用によってできることなので、こういうことも配慮する方向へと心がけていただければありがたい、こういうふうに思うわけです。
処理法案の最後に、基地
公害の問題。
私は、基地
公害を本
法案から除外したこと自体だけでは、直ちに違法だとか不当だと言うことはできないと思います。もっとも、だからといって、基地
公害に対してはがまんしろというわけでは決してございません。これは、
あとで
被害者救済法案で問題のとらえ方の基本的な私なりの考え方を申し上げますが、かりに基地の存在が日本の安全に寄与しているといたしましても、だからといって、そのことから生ずる
被害、弊害を近隣の人にだけ及ぼす、その人に完全な補償もしないで、その人だけががまんしろということは理屈にならない。もしも日本全体の安全に寄与しているとすれば、それは日本国民全体でもってそのことのもたらす弊害はやはり同様に負担しなければならない。つまり、近隣の
被害者に対する補償は完全にする。そうしてその費用は国民全体から税金でもって取り立てる、税金でもって国民全体へその
被害、弊害は、負担は還元し分散させていく。こういう配慮がなければ、一部
被害者の泣き寝入りということでは、幾ら基地がありがたい存在だとかりにしましても、妥当視されるような
処理のしかたではあるまい、こういうふうに思うわけです。
したがって、
被害者保護という問題は、
産業公害の場合でも基地
公害のほうの場合でも、同じ
保護が与えられなければならないというふうに思うわけですが、ただ、基地の特殊性という問題は、たとえば基地のあり方やその施設の設置変更などを
委員会が
判断して適当な
意見を言う、そうしてそれに従わなければまずいとか、あるいは文書、物件の
提出とか、あるいは立ち入り権だとか、こういうものはどうも機密というふうな特殊の問題があって、必ずしも
産業公害とは同一には律せられまい。それから
責任主体の問題としても、産業の場合は、一応国からすれば第三者たる産業が
責任主体ということでありますが、基地の場合の
責任主体は国であるというような問題もございますので、必ずしもこの
公害処理法案の上にはまともには乗っかり得ないような特殊な性格を持つ、こういうふうに思うわけです。
そこで、実体的な問題になりますと、たとえば航空機の騒音というような問題ですと、防衛施設周辺整備法だとか、あるいは特損法だとか、いろいろございますが、それから民間飛行機の場合には、そういうような防止の
法律、航空機騒音防止法、いろいろありますが、こういうものは主として個人の、そういう
公害の社会的な防止施設を施すとか、あるいは個人の場合には、農林漁業等のいわば第一次産業の事業経営上の損失補償、いわばつかみ金的な補償、こういうものを考えているわけですが、かりに航空機騒音によるその他の私的生活妨害というような問題が出ました場合には、たとえば商人とかサラリーマンの健康上の
被害、こういうような場合には、これらの
法律の考えによっても補償されないわけです。ただ、民間航空機の場合でありますと、おそらく今度の紛争
処理法案の上にうまく乗っかってこれるのだと思います、やはり
健康被害というようなことで。ところが、基地の場合には完全に適用をはずしておりますので、こういうふうにサラリーマンとか商人とか、
一般市民の
健康被害等の問題については、基地
公害の場合には全然
紛争処理保護を与えられないというような
法律上の欠陥がそこに露呈してくるわけです。そういう
意味で、私は必ずしもこの
法律の中に基地
公害の問題というものを取り込む必要はないけれども、たとえば、いまの防衛施設周辺整備法だとかあるいは特損法だとかの中でもけっこうですけれども、やはり同じようにそういうようなものの
保護をはかられるというような法の整備というものが要請されざるを得ない。それでないと、基地をはずすことは妥当視され得ない、こういうふうに思うわけです。
ちょっと時間がなくなりましたが、次に
被害者救済措置
法案について申し上げます。
これについては、基本的なその性格についての把握がいろいろございます。たとえば、
政府法案のように、純粋の社会保障的な行政措置である、当事者の問題の最終的な解決は、二人の間の民事訴訟で解決すべきである、ここではとりあえずは緊急に必要な
医療だけを何とかしてやろうという考え方だと思う。したがって、また、
医療費用だけに限定し、あるいは所得制限をするのもそのあらわれなんだ、こういうふうなとらえ方、そうして企業は、ぜいぜい好意でもって恩恵的に協力をしてやるだけだ、一種の救貧法とでもいいますか、社会保障的な性格を持っている。これが第一のとらえ方です。
それから第二のとらえ方は、社会党や公明党案はおそらくそうだと思いますが、原則的に行政的な
救済措置である。したがって、国や県や市が負担する。しかし、それにさらに
原因者の
損害賠償責任の立てかえ払いという色彩をも加味させていく。そうして、
被害者に国などが支払った金は
原因者に求償する。いわば、これは、必ずしもそうじゃないかもしれませんが、
政府案との対比で言えば、
損害賠償の立てかえ払いというふうに、極端に言えばとらえられるかと思います。
それから第三に、これは厚生省の
公害審査会で四十一年だか、出して、つぶれたやつですが、
救済費用は原則として
責任者である企業が負担すべきである、あるいは拠出金問題でも企業が大
部分を出すべきである、
原因者が不特定の場合は企業側のほうの
責任保険で解決をすべきである、こういうとらえ方。この第三は現在問題になっておりませんので、私も避けたいと思います。
さっきもちょっと申し上げましたが、結論的に申しますと、
公害問題の
一般的な私人間のとらえ方といたしましては、原則として
被害については企業が全部完全な補償をすべきである、これが原則論だと思います。企業は社会的に有用な働きをするという問題はございますけれども、それはそのとおりでございますけれども、しかし、いまの基地の場合について申しましたように、だからといって近隣の
人たちだけが
被害を受けてよいという法はない。それが社会に有用な働きをするんであれば、それはむしろ、そういう
公害の補償の問題あるいは設備の費用の問題は、製品のコストの中へ織り込むべきなわけです。そして、その製品を購入する消費者
一般に還元し、分散さしていく、こういう方法をとるべきだと。そういうことを言いますと、さらに国際競争力の強化のためには云々ということも考えられます。これもまた大事なことですが、決して
理由にはならない。国際競争力をつけるために決して近隣の
被害者だけが企業のためにがまんしなければならないという法はないわけです。このことはむしろ、企業が全面的に補償した
あとで、その他の
政府側の企業に対するいろんな助成措置という問題で国際競争力はつけさせるべきで、議論がさか立ちをしてる、こういうふうに考えるわけです。
ただ、注意しなければならないことは、この原理と本
被害者救済を支配すべき原理は必ずしもストレートに同じでなければならないというふうには言えないのだということであります。つまり、ここで問題になるのは、本来はそういうふうに、民事上の当事者間の問題として全額補償を企業がするべきなんだということですが、しかし、それがなかなかいろいろな
理由で困難である、だからといって、国のほうとしては放置しておくわけには国の
責任としてまたいかない、だから、何とか社会保障的にそのギャップを埋めていってやろう、こういうふうなことが十分に可能だし、まさに
政府案はそういうような立場をとっているからであります。そうして、それはまた
一つの筋として十分に成り立ち得るわけであります。
そこで問題は、当事者間の民事訴訟で決着すべき実質的な
損害賠償請求権と、それから行政措置としてのいま言ったような問題の違いからすれば、どういうことがこの
救済法で可能かと申しますと、まず、
政府案のように、
医療補助というような非常に少ないところだけをやるという立場から、それから、社会党案や公明党案に見られるように、実質的には
損害賠償の立てかえ払いというところの一歩手前のところまで――立てかえ払いそのものでは私はまずいかと思いますが、一歩手前のところで、
救済の対象あるいは
救済方法について、そのワクは立法政策の問題としてかなり大幅なものがあるというふうに思うわけです。そのワク内のどのあたりで打ち切るか、あるいはどのあたりまでは
保護を広げていくかということは、
現実に
被害者はどこまでやらないとどうしようもないのかという実際の事情をお考えいただきまして、その他いろいろな事情をも考慮いただきまして、適当に政治的に
判断をしていただく以外にはない。
法律的にはそのワクの中であればいずれも可能であろう、こういうふうに思うわけです。
ただ、その際に考慮すべき幾つかの
法律上の問題点だけを指摘しておきますと、この
被害者救済法案というものは、そもそもは民事訴訟にまかしておいては訴訟が遅延してどうしようもないということで、とにかくもう迅速にとりあえずの
保護をしてやろうということが
一つのねらいなわけであります。そうだとしますと、迅速な
保護に適するような類型の損害項目についてだけとりあえずは考えるということが、やはり
一つのポイントになり得るのではないか。そういう
意味では、たとえば
医療保護の問題、これは
医療手当、
介護手当すべてですが、こういう問題、あるいは公明党案にありますような健康診断のような問題は、技術的には迅速な
救済に適しております。あるいは埋葬費、葬祭費の問題も、これを定額化する、定額のものをやるということにきめれば、これも迅速な
救済という面では適しております。その他、物的損害、つまり農業、漁業等々の
被害の問題で、それが基準生計費との差額の問題になってくるとか、あるいは、得べかりし利益がどれだけ少なくなったとかという、そういうような
意味での物損の問題等になりますと、これはかなり技術的には問題があろう。つまり、ここで、こういうような物損の問題は、個々具体的に、その人の収益が本来ならば幾らあるべきであったのか、それが
公害の起こったことによって幾らになったのかという、これは
裁判の場合でもそうですが、
損害賠償の額の確定というものは非常に困難な問題なわけです。そういう問題まで取り込んでまいりますと、せっかくの
医療保護云々という緊急のものまでがかえっておくれてしまうという弊害も生まれ、技術的に迅速な
救済という面からすれば、それはかなりその
救済になじまない性格を持つのではなかろうかという感じを持ちます。
それから、この物損もそうですし、それから公明党案にありますような生計あるいは更生のための貸し付け等々の問題でございますが、これは実は議論の筋からいいますと、
生活保護法の問題であるとか、あるいは中小企業に対する融資の
関係であるとかというような、ほかの
法律によるむしろ統一的な
保護ということのほうが、法の体系的な統一性とか、あるいは
保護の平等性というような問題からはベターではなかろうか。そういうような
法律がうまく動いていないということであれば、そういう
法律の運用をうまくする、あるいはそういう
法律を修正してというほうが妥当であろうというふうに理論的には考えます。ただ、これはあくまでも純理論的な問題でして、実際の
生活保護法や、そういう貸し付けの
関係の運用がどうなのか、それは、
現実にそこに苦しんでいる人の生活、あるいはそういう者の
救済に役立ち得るようなことになっているかどうかで、その障害を除去することが
現実に直ちに可能であるのかどうかというような、
現実との対応
関係があるわけで、そういうことがもしもどうしようもないということであれば、体系的斉合性のある
程度の犠牲というもとに本
法案でそういうことを考えるということも、これまた利害のバランスの問題として考えられなければならないという問題はございますが、まあ理論的な筋道からすれば、いま言ったようなことではなかろうか、こういうふうに私は思います。
それからこまかなことをちょっと申しますと、
政府原案、これは実はほかの党のものもそうでございますけれども、
公害病が発生した
あとで、その人がその指定地域から外へ出ますと、あるいは指定地域が解除されますと、
一定期間、たとえば
四日市あたりは三年だとか、
政府も三年あたりをめどとするとか言っているようでありますが、これは政令で定めることで、この
法律自体の問題ではございませんが、この
一定の期間たてば自動的、機械的に打ち切られるというのはいかがであろうか。問題のかなめは、そういうふうにどこへ出たからどうということではなくて、外へ出て何年もすればよくなるという蓋然性はございますけれども、よくなったかどうかということがポイントであって、何年たったからということには全く合理性がない、こういうふうに思います。
さらに、
被害原因としまして、
大気汚染と水質汚濁以外の
公害についてはこの
救済をしないということに、とりあえずはなっているようでございますが、まあ衆議院の
委員会では附帯決議をつけて、こういうことにも考えろということを言っているようでございますが、ここでもまた、問題のポイントは、実は
公害の
原因が何であるかがポイントではなくて、要するにどういうような
公害病になっているかがポイントなわけです。確かに、
大気汚染とか水質汚濁から大きな
公害病が現在発生しているのであって、たとえば騒音であるとか、振動であるとか、地盤沈下であるとか、悪臭であるとか、こういうものからはたいして
公害病というほどのものは発生していない。そういう
意味では、とりあえず
大気汚染、水質汚濁だけでよかろうということも言えますが、しかし、問題は、あくまでも
公害病になっているかどうかということであって、同じ
公害病であっても、
大気汚染なら
保護する、悪臭なら
保護しないというのは議論の立て方がおかしい、そういう点も将来の方向としては問題ではないか、こういうふうに存じます。
最後に、
政府案とその他のところで一等初めに申し上げました、本
法律案の理論的性格をどうとらえるかということとの関連で、
政府の場合には、国、都道府県、政令で定める市、あるいは事業者の四者負担、それから
あとは、そういうようなものから金をもらった
被害者は、企業に対してみずから
損害賠償を請求すべきだけれども、ただこちらのほうからもらった限度では取れないとか、その
程度です。その他社会党案等々では、公明党案もそうですが、国及び都道府県、市が原則として負担し、
あとは国のほうが
被害者の企業に対しての
損害賠償請求権を取得する、引き継ぐ、こういうような形になっておりますが、このどちらがいいかという問題は非常に困難な問題で、私にわかに断言いたしかねますが、まず
一つトンネル法人をつくるということは、これは非常におかしな感じではございますけれども、私は若いのに保守的なのかもしれませんが、ある
意味では非常に知恵のある方法ではなかろうかという感じがいたします。つまり、特に
大気汚染なんかの場合ですと、
公害の発生
原因者というのははっきりしない場合が多いわけです。それも企業に限りません、自動車の排気ガスなどの問題もありますし、また、多数の企業が集合して初めて
公害になる、あるいは極端に言えば、喫茶店や学校のようなところからも出てくる。そういうことで、一々の企業に対して、その企業の排出する悪性のガスの排出量等を調べて、たとえば税金のような徴収方法で徴収するということはかなりやりにくいのではなかろうか。そういう
意味では、
政府の
法案のたてまえをとる以上は、こういうトンネル法人をつくるということも
一つの知恵かなという感じがいたします。特に、中小企業なんかでどうしてもそんな金が出せないという資力のところはどうしようもないので、そういうような感じもするわけです。ただ、
政府の衆議院での答弁の中で、本来は個人同士でやるべきであって、国が肩がわりするのは市民間の問題と行政的な問題とごっちゃにすることで、妥当でないという発言があったようでございますが、私は必ずしも、そうは言えないので、それが実は本
法案の性格を社会保障としてとらえるか、あるいは社会党などのような
損害賠償の肩がわりとしてとらえるかという問題と密接不可分の
関係だというふうに思います。たとえば、商法の損害保険の問題で申しますと、目的物に対してだれか第三者が加害を加えて目的物が滅失したという場合に、
加害者に対して
被害者は
損害賠償請求権を持つわけです。しかし、それについては
加害者じゃなくて保険会社が金を払ってくれる。これは非常に
損害賠償的な性格が強いわけですが、保険会社が金を払ってくれる、そして保険会社が
被害者の持っている
損害賠償請求権を取得して、そして保険会社が第三者に対して求償していく、こういうシステムになっているわけです。この保険会社を国に置きかえれば同じようなことが言える。ただ、そのためには、あくまでも
損害賠償でなく、
損害賠償の肩がわりを国がするんだという社会党、公明党案的な色彩のものにもつていかないと、こういうふうなシステムのものはとりにくい。この中でどっちをとるか、あるいはどのように傾斜させるかというのが問題点だと思います。
以上で一応の私の
意見を終わります。