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参考人(
篠塚昭次君) 私、
都市再
開発のこの
法案につきましては、数年前から国会をはじめとしまして
日本でかなり議論が続けられていたということを伺いましたが、ちょうど私、この
期間ヨーロッパに滞在しておりまして、最近帰ってきたばかりで、あまりその間の
日本の世論の
状況あるいは
住宅建設の
進行状況等について、詳しい知識を持ち合わせておりませんので、即席の
勉強で、その点についての
お話をやらさせていただきたいと思います。
ただ、初めにお断わりしておきたいと思いますのは、私
自身は
都市計画の
専門家ではなくて、ただ
土地立法に関する
研究者である。したがって
都市計画に関する
技術上の諸問題については発言する資格は持っておりません。おもに
法律上の
問題点につきまして、私
自身が感じていることを申し上げていきたい、こういうふうに思います。
私、
ヨーロッパへ出かける前に、ある雑誌で、
都市再
開発のことを少し触れたことがあります。それは
法律上の観点から申し上げたことですが、ちょっとその数行を読み返してみますと、大体こういうふうに書いて、出かけたわけです。
都市の
近郊の山林あるいは
丘陵地帯、こういうものを含めて現在の
都市計画学そのものがそれほど明快に
結論を出していない、そこでこれをほうっておきますと、そういう
都市計画の
進行状況いかんとは無
関係に、
個人があるいは
民間の
資本等が、賭博的にその
ような
丘陵地帯に対する
宅地造成あるいは
住宅の
建設等が行なわれて、非常に無
政府的な
住宅秩序というものが出現するであろう、この
ような
状態が出てくる危険のほうが強いのだ。そこでこれに関する
法律上のこまかい論点というものを
一つにしぼりまして、こういうふうに申し上げたことがあります。十年もたちますと、これらの
地域には一本の木もなくなってしまうだろう、これらの
地域には、「三
寝室」いわゆる3Kあるいは3DKといわれるものですね、その「三
寝室から五
寝室の五階
建アパートを海の
ように
建設するとともに、それとの
相関関係から、
都心部の
木造建物を例外なく撤去して、同様の
アパート都市に変えてしまうことである。こうすれば、
都市再
開発の
強権発動が
憲法上許容されるだろうし、
所有権も
借地権も、そうして
借家権も、
自己主張の必要がなくなってゆくであろう。」こういう非常に乱暴な、ある
意味では大ざっぱな
結論を言い残して出かけていったわけですが、帰ってまいりまして、やはり同じ
ように、
都市再
開発の問題がまだ
法律上の領域などで停滞しているらしいといううわさを聞きまして、少し心配しておったわけです。
ところで、
都市の再
開発をしなければならないということ、この
法案の基本的な
趣旨、目的につきましては、おそらく
異論というものはあまり予想されないだろう。
都市に
人口が過度に集中するという、そういう
人口政策や、
都市計画の問題からの問題は残るとしても、
都市を再
開発して、
道路を広げ、公園を整備し、そこに非常に良好な
居住環境を確立するということについての
異論は、おそらくどういう
立場からも出てくることは考えられない。けれ
ども、問題は、その
ような
状況を進行させる過程において、さまざまな複雑な
権利関係の
相互の矛盾、衝突というものが出てくるであろう。そうして、その取り扱いを悪くいたしますと、せっかく苦心をしてつくった
都市再
開発法あるいは
都市計画の
基礎というものが、
憲法の
原則に矛盾するということで、裁判所によって否認される危険が全然ないとは言えないかもしれない。そこでそういう疑問が出てくる
ような
部分が、はたしてこの
法案の中にあり得るかということにしぼって、私
自身の
お話を申し上げてみたいというふうに考えております。
まず、この
法案の中で特に注意すべき点は、先ほ
ども淺田先生からも指摘された、
権利変換の
手続というものがございますが、この
権利変換手続が軸となって、
都市の再
開発が行なわれていく、これは結局
民間の
資本ないし、結局そこに
現実に
居住しあるいは
所有権等を持っているその
個人の
損失負担、分担の上で行なわれる。逆に言いますと、
国家の財政的な
投資援助、寄与というものはほとんど予想されていないのではないか。この点つまり
国家財政の
投資率に、それに見合うところの
都市再
開発との
関係が、実は
憲法論の上で非常に重要な地位を占めてくるのではないかというふうに考えられます。この
都市再
開発は、そこに
居住している
人たちの
生活環境を良好にするという点においては、もちろん
異論はありませんけれ
ども、しかしながら結局
高層住宅をたくさん
建築いたしますと、この
法案でも予定している
ように、ある階層から上の
部分については、そこに
居住していなかった
人たちを誘致する、
居住あるいは
営業用の
空間をよけいにつくるわけですから、そこに従来の
居住人口の倍、あるいは数倍に達する
ような
人たちが
流れ込んでくるということによって、つまり一種の
土地政策を
都心の中で解決するという
要素が含まれているという点ですね。つまり本来の
土地政策と言いますと、
都心の再
開発もさることながら、
都市の
近郊の
ベルト地帯を一挙に収用しまして、
公営住宅なり
公団住宅なりを
建設をしていく、これが
ヨーロッパの普通の
都市開発の
形態と考えられますが、
日本の
状況はまだ
都市近郊にはかなりの
丘陵地帯が残されている。ところがそれについては
強権を発動して収用する
手続というものは、
日本では
立法が停滞をしていて、十分に満足すべき
状態にはなっていない。その
部分が逆に
都心居住者の上に
負担がかぶさってくる
可能性があるわけで、
負担の公平という
憲法の保障に関する
原則の上では、この点がまず理論的に説明される必要があるということになるのです。
さてそこで、
憲法上の
損失補償の問題につきましてはすでに
皆さん方のほうが
専門家で長く御
研究を続けておられると思いますが、
憲法二十九条の
公共の福祉によって私有財産権の制約を加える、この制約を加えることのできる条文が、やはりこの
権利変換手続に投影されてくる
可能性がある。つまり
権利変換手続は、一見
個人対
個人の権利の変換の
ように見える、それが民法上の契約原理をただ拡大しただけの
ように見えながら、その陰に
土地政策の転換という裏打ちがあるので、実際にはいわば準収用ですね。純然たる純ではなくて、一種の疑似の公用収用の
ような性格を持つ
可能性があるというのですね。この
法案を見ますと、三分の二の
所有権者、
借地権者が同意いたしますと、三分の一の反対がありましても、そこに
都市再
開発の
手続を進めるイニシアチブが与えられる、こういうことになっておりますので、その三分の一の
人たちにとっては、望ましくない
ような現象が出てくることが考えられる。そういう
人たちも途中で
理解をして協力をしてくれることは望ましいけれ
ども、最後まで反対し、ちゅうちょする、それがすべてわがままとは言い切れない要因があるかもしれない。そういうときにその
人たちに対して無理にそれに参加させる、私権を剥奪していく過程では、もう一種の収用である、こういうふうにやはり
法律的には見なければならないのではないか。そうしますとその
人たちの権利が失われていく、もちろんそれに見合う財産的な対価というものが与えられますけれ
ども、それは普通の収用でもその点は同じことですから、やはりこれは一種の準収用となる。そうしますと、結局その
ような
手続は
憲法で保障している財産権の保護とどこで調和させることができるか、こういうことに問題が帰着する。
すでに御存じのとおり、
日本の
損失補償に関する学説は、この
公共福祉の解釈、それから「正当な補償」という
憲法二十九条の
ことばをめぐって長く争われてきております。しかしここ数年、
日本の公法学界及び私法学界の中で財産の新しい正当な補償に関する
考え方というものが出始めてきた。そうしてそれがこの
都市再
開発の
法律の合憲性を根拠づける場合に、考慮される必要があるのではないか、ということを申し上げておきたい。ところでその新しい正当な補償に関する解釈を促した第一の要因は、御存じの
ように農地改革に関する最高裁判所の判決、特に大法廷の判決が例の太平洋戦争後の
日本の農地改革は
憲法に違反しない、こういう大法廷判決を出したことによって、その学説が非常に強く伸び始めてきている。したがって、今後最高裁判所が合憲性を判定する基準としては、この学説がおそらくかなり考慮されていくであろう。で、私
自身も実はその学説を主張している一人といたしまして、この問題についてごく簡単ですが、こういうふうに私自信の
意見を申し述べたいと思うのです。
第一は、収用すべき目的、あるいは事業主体の性格等から見て、いかなる
意味の
公共の福祉というものを内含しているかということ。つまり
公共の福祉と呼ばれるものにつきましても、その
公共の福祉を実現するしかたは、特に
二つのかなり原理的には異質的なものが存在している。第一は御存じの
ように、十八世紀的な自由平等主義、これからいきますと、私有財産権の剥奪は非常にむずかしいことになりますが、その場合でも許されている
一つの例外があった。これが従来の
公共福祉論の
基礎になっていたと思いますが、それは、申し上げますと、いわゆる一般性という概念、一般性といいますのは、その収用によって剥奪された財産権というか、被収用者あるいは収用者の
個人的な
立場を越えて、
社会全体のものが共通に利用し得る、たとえば収用した
土地を
道路に
造成いたしますと、その
道路につきましては、だれでもそこを通行することができる。それから学校を
建築をいたしますと、これは特殊な学校でない限りは、だれでもその学校を
国民として利用する権利がある、あるいはまた病院も同じ
ような性格を持つと思うのです。こういう場合の
公共の福祉は、これは現代の
社会においてもなお広く利用さるべき
公共の福祉の概念であります。そういう一般性を持った形での
土地の収用というものは、現在の収用法によっても認められているし、もちろん合憲的な
立法であることは問題がない。
ところが、これから問題となるもう
一つの
公共の福祉は、これは収用した
土地住宅等もある特定の
個人、あるいは地方
公共団体が介入するとしても、ある特定の
個人または特殊な集団に利用させる、つまり排他的な、独占的な利用ということを予定した私権の剥奪というものができるか。これは非常に困難な問題で、これを無制限に認めますと、
社会の単なる財産的な秩序だけでなく、精神的道義的な秩序も動揺を来たす非常にむずかしい問題があると思います。しかし、最高裁判所の先ほど申し上げました大法廷の判決は、農地改革につきまして、その
ような形での私権の収用というものを結果において認めた。ただし農地の場合には収用した農地について権利を持つのは従来その
土地を耕作していた農民である。したがって、収用したものを特定の
個人に分配すると言っても、全く新しい第三者に転換していくのではなくて、事実上は従来の利用
関係の継続性を確認しただけである。こういうふうに考えますと、こういう形での
公共の福祉の概念は一般性という概念からは隔りますけれ
ども、それほど進んだ概念とも言えない。これはボーダーラインよりは少し横へ出た概念であるというふうに考えることができると思うのです。しかし、これから
都市計画その他によって
個人の権利を剥奪していくということになりますと、全く新しい第三者、特定の
個人に排他的、独占的にそれらの目的物を提供する。したがって、結局、これは剥奪される側から見ますと、一種の犠牲ということになります。したがって、そういう犠牲が許されるには非常にきびしい
法律上のワクが必要である。そうして、そのためには
憲法二十九条の解釈をもう一度厳密に検討し直す必要があるだろう、こういう問題が考えられているわけです。
そこで従来の、従来のというと若干語弊がありますけれ
ども、
憲法学者の学説を見ますと、これは
憲法だけでもございませんけれ
ども、
法律上の概念の設定のしかたとしまして、違法か合法かをきめる基準というものは、非常に一義的、画一的であります。これは言うまでもなく
法律の安定性、
法律の前における
国民の平等ということも考えますと、一義的にきめることは非常に大きな理由がある。けれ
どもその
ような画一的なきめ方によりますと、どうしてもはみ出す
部分が多過ぎるだけでなく、ボーダーラインに立っている諸問題についてどっちかに割り切ってしまうために、たいへん大きな
社会的な不公平、反作用、リアクションというものがあとから出てくる危険性もある。そこで、最近の
憲法では、すべてその
運用にあたって、直ちにそれは違憲なりやいなやをきめることではなくて、量的な概念をきめることによって
公共の福祉あるいは補償の概念を再検討する、そういう方向に理論的に変わってきた。けれ
ども最高裁判所のその他の各種の最近の判例を見ておりますと、この違法判断あるいは違憲判断に関する量的な思考方法の導入は相当急速である、こういうことが推測される。
そこで、先ほど
憲法第二十九条によって
公共の福祉あるいは私有財産権の収用剥奪を行なう、そういう場合に、単に収用主体あるいは事業主体の持っている目的、それが一般性があるかいなかということのほかに、さらに立ち入って被収用者の側の権利の内容を分析する必要があるだろう。そしてその権利の内容としては、
公共の福祉にちょうど
二つの異質的な原理が含まれると同じ
ように、権利の内容にも
二つのものが含まれておるのではないか。その
二つと申しますのは、これも先ほど申し上げました
公共の福祉の概念に対応して、
一つは
市民的な人権、
所有権はそのきわめて典型的なもので、十八世紀の
憲法原則によって確立した
日本の財産権の保障は、
市民的な人権の領域に属することはすでに常識で御存じのことと思います。それからもう
一つは、
社会的な新しい
土地立法その他に対応した人権というものが考えられる。
市民的な人権の本質は、言うまでもなく自由権と呼ばれる十八世紀の
原則ですが、
社会的な人権の内容は二十世紀の生存権に基づく思想がその
基礎にある、こういうふうに考えられる。そこで正当な補償がはたして行なわれたかいなか、行なわれるべきかいなかということは、この四つの問題を
相互に複雑にかみ合わせて判断をしていくしかないのだ、というふうに考えることが可能だろうと思います。その四つの組み合わせと申しますと、まず第一は、
市民法的な
公共の福祉という目的によって、
市民法的な人権を制約する。
市民法的な
公共の福祉でも、たとえば身体障害者のための施設をつくるあるいは
道路を開設をする。こういうふうにだれもが一般的にその目的物を利用し得べき
状態をつくり出したい、そういう目的のために
市民的人権に制約を加える。つまり
所有権その他の財産権というものに対して制約を加える。従来
憲法の
原則で考えられていたのはこれだけだったと思うのです。これについては、現在の
土地収用法その他で問題はあまりない。
それから第二の評価基準としては、
市民法的な
公共福祉の観点から、
社会的人権に制約を加える。これはたいへん困難な問題で、その
ような一般性を保障するために、たとえば農民の零細な農地を収用する場合が考えられる。しかし
社会的人権といえ
どもこれは絶対的なものではない。これもやはり
社会全体の
利益の調和との
関係において制約に服さなければならない場合が考えられる。ただし、その場合は普通の
市民的人権と違って
個人の生存がかかっておるので、その補償額は非常に高くなる。またある一定限度以上は高くならない。つまりその被収用者の生存の
可能性と権利と客観的に合致する線にとどまるし、その線まではいかなければならない、こういう補償の
原則が出てくるだろうと思うのです。
それから第三番目の正当な補償という概念の
結論の出し方としては、
社会的な
公共の福祉つまり特定の
個人あるいは集団の生存を保障する、こういう
公共の福祉の観点から
市民的人権に制約を加える。これは比較的容易に行なわれることが可能だろう。二十世紀の初めから行なわれている
ヨーロッパの
土地立法を見ますと、この
ような
社会的な
公共福祉のもとに
市民的人権に制約を加える、これが実は新しい補償制度の
原則になっておった。
日本のこれからの
都市再
開発の問題も、おもにこの第三の範疇に属するだろうというふうに考えられるし、それが一番補償の面において簡単であるというふうに考えられる。これはいわゆる完全な補償をする必要はない。他方は生存がかかっているのに対して、他方は遊休の施設をかかえているという場合ですから、単なる課税措置だけでなくて、
土地収用その他の
原則をそこに当てはめることは非常に容易である。
それから第四の範疇、これは
社会的な
公共の福祉の
考え方から、目的から、
社会的人権に制約を加える。これは両方ともが生存がかかっている。たとえばある地方
公共団体が
公営住宅を
建設していく。ところがそれが木造で古いので、これをこわして新しい立体的な
公営住宅に建てかえをしたい、こういう場合が考えられる。これがちょうど第四の範疇に入る。この場合に、その
公共団体としては、やはりほかの
住宅に困窮している地方
公共団体の中の住民の
利益を代表していると考えなければならないので、それはやはり
社会的な
公共の福祉を前提としたところの要求である。ところが、そこに
居住しているところの
居住者のほうもそこに生存がかかっているということになって、これは非常に深刻な争いになるケースが、実際にもおそらくあるだろうというふうに予想される。その場合の補償は、むしろ金銭の補償よりも、たとえば住居の転換あるいは新しい
土地のあっせんその他従来の生存の態様を基本的に変えない形で解決することが必要であって、単に金銭的な補償の概念から越えてしまう、そういうふうに考えられる。そうしてそれならば
憲法上も合憲であろう。こういうふうに大体私
自身も四つの範疇よって、
憲法二十九条と
土地立法との
関係をきめていくべきだというふうに考えております。大体最近の公法学者の理論もあまりきめこまかいとは言えませんけれ
ども、ほぼ
社会公共の福祉概念を分析し、かつ人権概念も
二つに分けて
相互のからみ合いで
憲法の解釈を変えていくのだということにおいては一致しつつある。これは非常に新しい傾向であるというふうに考えられることができます。
ところでこの
都市再
開発法案につきましては、一体どういう
公共の福祉がそれでは予定されているか。私
自身も先ほ
ども申し上げました
ように、数年前書いたものの中では、結局
都心部の
木造建物はすべて撤去する、それが必要であろうということを書いて、
憲法上それは問題ないということを述べたわけですが、しかしそのときに考えておりましたのは、これは
国家その他公権力機関が直接または間接にかなり責任を負った形で
都市の再
開発を進行させる、こういうことを予定して
憲法上の問題はないというふうに考えておったわけです。ところが、今度御提案されております
都市再
開発法案を拝見いたしますと、進行の事業主体というものは、必ずしも公権力あるいは
公共団体が積極的に介入していない。そこで一体この
公共の福祉という目的は一体どっちに入るのか。へたをいたしますと、不動産業者の投機的な営利の対象にされる危険というものが考えられないとは言えない。そうしますと、
公共の福祉の概念は、
市民的な
公共の福祉とも言えないし、
社会的な
公共の福祉とも言えない。つまりこの再
開発法案は、基本的には
社会的な
公共の福祉をねらっていることは、これは
理解できる。つまり
地域住民だけでなく、その
地域からはみ出している
人たちを
都心に吸収させて、むだな通勤通学での時間のロスを防いでやる、これも非常に重要な生存権の保障の一側面であるというふうに考えられる。
日本は通勤がたとえば片道二時間というのは、いまではそれほど異常でないということを聞いております。往復いたしますと四時間も通勤にかかる。職場で働くのが八時間と考えますと、たいへん貴重な時間を毎日の中で空費しているだけでなく、その人
個人で見ましても、一生のうちで何の
意味もない電車にゆられて一生の何分の一かを終わってしまう。それを回復する。そうして回復した
部分の時間を有効に
生活をエンジョイをする方向に活用するということは、ある高度文明
国家の
水準に達した国においては、そこまで生存権のワクの中に取り入れて考えてやらなければいけない。そういたしますと、
都心の再
開発によって吸収すべき
人口、それは最近マンションといわれる
建築物、分譲アパートの
状況を見ておりますと、大体それほど金持ちが集まっているばかりではなく、むしろ中級あるいはそれ以下のサラリーマン、労働者階級というものがその
ような住居をほんとうに最近希望し始めている。つまりむだな時間を省略して、なるべく
人間として
人間的な価値を回復するための
生活に時間を使いたい、こういう要望が非常にあると私は推定をしております。したがって、この
都市再
開発法案は
国家あるいは
公共団体の公権力の介入または責任において必ずしも実施できないだろう。ただ
公共団体が場合によると事業代行ということをやることになっているらしいので、その面では最後には担保されているかもしれないが、直接は
個人あるいは
民間の
資本というものが
動き出している。その点で営利的な
要素を否定し得ないとしても、基本的には
社会的な
公共の福祉に合致するだろう。したがって、この
法律の合憲性はまずそこによって首肯される。ただその場合に、
民間資本等が主役を演ずる
可能性が非常に強いので、この場合の
社会的な
公共の福祉性というのは一〇〇%と断定することは疑問である。大ざっぱに評価すると六分四分で営利的、
市民的
原則が介入してくるだろう。そこで収用される権利の側はどういう
状態であるかということを考えてみますと、つまり
市民的人権の場合と
社会的人権の場合とがあるだろうと思います。しかしその対象とされるたとえば木造
住宅の集団であるということを考えてみますと、それは大体平均的な
都市の住民であって、それほどの資産家も含んでいるとは思えない。むしろ大きな庭、大きな家を持って
居住している
人たちは
都心より少し隔たったところに
居住している。したがって、被収用者の側を考えてみますと、これは結局
社会的な人権あるいはそれに近い
ような
権利関係の上に立脚していると考えなければならない。そうすると、この
都市再
開発に関する合憲性の問題は
社会的な
公共の福祉、これは六分そういう性格を持っている、そうして収用すべき権利の対象としては
社会的な人権が中心になるだろう。つまり
借地権あるいは
借家権それから
所有権としても大地主がいると思いますが、それほど大地主でないかなり零細な
土地所有者が入ってくるかもしれない。これらの権利はさらに、補償の細分化が必要だろう。それがすべて一応は
権利変換という形で行なわれると思います。ところがこの問題は、
社会的人権を
社会的な
公共の福祉によって制約を加える場合には、それが軒並みに一律に行なわれる場合には、結局不公平はそれだけ減少する。たとえば
東京の環状線の中を全部そういう
地域に指定してしまう、あるいは環状線の
外側の五キロくらいのベルトを全部
都市の再
開発対象
地域に指定してしまうということになりますと、結果においての不公平はかえって減少するわけでありますが、そのためには
国家のばく大な財政投融資というものが必要になる。しかしそれを避けて、もっぱら
国民個人の
相互の
負担において解決していくという本
法律案の
立場から見ますと、権利の変換の
手続は、窮余の策としては違憲性が否定される。つまりこの方法は決してそれ自体から違
憲法を引き出す
法案ではない。ただし三分の一の反対者に対する処遇のしかたによっては、その
部分についてのみ
憲法上の合憲性が問われるだろう、というふうに私
自身は推測をしております。その三分の一の
人たちに対する処遇のしかたをどうすべきかは、これは非常にたいへんむずかしい問題ですけれ
ども、やはり
生活補償的な
意味を考えてみますと、とにかく補償を完全に行ない、生存を破壊しないということが条文の中で十分に検討される必要がある。その一番単純な方法として、ちょっと思いつき的に申し述べてみますと、買い取り請求権を認めて、自分の
所有権、
借地権、あるいは
借家権その他の
居住権というものに財産的な高度の評価を加えて買い取らせるとともに、その支払いは
手続進行の前に行なう必要があろう。変換
手続の詳しいことをまだよく存じませんけれ
ども、返換
手続は
権利関係が、すべて
建築関係が片づいたあとで具体的になっていくと思いますけれ
ども、その事前において権利補償を完全にしておく。この点だけが一点
憲法上の問題として残されているのではないかというふうに考えます。
まだ申し上げるべきこともありますけれ
ども、あまり時間をとっては申しわけありませんのでこれでやめます。